1-9
夜が明けて、谷にはまた薄い霧が立ち込めていた。
ただ、その朝の霧は、昨日のそれよりも、どこか乾いた質感をしていた。
季節が一段、奥へ進んだようだった。
沙耶香は、いつもより早く床を抜けて、洗面を済ませた。
頭の中はすでに、田中、若い仲居、痩せた男のコート、十年前の不動産取引と、いくつもの言葉で埋まっていた。
その言葉のひとつひとつに、もう一日分の重みが乗っていた。
朝食前、ロビーに下りると、宿に残っていた若い刑事が、すでに帳場の前で待っていた。
九能から、朝のうちに何か指示が下りているらしかった。
刑事は、沙耶香の顔を見ると、軽く頭を下げて、低く言った。
「篠原さん。少し、お時間を」
「ええ、どうぞ」
帳場の小部屋に通されると、机の上に、東京から送られてきたらしいファクスの紙が、何枚か置かれていた。
そのうちの一枚に、走り書きで「至急、篠原さんと確認」と書き込まれている。
九能の字だった。
筆圧が強く、急いで書いた、という痕跡がはっきりしていた。
「警部から、夜のうちに何度か指示が入っております」
「東京の方は、どうですか」
「鳴海半蔵の聴取が、昨夜遅くから本格的に始まっています。最初は、ほとんど黙秘でしたが」
刑事は、声を低めた。
「篠原さんが昨日電話で伝えた『半年前から田中が観察していた』という話を、警部が鳴海にぶつけたところで、向こうの様子が、目に見えて変わったそうです」
沙耶香は、ペンを握り直した。
自分が車の中から伝えた、たった一本の電話。
それが、東京の聴取室で、確かに一枚の石を動かしていた。
「鳴海さんが、しゃべり始めた、ということですか」
「全部、というわけではないようです。ですが、十年前の取引について、間宮や梓弓だけの責任ではなかった、ということを、ぽつぽつと認め始めているそうで」
「自分の関与は」
「そこは、まだ、しらを切っているとのことです。ただ、表情と声の調子は、もう、最初のときとは別人のようだ、と警部はおっしゃっていました」
沙耶香は、ふっと息を吐いた。
東京の九能が、まさに今、こちらと同じ事件の中で動いている。
その実感が、改めて胸の奥に届いた。
「篠原さん。それで、警部が、こちらでも、ひとつ確かめてほしいことがあると」
「はい」
「例の、若い仲居の件です」
その名は出さずに、刑事は手元のファクスの紙を、沙耶香に見せた。
そこには、簡潔に、しかし要点だけが押さえられた指示が並んでいた。
仲居の本籍と現住所、勤務歴、出入りしている他の宿、家族構成。
ひとつずつ、本部側で照合が進んでいる項目だった。
その下に、走り書きで、九能のひとことが添えてあった。
「篠原さん、彼女と一度、ふつうの取材として話してみてくれませんか」
沙耶香は、紙を見つめた。
ふつうの取材として、と九能は書いていた。
警察として呼びつけて問い詰めるのでもなく、客として叱るのでもなく、ライターと取材対象として、ふつうに対面する。
その姿勢の中に、九能の捜査観のようなものがにじんでいた。
人を、まず人として扱う。
そこから出てくる嘘と本当を、見極める。
「分かりました。今日のうちに、機会を作ります」
刑事は、ほっとしたようにうなずいた。
「警部からは、もう一点、伝言です」
「はい」
「『絶対に、二人きりにはなるな。三嶋さんを必ず同席させろ。彼のカメラも忘れずに』」
その指示を聞いて、沙耶香はわずかに笑った。
九能は、宿の中の若い仲居一人を相手にするときでも、こちらの安全と、後で証拠として残せる仕掛けを、ちゃんと前提に置いていた。
ふつうの取材として、と書きながらも、その「ふつう」の中に、捜査の用意周到さが組み込まれていた。
「了解です。そう伝えます」
帳場を出て、ロビーに戻ると、三嶋がちょうど朝食を終えて下りてきたところだった。
