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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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11/15

1-11

 夜が更けるにつれて、谷の風は、目に見えて強くなった。

 宿の屋根の瓦を、軋ませるような風だった。

 ときおり、遠くの杉木立から、ばさりと枝の擦れる音が、長く尾を引いて聞こえてくる。

 その音は、谷全体が、なにかひとつの大きな息を、ゆっくりと吐いているように沙耶香には感じられた。

 夢野りりの新しい部屋には、警官が一人、廊下側の入り口に立ち、室内には沙耶香と三嶋が控えていた。

 部屋の隅には、もうひとつの出入り口がある。

 非常用に、女将が二方向の動線を選んでくれた、その小さな扉だった。

 そちらの内側にも、別の警官が、息を殺してついている。

 沙耶香は、入り口に近い座椅子に腰を下ろした。

 膝の上には、開いた手帳が乗っている。

 ペンは握っていなかった。

 書ける状況ではなかった。

 ただ、開いておくことが、いまの自分の心の置き場として、必要だった。

 机の上の小さな置き時計が、こつ、こつ、と低く鳴っていた。

 夜の十時を、もう少し過ぎたあたりだった。

「夢野さん。お茶、入れますね」

 三嶋が、いつもの間延びした声で言った。

 その口調は、わざとふだんと変わらないように選ばれているのが、沙耶香には分かった。

 緊張の中で、こちらが浮き上がらないように、彼が彼なりに整えている空気だった。

 ありがとうございます、と小さく答えるりりの声には、まだ落ち着きがあった。

 ただ、その手の中の文庫本のページが、今夜は最初から一度もめくられていない。

 ロビーの方では、別の警官が、新聞のページを開いたまま、玄関の引き戸を見つめている。

 その隣には、宿に残った若い刑事が、書類を一冊膝の上に乗せて、目を伏せていた。

 書類を読んでいる、というよりも、宿全体の物音を、こっそり仕分けしているような顔つきだった。

 宿の中の人間配置は、九能の指示で、今夜は一段、組み直されていた。

 ベテラン仲居は、女将の部屋の近くで控えている。

 料理場の手伝いは、すでに自宅へ帰され、調理場には鍵がかかっている。

 そして、若い仲居の木下春子は――。

 沙耶香は、ふと、その名を頭に浮かべた。

 今夜、彼女は、二階の自分の控室に下がる、ということになっていた。

 仕事の段取りとしては、おかしくない。

 宿の繁忙は、もうすっかり収まっている。

 夜半に、若い仲居が、客室の方に出てくる用事は、ないはずだった。

 ないはず、というその一語が、頭の中で、いやに引っかかっていた。

 時計の針が、十時半を回ったとき、廊下の方から、ふっと足音が聞こえた。

 ひとり分の、軽い足音だった。

 沙耶香は、思わず身体を起こした。

 部屋の入り口で立っていた警官も、わずかに姿勢を低くして、廊下の方へ顔を向けた。

 足音は、廊下の中ほどで、いったん止まった。

 それから、もう一度、ゆっくりと近づいてくる。

「失礼します」

 低い声だった。

 聞き覚えのある、女の声だった。

 警官は、扉のすき間からそっと外を確かめてから、後ろの沙耶香を振り返った。

 その目に、わずかな疑問が浮かんでいた。

 来るはずのない時間に、来るはずのない人が、来ていた。

「夢野様。お休み前のお茶を、お持ちしました」

 廊下の外から、若い仲居の木下春子の声が、丁寧に響いた。

 その口調は、よく訓練されていた。

 ふだんよりも、もう一段、控えめな調子だった。

 沙耶香は、息をひそめた。

 夢野りりが、思わず文庫本を膝から落とした。

 その音は、ぱた、と小さかったが、部屋の中の空気を、はっきりと震わせた。

 警官は、何も答えないまま、廊下側へ少し身体を寄せた。

 そして、その狭い隙間を、わずかにだけ、開けた。

「お茶でしたら、もう用意してありますよ。ご丁寧に、ありがとうございます」

 そう応じたのは、警官ではなく、沙耶香だった。

 声の調子は、できるだけ普通の宿泊客の調子になるよう、彼女は意識した。

 仲居が、こちら側の警備の薄さを試しに来たのだとしたら、警官の声で答えることは、まず避けたかった。

「あら、そうですか。失礼いたしました」

 廊下の向こうから、ごくふつうの仲居の応答が返ってきた。

 そのまま、足音は引いて、廊下の遠くへ去っていった。

 警官が、隙間から廊下を確かめて、扉を閉めた。

 そのあと、しばらく、沙耶香も三嶋も、ただ息を吸って、吐く動作だけをした。

 警官が、口の中だけで、低く言った。

