第三十四話 『聖剣狩り-07』
残念ながら隙らしい隙は見当たらない。
疲労を待つにも空間を破壊し尽くすばかりという表現がどうやら大袈裟ではなくなってきている。
これだけの膂力を持った巨体が暴れ回れば当然、消耗を待つよりも先に足場までを奪われ兼ねなかった。
そこにあるのは守護者としての矜持ではない。破壊者としての悦だ。
理性を捨てた本能のままに猛り狂っている。
対照的に、ファントマはここぞとばかりの破顔で対峙していた。
生きとし生けるもの全て、死に物狂いの全霊というものに理性など残らないというのはファントマの持論だ。
圧倒的な膂力を誇る番人をその舞台に貶めた喜色を隠せない。
一撃でも貰ってしまいさえすれば死に直結する相手に、形振り構わせない冷静な判断を捨てさせたのだ。
これこそファントマが求めた混じりっ気ない純粋な戦いの理想像である。
賢しい策や無駄な邪念にも水を差されず命の取り合いを興じられる、無雑な力比べ。
その絶頂に達した今、ファントマは命を投げ打ってでも愉しんで見せることだろう。
「おうぃ番人さんよお! どこ見てやがる、俺はここだぁ!」
破壊の音が絶えず鳴り響く中にして、呑気な声は存外に抜けていく。
壁を突き破った腕を引き抜きながら、番人はようやく破壊の悦から我に返る。
振り向いた番人の苛烈な形相に対しファントマは軽い挨拶でもするかのように手を振ってみせた。
両極的な両者の様相は、立ち込める静寂に調和を保たれていた。
「……こう見えてもすげえ昂ってんだぜ。腹の底から、身体の芯から湧き上がってくる熱に俺自身が耐えきれないほどな。それでいて、まっさらなほどに頭が冴えてやがるんだ」
思考には釈然とした無が埋め尽くしている。
沸き上がる感情の他に思考が介入する余地もないほど、脳内はひたすらまっさらな状態だった。
いつ切れてもおかしくはない張り詰めた糸に感情を保たれているような繊細さ。
身体の芯に潜む血気は暴発寸前のところにある。
先からファントマの意識にない部分で指先が小刻みに震えていた。
ファントマ自身、己の感情がどちらなのか分からなかった。
頭が冴えたこの穏やかな状態と、血気に震える愉悦。
舌が感情と直結したように己の紡ぐ言葉すら制御できないのだ。
あるいは、番人からしてみればただ音という情報に振り向いているだけで、言葉という認識で耳には届いていないのかもしれない。
猛り狂った怒りに埋め尽くされた感情は、ある意味ではファントマのまっさらな思考に共通しているのだろう。
故に、対峙した両者の膠着した状態は互いが意識を固めるためのただの息継ぎだった。
「落ち着いたか? 今度はよく見て暴れてくれよ」
凄まじい暴力の跡に瓦礫が散乱している。しかし、そのいずれにもファントマの身はかすりともしていない。
ファントマは自分の位置を教えるように嘯きながら、瓦礫を足場に番人の方へ悠然と近付いていく。
膠着した時間で多少の冷静さを取り戻した番人は、わざとらしく足音を鳴らしながら近づくファントマの移動に合わせてその位置を目で追っていた。
どうやら片目の視界は問題なく正常に映っているらしい。
暴れたことで頭に上った血が落ち着いたのだろう。番人は真に敵の姿を視覚に捉えて、一たび強張った身体を沈めている。
深い呼吸で巨躯に取り込まれる空気の量は相も変わらず凄まじい。
意志を持った眼で確実に見据えながら、自我を捨てた暴力がファントマに牙を向ける。
「ハッ! 片っぽしか無いくせにそんな目を向けられちゃあ生きた心地がしねえよなあ!? その目を早く捻じ伏せてやりたくて俺の体ン中がギャンッギャンに喚いてやがるぜ!」
ファントマはゾクゾクと背筋に走る戦慄すら愉しげに語っている。
その性分は、例え命に代わっても改善してくれることはないだろう。
