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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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14/15

1-14

 朝が来た。

 谷の上の空は、夜のあいだに薄く雪をくぐらせて、銀色のひと色に変わっていた。

 降る、というほどの雪ではなかった。

 ただ、屋根の瓦の縁にだけ、白い粉のような結晶が、ところどころ細く積もり、それが朝の光の中で、淡くきらめいていた。

 宿の玄関先には、麓へ向かう何台もの車が、すでに用意されていた。

 笹目修造と田中与一の身柄を運ぶ車。

 木下春子を、別ルートで聴取場所へ運ぶ車。

 鳴海半蔵を、警備つきで東京へ送り返す車。

 それぞれの車の脇に、警官たちが分かれて立っていた。

 無駄話はひとつもなかった。

 押し殺した足音と、低い指示の声だけが、玄関先を覆っていた。

 沙耶香は、ロビーの窓から、その光景を見ていた。

 胸の前には、まだ、昨夜の白い紙の束を抱えていた。

 ところどころが、彼女の手汗で、しっとりと湿っていた。

 そのうちの一台に、笹目修造が、両脇を警官に挟まれて乗せられるのが見えた。

 彼は、最後にもう一度だけ、宿の建物を見上げた。

 その目には、もう、何の感情も浮かんでいなかった。

 それから、ふっと視線を伏せて、そのまま車の中に消えた。

 別の車には、田中与一が、もっとうつむいたまま乗せられた。

 田中は、車の中で、両手をひざに乗せたまま、ただじっと床を見ていた。

 その姿だけ見ると、布団敷きの臨時手伝いだった頃の、平凡な中年男にしか見えなかった。

 最後の車に、鳴海半蔵が、毛布をしっかり巻いてもらいながら、警官たちに支えられて乗り込んだ。

 東京へ戻る前に、彼は、ロビーの窓越しに、ぽつりと頭を下げた。

 沙耶香は、軽く目を伏せて応えた。

 ライターと、語り終えた老人とのあいだの、簡素な別れだった。

 車が、ひとつずつ、谷の道を下っていった。

 つづら折りの道の先で、ヘッドライトが、何度か曲線を描いて見え隠れし、やがて杉木立の向こうへ、完全に消えた。

 排気音が遠ざかってから、玄関先には、いつもの宿の朝の風景だけが、ようやく残った。

 仲居が、しずかに掃きそうじを始めた。

 廊下の隅にだけ、まだ、捜査の名残りの黄色いテープが、わずかに張られている。

 そのテープも、午前のうちには、ひとつずつ外されていくはずだった。

 宿の中の朝食は、また、それぞれの部屋で取られた。

 沙耶香は、夢野りりの新しい部屋で、三嶋とりりと、三人で膳を囲んだ。

 この朝の膳には、女将がわざわざ用意してくれた、ささやかな仕立てが加わっていた。

 ひと品多い小鉢と、まだ温かい白米と、湯気を立てる味噌汁。

 ささやかなのに、すべての品が、心のこもった重みを持っていた。

「いただきます」

 夢野りりが、両手を合わせて、小さく言った。

 その声には、もう、昨夜の張りつめた音はなかった。

 ふだんのアイドルのものでもなかった。

 ただ、ようやくここまで来た、若い人の、素直な疲れと、安堵が混ざった声だった。

「いただきます」

 沙耶香も、三嶋も、続いて手を合わせた。

 朝食のあいだ、誰もが、あまり多くを話さなかった。

 それでいて、机のまわりには、奇妙な落ち着きがあった。

 事件は、まだ、後始末の途中にあった。

 しかし、いちばん深い夜は、確かに、後ろへ流れていったのだった。

 朝食を終えて、しばらくしてから、九能弦十郎が、廊下の方からやってきた。

 外を出回って、谷の中の道のいくつかの場所を、最後にもう一度自分の足で確認してきたばかり、という顔つきだった。

 外套の肩には、ごく薄く、雪の粒のあとが残っていた。

「皆さん、おそろいで」

 九能の声には、いつもの低い落ち着きが、戻っていた。

「ええ。警部さんも、お疲れさまでした」

 沙耶香が応じると、九能はわずかに首を振った。

