第二十二話 『鳥籠の姫君-01』
ずっと、考えていたことがある。
もし自分が例えどんな形でも死ぬ前の世界に戻れたなら。
あらゆる世界に巡っても記憶に纏わり付かれた者の、そんな妄想。
決して叶うはずのない願いだと思っていた。
元の世界に帰れるはずがないと思っていた。
それは真に望んだ通りの形ではないかもしれないが、世界を見る目が変わってしまった今でもこの思いだけは変わらない。
理不尽な転生に廃れた精神でも執着し続けたもの。
他の何人たりとも埋められなかった心の虚に唯一収まることのできるもの。
恐れるものの無いはずの崩壊した精神でさえ、それに触れてしまうことだけは彼の中に閉ざされていた。
廃れ果てたこの精神のまま触れてしまうことをどこかで恐れているのだ。
矛盾した感情が、神をも冒涜するような禁忌に触れてしまう気がして、躊躇っている。
神をも恐れぬ精神と、禁忌に触れる抵抗。
どっちつかずの覚悟が頭の中に靄を生んだまま不快感を与えてくる。
否、最早その覚悟も、今の立場とは真逆の人間という存在に接触したことで決した。
『勇者』の精神として望み、『魔王』の肉体で触れる。
不安定な心の在処に期待も込めないまま禁忌を犯す。
それでも、他に勇者としてやり残してしまった後悔を絶つ手立てはない。
そのためならどんな犠牲をも厭わぬ非情な心を擁してみせよう、と彼は虚空を睨んだ。
もとより、魔王の肉体に宿ったことで歪んだ精神に冷酷な思想への躊躇いは無かった。
◆
時折狂気的な破顔を見せることがある他、退屈かそうでないかに準拠した表情以外は無といった顔付きの多いレイヴンが、何時になく険しい視線で中空を眺めている。
考え事でもしているのだろう。
魔王の立場でありながら悩ましげにする表情を労わってか、ガーネットが心中を尋ねる。
「如何されたのでしょう、レイヴン様?」
しかしそこに返答はなく、変わらず虚空を睨んだままレイヴンは動かなかった。
周りの音が耳に入ってないほど集中し、没頭しているのだ。
当然、絶対の君主が見せるその表情に配下たちは怪訝な顔をする。
此度はサファイアが君主の苦悩を触発しないように尋ねた。
「……レイヴン様?」
やはり、反応はない。
いよいよ気遣わしくなってくるサファイアがさり気なく、あくまでもそれとはなくレイヴンに寄り添い手を触れる。
それでも返ってくることの無い応えに配下としてどうすることも出来ない煩わしさを抱えながら、サファイアは両の手でレイヴンの拳を包み込んだ。
「レイヴン様……」
そこでサファイアが独りでに役得を感じているというのはまた別の話。
口から零れ落ちた気遣いは本物だ。
レイヴンは視線を動かすこともなく鋭く睨み続ける。
同様に固く視線は動かなかったが、おもむろに開かれた口は沈思黙考の終わりを告げた。
「サファイア、ファントマを呼び戻せ」
「……っ、はい?」
サファイアは思いがけず名を呼ばれたことに戸惑いながら聞き直した。
どうにも周囲の状況は認識していたらしく、その手に触れる者が彼女であることは知っていたようだ。
知っていながら黙殺を貫く姿勢は魔王という立場からの驕りである。
自分が絶対の支配者であることの傲慢こそ、レイヴンを深い思慮へと唆せた要因だ。
続くレイヴンの言葉は、補足とするにはその理由が見えてこなかった。
「ファントマを呼び戻しに行け。休養はもう十分だろうと言って来い」
レイヴンの傍らに佇む四忠臣の内、欠けた一人。
この謁見の間にて、ハワード・ストラトスに敗れて以来ファントマを自由にさせてきた。
自由にさせてきたとは言っても、人間に負けたことが相当堪えてか、その怒りを傍若無人に振るうでもなく大人しいものだった。
片やハワードには以後、与えた役目通りに生き残った人間の管理に務めさせている。
ここまで数日の内の話しだが、概ね配役は間違っていなかったと言えるだろう。
人間を持て余していた状況と比べれば上手く扱えているようにも見える。