「いまの時間、宿の規則では、客室への用件のある仲居は、廊下を歩かないはずです。あの仲居は、出てくるべきではなかった」

 その通りだった。

 夜十時半に、何の用件もなく、客室の前に来る理由は、ない。

「篠原さん。これは、もしかしたら、確認だったかもしれません」

 警官は、慎重に続けた。

「いま、この部屋に、誰がいるか。警官が、何人付いているか。返事をしたのが、客なのか、警官なのか。それを、確かめに来た」

 その読みは、沙耶香も同じだった。

 仲居は、たぶん、お茶を運ぶつもりなど、最初からなかった。

 夢野りりが、いまどの部屋に移されているのか、そしてその部屋にどれくらいの警備が貼り付いているのかを、自分の足で、確かめに来た。

 そして、目的は果たした。

「警部に、知らせます」

 警官は、ごく小さな声で内線の受話器を取った。

 東京の九能との、直通の連絡網が、こうしてすぐに開かれた。

 連絡を終えるまでに、しばらく時間が経った。

 時計の針は、十一時に近づきつつあった。

 沙耶香は、夢野りりの方に視線を戻した。

 膝の上の文庫本を、彼女は両手で、強く握りしめていた。

「篠原さん」

「うん」

「あの仲居さん、わたしの居場所、確かめにきた、ってことですか」

「たぶん」

「……すぐに、何か、起きるんですか」

 その問いに、沙耶香はうそをつかないことに決めた。

「正直に言うと、起きるかもしれない。だから、私たち、ここにいる」

 りりは、ゆっくり、こくりとうなずいた。

 その目に、また、昨日見た「決意のようなもの」が、はっきりと浮かんだ。

 何かに耐えようとしている、若い人の目だった。

 時計の針が、十一時を回ったとき、ロビーの方から、また廊下を歩く音が聞こえた。

 今度の足音は、さっきとは違った。

 仲居の白足袋の音ではない。

 宿の客が履く、廊下用のスリッパでもない。

 革靴に近い、固い音だった。

 沙耶香の背中に、一瞬で冷たいものが走った。

 ロビー側の警官の、抑えた怒声が、襖越しに微かに届いた。

 その声に対して、廊下の中ほどで、男の声が低く何かを言い返している。

 聞き取れるほどの音量ではなかった。

 ただ、その声の調子だけで、沙耶香には分かった。

 声には、覚えがあった。

 恰幅のいい、しかし、ふだんよりずっと弱った声。

 鳴海半蔵だった。

 東京で姿を消したはずの男が、いまこの宿の廊下に立っていた。

 警官が、すばやく廊下に出て、鳴海と何かを話しているのが、隙間越しに聞こえた。

 抗うような声ではない。

 むしろ、つかれきった老人が、ようやくたどり着いた場所で、糸を切るように立っているような、そういう声音だった。

 沙耶香は、警官に小さくうなずいて、廊下に出た。

 夢野りりは、扉の内側に残った。

 三嶋も、念のため室内に残し、警官をひとり、扉の前に固定して、彼女は廊下を歩いた。

 階段の踊り場のあたりに、鳴海はいた。

 東京で見た写真と同じ、恰幅のいい体つきが、ひとまわり小さくなったように見えた。

 頬がこけ、目の下に深い隈が浮いている。

 コートには、谷の冷気を吸い込んだような湿り気があった。

「篠原、と申します。前にこの宿で、お会いしているかと」

「ああ」

 鳴海は、ゆっくり、こちらを見上げた。

「あなた、確か、福引の」

「ええ」

「九能さんから、話は聞いている」

 意外なほど、素直な答えだった。

 警官が、両脇から鳴海を支えるように立っていた。

 ひとりは、書類を持って、九能との連絡をすぐ取れる態勢にしている。

「鳴海さん。ご自宅から、出てこられたんですよね」

「東京は、もう、私のいられる場所じゃない」

 鳴海は、長く息を吐いた。

「あいつから、逃げる場所も、もう、ない」

「あいつ、というのは」

「分かっているだろう。あんたも」

 鳴海の目が、初めて、しっかり沙耶香を見た。

 その目の奥には、十年分の何かが、底に沈んでいた。

「細雪、というのは、本名ですか」

「いや」

「では」

「あいつは、ずっとあの名でいた。十年前の、あの取引のときから。本名は、別にある。今は、あいつの口から聞かないと、わたしには、もう分からない」

「分からない、というのは」

「あの男は、十年で別人になった、ということだよ」

 鳴海は、踊り場の段に、力なく腰を下ろした。

 警官のひとりが、毛布を取りに走っていった。

「東京で、姿を消されたあとの足取りは」

「東京駅から、ここの方の路線に、乗ったよ」

「九能警部は、捕まえようとされていたはずですが」

「それは知っている」

 鳴海は、淡く笑った。

「だから、ひとつ手前の駅で、降りた。そこからは、タクシーじゃない。地元の知り合いに、車を出させた。十年前、わたしに金で恩義のある人間が、まだこの土地に何人か残っていてね」

