1-10
翌朝の谷は、雪を含んだ風が吹いていた。
寒気が一段降りてきたらしく、廊下を歩いていると、足元から底冷えが上ってくる。
沙耶香は、丹前の襟をかき寄せて、窓の外を見た。
対岸の杉木立の梢の先が、白くけぶっているように見える。
実際の雪ではなかったが、空気の中に、もう冬本番の気配が混じっていた。
朝食を済ませて部屋に戻ると、廊下の角で三嶋とすれ違った。
カメラを片手に、何やら廊下の隅の方を覗き込んでいる。
「三嶋くん、何撮ってるの」
「いえ、撮ってるんじゃなくて、見てたんです。あそこの、配電盤のところ」
三嶋が指さした先には、廊下の隅にひっそりと取り付けられた小さな配電盤があった。
ふだんは目にも留まらない、宿の設備の一部だった。
「配電盤が、どうかしたの」
「あれ、扉に細い擦り傷があるんですよ。最近ついた感じの。沙耶香さん、夜中、停電みたいなこと、ありました?」
「いえ、私の部屋では、特には」
「ですよね。僕も、ない」
三嶋は、考え込むように、レンズキャップを指で回した。
その仕草が出るとき、彼の頭の中では、何かが整理されかかっている。
沙耶香は、せかさずに待った。
「沙耶香さん。あの仲居さんの担当部屋って、配電盤のあるあたりに集中してませんでしたっけ」
その問いに、沙耶香は手帳を開いた。
昨日まとめた宿の人間関係図と、仲居の担当区分の走り書き。
照らし合わせてみると、確かに、若い仲居・木下春子の担当エリアは、ちょうどこの配電盤がある一角と、夢野りりの部屋のある一角の、ふたつにまたがっていた。
その間を、彼女は一日に何度も行き来していた。
「気のせいかな、と思ったんですけど。なんか、嫌な気のせいだなって」
「ううん、気のせいじゃなさそう」
沙耶香は、手帳のページに、配電盤、と一行書き込んだ。
宿の電気系統に触れる位置に、彼女は出入りできる。
そのこと自体に、まだ意味は決まっていないが、何かを仕掛けるなら、ここはひとつの拠点になりうる場所だった。
「あとで、刑事さんに伝える。よく気づいたわね、三嶋くん」
「いや、僕も最初は、ただ画になる被写体かなって。錆の感じが、いい味出してたから」
三嶋は照れたように笑った。
ドジな男が、ふとした瞬間に、誰よりも要所を踏む。
その性質を、沙耶香はもう何度も見せられている。
ロビーに下りると、宿に残った若い刑事が、ファクスの紙束を抱えて、こちらに歩いてきた。
紙の束の厚さが、昨日とは違っていた。
明らかに、東京から、まとまった量の情報が一気に降ってきた様子だった。
「篠原さん。警部から、急ぎでお伝えしたいことが、いくつか」
「お願いします」
帳場の小部屋に通されると、ファクスの紙が机一面に広げられた。
照合の結果、若い仲居・木下春子の身元について、いくつかの点が見えてきた、と刑事は説明した。
本籍は東京。
三年前、谷の宿に来る前は、東京で別の仕事をしていた。
その「別の仕事」が、十年前の不動産取引のあった会社のひとつと、関係していた。
正確には、間宮の会社が出入りしていた、ある取引先の事務員として、彼女は数年間、勤務していた。
そのときの上司の一人が、十年前のあの写真にも、ごく端に映っている、当時の中堅社員だった。
「彼女、間宮さんの周辺で働いていた経験があるんですか」
「正確には、間宮さんの取引先のひとつで、ということです。間宮さんと直接、顔を合わせる機会も、当時はあったはずだ、と本部は見ています」
それだけでも、ただの偶然とは思いにくかった。
ふつう、東京から離れた山の温泉宿に三年前に転がり込んできた若い女が、たまたま十年前の事件の関係者の身辺にいた、などということは、まず起こらない。
「直接の血縁とか、親族関係は」
「いまのところ、見当たりません。ただ、十年前のあの会社で働いていた女性社員の中に、彼女と同じ姓の女性が、もう一人いました。これも、偶然かもしれませんし、姓だけで断言はできませんが、本部はその線も追っています」
「親兄弟、というよりは、もしかしたら、もっと別の」
「ええ。たとえば、当時の関係者の家族や知り合いが、なんらかの感情を持って、谷に潜り込んでいた、ということも考えられる、と」
沙耶香は、ペンを止めた。
その一文に、急に風景が一回り変わって見える気がした。
これまで、田中も若い仲居も、ただ「細雪」という首謀者に動かされた駒、として頭の中で動いていた。
