第三十五話 『聖剣狩り-08』
それは本能のぶつかり合い、故に悟った死だ。
死の他に決着はない。
彼我の手負いの差は歴然としている。
片や、片目を奪われたとはいえ衰えぬ猛威を奮う番人と、動くことすらままならないはずの裂傷に苛まれるファントマ。
されど、手負いの差がそのまま優劣を決定付けるほどの物証には足り得なかった。
外見の損傷から想像もつかない力強い足取りは、対敵に気の緩みを一切も許していない。
ともすれば、その歩みを止められる唯一の方法が必然的に互いの意識へと強く固着するのだ。
嫌でも脳裏に張り付く死への予感に恐れすらなくただ真っ直ぐに総身を動かす。
やがて歩行という速度を超え、気流を孕ませ駆けずるファントマの肢体は粉塵を纏いながら、閃光の域へと到達しようとしている。
躊躇いのない愚直なまでの正面突破。ファントマの武器はそれだけだった。
賢しい策もなく、故に裏を衝かれて負った重い痛手すら活かさず、本能のままに変わらず突き進む。
ただ純粋に至高の快楽を得る為には、その方法以外にファントマを満足させしめる手段はないのだ。
賢しい策も痛い体験も、その上で超越し、蹂躙する。
それこそファントマの至上の幸福の形だ。
常人には目で追うことすら敵わぬ、空間を駆ける閃光。
その数瞬、飛んだ理性と快楽の狭間にファントマは夢を見た。
あるいは、走馬灯とも言うべきものなのだろう。
記憶の中の己は破壊を貪り、快楽の限りに蹂躙している。
退屈と愉悦の両極端な感情がいつでもファントマの行動理由だった。
その中で心が渇き潤いに飢え始めたのは何時頃だったか、明瞭に覚えているのは、やはりハワードに敗れたあの日から――否、その少し前から胸につっかえる感覚を抱いていたのを覚えている。
それを思い出そうとすればするほど、あまりにも大きな存在が頭に浮かび邪魔をするのだ。
何故――魔王の顔が浮かんでしまうのか。
ことファントマに限って特別な忠誠も、特別な思い入れもないはずの彼の存在。
魔王、レイヴンは独裁者が玉座に座す如く堂々とファントマの記憶の中枢に君臨している。
よもや死の予感が拭えぬこの期に及んでまで思い出してしまうほどの忠義など持っていないと思っていた。
忠義でもないとすれば、その轟然たる存在感はもはや無視することもできなくなっている。
頭を駆け巡る走馬灯の中で、圧倒的な存在感はファントマの記憶を遮っていた。
はっきりとしない気持ち悪い感覚、しかし、その曖昧な感情を明確化するのは存外に簡単だった。
あるいは、死の窮地に立つこの状態だからこそ、素直な感情を覚えだのだろう。
それはファントマにして思い掛けないことに、単純な感謝だ。
ここが死に場所になったとしても後悔の余地もない最高の舞台を用意してくれた君主への淀みない感謝。
対等以上に渡り合ってくれる相手の強さへの感謝。
延いては転移の魔法でここまで連れて来てくれたガーネットに、あるいは、虚勢を振り切りハワードとの試合で負った傷を治して生かしてくれたサファイアに。その休養中に四忠臣としての役目を被ってくれたクロノスも。
そして屈辱を教えてくれたハワードへ。
番人の一撃で沈まなかった己自身の肉体すら。
不思議なくらいに、全身が洗練された感謝の念に満たされている。
それは次の衝突がこの愉しい時間との別れを悟ってしまっているからなのだろう。
勝つも負けるも、生きるも死ぬもこれで終わりだ。
いずれにせよファントマの身体はもう一度同じことを出来る状態ではもはやない。
既にダメージの限界値を超えたファントマの身体を動かしているのは精神力だけだ。
この正面突破を受け止められればファントマは死ぬ。
その事実は揺るぎなく、されど足枷になることもなく、ファントマの脚は更に加速していった。
手負いは一切も感じさせず、むしろこれまでのどの瞬間よりも疾く、強く。
本能のままに全霊を賭す。
「――グルゥゥアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
幾度となく吼えた。本能の、魂の叫び。
その度に番人もまた激しい咆哮で迎えた。
音の圧がぶつかり合って生まれる更なる衝撃。
その心地よい衝動を浴びるのも、これで最後だ。
思考が、認識が、そこに辿り着くよりも速く。
今正に、無意識の領域で両者が重なろうとしている。
ファントマを歓迎してくれるかのように伸びた番人の拳。
――刹那、大地を揺るがす凄惨なまでの轟音が産まれた。
空間を中心に神殿中、神殿の外までも及んでいるのかもしれない、激しい鳴動。
彼の王の耳にも届いたことだろう。
ファントマの肉体を賭した鳴動を、魂の咆哮を。
その音を最後に、神殿は残酷なほど嘘のように静まった。
◆
神殿の気配。
雰囲気というべきか、とにかく、神殿の中に蠢いていた二つの大きな慟哭が絶えた。
それも二つ同時にだ。
麓から見上げているだけの神殿は、決して物音一つを取りこぼすほどの大きさではない。
まして奥まった場所から少々吼えた程度ではこの麓へ音が到達するまでに講堂内で飲み込まれてしまうだろう。
