第三十一話 『聖剣狩り-04』
血の香りが獣たちを呼び寄せる。
忍び寄ってきた気配がファントマたちを取り囲み、前後の道を塞いでいる。
遠くからでも聞こえる大きな音に釣られて野次馬的に群衆が生まれるのはよくあることだ。
まして知性のある聖獣たちが統率性をもって遠吠えに呼応し合っているのなら、それは仕組まれた状況であるとするべきだろう。
もとより、この形を望みその通りに実践させたのは他ならぬファントマ自身である。
断末魔の叫びを上げさせる間もなく聖獣の息の根を止めることは容易かった。
そうしなかったのはただ愉悦のためだ。周囲に獣臭い気配が集っていることなど端から気づいていた。
だからこれはファントマの想定通りの状況であり、また、想像以上に愉快な状況であると言えるだろう。
「まーだ集まってくるかい。おもしれえ。片っ端からぶっ倒す」
呆れたような白々しい口調に対する口元の緩みは隠せていない。
無数と揶揄した、レイヴンの言葉が大げさではなかったことを確信する。
ファントマの目の前で隆々とした体躯で壁を作り上げた聖獣たちが一陣、二陣まで層のように並んでいるのだ。それが、同様に背後までも立ち塞いでいた。
この状況を前に笑みを浮かべられる異常性は他人に真似できるものではない。
ファントマ自身、己が笑みを零している事実に嘲笑じみた鼻息を漏らしている。
大事をのたまった手前、流石のファントマも偉ぶる事の出来ない状況から滲み出る焦慮を悟られる訳にもいかないだろう。
例えば知性に基づいた一斉の襲撃を仕掛けられた場合、ファントマでも手に負えない惨事は中々免れたものではない。
その状況下で笑みを零している己が恐ろしくもあった。
嗅覚と視覚の両方からくる獣臭さに反した知性は、個の力で優れたファントマをも脅かし得る能力である。
少なくともファントマには微塵もない協調性の面においては、この状況での優劣を明確に分けていた。
腐屍族の存在も当然あるのだが、それを数に入れるのはこの状況を招いたファントマが考慮できる点ではないだろう。
状況は圧倒的に不利だ。
されど、口元の緩みは一向に収まらなかった。
「あー、お前ら。こんなことに巻き込んじまって悪いが、自分のことに手いっぱいで骨は拾ってやれそうにねえ。各自自分の身は自分で守るようにしやがれな」
腐屍族に下ったのはそんないい加減な指示だった。
そこに怒りや嘆きの自我を持っていないことが彼らにとってどれだけの不幸か。
もとより、死した身から拾える骨などありもしない。
ファントマの声は耳に入っているのか、死者たちは物怖じをするでもなしに事もなげな様子でそれぞれ武具を構えている。
獣臭さが立ち込めた空間に蒸れる熱気は、聖獣たちもまた腐屍族が武具を構えるのと同様に、非凡なる膂力を発揮しようと一斉に全身を奮い起こした余波で生まれる圧力だ。
前後ともその圧力に囲まれ、熱気は逃げ場もなくファントマたちを蝕んでいった。
酷暑のようにすら錯覚するほどの重圧に背中が冷える。
暑苦しさとも寒気とも言える不快な感覚が、やがてファントマの表情から気色を奪った。
それが開戦の合図だ。
「――ガウアアアアアアアアッ!」
暫時。
聖獣の群れへ飛び込んだファントマの影と応戦するように轟く咆哮。
雷鳴の如き雄叫びを真正面から切り裂いて懐に潜り込む。城壁にすら等しい聖獣の成す凄絶な圧力をも一身で跳ね除け、先と同じく目先の聖獣の臓物を引きずり出したのはものの一瞬の出来事だ。
瞬間にして、咆哮は断末魔へと成り果てた。
先の聖獣が見せた馬鹿正直な突進と変わりはしない。同じことをそっくりそのままにやり返しただけだ。対照的となったのはその結果である。
聖獣の個体差は度外視するとして、個における彼我の差は明らかだ。速度、鋭さ、その何れをもファントマが上であることの証明には十分だろう。
改めて感触を確かめるように捉えた肉を振り払う。
それがファントマの中で確信となり、躊躇の消えた喜色を取り戻すのだ。
「カッハハア! まずは一匹ィッ!」
聖獣の壁の中で荒げた上機嫌な声色は場違いに鳴り響く。
己の強さへの確信がファントマの頬を緩ませたまま表情を塗り固めている。
