第三十話 『聖剣狩り-03』
講堂内を一歩進む度、神殿の聖なる神気が劈くようにファントマを襲ってくる。
かつて魔族が聖なる遺物を忌避し近付くことがなかった、近付こうという概念が根本的に抜け落ちていた意味を理解する。
ただその場所に居るだけで鼻腔から体内へと染み入ってくるような不快感、異様な背筋の寒気を含め、下水にでも浸かっていく生理的な気持ち悪さがファントマの歩みを鈍くさせているのだ。
理性ではない本能の部分で身体が勝手に拒絶反応を示している。
「なるほどな……、こんなところ近付くべきではない訳だ。こんだけ息の詰まるような場所じゃあ、長居なんてできやしねえ」
聖と魔の反発し合う性質を身を持って体験しつつ、ついでにこんな場所へと放り込まされた経緯に不満を抱きつつ。
聖と魔の概念に捉われない柔軟性が過ぎる君主の発想に文句の一つでもぼやきたいところを喉を通る前に飲み込んだ。
不服を垂れたところで意味もなし、それに乗ったのもまた己であることを思い出したように不満は窄んでいく。
愚痴を嘆くなら、目の前の迷宮が想像以上に広大過ぎることを先に考慮するべきだった。
「舐めてたつもりはねえがこりゃあ簡単に見つかる気がしねえぜ。あーちくしょう、面倒くせえ」
この場所に立つことで初めて対比できる。麓から見上げていただけの遠近感では推し量ることは出来ない。
十体の腐屍族が両腕を広げて横に並んでも余りあるほど分厚い壮大な絶壁が左右一面に立ち塞ぐ。その天井は、大森林の大木をすっぽりと収めてしまうほど深遠だ。
優に、アイゼンフォート城の倍はあるだろうか。終わりも見えぬほど伸びた廊下が、その先々で枝分かれして広がっていた。
ため息交じりに諦念に近い呆れが湧き出る。同時に、それがファントマの中で聖剣という存在の確信になった。
この神殿の何処かで聖剣が鎮座している。本能的な直感に過ぎないが、そう確信せざるを得ないほどひしひしと肌に纏わりついてくる何かを感じる。ファントマにはそれを聖剣の存在が見せる確証という他にない。
呆れてしまうほどに、聖剣の存在感は隠されていなかった。
匂いというか、音というか、勘と言ってしまえばそれまでの第六感的な感覚をくすぐられ続けているような不快感が歩を進めていく度に強くなっていく。聖剣の下へと近付いて行っているような、それでいて砂漠の中で蜃気楼を魅せられたように揺らいだ錯覚が繰り返す。
あるいは、近付く毎に遠ざかっていくようにも感じるほど、掴みどころのない状態だった。
匂いを感じるはずの食材の在処が見当たらない感覚が着実にファントマの苛立ちを募らせていく。
音を辿れども近付いては途切れ、また別の場所から耳鳴りが響き始めるのだ。
視覚にも代わり映えはしない迷宮状の講堂に手がかりはない。
そんなファントマの焦慮を発散する手段とは、ちょっとした決まりごとのようにソレと定められていた。
「……まさか聖剣へ辿り着くまでに出くわさないとは思ってなかったが、ようやくお出ましか。会いたかったぜ」
焦がれていたように相見えることを待ちかねていた。対峙するのは獅子の身体に紋様を浮かべた獣、侵略者の行く手を阻む聖獣だ。
のそのそと四本足で徘徊し、奥まった廊下から徐々に近付いてその全貌を見せつけてくる。
ひとえに想像される獅子とは違い、身体の大きさと筋肉の発達した両手脚は通常の獅子と倍は近いことだろう。
嗅覚と視覚の両方から伝わってくる獣臭さに反して、聖獣には知性を感じる所作が滲み出ていた。
あるいは、それは聖剣を守る守護者としての矜持にも見える。
ファントマは一目で見抜いた。
半端な者では一太刀浴びせることも出来ないだろう。例えば腐屍族が数体ほどで取り囲んで敵う相手ではない。
それが、無数に徘徊するという君主の言質にファントマは心を躍らせている。
「聖剣の下まで案内しろとは言わねえよ。端っから、お前らが何体居ようと全て狩り尽くしてから聖剣を探すつもりだ。だからその嫌味みてえに頭の良さそうな佇まいに免じて言わせてもらう」