無論、神殿の内部の様子など知るはずもないレイヴンは、されど全てを見届けたかのように振る舞う。
「……どうやら、片付いたようだな」
忽然、レイヴンはおもむろに呟いた。
どこか物憂げで、それでいて超然としたその口ぶりは心情を汲み取らせてはくれない。
何かが起きた、あるいは終焉したことを彼の王は知っているのだ。
外観には変わり映えのしない神殿を一瞥し、全てを見透かしているかのようにねめつける。
傍らに付き従うガーネットもまた神殿の雰囲気というものの違和感には気付いていた。が、それを裏付けてくれたのはやはりレイヴンの言動だった。
凡百な者程度の思考を超越した叡智。
全知が如きその佇まいに、ガーネットは心酔する。
全知であることを疑わない。全能であることに迷いがない。
ガーネットにとってレイヴンとは、ただそういう存在なのだ。
神殿が静まった理由に先遣が戻るのを待つだけの時間、ガーネットは口ずさんだ。
「ファントマは、聖剣を得たのでしょうか?」
「さあな。だが、じきに答えは分かるさ」
あまりに呆気なく信頼が否定されかける。
つい今しがた己が君主の全知全能を確信していたところ、だがしかし、その程度の簡素な言葉ではガーネットの忠誠は瓦解しない。
全知全能とは彼の王の為にある言葉だと疑わぬガーネットは、素っ気なくあしらわれた言葉を噛み締めた。
聖剣を手に入れたならもう数刻の内にそれが献上されることだろう。そうでないのなら、考え難いがファントマが失敗したというだけのことだ。
それ以上でも以下でもない事実にその溢れ出る叡智を働かせるまでもない。
ガーネットはそう思うことにして、再び神殿に意識を向ける。
それからしばらく、目立った動きや雰囲気の変化もないまま神殿は佇んでいた。
漠然とした雰囲気以上のものは感じ取れないまま、二つの慟哭が絶えて以来神殿を覆うような静寂が悪戯に刻を進める。
暫時、この静寂に初めて色を加えたのは一つの足音だった。
「――……そんな、まさか……?」
彼の者はなにも言わなかった。
代わりにガーネットの怪訝な声が嫌に響いた。
何も発さず、ただ一人、そこに佇んでいる。
「レイヴン様、これは一体……?」
ただ一人魔王の面前に佇んでいるという、どうしようもなく懐疑的な状態。
レイヴンへと視線を巡らせたガーネットの流麗な長髪が靡く。
これが聖剣を引っ提げたファントマだというのなら状況の理解も容易い。
それならガーネットも訝しんだ声を漏らすことはなかった。
目の前に居たのは、その手に何も有さない一体の腐屍族だった。
意志を持たぬ腐った屍の兵士。
彼らの欠落した理性を操るのはレイヴンだ。
死を厭わぬ従順な兵士として設計された腐屍族が、よもや逃げ帰っただけという状態ではないはずだ。
彼の者の帰還が既に神殿の踏破を表しているところ。にも拘らず、その手に戦利品が収まっていないことに何かしら事情を感じざるを得ない。
何よりファントマ自身の所在はどこにあるのか。
今更懸念や危惧を取り留めるほどの間柄でもないが、良からぬ予感は嫌でもガーネットの胸に沸き上がってくる。
意思疎通を図れない彼らの行動理由を読み取ることができるのは操者であるレイヴンのみ。
視覚以上の情報を得られない現状、答え合わせをするのはレイヴンだ。
「……何だと?」
目の前に佇む彼の者の意図を読み取ったのであろう。
ただ一言だけ潜めたその声色はどこか怒気を孕み、同時に驚嘆を表している。
顰めた表情の眼光の先は神殿だった。
多くを語られずとも理解した。
それが決して愉快な感情ではないことを、ガーネットは神妙に捉えた。
その原因が神殿の中にあることも瞬時に察する。
ガーネットもまた認識に至るよりも先にレイヴンと視線を重ねた。
何があったのか、ということはどうでもいい。
己が君主の癇に触れたというだけで、ガーネットに敵愾心を抱かせるだけの理由になる。
一方で、そこにファントマの存在が脳裏を過った。
憤怒の中で見失わない冷静さがファントマの存在を主張する。
何かがあったのだとすれば、それはファントマの身に及んだのだろう。
レイヴンの狼狽に予想立てるとするならその線が手っ取り早く想像できた。
しかし、ガーネットはそれを解答とするにはどこか核心に迫り切れていない気がしてならなかった。
ファントマの身に何かが及んだのだとして、彼の王がかように間誤付くことの違和感は否定できないのだ。
危険な地帯に家臣を送り出したのは他ならぬレイヴン自身、よもやこの場合を想定していなかった思慮不足とは思えない。
ともすれば、言葉少なに表したレイヴンの感情には深意がある。
当然己が君主の思考を読み取る努力は怠らないが、超然としたその叡智には至らない。
ガーネットが考えをまとめるよりも先に、レイヴンは相も変わらず少ない言葉で命ずる。
「行くぞ。ガーネット」
先頭を行く腐屍族に誘われるようにレイヴンは悠然と歩き出した。
あれこれと考える間も、その必要もない単純明快な答え合わせだ。
現場を見ればガーネットの憂いも晴れることだろう。
神殿に延びたレイヴンの足取りと、その傍らにガーネットは付き従う。




