1-12
廊下のあちこちに、警官が静かに立った。
足音をたてないように、ひとりずつ、決められた位置に身を寄せていく。
宿全体が、ひとつの大きな捕り物の枠組みの中に、ゆっくりと収まっていった。
ロビーの照明は、いつもの半分まで落とされた。
玄関の引き戸の外には、二台の車のヘッドライトが、わずかに残されたままになっていた。
帰り支度をした宿泊客を装って、宿の出入り口から人が出ていく可能性を残すためだった。
これは、九能の指示だった。
「網の口は、開けたままにしておけ」と彼は短く言った。
完全に閉じてしまえば、相手は宿の中で抗戦に出る。
少しだけ口を開けておけば、相手は、出ていく方を選ぶ。
そして、出口の先には、すでに別の網が、谷の道のいくつもの位置に張ってある。
その指示の出し方を、廊下越しに聞きながら、沙耶香は内心、改めて思った。
この警部は、人の動かし方も、人の追い詰め方も、極めて静かだった。
声を張らない。
足音をたてない。
それでいて、宿全体を、ひとつの精密な装置のように整えていく。
夢野りりの部屋の中では、机の上の置き時計が、こつ、こつ、と相変わらず鳴っていた。
ベッドの隅で、夢野りりは、ノートを両手で抱えたまま、じっと膝を見ていた。
三嶋は、カメラのストラップを首にかけ、入り口側の壁に背中を預けていた。
ふだんの間延びした調子は、もう、どこにも残っていなかった。
廊下の方から、内線の低い音が鳴った。
警官のひとりが、扉のすぐ内側で受話器を取り、短い受け答えのあと、沙耶香にだけ聞こえる声で言った。
「鳴海さんが、警部にすべてを話す覚悟をされているそうです。ただし、聴き手のひとりに、篠原さんを希望されているとのこと」
沙耶香は、思わず警官の顔を見返した。
「私を」
「ええ。ライターとして、自分の話を、自分の言葉で書き留めてほしい、と」
その伝言の意味を、沙耶香はすぐには受け止めきれなかった。
警察の聴取は、本来、捜査の枠の中で行われるものだ。
部外者のライターを、聞き手として同席させる例など、ふつう、ない。
それでも、警官の口ぶりからして、九能はその希望を、しぶしぶではなく、はっきりと受け入れていた。
その判断の意味を、沙耶香は、廊下に出ながら考えた。
理由は、ふたつあった、と直感した。
ひとつは、鳴海半蔵の「自白」が、警察の手だけでは、まだ取りきれない種類のものだということ。
刑事に向かって話す自白と、人に向かって話す告白は、別物だ。
鳴海は、自分の話を「事件の調書」だけにしてほしくなかったのだ。
もうひとつは、九能自身が、沙耶香にこれを聞かせたい、と判断したということだった。
谷の中で起きていることに、最後まで、伴走させる気がある、ということでもあった。
夢野りりに、ひとこと声をかけてから、沙耶香は刑事のあとに続いて、別室に向かった。
廊下の途中で、宿の女将と、ベテラン仲居が、それぞれの場所で身を固くしていた。
彼女たちにも、すでに、最低限の事情は伝えてある。
宿の中の動きが、しばらく不自然になることを、納得してくれていた。
奥の別室に入ると、鳴海半蔵は、座椅子に深くもたれて、毛布を肩にかけたまま、半ば目を伏せていた。
机の上には、湯気の上がる茶と、白い紙が一束、置かれている。
向かいに、九能弦十郎が、いつもの低い姿勢で腰を下ろしていた。
九能の隣の席が、空けてあった。
沙耶香は、そこに、ゆっくりと腰を下ろした。
ノートと、ペンを、机の上に並べる。
ふだんの取材の流れと、まったく同じ動作だった。
その動作が、なぜか、自分の手の震えを止めてくれた。
「すみませんね、こんな夜中に、こんな話で」
鳴海は、まず、ぽつりとそう言った。
その口ぶりには、もう、東京の自宅で会ったかつての金融屋の姿はなかった。
ひとりの、長い間眠れずに来た老人の声だった。
「お気遣いなく」
沙耶香は、できるだけ穏やかに応じた。
「鳴海さん。話せる範囲で、お話しください。書き残すかどうかは、最後に、もう一度、ご自分で決めてくださって構いません」
「いや。書いてもらう」
鳴海の声に、わずかな力が戻った。
「ここまで来て、わたしが、自分の口でそれを言わないなら、結局、何ひとつ変わらない。十年前のあれと、同じことを繰り返すだけだ」