カメラはすでに首から提げていた。
その姿を見ながら、沙耶香は内心で、九能と三嶋という不思議な相性を思った。
九能は、三嶋のあのドジな見た目の下にある勘の良さを、もう完全に信頼している。
そのうえで、必要なときには、彼を「捜査の道具」として迷いなく動かす。
そういう関係になっていた。
「三嶋くん」
「はい」
「今日、ひとつ、付き合ってほしい取材があるの」
「いいですよ」
三嶋は、間延びした調子で答えた。
「ただ、ね」
「ただ?」
「カメラ、ちゃんと回しておいて。動画じゃなくていい。要所要所で、シャッターだけ、押してて」
その一言で、三嶋の目つきが、すっと変わった。
ふだんの間延びした表情が、レンズを通して人を見るときの集中した顔つきへと、自然に移っていった。
ドジな相棒の、本気のスイッチが入った瞬間だった。
「分かりました」
午前のうち、沙耶香は若い仲居が一人で動く時間帯を、それとなく観察した。
若い仲居は、客室の布団を上げに回るとき、必ず単独で動いていた。
そのうちの一つの時間帯、ちょうど三階の客室のひとつを終え、廊下へ出てきたところを、沙耶香はそっと声をかけた。
「すみません、お忙しいところを」
仲居は、ぱっと振り返って、ぎこちなく笑顔を作った。
「いえ、何か」
「実は、宿の特集記事の取材で、お話を伺いたい方を順番にお願いしているんです。若い仲居さんの目から見た、宿のお話も、ぜひ伺いたくて」
「私、なんかでよろしいんですか」
「ええ。少しだけ、ロビーの方で、お時間いただけますか」
そのやり取り自体は、ごくふつうの取材依頼だった。
仲居は、断ることもできたはずだ。
だが、彼女は、わずかなためらいのあと、ロビーへ連れ立って下りてきた。
その「わずかなためらい」の長さを、沙耶香は内心で測っていた。
ふつうの仲居なら、女将に確認を取ろうとするか、忙しいからと丁重に先送りにする。
彼女は、そのどちらもしなかった。
自分の都合で、自分の意思で、それに応じた。
ロビーの片隅、人目に触れにくいが、決して死角ではない一画に、沙耶香は仲居を案内した。
ロビーの遠くで、三嶋がカメラのレンズの蓋を外して、何気ない風を装いながら、別の方向にレンズを向けていた。
それでも、その視界の中には、しっかりと、こちらが収まっているはずだった。
「失礼ですが、お名前は」
「あ、はい。木下、と申します」
「木下さん。お勤めは、こちらでは、長く」
「いえ、まだ三年目です」
「もとは、こちらのご出身ですか」
「いえ、もとは、別の県の出で。三年前に、こちらの土地に移ってきました」
沙耶香は、丁寧に質問を重ねながら、相手の答えの中に走るかすかな揺れを、見逃さないように耳を澄ませた。
ふだんの取材なら、もっと気楽な雑談から入る。
だが、今日は、最初から仕事の中身に近い質問をした。
それは、相手の警戒心を、最初に出させるための、意図的な選択だった。
木下は、ぎこちないが、それでも丁寧に、ひとつずつ答えていった。
声は、低めで、語尾を軽く落とすところがあった。
夢野りりがメモに書いた特徴とは、似ていない。
性別も、年齢も、別だった。
声の主は、彼女ではない。
そのことを、沙耶香はまず確認した上で、別の角度に話を進めた。
「夢野りりさん、ご存じですよね」
「あ、はい。アイドルの」
「事件のあと、彼女の担当を、ご自分から引き受けていらしたとか」
仲居の頬が、ぴくりと動いた。
「ええ、まあ。あの、私、ファンというほどではないんですけど、好きだったので。せっかくお泊まりに来てくださってるのに、つらい目に遭われているのが、申し訳なくて」
「ファンだったんですか」
「あ、いえ。すごく詳しいわけじゃ。テレビで、何度か」
その答え方には、隙があった。
