第二十四話 『鳥籠の姫君-03』
「アリーシャ」
その名はかつて『勇者』にとって大切な存在だった。
今の廃れ変わり果てたレイヴンにもその者の名が与える影響力は変わらない。
現に、ただのレイヴンの身勝手で軍を動かすほど、そこに秘められた思いは大きな価値がある。
忘れもしない。村の中央広場を抜け、家屋の立ち並ぶ通りを曲がった先。
そこは、かつてレイヴンが産まれ育った場所だ。
レイヴンの記憶と齟齬が無ければ、そこに実家がある。
何もかも思い出せる。父親の顔も、母親の顔も。
他でもない、その隣家で幼馴染の如く共に育った彼女の声すら思い出せてしまう。
レイヴンは彼女の名を何度も繰り返し呟きながら悠然と歩を進めた。
記憶を確認しに行くように、虚ろな面持ちで現実を噛み締めている。
ついに、記憶の中で封じた彼女の下に届くのかと。
二度と会うことを諦めていた彼女の身体に触れられるのか、と。
「アリーシャ……!」
声に力が入る。抑えきれない想いが滲む。
もう、すぐ近くに居るはずの彼女の幻影が目に浮かんでくるようだ。
誰かと会話しているわけでもなく、レイヴンは中毒者のように独りでに語りかけ始めた。
「永い……、永い旅だった……。帰って来たぞ、お前の下に」
そして、また一度だけ、彼女の名を呼ぶのだ。
「アリーシャ……」
儚く、どこか苦痛を帯びたような声。
虚ろじみたレイヴンの表情が確たる顔付に変わる。
配下の者たちからしてみればレイヴンの行動は不可解にしか見えないだろう。
例えば、レイヴンのやり方に正当性があるとしても、魔王という立場のレイヴン本人が腰をあげる必要は微塵もない。
この辺境な村の一つ程度、背中の彼らだけでも口頭で滅ぼせと命じればそれに叶う働きはできる。
レイヴン自身この場に居ることが既に、村を襲撃することとは別の理由を裏付けていた。
その不可解な理由の全てがこの虚ろな足取りが表しているようだった。
そしてレイヴンは一軒の家屋の前で足を止める。
鍛冶屋の体裁を成したそこは、かつて『勇者』の恋人だった者が居るはずの家だ。
レイヴンの中で、何度も呟いた名と彼女の姿が重なった。
懐かしさや感嘆の前に激しい自責が襲う。
「――ずっと、謝りたかった。お前だけを残して逝ったこと、何も残してやれなかったこと。守ってやれなくて……、すまなかった……」
魔王という立場で理不尽な謝罪だ。誰も聞く耳など持っていない。もとより、誰にと語り掛けているつもりもなかった。
聞いてくれなくても、この想いが届かなくとも構わない。
ただ、もう一度彼女の姿を見ることができれば他に何も要らない。
レイヴンは魔王らしい傲慢さの稀薄な自分に自嘲する。
切り替えた頭でまた彼女の姿を浮かべる。
閉ざした瞼の裏に彼女が映る。
後悔と高揚感が複雑に入り混じったまま、数秒、レイヴンは佇んだ。
村人たちの喧騒の中で、レイヴンを中心にその周りだけ静寂が包み込む。
募らせた想いを一蹴するように、そこに落ちた声はレイヴンを拒むのだった。
「――貴方が、魔王ね……。こんなことまでして、何が目的か答えなさい……!」
嫌悪の意思を含むその声が自分の中で嫌にすんなりと入り込んでくる感覚だ。
刺々しい言葉の矛先が自分であることを知りながら、そこに耳を寄せずにはいられなかった。
それが心地よいとすら思えてしまう。
遠い記憶の中で置き去りにした彼女の声だ。
全て鮮明に蘇る。
今、目の前から聞こえてくる。
「何故……、何故……! 私からブレインを奪っておいて、これ以上何を望むの!?」
悲痛の叫びが反響する。あるいは、レイヴンの中で核心に近い喚起だからこそ響いて聞こえたのか。
それはレイヴンにとって最も答え辛く、同時に最も簡単な問いかけである。
「俺は魔王だ。魔王が全てを望んで、何が悪い」
白々しい宣言には本音と建て前が混じっている。
魔王という立場での回答は、レイヴンの個人的な意思とは反していた。
「……こんなところに、貴方の望む全てなんて無いわ」
「いいや、あるかもしれないなぁ」
魔王として、ねめつけるような視線で彼女を見る。下卑た視線ではない。純粋で、淀んだ、真っ直ぐな瞳だ。
レイヴンが望むただ一人の彼女。
彼女自身は、魔王から見られる存在価値に未だ気づいていない。
もっとも、それを悟らせるほどレイヴンも無闇に彼女の下へと踏み込もうとはしていなかった。
