第二十五話 『鳥籠の姫君-04』
「何……?」
あるいは、聞き間違いか。
そんなはずはない、と。
そう、思うしかなかった。
勇者の子。
アリーシャは確かにそう言った。
いや、だが、しかし、レイヴンは身に覚えもない子の存在に戸惑うことしか出来ない。
かつて勇者だった頃の記憶にこの赤子の存在は無かった。
ともすれば勇者以外の、ブレイン以外の誰かによる子種であると考えざるを得なかったレイヴンには、赤子の存在が怪訝に映っている。
よもや自分の子に当たると聞かされればその懐疑もより深くなっていた。
レイヴンはかつて、『勇者』が生きていた時点でアリーシャとの間に子を授かっていた事実など認知していない。
遠い、古すぎる記憶を当てにするのは少々危ういのかもしれないが、それにしても魔王となった今でさえ動揺してしまうこの衝動を忘れることは無いだろう。
それと同様に、これは自惚れでもないが、アリーシャが他の男との間に子を身籠るようなことなど考えられなかった。
レイヴンは狼狽えながらアリーシャから核心の言葉を引き出すように誘い出す。
「勇者の子……? 勇者の子、か……。愛する恋人と我が子を残した彼の者はそれはそれは耐えがたい後悔に苛まれたことだろうなあ。気の毒でならんものだ。父親の無念や希望がこんな小さな生命の源に託されていようとはな。今にでも、首を縒れば簡単に死んでしまうようなこの生命に背負わせるには重すぎるんじゃあないか?」
それらしく適当にあてがった言葉にアリーシャはまんまと声を荒げた。
我が子の生死に物理的な関与を下せる言葉を聞き逃せはしないだろう。
「その子を離しなさい! 私がその子を授かったことを知ったのはブレインが勇者として旅立った後のことよ! その子のことを知らなかったブレインが託した思いはその子には関係ない! その子だけは……、何も関係ないのよ!」
赤子を守ろうとする母親の慈愛はレイヴンへと牙を剥いた。
あくまでもレイヴンと赤子を引き離そうとするアリーシャ。それ自体が答え合わせのような、疑惑は核心に代わる。
「それだけ庇い立てする様を見るに、彼の勇者の子であることは間違いないようだな」
レイヴンの騙りにアリーシャは言葉を失う。
アリーシャはそこでようやく自分が見定められていたことを悟った。
「お願い……その子は関係ないの……だから、離してあげて……お願い……、します……」
「……ああ。離してやろうとも」
レイヴンもまた、そこで気付くのだ。
勇者の子。
かつての自分の子。
魔王の手から世界を守れず、この世界に何も残すことの出来なかった自分が、唯一、残すことのできたもの。
勇者として旅立ったブレインが魔王の下へと辿り着くまで、およそ一年の旅路だった。
時系列としての辻褄も不自然ではない。
短くも密度の濃い、忘れることのできない日々の中で、『勇者』も知らない希望の存在。
雑に抱きすくめた我が子を、悠然と、丁寧に包みの中へと戻してやる。
レイヴンの腕の中で大人しかった赤子はまた泣き出した。
何故泣くのだ、と言ってやりたかったが、レイヴンにはそれを言葉にする資格がない。
今の『魔王』はこの赤子にとって、父親ではなく悪意の象徴でしかないのだ。
否、それすらも生まれて間もない赤子の認識には含まれていないだろう。
だからこそ、本能で父親の腕の中から離れていく寂しさを感じているのか。
理性を覚えていない赤子だからこそ、父親の腕の中に安心感を得ているのか。
この世界に何も残せていなかったわけではなかったのか、と。
同時に、その愛らしい我が子の姿にすら、レイヴンは興味を惹かれない自分が居ることに気づいてしまった。
「そう、警戒しないでほしいものだ。望み通り赤子は離してやったぞ」
これだけ村を踏み荒らされておいて警戒をしないというのも無茶な話だった。
アリーシャは目に見えるほどの警戒心でレイヴンを強くねめつける。
「……なら、もう用事は済んだでしょう? 早くこの村から立ち去りなさい」