今この舞台に最高の悦を感じるファントマが求めるものは、己の命を差し出すに相応しい更なる悦だ。
それに匹敵するだけの予期というものを感じて仕方がなかった。
「……改メテ問オウ。汝、聖剣ヲ欲サズシテ、ナニ故コノ聖域ニ迄立チ入ッテミセタ」
思考が愉悦に薄れ行く刹那、おもむろに審議を投げかけられた。
「愚問だな。と、言いたいところだが、はっきりした大義名分はある。他でもない。魔王にそう命じられたから――……いや、それも建て前か。まあやっぱり、結局は俺が戦いてえからヤッてんだよ」
「ソウカ。ナレバヤハリ、魔ノ手ニコノ聖域ヲ差シ出ス訳ニハイカナイッ……!」
「御託なんざ並べてねえで、最初っからソレだけで良いんだぜ。理性なんて捨てろ。本能に従え。俺たちは獣のナリした似た者同士さ。野性を解き放って、喰らい合おうぜ。どうせ俺はその他に何一つ求めちゃいねえし、何一つ考えるつもりもねえんだからよお」
そして、飄々とした態度は再び殺気に塗り替わる。
これ以上に交える言葉など無いだろう。
戦いの他に必要ない。再三口にしてきた願望が遂に現実味を帯び始めた。
思考の存在しない、愉悦の世界へと没頭していく。
その姿はもはやただの獣だ。
獰猛に歪む形相を浮かべた両者の間に野蛮なだけの意味を持たない雄叫びが飛び交っている。
互いに身を刺すような叫声にも臆さず本能の限りに喉を張り上げた。
これだけの体躯の差を持ってファントマの叫びは遜色なく響く。
怒りではない、喜色でもない、ただまっさらな本能の雄叫びは空間を埋め尽くした。
壁が奮え、地が揺れる。
喊声は神殿中へと、否、神殿の袂にすら地を揺らすほどの活力が届いただろう。
それを直に受けた両者が互いに死を想起させるには十分な威力を持っていたことは言うまでもない。
死の想像が両者の血相を変えることはなかった。
「――喰ラエエイッ!」
先に動き出したのは番人だ。
その圧倒的な膂力を持ちながら、ゆとりのない状態を物語る。
死地に立っている者が爪を研いで待つ余地などない。
風を薙ぐ轟音を孕ませながら近付いてくる番人の拳。ファントマは喜々としてそれを避けながら、本能に直結した舌を動かした。
「イイぜ! それでイイ! 下らねえ誇りに捉われたヤツの言葉じゃあそんな汚ねえ口先にはならねえよなぁ!? 言葉なんて選ぶなよ、これは戦いなんだからよおッ!」
本能が求める、理性を捨てた戦い。
意味を持った言葉が介入する余地すらない、その極限の状態こそファントマが望む形。
その理想とした状況がいよいよ目先に近づいていることを実感し、次に理性の通った言葉を発する時はどちらかの死が確定した瞬間であることを悟る。
若しくはそのいずれも、か。
この戦いで生きて聖剣を手にし無事に帰る術がファントマには見当たらなかった。
少なくとも五体満足な状態で生き残れるとは思っていない。
片腕、片脚、あるいは両の手足すら捨てる覚悟で拳を固める。
なまじその圧倒的な膂力の凄絶さを眺めている分、どんなに勝利への筋道を想像して組み立ててみても刺し違えることで精一杯だった。
だからこそ余計に理性や思考という存在の邪魔臭さが際立つのだ。
どうせ、考えて変わるような結果ではない。
理性も思考もない、本能だけが存在する状態へと落とし込む。
手の平の感触や、視界と音が遠くなっていくような感覚だった。
身体を巡る血の心地がなくなっている。
一振りの刃物のように、ファントマの肉体を象るすべてが研ぎ澄まされている。
嘘のように落ち着いた状態だ。
されど身体は繊細なほどに鋭利で、それでいて力強く地を踏みしめている。
そして、紛れもなく興奮していた。
澄み切った脳に直接感情が流れ込む。
興奮や喜色がそのまま表情に現れた。
童心のような表情に見合わぬ力がほとばしる。
異形の図体から一心に向けられた殺意にも劣らぬ強固な意志。
