1-13
廊下の闇の中で、九能の靴音が、はっきりと一歩、進んだ。
宿の電気はまだ、その一画だけ落ちていた。
非常灯の青白い光が、廊下の床にかすかに長方形の影を落としている。
その光の縁にだけ、人の輪郭がうっすらと浮かび上がっていた。
沙耶香は、机の上の白い紙の束を胸に押しつけたまま、扉の隙間からその廊下を見ていた。
息を吸う音さえ、廊下の沈黙に響きそうだった。
机の向こうで、鳴海半蔵が、毛布の中から低く咳をした。
その咳の音すら、いまの闇の中では、ひどく大きな音に聞こえた。
廊下の遠くで、九能の声が、闇に向かって、まっすぐ放たれた。
「笹目修造さん」
その本名を呼ぶ声には、長い年月、捜査の中で人を呼んできた者の、独特の落ち着きがあった。
声を張らない。
責めない。
ただ、相手の存在を、まず、認める呼び方だった。
廊下の奥の影が、ぴくりと動いた。
しかし、答えなかった。
九能は、もう一歩、闇の中へ踏み出した。
「もう、終わりにしましょう」
その声には、勝利の調子ではなく、ある種のいたみがあった。
「あなたが、十年前から、何を背負って生きてきたかも、わたしは、これから、たぶん知ることになる。だが、いま、夜中の宿で、人を巻き込んでまで、終わらせるべき話じゃない」
廊下の闇の奥から、ようやく、低い声が返ってきた。
「あなたに、何が分かる」
短い、削れた声だった。
沙耶香は、思わず扉の隙間に頬を寄せた。
その声は、湿った夜気をひと巻きしたような、奇妙にひんやりした音だった。
写真の中の痩せた男が、まさにその顔のまま、そこに立っていることが、声の調子だけで、分かった。
「分からない。分からんから、いま、ここに来た」
九能は、抑揚を変えずに答えた。
「ただし、十年前のあれが、どれだけ大勢の人間を踏みつけたか、そのことだけは、いま、鳴海さんの口から、わたしは聞いた」
その一言で、廊下の奥の影が、わずかに揺れた。
鳴海の名前が、たぶん、相手にとっては、思いがけない場所から飛んできた打撃だった。
「鳴海が、しゃべったのか」
「ええ」
「あの男も、結局、最後は、自分の罪を、われわれと一緒にしようとした、ということか」
「いや、そうじゃない」
九能の声に、わずかに力がこもった。
「鳴海さんは、自分の罪を、自分の罪として、ここに置いていった。あんたの罪を、自分の罪に紛れさせるためじゃない」
廊下の奥の影が、ふっと笑ったような気がした。
笑いの音は、聞こえなかった。
ただ、その肩のかすかな揺れだけが、非常灯の光で、わずかに見えた。
「立派なものですな、警部殿は」
「立派、というのは、こっちの台詞だ」
「ほう」
「十年、別の名で、ふつうの暮らしを装って、復讐の絵だけを、ずっと描き続けてきた。並大抵じゃない。だからこそ、いま、ここで、もう、終わりにしましょうと、わたしは言いたい」
九能は、もう一歩、ゆっくり踏み込んだ。
その靴音は、相手にも、はっきりと届いたはずだった。
闇の中で、廊下の奥の影が、ふっと、後ろへ一歩、退いた。
その退きの中に、わずかに、ためらいがあった。
そのためらいの隙間に、九能の声が、もう一段、低くなって入った。
「笹目さん」
「やめろ」
「十年前のあの再開発で、いちばん深く傷ついた家のひとつが、木下、という姓だったそうですな」
闇の中で、相手の息が、ぐっと止まった。
「あの家から、いまも生き残って、谷の宿でひとり、あんたの言うとおりに動いていた、若い人がいる」
「彼女のことは、いい」
「いや、よくない」
九能の声に、はじめて、はっきりした怒気が混じった。
「あんたは、自分が被害者の顔をして、あの子を巻き込んだ。再開発で家を失った『仲間』のひとりとして、あんたに近づいてきたあの子の信頼を、あんたは利用した。十年前と、同じことを、もう一度やった」
「同じじゃない」
闇の奥の声が、わずかに高くなった。
「同じだ、笹目さん」
「あの子が、自分で決めたことだ」
「自分で決めた、と思わせたのは、あんただ」