その「同じこと」というのが、何を指すのか、沙耶香は注意深く待った。
九能も、間に余計な質問を挟まなかった。
「十年前のあの不動産取引はね、表向きは、わたしと、間宮の会社と、いくつかの取引先で動いていた、ごくふつうの再開発の話だった。郊外のひとかたまりの土地を、まとめて買い上げて、新しい街区を作る。そういう絵だ」
鳴海は、自分の指先を、ゆっくり擦った。
「ところが、その土地には、もう何代も前から、小さな集落のような町があった。古い長屋、町工場、駄菓子屋、銭湯。そういうのが、ぎっしりと寄り集まって、暮らしている人がいた」
「立ち退きの話、ですか」
「そうだ。あの再開発は、要するに、その町ごと、全部を立ち退かせて、まっさらにする計画だった」
「立ち退き料は、出ていたんですか」
「出ていた、ことになっている」
鳴海は、力なく笑った。
「ことになっている、というのは」
「実際の住民には、出した金額の半分も、渡っていなかった。残り半分は、どこかの口座を経由して、別の流れに乗せられていた」
ペンを動かす沙耶香の指が、ぴたりと止まった。
立ち退きの金を抜く、というのは、よくある汚れた話だった。
しかし、それを「ことになっている」と言える側にいた鳴海の口から、それを聞くのは、聞く側にも、ある重みを乗せた。
「その『別の流れ』を作ったのが」
「あいつだ」
鳴海は、はっきり言った。
「細雪。当時、別の名で名乗っていたあの男だ。あの絵を、最初から最後まで描いたのは、あいつだ」
「鳴海さんは、それを、ご存じだった」
「途中から、知っていた」
その答え方に、自分の立ち位置を、まっすぐ認める覚悟があった。
「最初は、わたしも、間宮も、ふつうの再開発のつもりで動いていた。金は、わたしが出した。土地の交渉は、間宮の会社がやった。経理は、梓弓が任されていた。だが、途中から、金の流れの一部が、不自然に膨らみ始めた」
「梓弓さんが、最初に気づいたんですか」
「ああ。気づいて、わたしと、間宮に、相談してきた。最初は、間宮もわたしも、その話は『下の者の誰かが、勝手にやっている』と思っていた。ところが、調べていくと、そうじゃなかった」
「細雪の指示で、動いていた、と」
「もっと正確にいえば、細雪が、わたしと間宮の名義を、勝手に使って、抜いていた」
ノートを取る沙耶香の頭の中に、十年前の構図が、薄い線でひとつ浮かび上がっていく。
金主の鳴海、表に立つ間宮、金の流れを管理する梓弓、そして、その三人の名義の陰で、自分の意のままに金を動かす別の存在。
「細雪は、最初から、自分の名前を、書類のどこにも残さなかった」
「ええ。あいつは、ずっとそうだった」
鳴海は、深く息を吐いた。
「それに気づいたとき、わたしたちは、ふたつの選択に立たされた。ひとつは、警察に届ける。ひとつは、自分たちもまとめて巻き込まれる前に、あの男を表に出さずに始末する」
「始末、というと」
「殺す、ということじゃない。あの男を切り離して、自分たちの責任で、なんとか取引を終わらせる、ということだ」
「それで、どちらを」
「結局、わたしたちは、後者を選んだ。あの男に、引っ込んでいてくれ、と頼んだ。そのかわり、書類の上では、わたしと間宮と梓弓だけが責任を取る形にした」
その瞬間、十年前のあの写真の意味が、沙耶香の中で、はっきりと別の色に変わった。
料亭の宴会の席で、四人が並んで撮られていたあの写真。
あれは、取引が無事に終わったお祝いの席ではなかった。
たぶん、あの席で、四人は「これから先、お互いに、どこまで何を背負うか」を、暗黙のうちに取り決めていた。
「結果として、十年前のあの再開発の話は、表向きは、立ち退きが少し荒っぽかった、というだけの話に収まった」
「住民の方は、それで」
「収まっていない」
鳴海の声に、初めて、はっきりとした重さが乗った。
「あの再開発で、町を追い出された人たちの中に、心を病んだ者が、何人もいた。仕事も家も失い、家族と離れた者もいた」
「亡くなった方も」
「ああ。表に出ない形で、ね。あの再開発のあとで、いのちを絶った人が、わたしの知っている範囲で、少なくとも、ふたりいた」
沙耶香は、ペンを止めた。
書きつけた文字の上に、ぽつ、と汗のような点が落ちた。