だが、もし若い仲居が、駒というだけでなく、自分自身の中に十年前への感情を抱えてここに来ていたのだとしたら――。
そのとき、彼女は、加害の側だけにいる人間とも、言い切れなくなる。
「警部さんは、どう見ているんですか」
「警部のお話では、決め打ちはまだ早い、と。ただ、十年前のあの取引で、表に出ていない被害を受けていた人物が、間宮、梓弓、鳴海の周りには、何人かいたのではないか、と」
「被害者側、ということですか」
「ええ。鳴海半蔵が話したところによると、十年前の取引のときに、その金の流れの中で、多くの人がさまざまな形で巻き込まれて、生活を狂わされた、と。ある人は、会社を追われ、ある人は、家を失い、ある人は、家族を失った、と」
沙耶香は、息を呑んだ。
ここに至るまで、被害者として表に名前が出ているのは、間宮と梓弓だけだった。
だが、十年前の不動産取引そのものは、もっと多くの人の人生を踏み潰した、深い「事件」だった。
その事件のあとで、踏み潰された側の誰かが、いま、ようやく動き始めている、という構図が、はっきりと立ち上がってきた。
「『細雪』は、もしかしたら、十年前の取引の加害者側の人物ではなく、被害者側の人物なのかもしれない、ということですか」
「警部のお見立てでは、その可能性も、捨てきれない、と」
刑事は、声を低くした。
「ただ、もしそうだとしても、被害者だからといって、間宮さんや梓弓さん、鳴海さんを毒で殺し、宿を密室にし、無関係のアイドルを第一発見者に仕立てるような計画を立てていい、ということにはなりません。そこは、警部もはっきり、おっしゃっています」
そのとおりだった。
被害者であることと、加害者になることは、別の話だ。
しかし、その被害がどれほど深かったのか、ということは、動機を読み解くうえで、避けて通れない問いだった。
沙耶香は、手帳の中の「細雪」の周りに描いた丸の中に、新しい丸をひとつ書き加えた。
その中に、「十年前の被害者たち」と書きつけた。
その丸は、いまのところ、名前のない丸だった。
午前のうち、沙耶香と三嶋は、もう一度宿の内部を、ふたりだけで、ゆっくりと歩いてみることにした。
廊下、客室の並び、配電盤、避難経路、調理場の裏口、布団部屋。
ふだん、客の目には触れない場所も、女将に断って案内してもらった。
宿の地図のようなものを、頭の中で描き直していく作業だった。
その途中、布団部屋の前を通りかかったとき、三嶋がふと足を止めた。
「沙耶香さん。ここ、布団部屋ですよね」
「うん。それが」
「ちょっと、変なんですよ。匂いが」
布団部屋の引き戸の前に、三嶋は鼻を近づけた。
その動作は、いつもの間延びした調子とはまた違う、職業的な集中があった。
カメラマンの嗅覚というよりは、もっと原始的な、人間の本能のような動きだった。
「干したばかりの布団の匂いじゃない。なんか、薬っぽい、というか、消毒っぽい、というか」
沙耶香も、同じように引き戸の前に立って、鼻先を近づけてみた。
確かに、ほんのかすかに、布団の中綿のにおいに混じって、別の匂いがあった。
化学的で、刺激のある、しかしわずかな匂い。
「これ、刑事さんに見てもらおう」
「ええ」
すぐに刑事を呼んだ。
布団部屋の扉が開けられ、中の布団が、ひとつずつ確認されていった。
しばらくして、隅に積まれた一束の布団の中に、内側の中綿のあたりに、別の匂いが染み込んでいるものが見つかった。
「これは、おそらく、何か薬剤の類です。ここで分析はできませんが、本部に持ち帰って、すぐ調べます」
刑事は、慎重にビニール袋にそれを収めながら、低く言った。
「布団は、客室に運ばれる前のものですか、それとも、すでに使われた後のものですか」
「ベテランの仲居に確認したところでは、これはこれから出す予定の、新しい布団のはずだ、ということです」
沙耶香は、ぞくりとした。
これから客室に運ばれる布団に、薬剤が染み込ませてある。
それが何のための薬剤かは、まだ分からない。
しかし、無害なものでないことだけは、想像がつく。
「次の標的を、宿の中で出すつもりだった、ということですか」
「あるいは、そういうことだと、警部にも至急、伝えます」
そのとき、廊下の奥で、ばたばたと足音が走った。
別の警官が、宿の玄関の方から、駆け込んできた。
「失礼します。たった今、東京の本部から至急の連絡が」
「どうした」
「鳴海半蔵が、自宅から姿を消しました」
帳場の小部屋に、しんと一瞬の沈黙が落ちた。