二人の声の間に、廊下の冷えた空気が、ぴんと張った。
その緊張の中で、廊下のずっと向こうの方から、また別の、ごく小さな足音が近づいてくるのが、沙耶香の耳に届いた。
足音は、軽かった。
ふつうの靴ではなかった。
ぱた、ぱた、と、廊下の板に直接、足の裏が触れている音だった。
それは、人の足音、というよりも、これから何かを止めようとする者の、必死の足音だった。
その音の主は、ロビー側ではなく、宿の奥の方から、二階の階段を駆け降りてきていた。
控室で、保護されていたはずの、若い仲居・木下春子の足音だった。
廊下に飛び出してきた木下は、廊下の半ばで、ぴたりと足を止めた。
非常灯の青白い光の中で、その顔は、もうほとんど色を失っていた。
「やめてください」
木下の声は、震えていた。
「やめてください、笹目さん。お願いだから、もう、やめて」
闇の奥の影が、その声の方を、ゆっくり向いた。
警官が一人、木下の背後について、廊下の中ほどで動きを止めていた。
無理に取り押さえず、彼女の声を、まず先に通させていた。
それも、九能の指示だったはずだ。
「木下、おまえ、なぜここに」
「あなたが、わたしや、お兄ちゃんの分まで、片付けるって、言ったから」
木下の声は、震えていた。
「だから、わたし、お手伝いをするって、言いました。あの宿に、わたしから入りこむって。あの人たちの、近くで暮らすって」
「ああ」
「でも、あなたは、いつのまにか、それだけじゃ済まなくなった」
廊下の闇の中で、影が、ゆっくり、もう一歩、後ろへ退いた。
「夢野りりさんを、巻き込んだのは、わたしじゃ、ありません」
木下の声が、ぐっと固くなった。
「お茶を運んだのも、廊下の足音を気にしたのも、配電盤に小さな箱を仕掛けようとしたのも、ぜんぶ、わたしの手です。でも、あの子を、第一発見者にしてくださいって言ったのは、あなたです」
「黙れ」
「お兄ちゃんが、最後に病院のベッドで、わたしに言ったこと、覚えてますか」
廊下の闇の奥の影が、ふいに、息を呑む音をたてた。
その小さな音は、いま、廊下の中で、もっとも大きな音だった。
「お兄ちゃんは、こう言ったんです。『俺たちは、いいから。十年前のあの町のことを、ちゃんと、誰かに思い出させてくれたら、それでいい』って」
「黙れ」
「『誰のことも、巻き込むな』って、お兄ちゃんは、わたしに、最後に、そう言ったんです」
廊下の闇の中で、影の手が、わずかに上がるのが、見えた気がした。
九能が、すばやく、もう一歩前に出た。
その瞬間、闇の中の影は、ふっと、廊下の角の向こうへ、消えた。
九能の手が、空を切った。
沙耶香は、思わず扉を押し開けた。
机の上の白い紙の束は、ぎゅっと胸に抱えたままだった。
廊下に駆け出したとたん、後ろから、鳴海の咳の音が、追いかけるように聞こえた。
廊下の角を曲がった先は、布団部屋の前の長い廊下だった。
非常灯の光が、その廊下のいちばん奥まで、青白く伸びている。
その光の中に、痩せた男の背中が、布団部屋の引き戸に手をかけているのが見えた。
九能が、走った。
警官たちも、廊下の両側から、布団部屋に向かって、一斉に詰め始めた。
布団部屋の引き戸が、薄く開いた。
中の闇が、廊下の青白い光より、もう一段、濃かった。
その闇の中に、痩せた男が、すべりこむように、入っていく。
「逃がすな」
九能の声が、廊下に鋭く飛んだ。
そのまま、九能自身が、布団部屋の前まで走り、引き戸の隙間に、自分の身体を割り込ませた。
廊下の左右から、警官たちが続く。
沙耶香は、自分も走り出しかけて、ふと、足を止めた。
廊下のいちばん向こうの突き当たり、布団部屋の反対側にある、調理場へ抜ける細い通路。
そこに、もうひとつ、人影が動いた気がしたからだった。
それは、別の足音だった。
ぱた、ぱた、というのではなく、ぐっと、ぐっと、と腰を落として歩く、ある程度の体格の男の足音だった。
その人影は、調理場の方に消えていく寸前、わずかに振り返って、廊下の方を見たような気がした。
その横顔に、見覚えがあった。