「まだ、終わっていません」

「と、いいますと」

「ひとつだけ、現場で、もう一度確かめておきたいことがある。あなたと、三嶋さんに、つきあってもらえませんか」

 その言い方で、沙耶香にも、すぐ意味は分かった。

 間宮徹の死んだ、あの密室の部屋。

 そこで、最後の絵解きをする、ということだった。

「もちろん、行きます」

「夢野さんは、どうされますか」

 九能は、丁寧に、りり本人にも視線を向けた。

 夢野りりは、しばらく考えてから、はっきりした声で答えた。

「行きたいです。最後まで、ちゃんと、見届けたいんです」

「分かりました」

 九能は、軽くうなずいた。

「ただし、廊下までです。中までは入らなくていい。あなたは、ずっと外から見ていてください」

「はい」

 四人は、廊下を進んでいった。

 廊下の途中、まだ、捜査の名残りの黄色いテープがちらほら残っていた。

 仲居たちは、何も言わずに、四人の通る道を、それぞれ脇へ寄ってあけてくれた。

 その動作のひとつひとつに、長い夜の終わりを察した、宿の人間たちのささやかな敬意が、混じっていた。

 奥の部屋の前に、四人は立った。

 間宮徹が、四日前の夜に、毒入りの酒を口にして死んだ部屋だった。

 九能は、慣れた手つきで、扉の前のテープを外し、ゆっくりと襖を引いた。

 朝の光が、部屋の中に、まっすぐ差し込んだ。

 その光の中に、もう徳利の影はなく、白いテープもなく、ただ、整えられた畳と、布団と、床の間の寒椿だけが、静かに置かれていた。

 部屋は、もう、ふつうの客室に戻っていた。

 四日前の闇は、もう、そこにはなかった。

 それでも、誰かがそこで死んだ気配だけは、空気の隅に、まだ薄く残っていた。

「篠原さん」

 九能は、襖の脇の障子の方へ、こちらを促した。

「あの夜、わたしとあなたが見つけた、糸の跡。覚えていらっしゃいますか」

「はい」

 沙耶香は、しゃがみ込んで、その桟をもう一度見つめた。

 朝の光の中で、その細い擦れあとは、もう、見覚えのある印として、彼女の目に届いた。

 最初に見たときよりも、ずっと、はっきりと意味を持って見える跡だった。

「これから、ここで、その夜の手順を、もう一度、最後まで再現します」

 九能はそう言って、ポケットから、細い糸を一本、取り出した。

 ふつうの裁縫用の糸よりは、少し細い、絹のような白い糸だった。

「捜査の同僚に頼んで、似たような糸を、用意してもらいました。実際に犯人が使ったのと、まったく同じものではないが、太さも、滑り方も、近いはずだ」

「実演、ということですか」

「ええ。最後の絵解きは、頭の中だけじゃなく、現場で、自分の手で確かめておきたい」

 九能の声に、わずかな、しかし、はっきりとした覚悟があった。

「これから先、笹目たちの裁判で、密室がどう作られたか、ということは、必ず一度は問題になる。あんたたちにも、いま、自分の目で、最後まで見ておいてほしい」

 廊下側に、夢野りりと、若い刑事が立った。

 部屋の中には、沙耶香と、三嶋と、九能の三人だけが入った。

 三嶋は、すでにカメラを構えていた。

 シャッターを切るためというよりは、要所要所の絵を、自分の中に焼きつけるための、構え方だった。

「では」

 九能は、まず、襖の引き戸の錠の摘みに、糸の片端を、丁寧にかけた。

 そして、もう一方を、襖の柱とのあいだの、ほんのわずかな隙間から、廊下側にそっと出した。

「ふだん、襖と柱のあいだには、ぱっと見ただけでは、ほとんど隙間はないように見える」

 九能の声は、説明そのものというより、ひとつずつの確認だった。

「ところが、これだけの細い糸であれば、通ります。ことに、長年使われてきた、この宿のような古い襖の場合、襖そのものの木が、わずかに痩せている。糸を通すための隙間が、結果として、できているわけです」

 九能は、廊下側に出てから、襖をゆっくり閉じた。

「いまの状態は、犯人が間宮の部屋を出て、廊下に立った時点と、同じです。部屋の中は、まだ施錠されていない。室内の摘みには、糸がかかったまま、その糸の一方が、わたしの手にある」