沙耶香の指の先が、自然に冷たくなった。
「自宅から、というと、聴取の合間ですか」
「いえ。昨夜遅く、聴取が一区切りついたあと、本人の希望で、自宅に戻すことになっていたそうです。マンションの周りには、当然、警官の張り込みが付いていましたが、今朝、姿が見えないことに気づき、部屋を開けたところ、本人はおらず、ベッドの上に、走り書きのメモが残されていた、と」
「メモには」
「『これ以上、誰にも迷惑をかけたくない。一人で、決着をつける』」
帳場の中に、もう一段、深い沈黙が落ちた。
沙耶香は、思わず机に手をついた。
決着、と書いた本人が、それを自分の死で果たそうとしているのか、それとも、誰かを自分の手で始末しようとしているのか。
文面だけでは、まだ判じきれなかった。
「警部は、どう動かれているんですか」
「すでに、警部を中心に、東京中の主だった場所に、人員を割いて捜索が始まっています。鳴海の交友関係も、まだ知り尽くされていない部分が大きいので、知人の家、過去の取引先、行きつけの店、すべて当たっているところで」
「東京を出ている可能性は」
「現時点では、空港、新幹線の駅にも、警部の指示で人員を回しています。ただ、彼が動いた時間と、本人の用心深さからすると、まだ東京の中にいる、と警部は見ているそうです」
沙耶香は、目を閉じた。
東京で、九能が血眼になって鳴海を探している。
その光景が、目に見えるようだった。
谷では、自分たちが、布団部屋の薬剤、若い仲居の身元、配電盤の擦り傷、いくつもの線を一つずつ片付けている。
それぞれの線が、どこかで、ひとつの夜に合流しようとしていた。
「警部から、こちらへの指示は」
「『絶対に、夢野りり嬢を一人にするな。今夜、何かが動く可能性が高い』」
その一言で、沙耶香は腰を上げた。
ロビーへ早足で戻ると、夢野りりは、いつもの隅のソファに座って、文庫本を膝に置いていた。
その前に、若い刑事がさりげなく腰掛けて、近くで本を広げている。
「りりちゃん」
「あ、篠原さん」
「ちょっと、お話、いい?」
沙耶香は、刑事と短く目配せをしてから、りりの隣に腰を下ろした。
ロビーは、いつも以上に閑散としていた。
聴取の終わった宿泊客たちは、もうほとんど、この谷を後にしていた。
宿に残っているのは、自分たちと、夢野りりと、いくつかの宿の人間と、警官だけだった。
「今夜、ちょっと、宿の中の決まりを変えるかもしれないの」
「決まり、ですか」
「あなたの部屋を、ちょっとだけ、別の場所にしようと思って」
その提案は、すでに刑事と、女将のあいだで、午前のうちに打ち合わされていた。
宿の中で、夢野りりが普段使っている部屋は、廊下の中ほどにあり、出入り口がひとつだ。
しかし、別の場所には、いざというときに使える隠れ部屋のような小さな客室があり、そこは出入り口が二方向にあり、見張りも置きやすい、と女将が言っていた。
すぐにそこへ移ることを、刑事の口添えで決めてあった。
「分かりました。お任せします」
りりの返事は、すぐで、迷いがなかった。
その素直さに、沙耶香は内心、少し胸が痛んだ。
このアイドルの子が、命の駒として扱われ始めていることを、本人もはっきり感じているはずだった。
それでも彼女は、文句を言わなかった。
ただ、自分にできることを、ひとつずつ、こちらの言うとおりにしていた。
部屋の移動は、宿の人間にも知らせず、ごく数人の間でだけ行われた。
引っ越し作業のように、表立たないように、刑事と三嶋が荷物を運んだ。
夢野りりの新しい部屋からは、廊下のふたつの方向と、ロビーへ下りる階段の両方が、把握できた。
部屋の中には、警官も交代で立つことになった。
夕方、東京から、もう一度、九能の連絡が入った。
電話に出ると、九能の声は、明らかに昨日までよりも切迫していた。
「篠原さん。鳴海の足取りが、ひとつ、つかめた」
「どこで」
「夕方、東京駅の地下街に、彼らしい男が現れている。一人だった。コートを着て、帽子を深く被って。何かを買ったか、それとも、誰かと待ち合わせていたかは、まだ確認中だ」
「東京駅、というのは」
「東京の外に出るための、最初の駅でもある」
九能の声に、警戒がにじんでいた。
「鳴海が、本当に『一人で決着をつける』つもりなら、東京を出る理由が、ある」
その先を、沙耶香はすぐに察した。
鳴海が、もし「細雪」の正体を本当は知っていて、その男の居場所を察しているなら、自分でそこへ向かおうとしているのかもしれなかった。