それが、自分の指先からのものなのか、自分の目元からのものなのか、咄嗟には分からなかった。
「鳴海さん。そのおふたりは、どなたですか」
「名前はもう、わたしの口から出すべきじゃない。ただね、篠原さん」
鳴海は、ゆっくり、視線をこちらに向けた。
「いま、谷の中にいる、若い仲居の子。あの子の名前は、確か、木下、と」
「ええ」
「あの『木下』という姓は、十年前のあの町の中の、立ち退きでいちばんもめた家の姓だ」
沙耶香は、思わず九能の方を見た。
九能は、無言で、ひとつ深くうなずいた。
照合の進んでいた断片が、ここで、はっきりと意味を持つ。
廊下で「あの子のことは、しないでください」と泣き崩れた、あの若い仲居の姿が、別の輪郭で、沙耶香の頭に蘇ってきた。
彼女は、駒として送り込まれていただけではなかった。
十年前の再開発の中で、いちばん深く傷ついた家のひとつの、生き残りだった。
「あの子は、わたしたちのことを、決して許していなかったはずだ」
鳴海は、低く言った。
「だが、わたしや、間宮や、梓弓を、直接、自分の手で罰しようとは、もしかしたら、思っていなかったかもしれない」
「では、なぜ、いま、この事件のなかに」
「あの『細雪』のところに、たどり着いてしまったからだろう」
その答え方は、奇妙なくらい、まっすぐだった。
「あの男は、十年前のあと、ずっと自分は被害者面をしてきた。再開発のあと、町を追われた人たちの中に、ひそかに紛れ込んで、自分も同じように家を失った、と振る舞っていた。そういう男だ」
「自分が、首謀者だったのに、被害者の側に紛れ込んだ、ということですか」
「そうだ。木下のような若い世代の中には、それを信じてしまった者もいた。本当は、自分たちを踏みつけた張本人を、自分たちの側の人だと、信じてしまった」
「そして、その『細雪』に、復讐の手伝いを頼まれた」
「いや」
鳴海は、首を振った。
「頼まれた、というよりは、巻き込まれていった、と言うべきだろう。あの男は、自分でも気づかせないやり方で、人を巻き込むのがうまい。十年前と、まったく同じだ」
その言葉に、沙耶香は、間宮徹の電話の声を、また思い出した。
あれはそうじゃない。
巻き込まないでくれ。
十年前にも、人を巻き込んだ男が、今度はまた、十年前の被害者の側にいた若い人間を、別の意味で巻き込もうとしていた。
「篠原さん」
九能が、初めて口を挟んだ。
「あの仲居が、配電盤に仕掛けようとしていたものを、いま、本部の手元で確認している」
「何だったんですか」
「結論からいえば、人を殺すための装置じゃない。だが、宿の電気を、限られた区画だけ、一時的に止めるための小さな仕掛けだった」
「電気を、止める」
「ええ。これから先に予定されていた、ある『密室の段取り』を成立させるための、補助だったらしい」
その意味を、沙耶香はすぐには理解しきれなかった。
「警部さん。これから先の段取り、というのは」
「今夜の、夢野りり嬢の部屋を中心とした、もう一段の事件、だ」
九能は、淡々と言った。
「細雪は、夢野りり嬢を、もう一度、第一発見者か、あるいはそれ以上の場所に立たせるつもりだった、と私は見ている」
沙耶香の背筋が、すっと冷たくなった。
「もう一度、第一発見者に」
「ええ。具体的に何を仕組むつもりだったかは、まだ全部見えていない。だが、配電盤を一度落とせば、廊下の灯りが落ちる。そうなれば、そこに何人かの動きを混ぜることができる。場合によっては、夢野りり嬢の部屋から、わざと別の場所に彼女が出てくるように仕向ける」
「そんなことを、して、誰の利益に」
「あの男にとって、夢野りり嬢は、声を覚えてしまった、いちばんやっかいな証人だ」
九能は、低く付け加えた。
「ただ、いま、本部で取り押さえた配電盤の小さな箱には、ある人物の指紋がはっきり残っている。木下春子のものだけじゃない。もうひとり、別の指紋だ」
「それは」
「これから、ここで、明らかにする」
その声色には、長年の捜査の終わりが近い、という低い熱があった。
「篠原さん」
鳴海が、ゆっくりこちらを向いた。
「あんたに、ひとつだけ、頼みがある」
「はい」
「いま、わたしが、ここで話したことを、決して、十年前の連中の弁解にしないでほしい」
「弁解、というのは」