 九能は、廊下側で、糸の端を、ゆっくり引いた。

 その手の動きは、慎重そのものだった。

 引きすぎず、緩めすぎず、襖と柱のすき間に通された糸が、内側の摘みを、ちょうど、回転させていく強さを保っている。

 部屋の中の摘みが、その糸の張りに引かれて、ゆっくり回るのが、わずかな金具の音で分かった。

 ちゃり、と小さな音がして、錠がかかった。

「いま、内側の鍵がかかりました」

 九能は、廊下から声を上げた。

 部屋の中に残された沙耶香と三嶋は、襖の引き戸を内側からそっと押してみた。

 びくとも、しなかった。

 ふつうに考えれば、これは、誰かが、内側から鍵を閉めた状態と、まったく区別がつかない状態だった。

「そして」

 廊下の九能の声が、続いた。

「いま、糸の片端を、放します。そして、もう一方を、すうっと引き抜く」

 廊下側で、糸の片端を、九能はわずかに緩めた。

 引き抜く方の手を、もう一方の手とは別の方向に、ゆっくりと動かしていく。

 しばらくの間、目に見えない動作が続いた。

 それから、九能が、低く言った。

「いま、糸を完全に引き抜きました」

 沙耶香は、襖の脇の障子の桟を、もう一度見つめた。

 その桟の上を、いま、目に見えない細い糸が、引かれて、抜けていったところだった。

 二回、三回と、糸が通り抜けるあいだに、その桟の表面に、ごくわずかなすれの痕跡が、残ったはずだった。

 実際、犯人があの夜に残してしまった、唯一の手がかりが、これだった。

「室内側の摘みには、糸がかかっていた痕跡が、もしかしたら、ごく薄く、残っているかもしれない」

 九能は、廊下から、もう一度、慎重に襖を開けてくれた。

 四人で、いま施錠したばかりの摘みを、丁寧に検めた。

 その金具の縁の方に、ごく細い擦り傷のような印が、薄く残っていた。

「これですね」

「ええ。最初の捜査では、ここは、ほとんど見落とされていた箇所だ」

「鑑識の方も、見落とされた」

「鑑識は、毒のことと、外傷のことで頭がいっぱいで、こんな摘みの縁の擦れまでは、最初の一回目では追いきれなかった。あなたたちの目で、障子の桟の方の擦れを見つけたから、そこを足がかりにして、摘みの縁にも、目が届くようになった」

 九能の声には、捜査の現場の、淡々とした実感がにじんでいた。

 派手な推理ではない。

 ふたつの細い擦れあと。

 それだけが、ひとつの密室を解いた、本当の鍵だった。

「窓の方も、原理は同じです」

 九能は、部屋の窓の方へ移って、古い木製のねじ締まり錠を、指でつまみ上げた。

「ねじ式の錠は、上下から少し力をかけてやれば、外からでも、廊下と違って、もうひとつ自由が利く位置から、糸で動かせる。窓の外には、外側の桟があるからね」

「外側の桟、というのは、軒の下の小さな張り出しのところですか」

「ええ。三嶋さん、覚えていますか」

 九能は、ふっと、笑うように三嶋を見た。

「あなた、最初の朝、この宿の外観を、よく撮っていらしたな」

「あ、はい。建物の屋根の感じが、いい絵になるなって」

「あの写真の中に、軒下の桟まで、ちゃんと写っているはずだ。本部の方で照合させたところ、軒下の桟の一カ所に、これも、ごく細い擦れあとが、写真の上で、ぼんやりと写っていた、と」

 三嶋の目が、ぱっと開いた。

「あの軒下の写真、犯人の手の届く範囲を、捉えてたんですか」

「ええ。あなたの撮ったあの写真は、もう一枚、ひそかに重要な証拠になっていた」

 三嶋は、思わず、自分のカメラを軽く抱きしめた。

 そのしぐさの可笑しさに、夢野りりが、廊下から、思わず小さく笑った。

 その笑いの音が、四日前のこの部屋の闇を、ようやく、わずかに溶かしてくれた。

「篠原さん」

 九能は、最後に、沙耶香の方を向いた。

「これで、第一の事件、間宮徹の密室は、完全に解けたことになる」

「ええ」

「第二の事件、河原の梓弓遥は、密室ではない。あれは、笹目と田中が共同で、宿の近くの斜面のあたりで、彼女を待ち伏せして殺し、河原に運んだ。これは、田中の自供と、現場の足跡の照合で、すでに筋が通った」

「梓弓さんが、宿の近くに来ていた理由は」

「彼女自身が、笹目に呼び出されていた、ということだ。間宮と同じく、十年前の責任の押し付けあいの場に、もう一度、引きずり出されていたわけだ。彼女もまた、間宮と同じく、巻き込まないでくれ、と最後まで言いたかった側だ、と思う」

 沙耶香は、目を伏せた。

 梓弓遥の、河原に横たわっていた姿が、もう一度、目の奥に浮かんだ。

 ヒールの低い、街用のパンプス。

 濡れて重たげなコート。

 あの一枚の絵は、これからもしばらく、彼女の中に残ることになるだろう、と思った。

「そして、第三の事件、東京のオートロックのマンションでの密室。あれは」

 九能は、ふっと、息を吐いた。

「鳴海半蔵が、間に合った」

「間に合った、というと」

「鳴海は、自宅に戻っていた一時的な間に、笹目が手配していた『最後の段取り』を、自分で察したらしい。マンションのオートロックの仕組みと、室内の鍵の構造を熟知していた笹目は、たぶん、東京でも、似たような密室を組み立てるつもりだった」

