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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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9/15

1-9

 夜が明けて、谷にはまた薄い霧が立ち込めていた。

 ただ、その朝の霧は、昨日のそれよりも、どこか乾いた質感をしていた。

 季節が一段、奥へ進んだようだった。

 沙耶香は、いつもより早く床を抜けて、洗面を済ませた。

 頭の中はすでに、田中、若い仲居、痩せた男のコート、十年前の不動産取引と、いくつもの言葉で埋まっていた。

 その言葉のひとつひとつに、もう一日分の重みが乗っていた。

 朝食前、ロビーに下りると、宿に残っていた若い刑事が、すでに帳場の前で待っていた。

 九能から、朝のうちに何か指示が下りているらしかった。

 刑事は、沙耶香の顔を見ると、軽く頭を下げて、低く言った。

「篠原さん。少し、お時間を」

「ええ、どうぞ」

 帳場の小部屋に通されると、机の上に、東京から送られてきたらしいファクスの紙が、何枚か置かれていた。

 そのうちの一枚に、走り書きで「至急、篠原さんと確認」と書き込まれている。

 九能の字だった。

 筆圧が強く、急いで書いた、という痕跡がはっきりしていた。

「警部から、夜のうちに何度か指示が入っております」

「東京の方は、どうですか」

「鳴海半蔵の聴取が、昨夜遅くから本格的に始まっています。最初は、ほとんど黙秘でしたが」

 刑事は、声を低めた。

「篠原さんが昨日電話で伝えた『半年前から田中が観察していた』という話を、警部が鳴海にぶつけたところで、向こうの様子が、目に見えて変わったそうです」

 沙耶香は、ペンを握り直した。

 自分が車の中から伝えた、たった一本の電話。

 それが、東京の聴取室で、確かに一枚の石を動かしていた。

「鳴海さんが、しゃべり始めた、ということですか」

「全部、というわけではないようです。ですが、十年前の取引について、間宮や梓弓だけの責任ではなかった、ということを、ぽつぽつと認め始めているそうで」

「自分の関与は」

「そこは、まだ、しらを切っているとのことです。ただ、表情と声の調子は、もう、最初のときとは別人のようだ、と警部はおっしゃっていました」

 沙耶香は、ふっと息を吐いた。

 東京の九能が、まさに今、こちらと同じ事件の中で動いている。

 その実感が、改めて胸の奥に届いた。

「篠原さん。それで、警部が、こちらでも、ひとつ確かめてほしいことがあると」

「はい」

「例の、若い仲居の件です」

 その名は出さずに、刑事は手元のファクスの紙を、沙耶香に見せた。

 そこには、簡潔に、しかし要点だけが押さえられた指示が並んでいた。

 仲居の本籍と現住所、勤務歴、出入りしている他の宿、家族構成。

 ひとつずつ、本部側で照合が進んでいる項目だった。

 その下に、走り書きで、九能のひとことが添えてあった。

「篠原さん、彼女と一度、ふつうの取材として話してみてくれませんか」

 沙耶香は、紙を見つめた。

 ふつうの取材として、と九能は書いていた。

 警察として呼びつけて問い詰めるのでもなく、客として叱るのでもなく、ライターと取材対象として、ふつうに対面する。

 その姿勢の中に、九能の捜査観のようなものがにじんでいた。

 人を、まず人として扱う。

 そこから出てくる嘘と本当を、見極める。

「分かりました。今日のうちに、機会を作ります」

 刑事は、ほっとしたようにうなずいた。

「警部からは、もう一点、伝言です」

「はい」

「『絶対に、二人きりにはなるな。三嶋さんを必ず同席させろ。彼のカメラも忘れずに』」

 その指示を聞いて、沙耶香はわずかに笑った。

 九能は、宿の中の若い仲居一人を相手にするときでも、こちらの安全と、後で証拠として残せる仕掛けを、ちゃんと前提に置いていた。