「九能警部の網を、外したんですか」

「外すというよりも、年寄りの最後の願いを、誰かが、こっそり聞いてくれただけだ」

 その表現に、沙耶香は、少し胸が痛んだ。

 恰幅のいい金融屋の男ではなく、ただの、追い詰められた老人の言葉だった。

 階段の上の方で、夢野りりの部屋がある。

 そのことを、鳴海は、まだ知らないはずだった。

「ここへ、来た理由は」

「あいつに、会うためだ」

「ここで、待ち合わせを」

「いや、待ち合わせはしていない。だが、あいつは、必ずここへ来る」

 その確信は、奇妙なほど揺るがなかった。

「なぜ、そう思われるんですか」

「十年前のあの取引で、いちばん大事な書類を、あいつは、わたしに預けたまま、姿を消した」

 鳴海は、自分の胸の内ポケットに、わずかに手を当てた。

「この十年、ずっと、ここに持っていた。あいつが、もう一度それを取り戻すために、わたしの前に現れるしかない、と」

「その書類を、人質に、ということですか」

「そんな立派な言葉じゃない」

 鳴海は、咳き込んだ。

「ただ、わたしが、わたしのままで、あいつに会いたかった、ということだ」

 沙耶香は、しばらく言葉を失った。

 復讐の物語の、もう一方の端に立っている男の、こんな言い方を、彼女は予想していなかった。

 警官が、毛布を肩にかけながら、低く言った。

「鳴海さん。少しの間、こちらの部屋でお休みください。警部にも、すぐ伝えます」

「分かった」

 鳴海は、素直に腰を上げ、警官に支えられて、別室へと連れて行かれた。

 その背中を、沙耶香はしばらく見送っていた。

 廊下を風が走った。

 その風が、奇妙にひんやりとしていた。

 谷の外から、ずっと吹き上げてくる、低い夜気だった。

 沙耶香は、夢野りりの部屋に戻りかけて、ふと振り返った。

 廊下の奥、配電盤のあるあたりに、人影があった。

 最初は、警官の影だと思った。

 しかし、その影は、すっと、配電盤の扉に手を伸ばしていた。

 廊下の灯りが、その手の動きを、はっきりと照らした。

 若い仲居の木下春子だった。

 沙耶香は、その姿を、ほんの数歩のところで見た。

 仲居は、配電盤の扉の小さな鍵を、いま、開けようとしていた。

 息のひそめ方が、夜中の宿の仕事をする人間のものではなかった。

 明らかに、何かを仕掛けようとしている動きだった。

「木下さん」

 沙耶香は、低く声をかけた。

 仲居の肩が、ぴくりと跳ねた。

 しかし、すぐに振り向きはしなかった。

 その代わり、その手はますます急いて、配電盤の中へ、何かを差し込もうとしていた。

 警官が一人、廊下の反対側から、すばやく近づいていた。

 その足音に、仲居はようやく振り返った。

 その顔は、もう、ふだんのぎこちない笑顔ではなかった。

 赤らんで、しかし冷たい、不思議な表情だった。

 そこには、自分が「やる側」に置かれている人間の、悲しい強さがあった。

「やめろ」

 警官の声が、低く飛んだ。

 仲居の手が、いったん止まる。

 その手にあったのは、小さな機器のようなものだった。

 中に何が仕込まれているか、すぐには分からない。

 しかし、廊下の灯りの下で、その小さなプラスチックの箱は、ひどく不吉に見えた。

 警官は、ゆっくり距離を詰めながら、低く繰り返した。

「ゆっくり、それを、足元に置きなさい」

 仲居は、こちらをちらりと見た。