ともすれば、ファントマとていつまでも不貞腐れていては評価の差異がハワードに縮められていくばかりだ。
それはファントマにとって面白い状況にはならないだろう。
あれだけ戦うことに愉悦を見だす者が、このままでは人間の兵を駆り出す方が効率的になって立場を奪われてしまう。
今ですら扱いにくい状態の凶暴な飼い犬から、餌を取り上げては噛みつかれでもされそうなものだ。
ファントマほどの者を持て余すには、いささか手綱が重すぎる。
そうとなれば狂犬に遊ばせてやるだけの場を用意してやることが飼い主の務めだ。
レイヴンは淡々と、矢継ぎ早に命令を重ねていく。
「クロノスは兵を用意させろ。ガーネットは出立の準備だ」
突発的に多弁になったかとも思えば、やはりその目的の不透明さから配下たちは戸惑うばかり。
指示を飛ばす視線の運びも悠長で、その意図を読み解くのは至難のものだった。
一つ、二つ先を超越したレイヴンの思考にガーネットから異議が入る。
「お待ちくださいレイヴン様。どちらへ赴こうとなされているのか、我々の乏しい知識に理解できるよう御説明願えませんか?」
「ん……ああっ、すまない。少し、独り善がりになってしまっていたな。視野が偏狭になっていた」
「い、いえ、レイヴン様の至高な存意に至っていない我々の責任です。レイヴン様が頭を下げるようなことはなさらないでください」
思索へ過剰に集中していたことは間違いではなかったらしい。
厳密には頭を下げたというよりは目を伏せただけだが、レイヴンに謝罪を述べさせたことが配下たちを焦らせる。
件の考え事に含むところがあってか、嫌に鬱屈しているというか、高尚さが薄れた今のレイヴンの表情にはどこか哀愁のようなものを感じる。
それが何に向けられたものなのかすら、読み解くことは出来なかった。
「それで、どちらへ……?」
君主に謝らせた決まりの悪さから、ガーネットは流れを戻すように尋ねる。
思想ばかり先行した主語の欠けたような命令にレイヴンは小さく自嘲する。
「フッ……、行く先も告げず送迎を頼むほど盲目だったか……。まして何処に出向くのかも知らされずに兵の数を揃えることなど出来るはずもない。まったく、俺は何を焦っているんだろうな」
口調や外観ではない部分で焦燥感が滲むレイヴンの佇まい。冷静な自己分析ができるほど極めて焦りのない平然とした様相との齟齬に、妙な違和感を覚える。
焦る必要性の皆無さに反して、嫌に気が昂って落ち着かなかった。
その理由はレイヴン自身に心当たりがある。
ずっと考えていた、約千度も前の人生でやり残した後悔。
この期に及んでまで未だ記憶から消えることの無かったその意味が、レイヴンの中で存在の大きさを表している。
誰かに打ち明けることも出来なかった歯痒さを含め、叶うはずのなかった願いに苦しんできた。
理不尽な転生が、その全てを奪ってきたのだ。
否、死にたいという願望がその想いを押し込んでいてくれたことで、あるいは救われていたのかもしれない。
どんな形でもいいと願った。
されど強い願望に神から与えられた酬いは、禁忌の道へとレイヴンを誘う。
魔王の肉体という重すぎる枷が道に進むことを何度も躊躇わせた。
手を伸ばせば届く距離に居ながら、触れることを恐れている。
それでもレイヴンは禁忌を犯す道を選んだのだ。
「……――勇者の故郷へ向かうぞ。各自、先ほど命じた通りに行動してくれ」
もしも、今のレイヴンにかつて勇者だった頃の正義感や倫理観が備わっていたのなら、こんな道を選ぶことは無かったのだろう。
魔王という、全ての世界において支配の象徴たる存在の身に成ったことで、如何せんわがままになっている。
手に入れられるものの全てを、欲している。
否、たった一つ手に入れられるのなら、それ以外の全ては錯覚なのだ。
「勇者の故郷、ですか。それは何故かお尋ねしても……?」