見た目の野蛮さを裏切るように、聖獣はファントマの語りを聞き入れる。あるいはファントマ以上に整った礼節でファントマの要望を待った。
言語の認識は通じるらしい。
「吼えろ。神殿中に響き渡るよう目一杯にだ。応援を呼ぶんだよ。お前も、俺がお前だけでどうにかなる相手じゃねえことは分かんだろ? 出来るだけ多くの仲間を呼ぶことだ。一遍に片付けてやっから」
ファントマの堂々たる驕り。
故に、その言葉が偽りでも虚勢でもないことを聖獣は理解したようだ。
裏を返せば、聖獣の力を計りながらそれだけの威勢が出せるのは蛮勇か本物の強者でしかない。
そもそも、侵略者たちの歩みがおよそ神殿の中腹に差し掛かろうというまで聖獣が姿を見せなかったのは、聖剣に挑む資格を持った者を選別するためなのだ。
聖剣までの道程を段階的に表すとすれば、まず安易に愚者を入れこまない仕組みとして神殿の立地にある。切り立った絶壁の峡谷に佇む土地に踏み入る者はもとより些細な数だ。
次に神殿のそのものが持つ情調を見受けて近付ける一般人はまず居ない。神殿は近付こうという行為自体に死を錯覚させる異様な雰囲気を放っていた。
そして聖獣の存在。それでも退き返さないというのなら、多くの者がその身を引き裂かれ迷宮の土へと還ることだろう。
広大な迷宮状の構造も聖剣へと近付こうとする者を自然と選別しているのだ。
その上で、退き返す気配のない目の前の強者を見据え聖獣が喉を鳴らす。
神殿の中層近くを徘徊するよう機械的に組み込まれた本能が警鐘を鳴らしている。
彼我の野蛮さにおける大差はないようにも見えるが、臨戦態勢を取った聖獣に対するファントマの悠々とした態度は聖獣以上に野性的な姿をしていた。
見ようによっては挑発ともとれるその態度に、敢えて乗る。
聖獣は四つの脚に力を蓄え、雷鳴の如き咆哮を上げた。
「――……グルゥァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
耳鳴りを生むほどの咆哮が神殿中を駆け抜けた。
音が圧となりファントマの体毛を撫ぜていく。
過ぎ去った咆哮が迷宮に響き渡っていく余韻を咬みしだきながらファントマは思わず笑みを零していた。
「丁度いい酔い覚ましだぜ。こんな場所に長く居すぎたせいか、腹の底が重っ苦しかったからな。そのついでと言っちゃあ何だが、身体を動かしてもっとシャッキリさせてくれ――……よっ!」
そんな、与太話のような御託まで待っているほど聖獣は賢くなかった。
否、語りに気を取られ油断しきった喉元を眈々と狙うしたたかさは、およそ獣的な行動ではないだろう。
のうのうと口を動かすファントマを目掛けて棒線の如く放たれた突進は、結果的にその肉体を捉えることはなく素通りしていく。
弾みつく勢いを殺すよう踏ん張った四本の脚が地面を抉り、舞い上がった砂埃が晴れた頃になって、ようやく聖獣は身を焼かれるような痛みに気付いた。
「おいおい、慌てんなって。まだ俺が喋ってる途中だったろうがよ。あんだけ大きな声で吼えたんだから仲間の耳にも届いたはずだろ。待ってた方が、良かったんじゃねえのか?」
変わらず余裕を見せるファントマ。対して、襲い掛かったはずの聖獣の胴体から滴る血が攻防の甲と乙を難しくしている。
もとい、ファントマの腕にも同様に絡みついた鮮血はそのまま現象を表していた。
事態をややこしく見るまでもなく、単純に聖獣の突進をファントマが喋りながら身を翻し、通り過ぎた胴体に一突き加えただけである。
その単純に過ぎない動作を、疾風が駆る如き刹那の中で繰り広げていたからこそ、聖獣は痛覚への認知が遅れていたのだ。敵の胴体を食らいつくのは自分だったはずの立場が逆転していることに、懐疑に遅れて痛覚を認識した。
聖獣はファントマの飄々とした態度から見受けられた印象を改める必要を感じた。もとより、この場所まで来た侵入者の行く手を阻むという天命を受けた身として、相手の力量の差で加減を決めるような差別はしない。