ファンというほどではない、と一度言いながら、すぐにファンだったと言い直す。
事前に整えていた答えが、ここで少し崩れた。
沙耶香は、ペンを動かしながら、平静を装ったまま、もう一歩踏み込んだ。
「事件の前は、夢野りりさんを担当されていなかったとか」
「ええ。あの、私、その日は、別のお部屋を回っていたので」
「事件のあとに、急に担当を変わってもらった、というのは、何か、きっかけが」
仲居の視線が、わずかに泳いだ。
その揺れを、ロビーの片隅で、三嶋のレンズが捉えていた。
シャッターの音は、ごく小さく、絞られている。
撮られていることに、本人は気づいていないはずだった。
「いえ、特には。ただ、なんとなく、心配で」
「心配、というのは、芸能人の方が、こういう騒ぎに巻き込まれたら、ということですか」
「はい、そう、そういうことで」
ふつうなら、ここで「もっと細かく聞いて、ぼろを出させる」のが、刑事の聴取のやり方だ。
だが、沙耶香はそれをしなかった。
九能は、ふつうの取材として、と書いていた。
問い詰めるのではなく、ふつうに人と話す。
そこから漏れ出すものを、ただ淡々と拾う。
そのために、彼女はここに座っていた。
話題を、別のところへ移した。
「木下さんは、ふだん、お休みの日は、何をされているんですか」
「えっ」
「いえ、若い方の目から見た、この土地のおすすめスポットなんかも、記事に入れたいなと思っていて」
仲居は、ほっとしたような顔つきで、休みの過ごし方や、最近行った喫茶店の話を、ぽつぽつとし始めた。
その話の流れの中で、沙耶香は、もう一度、要所をひとつだけ差し込んだ。
「麓の町には、よく下りられるんですね」
「ええ、たまに」
「商店街の方も」
「はい、ときどき」
「最近、麓の駅の近くで、誰かと待ち合わせたりとか、そういうことは」
その問いだけ、沙耶香はあえて唐突に置いた。
ふつうの取材として聞いていれば、こんな質問は出てこない。
それを、休みの過ごし方の話のあとに、ふっと挟んだ。
仲居の目が、はっきりと泳いだ。
「あ、いえ。特に、そういうことは」
「友達と会ったり」
「あ、はい、たまには、友達と」
「お名前を伺っても、いいですか」
「あ、はい……木下春子です。あの、その人の名前、ということですか」
「いえ、私、あなたのお名前を聞いていません。さっき下のお名前を伺っていなかったので」
仲居は、はっとした顔をした。
それから、ぎこちなく、ええ、と笑った。
その一連の挙動を、ロビーの隅の三嶋が、また撮っていた。
ふつうの取材で、ふつうの相手なら、絶対にしない反応の出方だった。
沙耶香は、それ以上、追わなかった。
取材の体裁を整えるために、もうしばらく、ごく当たり障りのない話題を続けた。
それから、丁寧に礼を言って、仲居を仕事へ戻した。
仲居が廊下の奥へ姿を消したあと、三嶋がそっと近寄ってきた。
「沙耶香さん。あの仲居さん、麓の駅で待ち合わせの話、出した瞬間、視線、ばっちり泳ぎましたよ」
「ええ。あれは、確実に当たり」
「警部さんに、すぐ写真を送りましょうか」
「お願い」
三嶋は、すぐに帳場へ向かい、宿に残った若い刑事のところで、撮ったばかりの画像を、東京の九能に転送する手配をした。
その手際の良さに、沙耶香はもう驚かなくなっていた。
事件のたびに、三嶋という男は、その都度、少しずつ「やるとき」の自分を、深めていた。
午後、沙耶香は夢野りりの部屋を訪ねた。
文庫本を膝に置いて、また少しだけ落ち着かない様子のりりに、彼女はソファ越しに、低く言った。
「りりちゃん。ちょっと、お願いしてもいい?」
「はい、なんでも」
「ある人と、何度か、廊下ですれ違ったことがあるかどうか、思い出してほしいの。仲居さんの一人なんだけど」
りりは、目を伏せて、しばらく考えた。