 ふつうの取材として、と書きながらも、その「ふつう」の中に、捜査の用意周到さが組み込まれていた。

「了解です。そう伝えます」

 帳場を出て、ロビーに戻ると、三嶋がちょうど朝食を終えて下りてきたところだった。

 カメラはすでに首から提げていた。

 その姿を見ながら、沙耶香は内心で、九能と三嶋という不思議な相性を思った。

 九能は、三嶋のあのドジな見た目の下にある勘の良さを、もう完全に信頼している。

 そのうえで、必要なときには、彼を「捜査の道具」として迷いなく動かす。

 そういう関係になっていた。

「三嶋くん」

「はい」

「今日、ひとつ、付き合ってほしい取材があるの」

「いいですよ」

 三嶋は、間延びした調子で答えた。

「ただ、ね」

「ただ?」

「カメラ、ちゃんと回しておいて。動画じゃなくていい。要所要所で、シャッターだけ、押してて」

 その一言で、三嶋の目つきが、すっと変わった。

 ふだんの間延びした表情が、レンズを通して人を見るときの集中した顔つきへと、自然に移っていった。

 ドジな相棒の、本気のスイッチが入った瞬間だった。

「分かりました」

 午前のうち、沙耶香は若い仲居が一人で動く時間帯を、それとなく観察した。

 若い仲居は、客室の布団を上げに回るとき、必ず単独で動いていた。

 そのうちの一つの時間帯、ちょうど三階の客室のひとつを終え、廊下へ出てきたところを、沙耶香はそっと声をかけた。

「すみません、お忙しいところを」

 仲居は、ぱっと振り返って、ぎこちなく笑顔を作った。

「いえ、何か」

「実は、宿の特集記事の取材で、お話を伺いたい方を順番にお願いしているんです。若い仲居さんの目から見た、宿のお話も、ぜひ伺いたくて」

「私、なんかでよろしいんですか」

「ええ。少しだけ、ロビーの方で、お時間いただけますか」

 そのやり取り自体は、ごくふつうの取材依頼だった。

 仲居は、断ることもできたはずだ。

 だが、彼女は、わずかなためらいのあと、ロビーへ連れ立って下りてきた。

 その「わずかなためらい」の長さを、沙耶香は内心で測っていた。

 ふつうの仲居なら、女将に確認を取ろうとするか、忙しいからと丁重に先送りにする。

 彼女は、そのどちらもしなかった。

 自分の都合で、自分の意思で、それに応じた。

 ロビーの片隅、人目に触れにくいが、決して死角ではない一画に、沙耶香は仲居を案内した。

 ロビーの遠くで、三嶋がカメラのレンズの蓋を外して、何気ない風を装いながら、別の方向にレンズを向けていた。

 それでも、その視界の中には、しっかりと、こちらが収まっているはずだった。

「失礼ですが、お名前は」

「あ、はい。木下、と申します」

「木下さん。お勤めは、こちらでは、長く」

「いえ、まだ三年目です」

「もとは、こちらのご出身ですか」

「いえ、もとは、別の県の出で。三年前に、こちらの土地に移ってきました」

 沙耶香は、丁寧に質問を重ねながら、相手の答えの中に走るかすかな揺れを、見逃さないように耳を澄ませた。

 ふだんの取材なら、もっと気楽な雑談から入る。

 だが、今日は、最初から仕事の中身に近い質問をした。

 それは、相手の警戒心を、最初に出させるための、意図的な選択だった。

 木下は、ぎこちないが、それでも丁寧に、ひとつずつ答えていった。

 声は、低めで、語尾を軽く落とすところがあった。

 夢野りりがメモに書いた特徴とは、似ていない。

 性別も、年齢も、別だった。

 声の主は、彼女ではない。

 そのことを、沙耶香はまず確認した上で、別の角度に話を進めた。

「夢野りりさん、ご存じですよね」

「あ、はい。アイドルの」

「事件のあと、彼女の担当を、ご自分から引き受けていらしたとか」

 仲居の頬が、ぴくりと動いた。

「ええ、まあ。あの、私、ファンというほどではないんですけど、好きだったので。せっかくお泊まりに来てくださってるのに、つらい目に遭われているのが、申し訳なくて」

「ファンだったんですか」

「あ、いえ。すごく詳しいわけじゃ。テレビで、何度か」

 その答え方には、隙があった。