 その視線の中に、まっすぐな憎しみのようなものはなかった。

 代わりにあったのは、もっと深い、底の方の疲れだった。

「やめてください」

 仲居が、口の中で、低く言った。

「あの子のことは、しないでください」

 その一言が、沙耶香の耳に、はっきり残った。

「あの子」というのは、夢野りりではない。

 別の誰かを、彼女はいま、口にしていた。

 警官が、その隙に、仲居の手から小さな箱を取り上げた。

 仲居は、もう、抵抗はしなかった。

 膝が崩れて、配電盤の前に座り込んだ。

 両手で顔を覆って、しばらくのあいだ、声を出さずに泣いた。

 廊下の灯りが、その小さな肩を、頼りなく照らしていた。

 ロビーの方で、別の警官たちの動く音が、急に増えた。

 宿の玄関の外で、車のヘッドライトが、何台分か揃って入ってきたのが、襖越しに分かる。

 東京から、応援の捜査員たちが、いまようやく谷の上の宿に追いついてきた、その音だった。

 その先頭の車から降りてきた背中は、ひと目で分かった。

 九能弦十郎が、外套をはおったまま、走ってこちらへ向かってきていた。

 息を切らせている、というよりは、息を整える間も惜しんでいる、という走り方だった。

 廊下に上がってきた九能は、まず配電盤の前の仲居を見、それから、その後ろの沙耶香を見た。

「鳴海は」

「奥の別室に」

「無事か」

「ええ」

「あの仲居が、配電盤を」

「警官の方が、手にしたものを止めてくださいました」

 九能は、ゆっくり息を吐いた。

「間に合った、と言うべきか、間に合わなかった、と言うべきか」

 そのことばに、沙耶香は、はっとした。

 事件のどこかが、もう、間に合わなかったのかもしれない。

 その不安は、当たっていた。

 九能は、廊下の奥を見た。

 そして、低く言った。

「篠原さん」

「はい」

「鳴海半蔵の身柄が、いまこの宿に着いたのは、私のひとつ前の便だ」

「ええ」

「鳴海をここまで連れてきた『地元の知り合い』というのが、誰だったか、わたしは、東京を出るときに、ぎりぎりで掴んだ」

「それは」

「鳴海が、いま少しだけ、自分の身体を支えるために、十年ぶりに頼った相手は」

 九能は、いったん言葉を切った。

 そして、その続きを、ゆっくり言った。

「細雪修造、本名で言えば、笹目修造、という男だ」

 沙耶香の胸の奥が、ぐっと冷たくなった。

 鳴海をここまで運んできた、地元の知り合い。

 その人物こそが、十年前から「細雪」と名乗っていた、写真の中の痩せた男だった。

「鳴海さんは、ご自分で、犯人と一緒に、ここまで来てしまわれた、ということですか」

「そういうことになる」

 九能は、長く息を吐いた。

「鳴海は、それを承知の上で、それでも自分の足で、ここに戻った。自分の口で、十年前のすべてを話すために」

「では、いま、その細雪は」

「ここのどこかにいる、とわれわれは見ている」

 廊下の奥の闇が、ふいに、深く見えた。

 宿のあちこちで、いま、警官たちが配置についていく音がする。

 ロビー、玄関、各階の廊下、調理場、布団部屋。

 たったいま、谷の上の宿全体が、本物の包囲網の中に置かれた。

「篠原さん」

 九能は、もう一度、沙耶香を見た。

「夢野りり嬢の部屋から、絶対に離れないでくれ。あんたと三嶋さんで、あの子を、しっかり守ってくれ」

「分かりました」