「ベテランの方は、よく覚えています。背の高い方と、少し丸い方。あの方たちは、毎日、お顔を合わせていますし」
「もう一人、若い人で」
「あ、はい。若い方も、お一人、ずっと面倒見てくださってますよ」
その答えは、すんなりと出てきた。
捜査側の見方の通り、木下春子は、宿の中でりりの行動範囲に、最も深く入り込める位置にいた。
「その若い方、何か、不思議なところはなかった?」
りりは、また考えた。
「不思議、というか……うーん、よく、廊下の音を気にされる方かもしれません」
「廊下の音?」
「はい。私が部屋にいるとき、廊下を誰かが通る足音がすると、その人、扉の向こうで、一瞬、止まるんです。一回じゃなく、何回も。何かを確認しているような感じで」
沙耶香は、ぐっと拳を握った。
仲居が客の部屋に出入りするときに、廊下の音を気にする必然性は、ふつう、ない。
それを、何度も繰り返す、という動きは、客の動向と、廊下を歩く別の人物の動向の、両方を見張る役割を持った人間の動きに、近かった。
「ありがとう、りりちゃん」
「篠原さん。あの仲居さん、もしかして、悪い人なんですか」
その問いに、沙耶香はすぐに答えなかった。
子供じみた問いではなかった。
むしろ、もう自分の中で、ある程度の見当をつけたうえで、確かめにきている問いだった。
「分からない。だから、ちゃんと、警察の方が、調べる。あなたは、ただ、自分で気づいたことを、思い出した分だけ、私たちに教えてくれればいい」
「はい」
りりは、強くうなずいた。
その日の夕方、東京から、九能の連絡が入った。
電話に出たのは、宿の若い刑事の方で、しばらくして、内線で沙耶香の部屋に取り次がれた。
電話口の九能の声は、いつもより、ひと回り低かった。
「篠原さん。鳴海半蔵が、十年前の取引について、かなり踏み込んで話し始めた」
沙耶香は、立ったまま、襖の前で受話器を握り直した。
「どこまで」
「あの取引には、表に出ていなかった、もう一人の主役がいた、と認めた」
「もう一人の、主役」
「ええ。間宮を表に立てて、不動産を動かし、梓弓に金の流れを操らせ、自分の金を出していた、と鳴海は言っている。だが、本当の絵を描いた人間は、別にいた、と」
九能は、わずかに息を継いだ。
「鳴海は、その人物を、こう呼んだ。『細雪』と」
沙耶香の耳の奥で、何かが音を立てた。
それは、これまで「痩せた男」とだけ呼ばれていた、写真の中の四人目に、初めて名前らしい名前がついた瞬間だった。
「細雪……」
「ええ。本名かどうかは、まだ分からん。鳴海の話によれば、十年前のあの取引のとき、間宮や梓弓の前にも、ずいぶん前から、その『細雪』の名で動いていた男がいた、ということだ」
「警察の照合で、その名前は」
「いま、まさに、全国の不動産取引と金融関係の記録を、その『細雪』の名で当たり直している。本人がこの名で動いていれば、必ず、どこかの帳簿に、その名が出てきているはずだ」
「フルネームは、まだ」
「ない。だが、鳴海によれば『細雪』のあとに、もう一字、漢字が続いた、と言っている。本人を直接呼ぶときには、その二文字をつなげて呼んでいたらしい」
電話口の沙耶香は、思わず襖に手をついた。
写真の中の、目つきの鋭い、痩せた男。
事件の夜の電話で、間宮が「あれはそうじゃない」と必死に拒んでいた相手。
夢野りりが、朝の廊下ですれ違ったコートの背中。
そして、半年前から田中を麓に潜らせ、鳴海の動向を観察させていた、計画の本当の頭脳。
その男の影に、初めて、ひとつの輪郭がついた。
「警部さん。鳴海さんは、その『細雪』との、いまの連絡先を、知っているんでしょうか」
「いや」
九能は、低く答えた。
「鳴海も、『細雪』とは、ずっと連絡を取っていない、と言っている。十年前の取引以来、ほとんど顔も合わせていない、と」