「えらく強情じゃあないか。赤子に向いた眼を自分に挿げ替えているんだな。そうまでして、この子を守りたいか?」
「……っ!」
「まあ、構わん。ならばこの場は赤子に手出ししないことを誓おう。その代わり、俺からの要求も飲み込んでもらおうか」
「要求……?」
最初から、レイヴンの興味は赤子などではない。
この村に着いた瞬間から目的を見失うことは無かった。
否、あるいは、前世よりもその遥か遠くから望んでいたのだ。
およそ千度もの人生であらゆる経験をしてきた。
その中には、それこそアリーシャ以外の女性と子を成し老いていったこともある。それを不貞行為というなら何だろうと構わない。
今だけは魔王の強情さに乗じて、告げるべき言葉がある。
アリーシャと向き合える、この瞬間だけは、『勇者』として生きた日々に戻れる気がした。
「――勇者の恋人よ、俺の下へと来てもらおう」
姿や言葉は違えど、アリーシャを求める想いは変わらない。
魔王の威厳は、震える彼女を容易く頷かせてしまう。
◆
アイゼンフォート城の一角。重たく仄暗い雰囲気は空気感から成されている。
謁見の間にて、場の注目はいつにもはない異物へと集まっていた。
誰もが口を閉ざし、支配者の言葉を待つ。
鳥籠状の鉄格子の中、白銀のドレスは分不相応な貧民を飾り立てている。
されど、レイヴンにとってその不相応さは彼女の価値を下げる要因には結びつかなかった。
「アリーシャ……。やっと、この手に……」
馳せる想いが口から零れる。
どれだけ望もうと叶うはずがないと思っていた願い。
否、もう一度彼女に会いたいという想いすら心の奥底に押し留めてきた。
あるいは、理不尽に繰り返された転生にその想いを呼び覚まされたとするべきか。
理不尽な転生が無ければこの想いで苦しむこともなかっただろう。
千の魂を超えてきたレイヴンが目の前に見据える。
魔王という立場を濫用することで今一度この手に彼女を収めた。
彼女は、精気の無い表情でただ静かに俯いている。
望んだものを得たはずのレイヴンが何処か虚しいのは、魔王という立場が『勇者』とその恋人という関係には決して戻れないことを決定づけているからか。
「ずっと、伝えたかった。感謝を、謝罪を」
玉座から降りたレイヴンが悠然と鳥籠へと近づいていく。
その言動が魔王として許された行為でなくとも最早歯止めは効かない。
言葉も身振りも選ばず、寄りかかるようにして鉄格子の隙間から手を伸ばした。
かつて勇者だった者として、彼女の恋人だった者として、彼女の一部に触れたいと伸ばした腕を握り返してくれることはない。
それでも、そこに彼女の姿があることがレイヴンの魔王として望んだ形なのだ。
魔王として明らかに不可解な行動に誰もが言葉は持たずその行く末を見守っている。
四忠臣、そして玉座への道を脇から固める骨の兵士達が視線を集めたまま、静寂の中に反響する君主の言葉に耳を寄せた。
されど此度の君主の言動は彼らの記憶に残ることは無いだろう。
君主が言動を選ばないということが即ち、彼らにとって記憶に残すべきでないという判断に直結している。
「誰よりもお前だけに伝えたかった……」
ありがとう、と。そしてすまなかった、と。
しかしレイヴンは口にしたかった想いを飲み下す。
「――だが、この身体では伝わらない……!」
魔王の身体では届くことのない想い。
悔しさだけが口から零れ落ちるのだ。
アリーシャは、レイヴンが伸ばした腕の先で魔王の姿に怯えている。
レイヴンはアリーシャの頬に触れかけた指先をそのまま固く握りしめることしか出来なかった。
目の前にいるアリーシャを両の腕で抱きしめたい衝動と、手繰り寄せたただの虚空が淋しい。
魔王として許されない想いを胸に、レイヴンは暫し瞼を固く閉ざす。
それは支配者たる者に相応しくない無様な姿だ。
「――……貴方は、何なの? 目的も曖昧で、私なんかを攫って、訳の分からないことばかり口にしてっ。私には……、貴方が分からない」
「俺は魔王だ。ただの、魔王だとも」
アリーシャから今まで歩んできた自分の全てを否定されたような報われなさ。