 ファンというほどではない、と一度言いながら、すぐにファンだったと言い直す。

 事前に整えていた答えが、ここで少し崩れた。

 沙耶香は、ペンを動かしながら、平静を装ったまま、もう一歩踏み込んだ。

「事件の前は、夢野りりさんを担当されていなかったとか」

「ええ。あの、私、その日は、別のお部屋を回っていたので」

「事件のあとに、急に担当を変わってもらった、というのは、何か、きっかけが」

 仲居の視線が、わずかに泳いだ。

 その揺れを、ロビーの片隅で、三嶋のレンズが捉えていた。

 シャッターの音は、ごく小さく、絞られている。

 撮られていることに、本人は気づいていないはずだった。

「いえ、特には。ただ、なんとなく、心配で」

「心配、というのは、芸能人の方が、こういう騒ぎに巻き込まれたら、ということですか」

「はい、そう、そういうことで」

 ふつうなら、ここで「もっと細かく聞いて、ぼろを出させる」のが、刑事の聴取のやり方だ。

 だが、沙耶香はそれをしなかった。

 九能は、ふつうの取材として、と書いていた。

 問い詰めるのではなく、ふつうに人と話す。

 そこから漏れ出すものを、ただ淡々と拾う。

 そのために、彼女はここに座っていた。

 話題を、別のところへ移した。

「木下さんは、ふだん、お休みの日は、何をされているんですか」

「えっ」

「いえ、若い方の目から見た、この土地のおすすめスポットなんかも、記事に入れたいなと思っていて」

 仲居は、ほっとしたような顔つきで、休みの過ごし方や、最近行った喫茶店の話を、ぽつぽつとし始めた。

 その話の流れの中で、沙耶香は、もう一度、要所をひとつだけ差し込んだ。

「麓の町には、よく下りられるんですね」

「ええ、たまに」

「商店街の方も」

「はい、ときどき」

「最近、麓の駅の近くで、誰かと待ち合わせたりとか、そういうことは」

 その問いだけ、沙耶香はあえて唐突に置いた。

 ふつうの取材として聞いていれば、こんな質問は出てこない。

 それを、休みの過ごし方の話のあとに、ふっと挟んだ。

 仲居の目が、はっきりと泳いだ。

「あ、いえ。特に、そういうことは」

「友達と会ったり」

「あ、はい、たまには、友達と」

「お名前を伺っても、いいですか」

「あ、はい……木下春子です。あの、その人の名前、ということですか」

「いえ、私、あなたのお名前を聞いていません。さっき下のお名前を伺っていなかったので」

 仲居は、はっとした顔をした。

 それから、ぎこちなく、ええ、と笑った。

 その一連の挙動を、ロビーの隅の三嶋が、また撮っていた。

 ふつうの取材で、ふつうの相手なら、絶対にしない反応の出方だった。

 沙耶香は、それ以上、追わなかった。

 取材の体裁を整えるために、もうしばらく、ごく当たり障りのない話題を続けた。

 それから、丁寧に礼を言って、仲居を仕事へ戻した。

 仲居が廊下の奥へ姿を消したあと、三嶋がそっと近寄ってきた。

「沙耶香さん。あの仲居さん、麓の駅で待ち合わせの話、出した瞬間、視線、ばっちり泳ぎましたよ」

「ええ。あれは、確実に当たり」

「警部さんに、すぐ写真を送りましょうか」

「お願い」

 三嶋は、すぐに帳場へ向かい、宿に残った若い刑事のところで、撮ったばかりの画像を、東京の九能に転送する手配をした。

 その手際の良さに、沙耶香はもう驚かなくなっていた。

 事件のたびに、三嶋という男は、その都度、少しずつ「やるとき」の自分を、深めていた。

 午後、沙耶香は夢野りりの部屋を訪ねた。

 文庫本を膝に置いて、また少しだけ落ち着かない様子のりりに、彼女はソファ越しに、低く言った。

「りりちゃん。ちょっと、お願いしてもいい?」

「はい、なんでも」

「ある人と、何度か、廊下ですれ違ったことがあるかどうか、思い出してほしいの。仲居さんの一人なんだけど」

 りりは、目を伏せて、しばらく考えた。

「ベテランの方は、よく覚えています。背の高い方と、少し丸い方。あの方たちは、毎日、お顔を合わせていますし」

「もう一人、若い人で」