「わたしたちは、確かに、あの細雪に騙された側でもあった。だが、最初に、住人たちを踏みつけたのも、わたしたちだ。気づかなかった、では、済まされない」
「ええ」
「あんたが、いつか、これを書くなら、そこだけは、絶対に、はっきりさせてほしい」
その願いを、沙耶香は、しっかり受け取った。
「分かりました」
その答えだけは、ペンを動かす前に、自分の口から、まっすぐ言った。
九能が、ひとつ、深く息を吐いた。
そして、机の白い紙の上に、鳴海の証言の要点を、自分のメモから書き写し始めた。
その手の動きが、最後まで、迷いなく続いた。
鳴海半蔵の証言が、ここで、ひとつ、調書としても、ライターのノートとしても、形を取った。
それと同時に、九能が、机の脇に置いていた小さな受話器を取り上げ、低く何かを指示した。
廊下の遠くで、複数の警官が、新たな配置に動く音がした。
宿の中の網が、もうひと回り、すぼめられた。
そのとき、宿の調理場の方で、ごく小さな物音がした。
何かが、軽く床に転がるような音だった。
九能の指が、すっと持ち上がった。
そのまま、廊下の方の警官に向かって、ぴ、と短い合図を送る。
警官たちが、足音もたてずに、廊下を奥へと走った。
沙耶香も、思わずノートを閉じて、立ち上がった。
九能が、低くこちらを制した。
「ここで、待っていてください」
「警部さん」
「夢野りり嬢の部屋には、すでに、二重に警官を入れた。あんたが、いま、動く必要はない」
「では、調理場の方は」
「あれは、たぶん、おびき出しだ」
九能は、淡く笑った。
「だが、相手にとっても、もう、これが最後の手だ。そして、最後の手を打つ場所が、今夜は、調理場かもしれないし、それ以外の場所かもしれない」
そう言いながらも、九能はゆっくり立ち上がった。
毛布をかけたままの鳴海に、改めて軽く一礼してから、扉の方へ向かう。
そのとき、廊下の入り口で、別の警官が、足を踏み外したような音を立てた。
それは、警官が「ふつうにつまずいた」音ではなかった。
突き飛ばされた、瞬間の、よろめきの音だった。
その音の直後、廊下の天井灯が、ふっと消えた。
宿の一画の電気が、突然、落ちた。
沙耶香は、思わず壁に手をついた。
闇の中で、九能の声が、低く飛んだ。
「篠原さん。動くな」
「警部さん」
「夢野りり嬢の部屋にも、まだ電気は残っているはずだ。あの部屋の電源は、別系統にしてある。三嶋さんが、そばにいる。今は、まず、それを信じろ」
その声に、沙耶香は、唇を噛んで、廊下のほうへ目を凝らした。
闇の中で、別の足音が、ひそやかに、調理場の方とは別の方角へ抜けていくのが分かった。
その足音は、宿の構造を熟知している人間の足音だった。
廊下の角の数を、いくつも知り抜いた人間の歩き方だった。
そして、その足音が向かう先に、夢野りりの部屋とは、また別の場所があった。
それは、宿の中で、唯一、ふだんも灯りを完全に落としてある部屋。
布団部屋だった。
「布団部屋に、何かを仕込んだのは、田中じゃない」
九能の声が、闇の中で、はっきりと言った。
「あれは、最後の段取りのための場所だ。今夜、ここで、ひとつだけ確かめる」
九能は、闇の中で、一歩、足を踏み出した。
その靴音の確かさに、沙耶香は、これから始まる最後の場面の、ひとつの空気を感じた。
長い夜の中で、いま、ようやく、追う側と追われる側が、同じ廊下の上に立った。
それぞれの呼吸が、闇の中で、聞こえないはずなのに、聞こえた気がした。
沙耶香は、机に置かれていた、白い紙の束を、もう一度手の中に握り込んだ。
そこには、鳴海半蔵が、自分の口で語った十年前のすべてが、書き取られていた。
その紙の束を、彼女は胸の前に強く抱き直した。
これが、もう、誰の手にも渡ってはならない、夜の中の証言だった。
闇の中で、九能の靴音が、廊下の奥へ進んでいった。
その足音は、もう、ためらわなかった。
廊下のずっと向こうで、別の小さな足音が、その靴音に応えるように止まった。
ふたつの足音が、闇の中で、ようやく向き合った。
長い夜の、最終局面が、布団部屋の前の暗い廊下で、静かに始まろうとしていた。
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