否、既に配下たちの目からは不自然に急ぎ足に見えていたことだろう。
多少強引でも取り戻したいものがレイヴンの目の前に在る。
「少し……、少し、独り言を聞いていてはくれないか?」
魔王らしくもない、切な嘆願だ。嫌にしおらしく、手前ながら気味の悪ささえ覚えるほど威風に欠けている。
この背に並ぶ異形の彼らがレイヴンに代わって圧迫感を与えていることだろう。
彼女の沈黙を了承として、レイヴンは語り始めた。
「勇者ブレイン。彼の者は実に勇者たる存在として相応しかった。この魔王に挑もうという愚直なまでの勇敢さ、その小さな背に仲間たちの想いを背負って俺の下へと辿り着いたことだろう。そして何より、この世界を守るため、故郷に残した恋人の存在……、お前と言う存在を守るため、俺に立ち向かったのだ」
他人事のようであり、自分のことのようでもあり、奇妙なむず痒さを感じながら吐露する。
他ならぬ自分自身であるはずの『勇者』という存在が『魔王』の中で二つに分かれているのだ。
かつて、勇者として彼女のために残せなかった言葉を魔王という立場で代弁するのは、存外に難しかった。
「――だが、届かない。あるゆる想いを乗せた勇者の剣でさえ、この魔王の喉元には届かなかった。結局、彼の者はこの世界に何一つ残しちゃあいないんだよ」
勇者として残した後悔をなぞらえる。魔王という立場だからこそ言葉に出来る。自分を卑下するように、かつて勇者の恋人だったの者の目の前で『勇者』を罵倒する。
命を賭した戦いがあれほど呆気なく終わった後悔、同時に、魔王として味わった快感。
この世界に何も残すことの出来なかった勇者が、魔王という立場を甘んじていることに自分自身への怒りが隠せない。
アリーシャだけ残してしまったことを、レイヴンは彼女を目の前にした今尚も悔やんでいるのだ。
勇者でありながら魔王という、この矛盾した自分への皮肉だ。
愛する者の前で口にする苦痛を、レイヴンは表情に出すことは無かった。
「だから奪う、何もかもだ。何も成し遂げることの出来なかった彼の勇者の手向けにな。それがせめて、魔王という立場からの勇者へ送れる最低限の報いだとも」
それは破綻した理不尽な理論なのだろう。
されど、魔王だからこそ暴論は押し通る。
勇者だったレイヴンが残したもの全て、せめて、この手中に収めることが自分自身への手向けなのだ。
「貴方が……貴方が、ブレインの何を知っているの……」
「知っているさ。知らないはずがない」
「いいえ、知らないわ。貴方にブレインのことなんて分かるはずがない」
「剣を交えた仲とでも言うべきか、とにかく、脆く儚く愚直な彼の勇者のことなど手に取るように分かるさ」
的外れで、不条理な会話だ。
よもや彼女も目の前の魔王が件の勇者と同じ者だとは思えない。レイヴン自身、今のこの姿が『勇者』だった頃の自分とは隔絶した存在であることを自覚している。
自分のことなどどれほど気の遠くなるような時を経ても理解しているのだ。否、他のどれだけを忘れてしまっても、忌々しい後悔の記憶だけは消えはしない。それは同様に、彼女への強い想いも共に胸の深くへ刻まれている。
如何せん、レイヴンの欲求は独り善がりだった。
「……なら、何故ブレインがこの世界に何も残せていないと言うの?」
「事実、これから訪れる支配の時代にお前たち人間へと希望も残してやるつもりはないからだ。勇者という希望を失った絶望の他、何か彼の者が残したものがあるか。それを彼の者の非力さに例えることが間違っていると?」
「ブレインは私たちに勇気をくれた。彼の死を報いるための、希望よ」
「……綺麗事で世界は救えん」
かつて自分自身がそうであったように、勇気や希望という曖昧なものに縋る姿が根拠のない綺麗事に見えてしまう。その様なものに縋っている内は、所詮あの決戦の日の『勇者』と変わらない。
そんな力を持たない信念ではこの世界を救えなかった。
何ものも守れなかった非力さを思い出す。
レイヴンは自分を戒めるように淡々と語った。
「お前たち人間は夢見がちなことを喚いては、脆く散る。非力さを自覚しないくせにいつだって気丈に、希望だなんだと言いながら何度でも立ち上がろうとするんだ。特に、彼の勇者の周りの者たちはな」
「それが気に食わないからと、こんなことまでして……!」
「少し、違うな。気に食わないわけじゃあない」