「では、なぜ今になって」
「これが、まだ、いちばん分からんところだ」
九能は、深く息を吐いた。
「十年前の取引のあと、何の動きもなかった『細雪』が、なぜ、いまになって突然動き出したのか。なぜ、今この時期に、自分の周辺の人間を、ひとりずつ消しにかかっているのか。動機の根が、まだ見えん」
そこで、九能は、声の調子を、ふっと変えた。
「篠原さん。そっちの仲居の取材、ご苦労だった。送ってもらった画像と、夢野りり嬢の追加の証言、こっちでも丁寧に当たる。あの仲居の身元の照合、すでに着手しとる。結果が出たら、すぐに伝える」
「お願いします」
「ひとつ、確認しておきたい」
「はい」
「あの仲居が、田中や『細雪』と、なんらかの形でつながっているとして。彼女は、おそらく、宿の中で、第三、第四の動きをするために置かれている、と私は見ている」
九能の声に、ぐっとした緊張が戻った。
「夢野りり嬢の身辺に、絶対に隙を作るな。あんたも、三嶋さんも、無理は、するな。何かあれば、すぐ刑事を呼べ」
「はい」
電話を切ってからも、沙耶香はしばらく、襖の前から動けなかった。
細雪。
その名前を、何度か、口の中だけで反芻した。
その音は、奇妙に冷たかった。
そして、奇妙に「人間の名前」らしくなかった。
偽名、と直感した。
本人が、その名前を、わざと選んだのだ。
何かの自己像を、その二文字に込めたうえで、この計画を始めた人間がいる。
そう考えただけで、相手の冷たさが、ぐっと一段、深くなった気がした。
夜、沙耶香は、自分の部屋で、手帳を膝の上に開いていた。
ペン先で、新しいページの上の方に、ゆっくりと書きつけた。
細雪。
その二文字の下に、丸を、いくつも描いた。
丸のひとつには、間宮の名。
ひとつには、梓弓遥の名。
ひとつには、鳴海半蔵の名。
そして、もうひとつには、田中与一の名。
最後に、もっとも大きな丸を、それらの中心に描いて、その中に、また「細雪」と書きつけた。
その絵を見ながら、沙耶香は思った。
絵の中心の丸が、いま、いちばん、姿が見えていない。
姿は見えないのに、ほかのすべての丸を動かしている。
それが、この事件の正体だった。
そして、もしその中心の丸が、もう一手を打とうとしているなら――。
沙耶香は、ペンの動きを止めた。
すぐ近くの、別のページに、書きつけた言葉が、ふと目に入った。
「コートの背中」。
夢野りりが、廊下ですれ違ったという、あの痩せた男の後ろ姿。
その背中の向こう側に、いま、何が起きているのか。
それを、沙耶香はまだ、知らなかった。
東京で、九能が、ひとつずつ駒を動かしている。
谷では、自分たちが、ひとつずつ駒を動かしている。
その二つの動きの間に、どこかで、もうひとつ、誰にも気づかれずに動いている、別の手があった。
夜風が、また杉木立を、ざわざわと鳴らしていた。
その音の中に、もう一度、別の遠い気配が混じった気がして、沙耶香は、思わず手帳を閉じた。
明日も、まだ、夜は明けるはずだった。
ただ、その夜明けの向こうにある景色が、いまの自分の想像の、もう一段先にある気がして仕方なかった。
沙耶香は、布団を引き寄せて、明かりを落とした。
それでも、しばらく、目を開けたまま、天井の梁の影を見ていた。
その影の輪郭が、夢野りりの細い指の感触と、なぜか、重なって見えた。
その晩、沙耶香はようやく、深い眠りに沈んだ。
夢の中で、雪が降っていた。
谷の杉木立の上にも、宿の屋根にも、薄く、しかし確かに、白い粒が積もり始めていた。
その雪の名は、と問われたら、彼女は、たぶん、こう答えただろう。
「細雪」と。
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