「鳴海さんは、それを察して、自分の意志で、家を出た」

「そして、自分の判断で、笹目本人に連絡を取り、いっそ自分から、湯けむり温泉郷の方へ、彼と一緒に戻ろうと持ちかけた、と本人は言っている」

 沙耶香は、思わず黙った。

 その持ちかけが、どれほど追い詰められたうえでの判断だったか。

 それを思うと、鳴海の老いた姿が、もう一度、胸の奥に重く沈んだ。

「結果として、鳴海さんは、東京の密室を、未完成のまま、こちらに引きずってきた」

「ええ」

「そして、その途中で、警察の網に救われた、と」

「そう、見ていい」

 九能は、低く言った。

「あの男も、自分なりに、十年前の責任を、最後に、自分の手で果たそうとしていた。すべての方法が正しかったかどうかは、別の話だ。だが、笹目の手の中で、もう一人、ただ殺される側に、自分を置きたくはなかった、ということだ」

 部屋の中の朝の光が、いま、四人の足元に、まっすぐ降りていた。

 その光の中で、密室の謎は、もう、その輪郭を完全に失っていた。

 そこに残っていたのは、ただ、ひとつの古い木造の部屋と、淡い寒椿の赤と、誰かが置いていった旅情の気配だけだった。

「警部さん」

 廊下から、夢野りりが、ぽつりと言った。

「ひとつだけ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「あの仲居さんは……木下さんは、これから、どうなるんですか」

 その問いに、九能はすぐには答えなかった。

 しばらく沈黙のあと、ゆっくりと言葉を選びながら、答えた。

「彼女は、笹目の指示で、いくつかの大事な仕掛けに加わった。それは、事実として、刑事責任を問われる対象になる」

「ええ」

「ただし、彼女の中にあった動機は、ふつうの共犯者のそれとは、明らかに違う。十年前の再開発で、家族を、生活を、未来を、もろともに踏みつぶされた家の生き残りだ。そして、その怒りを、笹目に、巧みに利用された」

「軽くなる、ということですか」

「正確に言えば、彼女の処遇は、これから先、検察と裁判所が決めることだ。わたしの立場で、軽くなる、と断言することはできない」

 九能は、いったん、間を置いた。

「ただ、彼女の言葉の中に、お兄さんの最後の言葉を、彼女自身がちゃんと覚えていた、ということ。あの一言を、いま自分の口から言えた、ということ。それが、これから先、彼女の中で、彼女自身を、もう一度立たせる足場になる、と私は、信じている」

「信じる、と警部さんがおっしゃるなら、私も、信じます」

 夢野りりは、静かに、しかし、はっきりした声でそう言った。

 その声の中に、もう、ただの被害者の若い女の子の声ではない、誰かのために、はっきりと自分の意思を口にする人間の声があった。

 沙耶香は、ノートも、ペンも、もう、手の中に握ってはいなかった。

 ただ、その一言を、自分の中に、しっかりと書きとめた。

 部屋を出るとき、九能は、最後にもう一度、部屋の中を振り返った。

「間宮さん」

 彼は、独り言のように、低くつぶやいた。

「あれはそうじゃない、と最後まで言い続けてくださったから、ここまで、こられた」

 その言葉は、間宮徹本人にだけ、聞こえればいいような、ささやかな別れだった。

 沙耶香は、その背中を、しばらく見ていた。

 それから、ゆっくり、廊下に出た。

 夢野りりが、廊下の中ほどで、待っていた。

 沙耶香は、彼女の前に立った。

「りりちゃん」

「はい」

「あなたのこと、書く」

 ひと言だけ、言った。

 それで、十分だった。

 夢野りりは、深く、深く、うなずいた。

 その目には、もう、涙はなかった。

 ただ、これから、自分自身の物語を、自分の足で歩いていく人の、まっすぐな目があった。

 廊下の窓の外で、また、雪がひと粒、舞った。

 そのひと粒は、ふっと、谷の風に乗って、すぐに見えなくなった。

 長い長い夜は、ここで、確かに、ひとつ、閉じた。

 長い長い物語の、もうひとつ別の章が、ここから、ゆっくり、開こうとしていた。

 旅情ライター篠原沙耶香の、本当の仕事は、たぶん、これからだった。

 胸の前の白い紙の束を、彼女は、もう一度、深く抱え直した。

 その紙の上には、いま、四人が立っているこの廊下の、朝の光の色が、もう、染み込みかけていた。


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