「私は、これから、鳴海の部屋に行く。彼に、最後の話を聞く。同時に、宿の中で、細雪を、追い詰める」

 九能の声には、迷いがなかった。

 そして、迷いを許さない冷たさも、また、混じっていた。

 沙耶香は、深くうなずいて、夢野りりの部屋の方へ、急ぎ足で戻った。

 部屋の扉を開けると、三嶋が、警官と並んで立っていた。

 夢野りりは、ベッドの隅に座って、机の上のノートを、両手で抱きしめていた。

 その顔色は、また、白くなっていた。

「篠原さん。廊下、何かあったんですよね」

「ええ。少し」

 沙耶香は、できるだけ平静を装って答えた。

「でも、もう大丈夫。九能警部、いま、宿に着いた。あなたのこと、いちばんに、守るって言ってくれてる」

 りりは、深く息を吐いた。

「篠原さん」

「うん」

「あの仲居さん、捕まったんですか」

「うん」

「ひどい人だったんですか」

 その問いに、沙耶香はすぐには答えられなかった。

 廊下で「あの子のことは、しないでください」と泣き崩れた、若い女の姿が、まだ目の奥に残っていた。

「分からない、というのが、正直なところ。ひどいことをしようとしてた、というのは、たぶん本当。でも、ひどい人、と決めつけるには、まだ私には、何も分からない」

 りりは、その答えを聞いて、しばらくうつむいた。

 それから、ゆっくり顔を上げた。

「篠原さん。お願いがあります」

「うん」

「全部が終わったら、わたしのこと、書いてください」

 沙耶香は、息を呑んだ。

「巻き込まれて、たくさんの人と関わって、いろんなものを見て、いろんなものを聞いて、何にもできなかったわたしのこと。ちゃんと、書いてください」

「あなたは、何にもできなかったわけじゃない」

「うん。でも、それでも、書いてほしいんです。誰かが、こうやって誰かのために、忘れないでいてくれたよ、って分かるように」

 その目には、もう涙はなかった。

 ただ、深い場所からの、まっすぐな願いだけがあった。

 沙耶香は、ペンを胸の中で握り直した。

「分かった。約束する」

 その言葉に、夢野りりは、ようやく、薄く微笑んだ。

 廊下の方では、まだ、いくつもの足音が交差していた。

 宿の中の長い夜は、まだ、終わりに近づきさえしていなかった。

 ただ、その夜の中で、ひとつだけ、はっきり確かなことがあった。

 旅情ライターの篠原沙耶香は、これから始まる、本当の終幕の、そのすぐ前にいる。

 そして、その終幕のあとに、書かれるべきひとつの小説が、もう、自分の中で、薄く形を取り始めていた。

 谷の上の月は、もう、雲のあちらこちらに見え隠れし始めていた。

 その月の白さの中に、初めて、ほんとうに細い、白いものが、ちらりと混じった。

 雪、ではない。

 まだ、雪ではない、と沙耶香は思った。

 しかし、それは、限りなく雪に近い、谷の上の空気そのものだった。

 夜の中で、誰かが、もう動き出していた。

 その足音は、まだ、聞こえなかった。

 それでも、確かにあった。

 沙耶香は、夢野りりの肩に、もう一度そっと手を置いた。

 三嶋が、無言で、カメラの電源を入れ直した。

 廊下の向こうから、九能の指示する声が、低く、まっすぐに伝わってきた。

 長い夜の、終わりの始まりが、ようやくここで開いた。


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