ファントマはこの状況を愉しまずにはいられなかった。場違いに獰猛な笑みを浮かべていることを自覚しながら、この状況で笑っていられる己を心の底から肯定しているのだ。
この状況でハワードに負わされた己への不信感を想起させられるとしたら、それはファントマ本来の性分ではないだろう。
多勢に無勢とも臆することの無いこの強情さこそ、ファントマ自身がファントマらしいと言える確信である。
もとより、この程度の状況につまづくつもりなど毛頭ないファントマからしてみれば当然だった。
君主の言葉が気を乗らせるための大げさな方便だったとしても、ファントマの克己心を促すにはこの戦場こそ最適解なのだ。
一介の村人を貪るような行為とは遥かに違う。ファントマの口を借りれば歯応えのある相手であるところの聖獣を捻じ伏せるのは、欲求を満たす至上の手段だ。
心の中で柄にもなく君主に畏まりかけて思いとどまる。
至上の戦場を用意してくれた謝意は、聖剣という結果で示すべきだろう。
まんまと君主の掌で躍らされているような気もしてくるのは、思い過ごしとして頭の片隅に処理しておける都合の良い性分だった。
「グゥアアアアアアアアッ!」
当然、敵陣のまっただ中に潜り込んだファントマがそのまま見過ごされることはない。
四方から振り下ろされた聖獣の濛々たるが前脚が虚空を薙いで通り過ぎた。鋭利な爪甲が空を引き裂いていくけたたましい音も相まって、まともに喰らえばぺちゃんこに押し潰されそうな殺傷力を誇示している。
四方を覆った攻撃が手応えなく中空を通り過ぎた感触に戸惑いながら足元を見下ろす聖獣たち。
その四方の余所では状況を俯瞰して見れていた別の個体が咆哮を向けた。
ファントマを取り囲んでいたはずの聖獣たちの頭上から、口笛交じりの称賛が響く。
「当たったらひとたまりもなさそうだな! 最高だぜ!」
それを賛辞として受け取れるかどうかは聞き手次第ではあるが、少なくともこの緊迫した状況に相応しくはないだろう。
頭上から聞こえる声に反射的に顔を上げた聖獣たちがファントマの姿を確認すれば、そのうち一頭の視界は既に振り下ろされた両脚に埋め尽くされていた。
跳んだ、と判断するまでの刹那の逡巡は聖獣にとってそのまま致命的な隙となった。
頭蓋が地面に合わさるぐしゃっとした音を上げ、此度は断末魔もなく息を絶やした。
屠る。
尚、屠る。
依然として、ファントマの視界は無数の聖獣たちに押し寄せられている。
血飛沫が舞い散る中に生まれていく死体の山。
それでも、聖獣の咆哮は絶え間なく飛び交い、ファントマもまたその数だけ屠った。
死体の数が始めに取り囲まれたときの数よりも明らかに多くなっていることにファントマが気づいたのは何時頃だったのだろう。
否、あるいは、気付かず、もとい気にも留めず、ただ無心に腕を振るっていた姿は修羅が憑依しているに等しい。
聖獣の攻撃が肉を掠めようとも痛みすら意識の中にはなかった。
ただ屠り続ける快楽、蹂躙し続ける快感がファントマを満たしているのだ。
感情さえも付け入る隙の無いファントマを止めることができる者は誰もいなかった。
頬の緩みは、より獰猛に、更に凶悪に捻じ曲がっている。
「殺す! 倒す! 潰す! 葬る! 消す! 屠る! ブッ殺スッ!」
醜悪な表情はかつてないほどの恍惚に染まっている。
たがが外れたように汚い言葉を連呼しながら、息を吸うかの如く聖獣を血祭りにあげていく。怒りと喜びを取り違えたような言葉遣いが神殿を巡る。
逆立ったファントマの体毛は返り血に染まっていた。
それがより醜悪さを誇張し、悪鬼の如き形相に落とし込んでいた。
今のファントマに節度などない。
ただ戦場を貪り喰らう、欲求そのものを体現した存在である。
もはや本来の目的が聖剣であることなど頭の中にはないだろう。
欲望に脳を支配された堕落者だ。
時の存在すら忘れ、ひたすらに攻防を交えた。
それでも聖獣の波が尽きることはない。
ファントマは至上の悦をここに確信する。
◆
血の海。死体の山。
見渡す限りの地獄絵図の中、ファントマはどっかりと腰を下ろした。