「あ、はい。若い方も、お一人、ずっと面倒見てくださってますよ」

 その答えは、すんなりと出てきた。

 捜査側の見方の通り、木下春子は、宿の中でりりの行動範囲に、最も深く入り込める位置にいた。

「その若い方、何か、不思議なところはなかった?」

 りりは、また考えた。

「不思議、というか……うーん、よく、廊下の音を気にされる方かもしれません」

「廊下の音?」

「はい。私が部屋にいるとき、廊下を誰かが通る足音がすると、その人、扉の向こうで、一瞬、止まるんです。一回じゃなく、何回も。何かを確認しているような感じで」

 沙耶香は、ぐっと拳を握った。

 仲居が客の部屋に出入りするときに、廊下の音を気にする必然性は、ふつう、ない。

 それを、何度も繰り返す、という動きは、客の動向と、廊下を歩く別の人物の動向の、両方を見張る役割を持った人間の動きに、近かった。

「ありがとう、りりちゃん」

「篠原さん。あの仲居さん、もしかして、悪い人なんですか」

 その問いに、沙耶香はすぐに答えなかった。

 子供じみた問いではなかった。

 むしろ、もう自分の中で、ある程度の見当をつけたうえで、確かめにきている問いだった。

「分からない。だから、ちゃんと、警察の方が、調べる。あなたは、ただ、自分で気づいたことを、思い出した分だけ、私たちに教えてくれればいい」

「はい」

 りりは、強くうなずいた。

 その日の夕方、東京から、九能の連絡が入った。

 電話に出たのは、宿の若い刑事の方で、しばらくして、内線で沙耶香の部屋に取り次がれた。

 電話口の九能の声は、いつもより、ひと回り低かった。

「篠原さん。鳴海半蔵が、十年前の取引について、かなり踏み込んで話し始めた」

 沙耶香は、立ったまま、襖の前で受話器を握り直した。

「どこまで」

「あの取引には、表に出ていなかった、もう一人の主役がいた、と認めた」

「もう一人の、主役」

「ええ。間宮を表に立てて、不動産を動かし、梓弓に金の流れを操らせ、自分の金を出していた、と鳴海は言っている。だが、本当の絵を描いた人間は、別にいた、と」

 九能は、わずかに息を継いだ。

「鳴海は、その人物を、こう呼んだ。『細雪』と」

 沙耶香の耳の奥で、何かが音を立てた。

 それは、これまで「痩せた男」とだけ呼ばれていた、写真の中の四人目に、初めて名前らしい名前がついた瞬間だった。

「細雪……」

「ええ。本名かどうかは、まだ分からん。鳴海の話によれば、十年前のあの取引のとき、間宮や梓弓の前にも、ずいぶん前から、その『細雪』の名で動いていた男がいた、ということだ」

「警察の照合で、その名前は」

「いま、まさに、全国の不動産取引と金融関係の記録を、その『細雪』の名で当たり直している。本人がこの名で動いていれば、必ず、どこかの帳簿に、その名が出てきているはずだ」

「フルネームは、まだ」

「ない。だが、鳴海によれば『細雪』のあとに、もう一字、漢字が続いた、と言っている。本人を直接呼ぶときには、その二文字をつなげて呼んでいたらしい」

 電話口の沙耶香は、思わず襖に手をついた。

 写真の中の、目つきの鋭い、痩せた男。

 事件の夜の電話で、間宮が「あれはそうじゃない」と必死に拒んでいた相手。

 夢野りりが、朝の廊下ですれ違ったコートの背中。

 そして、半年前から田中を麓に潜らせ、鳴海の動向を観察させていた、計画の本当の頭脳。

 その男の影に、初めて、ひとつの輪郭がついた。

「警部さん。鳴海さんは、その『細雪』との、いまの連絡先を、知っているんでしょうか」

「いや」

 九能は、低く答えた。

「鳴海も、『細雪』とは、ずっと連絡を取っていない、と言っている。十年前の取引以来、ほとんど顔も合わせていない、と」

「では、なぜ今になって」

「これが、まだ、いちばん分からんところだ」

 九能は、深く息を吐いた。

「十年前の取引のあと、何の動きもなかった『細雪』が、なぜ、いまになって突然動き出したのか。なぜ、今この時期に、自分の周辺の人間を、ひとりずつ消しにかかっているのか。動機の根が、まだ見えん」