ロビーで聞き込みのときに、ちらりと姿を見せた、田中与一の顔だった。
「警部さん」
沙耶香は、廊下の中ほどから、布団部屋に駆け込んだ九能に向かって、声を投げた。
「田中が、調理場の方に」
廊下の途中で、別の警官が、その声を受けて、すぐに調理場側へ走った。
別の警官たちが、その後ろに続く。
谷の上の宿の中で、いまや、ふたつの捕り物が、同時に動き始めていた。
ひとつは、布団部屋の中の、笹目修造、すなわち細雪。
もうひとつは、調理場へ抜けようとしていた、田中与一。
沙耶香は、廊下の中ほどに立ち尽くしたまま、それぞれの方向で、警官たちの動く音を聞いていた。
布団部屋の中で、布団のかたまりを引きずるような音と、九能の低い声が、聞こえた。
その声は、もう、説得ではなかった。
捕縛の段取りそのものを、現場で短く指示する声だった。
「両側から行く」
「奥の窓は塞いだか」
「閉まっています」
「鍵は」
「内側から、ねじ締まりが」
その「ねじ締まり」の一言で、沙耶香の中で、ある絵が、ふっと立ち上がった。
布団部屋の奥の窓には、客室と同じ、古い木製のねじ締まり錠がついていた。
笹目修造は、その窓のねじ締まり錠を、内側から閉めた、と警官が言っていた。
つまり、彼は、いまもう一度、自分自身を、内側から閉ざされた小さな密室の中に入れていた。
それは、十年前の取引から続く彼の人生そのものの形でもあった、と沙耶香は思った。
自分を内側から閉ざして、外の世界に、ひとつも責任を残さない場所を作ってきた男。
その男が、いま、自分で作ったいちばん小さな密室の中で、こちらと向き合おうとしている。
布団部屋の中の声は、しばらく止んだ。
押し問答も、争いの音も、もう、しなかった。
代わりに、九能の声が、ひと言、低く聞こえた。
「観念しなさい」
その声に、相手が、長く息を吐く音が続いた。
しばらくして、警官たちに両脇を支えられた、痩せた男が、布団部屋の戸口から、廊下に押し出されてきた。
非常灯の光が、その顔をはっきりと照らした。
十年前の写真と同じ、目つきの鋭い、痩せた顔だった。
ただ、写真の中よりも、何倍も疲れて見えた。
長い計画を、最後まで自分で動かし続けてきた人間の顔だった。
そして、その目の奥に、ふいに、すべての張りを失った、空っぽな影があった。
九能が、彼の前に立った。
「笹目修造、湯けむり温泉郷の湯の宿半月における殺人、ならびに東京での殺害計画に関連して、いま、あなたを拘束します」
低く、しかし、はっきりと、九能はそう告げた。
逮捕状の形式そのままの言葉ではなかったが、本人を立たせるためには十分な言い方だった。
正式な手続きは、麓へ下りる車の中で、整えられる。
笹目は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくり、夢野りりの部屋の方を、見た。
そのまなざしには、もう、敵意もなければ、計算もなかった。
ただ、ほんのわずかに、申し訳なさのようなものが、よぎった。
そう、沙耶香には、見えた。
警官たちに連れられて、笹目が廊下の奥へ進む。
その途中、彼は、廊下の中ほどに立ちすくむ木下春子の前で、足を止めた。
警官が、すぐに彼を促した。
しかし、彼は、警官の手の中で、もう一度、わずかに振り返った。
「お兄さんに、すまない、と」
廊下に、その短い一言だけが、転がった。
それきり、彼は、もう何も言わなかった。
木下春子は、その場で、両手で口を覆ったまま、しばらく動けなかった。
廊下の灯りが、ふっと、戻った。
宿の電気が、また、ふつうに灯った。
その光の中で、木下春子の姿は、いつもの仲居の制服を着た、ひとりの若い女の姿に、ただ戻った。
警官に支えられて、彼女もまた、別の部屋へ連れていかれた。
その背中を、廊下から、別の足音が、追いかけてくる音がした。
調理場の方から、田中与一を取り押さえた警官たちが、彼を連れて戻ってくる音だった。
田中も、ほとんど抗わなかった。