腰掛としたものが巨躯の獅子の死体であることから、物を選ぶ余裕もないほど疲労が高潮に至っていることは言うまでもないないだろう。
腰に敷いた獅子もまた血に塗れた死体だ。
ファントマの他に、息をする気配はなかった。
静寂にファントマの荒れた呼吸音だけが響く。
今更のように襲い掛かってくる痛みが激闘の、蹂躙劇を思い出させる。
一方的、と言っても過言ではなかったのだろう。
弱い者いじめと見紛うまでの虐殺はファントマの理性を留めてはくれなかった。
嗜虐性すら垣間見えていたほどの圧倒的な侵略だ。
されど、ファントマの中を巡る血の感触が、命の取り合いという舞台で間違いなく魂を削り合っていたことを告げてくるのだ。
返り血とも、傷口から溢れたとも判別のつかない鮮血が滴る。否、その血は紛れもなくファントマの身体を通している。
傷口の痛みが教えてくれる。
聖獣と争い、勝利を得たのだという確信。
今ここでようやくファントマは目を覚ましたのだ。夢見心地な快楽の中から、痛みが現実に呼び覚ましてくれた。
心地いい夢から覚めた現実に、心のしこりが取れたような胸のすく清々しさが待っていた。
夢の最中には夢から覚めたいなどと思いもしなかったが、不思議と現実はすっきりとしている。
それは、充足感なのだろう。
晴れやかな気分だ。
美味い物で腹を満たしたような幸福感だった。
同じだけの快楽を果たしてこの先の人生に望めるものなのか、と。
少なくとも、今のファントマはこれまでに達し得なかった至りに満たされている。
理性や思考が入る余地のない至上の悦だった。
やがて呼吸は落ち着き始め、痛みが身体に馴染んでくる。
荒れた息とともに浮ついた気分が整っていく。
傷口から上手く血が抜けたためか、ようやく脳が務めを再開した。
「……多幸感に浸ってる場合じゃなかったな」
頭では理解しているのだ。しかし、身体がついて行かない。
それは疲労や痛みから来る倦怠感が原因ではなく、何か魂の一部を抜かれたような無気力だった。
これから、聖剣の間までの散策を始めなければならないことが億劫になっているのか。
否、そこに待つという番人の存在はファントマを衝き動かすには十分な理由になるだろう。
現実という夢の中で、未だに捉われているのかもしれない。
これだけの爽快感に支配される感覚など味わったこともなかった。
思い描いていたはずの夢以上に満たされた現実が、ファントマを縛っていた。
「いっちょ前に急かしてくんじゃねえぜ」
独りごちるようにファントマは呟く。相手の居ない発言にしては嫌に会話的だ。無論、生者の気配など他にはない。
ともすれば、口を聞いた相手はもとより生者ではなかった。
そもそも、魔力で繋がっているだけの骨の集合体に生命という概念は通用しない。
乱戦の最中で聖獣の攻撃に砕け散った骨の騎士たちは、戦いが落ち着いたころ合いを見計らったように再び魔力によって繋ぎ止められていた。
呼吸はない、ものを言うでもない。気付けば聖獣が集る前の元に戻ったかのように、判を押す如く均整のとれた整列で立ち並んでいる。
内蔵されていた魔力を枯渇しそのまま骨に還ったものもあるのかもしれないが、元の数も知らぬファントマにはそれが全てかどうかも分からなかった。
ただファントマの前に立ち並び、次なる下命を待っている。
ファントマにはそれが急かされているような気になって、返事がないことも知りながら口から零したのだ。
急かされたくない、という贅沢は今ここで堪能するべきではないだろう。
永遠に浸っていられる余韻もそこそこに、神殿の麓に待たせた魔王の存在を思い浮かべる。
忠誠心などないが、この務めを任された手前にも待たせているということに多少の責任感はある。
戦いの雰囲気で忘れかけていたが、神殿の神気を含め、無駄に時間を要するべきではないのは言うまでもない。
そもそも、美味い飯を食うのに不味いもので先に腹をこさえるほどファントマも変わり者ではなかった。
「……行くか」
その視線は既に聖剣の間にて待ち受けているという番人の存在に向けられているのか。
やはり、腐屍族たちに下った指示はいい加減だった。