あるいは、もっと別の場所――たとえば、湯けむり温泉郷へ。
「警部さん」
「ええ」
「鳴海さんが、もう一度、こちらの谷へ向かう可能性は」
九能は、しばらく黙った。
「ある」
短い答えだった。
「半年前から、田中が彼の動きを観察していたのが、麓のあの宿だった。鳴海がもう一度、その場所へ戻る理由は、本人の中には、たぶんあるはずだ。十年前の話のけりをつけるには、ふさわしい土地だ、と本人が思っているかもしれない」
沙耶香は、受話器を強く握り直した。
そうなれば、谷の中で、いっそう何かが起きる確率が高まる。
すでに谷の中には、若い仲居がいて、布団部屋の薬剤があり、配電盤の擦り傷があり、夢野りりがいる。
そこに、鳴海が戻ってくれば、舞台は完全に整う。
「警部さん。こっち、今夜中に、宿の中の警備、もう一段、上げてもいいですか」
「むしろ、それを頼む」
「了解しました」
「私も、東京駅から、こちらの方向へ向かう列車の便を、すべて押さえる。鳴海らしき男が、そのどれかに乗っていれば、必ず途中駅で、捕まえる」
「捕まえる、というのは」
「いったん身柄を、保護する」
九能の声が、低くなった。
「これ以上、被害者を、増やすわけにはいかん」
電話を切ったあと、沙耶香は、しばらく窓の外を見ていた。
谷の上の空は、もう暗くなり始めていた。
風は、さらに冷たくなっていた。
雪、という言葉が、また頭の中をよぎった。
実際の雪は、まだ、降ってはいなかった。
しかし、降る、という気配だけは、すでに確実に谷の上空に居座っていた。
夜、沙耶香は、夢野りりの新しい部屋を訪ねた。
部屋の中は、まだ少し他人の場所のような硬さがあったが、机の上には、りり自身が用意したらしい、いつものノートが開かれていた。
その上に、新しい一行が書きつけられていた。
「忘れないために」
その下に、声の特徴のリストがさらに増え、廊下で見たコートの男の歩き方や、つばの広い帽子の沈み具合、すれ違いざまに感じた香水のような匂いまで、几帳面にメモされていた。
「りりちゃん、本当にすごいね、あなた」
「役に、立ちますか」
「もう、十分すぎるくらい」
沙耶香は、そっと、りりの肩に手を置いた。
「今夜は、何かあるかもしれない。でも、心配しないで。ここには、警察の方も、私たちも、ちゃんといるから」
りりは、深くうなずいた。
ただ、その目の奥に、なぜか、わずかな決意のようなものが、芽生え始めているのを、沙耶香は感じた。
その決意の中身を、まだ、彼女は問わなかった。
ロビーに戻ると、三嶋がカメラを膝に抱えて、ソファに座っていた。
その姿を見て、沙耶香は思わず腰を下ろした。
「三嶋くん」
「はい」
「ありがとう」
「えっ、急に何ですか」
「ううん、なんとなく」
三嶋は、わざと変な顔をしてみせたが、その目元は、いつもよりやや赤かった。
長い付き合いの相棒として、その照れ方を、沙耶香はもうよく知っていた。
ロビーの片隅では、警官が一人、新聞のふりをして、宿の出入り口を見張っていた。
別の警官が、玄関の影から、外の闇に目を凝らしていた。
宿全体が、見えないところで、ぎっしりと張り詰めた糸で吊られているような夜だった。
その糸が、いつ、どこで切れるのかは、まだ誰にも分からなかった。
ただ、切れる場所は、もう、いくつかに絞り込まれていた。
夢野りりの新しい部屋。
配電盤のある廊下の隅。
布団部屋の前の通路。
そして、宿の玄関。
そのどれかで、今夜、もう一度、誰かが動く。
谷の上に、満月にはまだ早い、欠けた月が、ぼうっと浮かび始めていた。
その光のまわりだけ、雲が薄く避けていた。
雪を呼ぶ前の、変な明るさだった。
沙耶香は、その月をしばらく見上げてから、ゆっくりと宿の中へ戻った。
廊下の奥で、若い仲居が、何食わぬ顔でお茶のセットを盆に乗せ、客室の方へと足を運んでいくのが見えた。
その白足袋の動きを、ロビーの隅から、三嶋のレンズが、また静かに追っていた。
何も起こらない、退屈な夜であってほしいと、沙耶香は心の中で願った。
それは、ライターとしての願いではなかった。
ただ、ひとりの大人として、向こうのソファに座っているあのアイドルの少女のために、心から、そう願った。
しかし、谷の上の月は、もう動き始めていた。
その月の下で、いくつもの足音が、自分たちの夜のために、それぞれの場所に集まり始めていた。
夜は、まだ、長かった。
---