 そこで、九能は、声の調子を、ふっと変えた。

「篠原さん。そっちの仲居の取材、ご苦労だった。送ってもらった画像と、夢野りり嬢の追加の証言、こっちでも丁寧に当たる。あの仲居の身元の照合、すでに着手しとる。結果が出たら、すぐに伝える」

「お願いします」

「ひとつ、確認しておきたい」

「はい」

「あの仲居が、田中や『細雪』と、なんらかの形でつながっているとして。彼女は、おそらく、宿の中で、第三、第四の動きをするために置かれている、と私は見ている」

 九能の声に、ぐっとした緊張が戻った。

「夢野りり嬢の身辺に、絶対に隙を作るな。あんたも、三嶋さんも、無理は、するな。何かあれば、すぐ刑事を呼べ」

「はい」

 電話を切ってからも、沙耶香はしばらく、襖の前から動けなかった。

 細雪。

 その名前を、何度か、口の中だけで反芻した。

 その音は、奇妙に冷たかった。

 そして、奇妙に「人間の名前」らしくなかった。

 偽名、と直感した。

 本人が、その名前を、わざと選んだのだ。

 何かの自己像を、その二文字に込めたうえで、この計画を始めた人間がいる。

 そう考えただけで、相手の冷たさが、ぐっと一段、深くなった気がした。

 夜、沙耶香は、自分の部屋で、手帳を膝の上に開いていた。

 ペン先で、新しいページの上の方に、ゆっくりと書きつけた。

 細雪。

 その二文字の下に、丸を、いくつも描いた。

 丸のひとつには、間宮の名。

 ひとつには、梓弓遥の名。

 ひとつには、鳴海半蔵の名。

 そして、もうひとつには、田中与一の名。

 最後に、もっとも大きな丸を、それらの中心に描いて、その中に、また「細雪」と書きつけた。

 その絵を見ながら、沙耶香は思った。

 絵の中心の丸が、いま、いちばん、姿が見えていない。

 姿は見えないのに、ほかのすべての丸を動かしている。

 それが、この事件の正体だった。

 そして、もしその中心の丸が、もう一手を打とうとしているなら――。

 沙耶香は、ペンの動きを止めた。

 すぐ近くの、別のページに、書きつけた言葉が、ふと目に入った。

「コートの背中」。

 夢野りりが、廊下ですれ違ったという、あの痩せた男の後ろ姿。

 その背中の向こう側に、いま、何が起きているのか。

 それを、沙耶香はまだ、知らなかった。

 東京で、九能が、ひとつずつ駒を動かしている。

 谷では、自分たちが、ひとつずつ駒を動かしている。

 その二つの動きの間に、どこかで、もうひとつ、誰にも気づかれずに動いている、別の手があった。

 夜風が、また杉木立を、ざわざわと鳴らしていた。

 その音の中に、もう一度、別の遠い気配が混じった気がして、沙耶香は、思わず手帳を閉じた。

 明日も、まだ、夜は明けるはずだった。

 ただ、その夜明けの向こうにある景色が、いまの自分の想像の、もう一段先にある気がして仕方なかった。

 沙耶香は、布団を引き寄せて、明かりを落とした。

 それでも、しばらく、目を開けたまま、天井の梁の影を見ていた。

 その影の輪郭が、夢野りりの細い指の感触と、なぜか、重なって見えた。

 その晩、沙耶香はようやく、深い眠りに沈んだ。

 夢の中で、雪が降っていた。

 谷の杉木立の上にも、宿の屋根にも、薄く、しかし確かに、白い粒が積もり始めていた。

 その雪の名は、と問われたら、彼女は、たぶん、こう答えただろう。

「細雪」と。


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