それは同時に、今の魔王の姿を肯定されたという矜持にもなった。
今の自分の立場を表す言葉さえ、容易く誇ることが出来る。
無条件の忠誠に囲われた生温さよりも、アリーシャから突き放されたような言葉の方がレイヴンの覚悟になった。
それはレイヴンにとって初めて魔王である自分自身を認めさせてくれた言葉である。
彼女の言葉で地に足を付け直したレイヴンは魔王然とし語り出す。
「彼の勇者には掴むことの出来なかった平和。この魔王が阻んだ秩序に、世界は恐怖へと陥っていくことだろう。だからお前に見てもらいたい。秩序の崩壊したこの世界を俺たち魔族が染め上げていく、その様を」
レイヴンは今一度、魔王らしく嘯いてみせる。
「勇者の恋人――鳥籠の姫君よ。勇者と魔王の歴史の証人となるがいい。勇者ではない、この魔王の傍らで、この世の栄華を眺めてもらう」
『勇者』として掴めなかった栄光は『魔王』として見せる栄華とは真逆なものとなるだろう。
無様なものだ。千度の転生にして戻ってきた世界で、元恋人にかつて見せられなかったものを別の形に代えてしまうのはこれ以上に無い屈辱である。
それでも、レイヴンにはお道化ることでしか魔王という体裁の中でアリーシャを繋ぎ止めておく方法がなかった。
「光栄に思え。この支配の時代に、最も平和で安全な場所で世界の行く末を眺められるのだからな」
「この鳥籠の中が平和だというのなら、自由を失った平和に意味はないわ」
「そう、悲しい顔をするんじゃあない。不満があるのなら叶えてやろうとも」
「……それならあの子に……、フレンに、会いたい……っ!」
その表情には、勇者の隣で培った気丈さの欠片もない。
声に連動するように身も震え、瞳には涙を携えていた。
怒りや畏怖を超えた絶望が感情を揺さぶっている。
レイヴンがアリーシャを望んだように、アリーシャもまたただ一つの切望を抱いている。
叶えられるはずがないと悟りながら、レイヴンの甘い言葉から魔王の手に奪い去られた希望を強く望んでいるのだ。
「フレン……、あの赤子の名だな?」
レイヴンは連想的に当たりを付けて尋ねた。
「そうよ。あの子は、無事なのでしょうね?」
「勿論。幾ら魔王とあれど、約束を破ったりはしない」
「それだけ聞ければ……、いいわ。こんな願い、許してくれるはずがないもの。忘れて」
また、アリーシャは諦念に戻される。
楽観面に振れることはない感情の起伏があっさりと関連性を認め、惜しみ気に断念した。
わざわざ引き剥がしたものを元に戻す道理はないだろう。
レイヴンを相手に嘆願するのは無駄だと、アリーシャからしてみればそんな見方がまず頭に過っていた。
「……会わせてやらんこともないと言ったらどうする? いや、会いに来るのは赤子の方かもなあ?」
だからこそ、幾らもレイヴンの甘い言葉を聞き逃すことは出来なかった。
否、此度はその罠に気づいた上で声を荒げる。
「あの子はまだ赤ちゃんよ!? あの子が会いに来れるようになる頃には……この世界は……もう……っ!」
「どうした、よもや勇者の恋人だった者がその頃にはこの世界も悪に染まっているとでも言うのか?」
「ッ……、平和が訪れていて貴方の許可を得る必要はなくなっていると言っているのよ」
アリーシャの苦し紛れに濁した言葉は夢見がちな戯言にしか聞こえない。
勇者を失くしたこの世界に誰が平和を齎してくれるのか。
レイヴンは嘲笑しながら無情に言い放つ。
「囚われの姫君には随分と大きすぎる夢じゃあないか。まあ、期待せずに待っていることだな。いずれにせよ、その鳥籠の中から羽ばたいて征くことは出来ないだろう」
いつか勇者として夢見た幻想さえ嘲弄することしか出来ない虚しさ。
廃れた精神か、魔王という立場がそうさせるのか、かつての恋人すら鳥籠に閉じ込める薄情さが我ながらに不憫だった。
鳥籠の中に姫君を見ながら、レイヴンは独りでに誓う。
勇者として果たすことの出来なかった今の後悔を、魔王という立場で彼女のために報いていくのだと。
第二章 鳥籠の姫君 了