ただ、本気で襲い掛かった奇襲がこれほどまで容易くあしらわれたことに、戸惑いは隠せなかった。
されど、その傷が致命傷には至るまでの深手ではないことを悟るや否や、臆すこともなく再び両の手足に力を蓄える。
痛みを苦ともしていないのか、傷口から溢れる血を関せずに筋肉の躍動を止めなかった。
行為自体が寿命を縮めているのも知った上のことだろう。その猛りに直接繋がる行動もまた、決して命を惜しむ者が取るような振る舞いではない。
謂わば、命を投げうつ覚悟にすら通じた気概に満たされているのだ。
聖獣自身も次の行動が最後になることを悟っているのだろう。
しかしそこに迷いはなく、四つ足に溜まった力が最大まで達そうとしている。
この手負いの状態である条件を除いても、気を入れた彼の者が再度と隙を見せることはない。
少なくとも、この突進が交錯した地点で身を引き裂かれる想像を鮮明に浮かべてしまった聖獣には、一矢報いることすら不可能だ。
次の行動が己の死を決定付けるものであろうとも聖獣の瞳は矜持に溢れている。
聖剣を守る守護者として、神殿の一部となることへの矜持だ。
「それは、無謀ってモンだぜ」
ファントマが憐れむように呟いた。その刹那。
互いが互いの未来を悟った上での立ち合いで、同情に逆上したわけではないのだろう。
再び空を切る衝動がファントマへと襲い掛かる。
迷いのない、紛れもなき直線が神殿を駆る。
「グゥウウッ……ガルァアアアアアアアア……ッ!」
此度は、断末魔だった。
先以上に深い傷だ。生肉を突き通した肋骨が剥き出しとなり、臓物が収まり効かずに流れ出していた。
自らの血溜まりに倒れ伏した聖獣は尚も敵愾心を殺すことなくファントマを睨み続けている。
意味合いを変えた咆哮は、神殿中を響き渡っていく。
「いいぜ。その目だ。その目を、待っていた。ただの服従者じゃあ見せてはくれない、誇りを持ったその目がどうしようもなく心地良いんだぜ。お前らの誇りの中で蔑んでくる目が、俺の強さを実感させてくれる」
ハワードに、たった一人の人間に正面からぶつかり合って敗北を喫した事実。
ファントマの地に落ちた自信を回復させてくれるのは、地面に這いつくばった者の蔑んでくる目だ。目の奥の憎しみのような眼光がファントマの強さを証明する。
強さを勝ち取っていく感覚は、心地良かった。
次第に聖獣の呼吸は衰えていく。
朦朧とした瞳が光を手放し、虚へと染まる。衰弱し、己の死が差し迫った状況を受け入れながら、僅かな呼吸の上下だけが生命の灯を残している。それすら、空気を取り込めていない肺の機能として意味を成していない。
ふと全身の力が抜け落ちていくような感覚に見舞われる。如何に隆々とした体躯を誇ってもその感覚ばかりは抗えそうにもなかった。
それこそ死そのものであることを悟って、聖獣は全てを委ねた。
「残念だったな。腕は鈍ってなかったらしいぜ」
手向けには無粋な言葉だ。
意味としてもそれだけでは伝わるものでもなかった。
だから、それはただのファントマの独り言なのだろう。
ハワードに敗れて以来、ファントマが望む形で戦場に立つことの出来なかった鬱憤に対する確かな手応えだ。
多少の陰りがあったところで覆る結果ではないが、身体の仕上がりは上々といったところか。
準備運動にもならない死闘は、ファントマの呑気なあくびをもって決着となる。
「……少しは近付いてんだろうな?」
ファントマが苛立ち気味にその質問を腐屍族に聞いたところで応えはなく。もとより、反応できる自我がない。
その代わりに。
声に反応する気配は急激に増えていた。
果てのない入り組んだ講堂の中。
いつからとはなしに、ファントマたちの前後を取り囲んだ強烈な獣臭さ。
聖獣の断末魔、最後の灯は鼻を刺すような獣臭を寄せ付けた。
野蛮で、されど知性に溢れた気配に挟まれながら、ファントマはただ一人獰猛な笑みを浮かべている。