ただ目の前の相手との純粋な命の取り合いに興じるという愉悦。
視線がぶつかり、また両者は動き出す。
何処か、形振りを選ばない死闘において冗長な立ち上がりのゆったりとした時間が過ぎていく。
攻と防に順番を決めているような、交互に手を詰めていく。
そしてまたファントマの番だ。変わらず愚直な突進は、あくまでも単純な力比べへの拘りなのか。
それを受ける構えを見せた番人が真正面から迫るファントマに一瞥を投げた。
このままファントマの攻めを受けては同じことの繰り返し。攻めと受けを入れ替えるだけで闘争に進展はない。
されどファントマの練達した突進に番人も防御を緩めるだけの余裕は出せなかった。
鼻先に迫りくる猛威に番人の構えに動きはなく、防御越しに伝う重い衝撃が着弾するまさにその瞬刻、激震に身体を吹き飛ばされたのはファントマだった。
「――ガァ……ハッ……!?」
肺の空気が一瞬で抜ける。吐血と共に意味を持たない声が喉の奥から漏れ出した。
激痛を伴った認識と状況への理解が齟齬を生んでいる。
今、自分は何をされたか。律儀に順番を守る必要はない攻防だが、紛れもなくファントマの攻め順だった。防御の上からも関係ない手応えを拳に感じるはずだったのだ。
「て、め……ぇ……何を……――ッ!」
暫時の戸惑いを経て、攻撃を受けたという認識にようやくファントマの理解が追いつく。
呼吸と共に冷静さを取り戻したファントマの眼には、冗長な展開に変貌をもたらした番人の武器が映っていた。
ただの飾り物ではないことを証明するかのように力強いうねりを見せつけられる。
正面切って突進を繰り出すファントマの思考にはない、死角から狙われた横薙ぎの奇襲。
あるいは、理性を捨てた弊害ともいうべき、頭から抜け落ちていた可能性。
防御の構えすらようやく解いた番人を見やるに、悠然とした動作には揚々とした意気さえ感じた。
先手を得た余裕とも言うべきか、轟然たる長い尾をひけらかすように地を踏みしだいている。
彼の番人ほど役に立たない己が尾と見比べて、ファントマは少しばかりの羨望と嫉妬を向けた。
一撃が勝負を決めるこの戦いにおいて致命傷にも足り得る手痛すぎたダメージに、笑みを浮かべる。
この痛みこそ戦いへ命を賭すだけの価値をファントマに与えてくれる。
この痛みの感覚があるだけで、ファントマを立ち上がらせるだけの理由になる。
痛覚を感じているのなら、つまりそれが死ではない。
それだけでファントマが戦う道理となるのだ。
どれだけの激痛であろうと、どれだけの血反吐を吐こうと、そこに意識が存在するのならファントマは立ち上がる。
あの日ハワードに敗れた、その心と肉体の渇きを潤すにはまだ足りなかった。
「もっと……もっとだ……! ……もっとだろうがッ!!」
所詮は意表を衝かれただけの一撃で余裕気に見せた番人に激昂する。
確かに、これがファントマほどの精神力を持たぬ者ならば決着となったのかもしれない。
肉体的な強さ以上の精神力を備えたファントマは更なる境地を求めているのだ。
ファントマには未来が見えている。この戦いの先にこそ、かつて手にしてきた快楽を超える至上の幸福がある。
その結末が例え己の死であろうと変わらない。
ファントマを死へと向かわせる本能の足取りは、誰にも止めることは出来ないだろう。
「俺を地獄に落として見せろォッ! 手足をもがれた程度じゃ俺は死なねェぞ!」
虚勢に見える喚き声は、されど覇気を失っていない。
立ち上がることすら尋常ではない苦痛を抱えているはずのファントマは、覚束ない歩みを止めなかった。
一歩番人へと近づく毎に地を踏みしめる力は強く増していく。
悠然と、しかし徐々に、そして確実に。
歩みが、膂力が加速していく。
口から噴き出す血は気にも留めず真っ直ぐに向かった。
混じり気のない本能が、ファントマを終結へと導く。