両脇を警官に挟まれて、宿の玄関の方へと、ゆっくり下りていく。
その肩は、こちらが想像していたよりも、ずっと小さく見えた。
九能が、廊下の中ほどで、ようやく息をついた。
その息は、長かった。
何十年も、自分の内側に押し込んでいた息を、一度に吐き出したような長さだった。
沙耶香は、廊下の隅から、九能の方へ近づいた。
ノートも、ペンも、もう、手の中になかった。
ただ、白い紙の束だけを、胸の前で抱えていた。
「警部さん」
「篠原さん」
九能の声は、いつもより、ひとまわり静かだった。
「ご苦労さまでした、と言うのは、まだ、早いですね」
「早いな」
九能は、ふっと、肩の力を抜いた。
「もうひとつ、最後に、片付けないといけないことがある」
「密室の、トリックですか」
「ええ」
その答えに、沙耶香の胸の奥が、また、わずかに引き締まった。
廊下の奥、間宮の死んだあの部屋。
東京で、鳴海半蔵を待っていた、もうひとつのオートロックの部屋。
そして、夢野りりが、これからもしばらく生きていく、いくつもの「閉ざされた部屋」の感覚。
それらすべての中心に、糸とねじ締まり錠で作られた、ひとつの小さな密室の仕掛けがあった。
「警部さん。間宮さんの部屋のときの、糸の跡。あれが、いちばん、最初の謎でした」
「ええ」
「いまなら、その絵が、最後まで、ちゃんと描けますか」
「描ける」
九能は、廊下の灯りの中で、ゆっくり目を細めた。
「篠原さん。あなたと、三嶋さんの目があったから、ここまでこれた。あんたたちの目で、最後まで、見届けてもらいたい」
「もちろん、見届けます」
廊下の遠くで、夢野りりの部屋の扉が、ふっと開く音がした。
中から、三嶋が、カメラを首から下げたまま、廊下の方を覗き込んでいた。
その後ろに、ノートを胸に抱えた夢野りりの小さな影が、見えた。
夢野りりは、廊下の中ほどに立つ沙耶香の姿を見て、ほっとしたように、小さく息を吐いた。
そして、その表情に、いちまい、新しい色のようなものが、加わった。
ようやく、自分の役目のひとつが、無事に終わったことを、彼女もまた、肌で理解したのだった。
九能は、ゆっくり、宿の中の警官たちに、最後の指示を回し始めた。
笹目修造と田中与一の身柄を、麓の警察署へ移送する手配。
木下春子の聴取を、本人の体調を見ながら、丁寧に進めるための段取り。
鳴海半蔵を、東京へ戻すための、警備のついた車の用意。
そのどれもが、もう、ばらばらの仕事ではなく、ひとつの長い夜を閉じるためのつなぎだった。
夜の冷えた空気の中で、谷の外から、ふっと、雪のにおいが運ばれてきた。
廊下の窓の外、谷の上の闇の中に、ほんの一粒、白いものが舞ったような気がした。
沙耶香は、その白さを、しばらく見ていた。
雪、と、彼女は、口の中だけで、もう一度つぶやいた。
その音は、奇妙に、ひとつの名前と、重なって聞こえた。
夜は、まだ、明けてはいなかった。
ただ、長い長い夜のうちのいちばん深いところは、もう、過ぎていた。
廊下の灯りの中で、九能と、沙耶香と、三嶋と、夢野りりは、それぞれ、ひとつずつ、別の方向を向いて立っていた。
それでも、四人のあいだに、見えない一本の線が、ぴんと張られていた。
その線の上を、いま、ようやく、ひとつの事件が、ゆっくりと終わりの方へ流れ始めていた。
廊下の窓のさきで、もう一粒、白いものが、舞った。
それは、たぶん、本当の雪だった。
その一粒目の雪が、谷の上の闇に、すっと吸い込まれていくのを、沙耶香は最後まで、目で追っていた。
そして、ようやく、胸の中の白い紙の束を、そっと、しっかり、抱え直した。
その紙の上には、十年前から続いた長い物語の、ほとんどすべてが、もう、書きつけられていた。
あとは、これを、どんな文章で、誰に、どんなふうに届けるか。
それだけが、旅情ライター篠原沙耶香の、これからの仕事として、残されていた。
長い夜が、確かに、終わりに向かい始めていた。
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