「何故、か……。そうだな、勇者ブレインと言う存在を形成した環境、彼の者の生まれ育った町並みを見定めてやることで新たな脅威の生まれる可能性を未然に防いでやろう、と言ったような理由でどうだ?」
「……畏まりました」
あからさまに今取って付けたような白々しい返答だが、尋ねたガーネットすら訳もなく変に納得してしまう。
魔王の凄味とでも例えるべきか、今正に白々しく取って付けられたような理由だからこそ、理屈ではない理由が成立する。
つまるところ、レイヴンにとって件の理由とはなんだって同じなのだ。
魔王が向かうと口にした、それだけで何物も従わせる力がある。
あとは魔王からの勅命を聞けない配下たちに体裁よく納得させられる言葉が必要だ。故に、レイヴンが綴った言葉は理由ですらなく、ただの提案である。
提案されたところで君主の言葉以外に納得するものもないガーネットは、レイヴンの言葉だけを授かって引き下がる。
君主にとって理由はなんとあれ同じであるのなら、レイヴンの言葉を捻じ曲げない程度に付け加えればいいだけだ。
当然、本当に無作為な提案だとはガーネットも考えていない。
確かに標的のしやすさとして勇者の身の回りは選択されるだろう。だが敢えてそこを選ぶ必要はないこともまた逆に然り。
とにかく、真意の詮索は君主への冒涜と同義だ。
そうでなくとも含意なくレイヴンの口から勇者の故郷へなどという言葉は出るはずもないだろう。
他ならぬ君主と君主への忠誠こそ、ガーネットが信頼できる唯一のものなのだ。
「今回は俺も行く。クロノス、兵は飾りほどの数で構わん」
その理由が不透明ではあっても不信感にはならないとはいえ、いつになく圧制的な言動には狼狽してしまう。
「レイヴン様自ら!? そんな、わざわざ御手を煩わせるような必要はございません! 勇者の故郷など所詮辺境の小さな村。このユークリッドの地を落とした我々を手こずらせるほどの相手ではありません」
「知っている、そんなこと。俺自身は手を出さんよ。ただ、見ておきたいんだ。……勇者の故郷をな」
「レイヴン様が玉座から離れずとも、我々がレイヴン様の手や目となり鮮明な情報をお伝えいたしますが……?」
君主が望むのであれば望む限りに破壊し、望む限りの情報を持ち帰る。それは配下の彼らにとって当然の義務であり、その身に変えてでも果たすべき事象だ。
ただ見ておきたいというのであれば、君主の目に変わるだけの情報を手に入れるだろう。
それにおける信頼関係はお互いに成り立っているのだろうが、続くレイヴンの言葉は凝固な信頼故に引き下がらずを得ないほど昂然としている。
「俺が見ておきたいと言ってるんだ。それだけじゃあ、納得できないか?」
「い、いえ……、申し訳ございません……」
「謝ることは無い。これは、俺のわがままだからな」
「そのようなことは……っ!」
しかし、それを否定しきれないほど今回は傍若無人だ。
レイヴンも理不尽さを自覚しながら命じている。
わがまま、という言葉に集約してしまうレイヴンの言動。
さながら子供のように非論理的で、それでいて魔王と言う立場がそのわがままを押し通すのだから質が悪い。
誰も咎められる者が居ないからこそ、宥めかける行為は無駄になる。
レイヴンとて配下の言葉に耳を寄せるだけの秩序は持っているのだ。
それでも、理屈では収まらない感情がレイヴンを身勝手にしていた。
「ファントマの機嫌が整い次第向かう。行けるな、ガーネット?」
「私は、何時でも構いません」
覚悟というか、観念の着いた声色のガーネット。
レイヴンはそれを見て嘯いてみせた。
「そういうわけだ。頼んだぞ、サファイア」
「もうっ、世話のかかる犬ッコロね。レイヴン様、私が行かなきゃいけませんかあ?」
「お前に頼んでいるんだ。あまりわがままを言ってくれるなよ」
レイヴンがその言葉を使うにはあまりに皮肉が効きすぎている。
サファイアの億劫そうな背中を見送って、レイヴンは身から出た錆を嘲笑するのだった。