「じゃあ何だと言うのよッ!」
あっけらかんとしたレイヴンの態度に彼女の声にも力が入る。レイヴン自身、そこに生じる温度差が虚しい。
彼女の怒りや悔しさを理解しながら共有できる立場にないことに心を痛めているのだ。
目の前に在りながら、決して触れることは出来ない領域。
否、触れてしまうことでそれが崩れてしまうような繊細さに恐れている。
いまいちその距離を踏み込めないレイヴンにとって、彼女の悲痛の叫びは鋭利に刺さった。
「……上手い言葉もないが、きっと、虚しいのだろうな。脆く儚い、彼の勇者。だが、俺を満たしてくれた存在は一人だけ、その弱き勇者ただ一人しか居なかった。それは恐らく――いや、間違いなく、俺にとって最初で最後の快感だ。他の何者も与えてくれることは無い、至上の愉悦だったとも」
レイヴンからしてみれば消し去りたい過去という、最上の素材を手に掛けた快楽は他の何かに打ち負かされることはない。
その背景を知らない彼女の目線では、超越者の道楽という以上の意味には見えていないだろう。
「愉悦で人々の希望を奪うことに何の理由があるの!?」
「――だから、虚しいんだ。理由もなく奪うことがな」
このはっきりとした冷淡さと熱量の差異は、何処か彼女の叫びを誇張しているようだ。
戦乱の喧騒が絶えず響く村の中に飲み込まれていく。
溜飲を下げさせるには十分な言葉だった。
理由がないということが既に最大の起因として事足りている。
魔王の立場は理不尽を押し通し、それを飲み込ませるのだ。
善悪もなく、さながら魔王の意思こそ正しいのだと洗脳するように、屈することの無い精神を支配していく。
気丈な意志も折れたのか、魔王が魔王であること以外にこの理不尽がまかり通る理由はないという諦念が芽生えているのだろう。
彼女は静かに目を伏せる。
そして、喧騒と静寂が入り混じる戦乱の重圧に身を委ねた。
「――オギャアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
忽然、母親の諦念に呼応するかのような赤子の慟哭。
この場に不相応な存在感が戦乱へ戸惑いを与えている。
否、レイヴンだけがその赤子の存在というものに敏感になっているのかもしれない。
それは明らかに、目の前の彼女の背後、彼女の家の中から聞こえてくるのだ。
レイヴンは惹起されるように耳を寄せた。
「……この、赤子の泣き声は……?」
「こ、この子は貴方の望むものには何も関係ないわっ!」
「それは俺が決めることだあ!」
レイヴンの語勢が強くなる。
彼女は何かを隠すように両手で立ち塞いだが、レイヴンから来る圧迫感に身を竦ませた。
ずいと、力の入った足取りで強引に彼女を肩から払い家の中へと踏み入った。
武具屋の体裁を成した土間の、その奥。慟哭が聞こえてくるのは寝室だった。
懐かしいと例える他ない、かつての幼馴染であり恋人だった者の家の中に、見慣れない異物。
レイヴンが近づいたことで殊更に泣き声を強くした。
雑に踏み荒らした家の中を掻き分けるように追ってくるのはその主。
彼女は守るように、縋るように、再びレイヴンの前に立ち塞がる。
母親の存在に安心したのか、嗚咽は多少弱まった。
「ソレは、何だ?」
背徳感か、敗北感か、レイヴンの中で何かが込み上げてくる。
既に母親の存在が誰なのか察してしまった自分が居る。
故に、怒りに近い感情が沸き上がってきた。
「こ、この子は、何も関係ない……!」
「言っただろう? それを決めるのはこの俺だ」
レイヴンはまた彼女を退かし、まだ首も座っていない赤子を雑に抱きすくめる。
存外にそれ以上泣き声は強くはならなかった。幼子ながらに魔王という恐怖を体感しているからか。否、そんなものを感じ取れるほどの感情は持ち合わせていない。
「ほう……。髪の色は母親譲りといったところか」
包みの中で見えたブロンドの髪は限りなく彼女に似ている。
最早、それだけで彼女とこの赤子の関係を裏付けることも容易いだろう。
だが、レイヴンはそれを認められずにいる。
「誰の子だ?」
レイヴンは短い言葉で尋ねた。
「……っ!」
「誰の子だ、と聞いている」
魔王の重圧を前に言い逃れする術もない。
アリーシャは、レイヴンに倣った短い言葉で返すのだった。
「――……勇者の……、ブレインの子よ……」




