1-15
谷の上の宿に、また昼が来た。
夜のあいだに薄く積もりかけた雪は、午前の光のうちにほとんど溶けて、屋根瓦の縁にだけ、わずかな白いひとすじが残っているだけだった。
宿の中では、すでに片付けが始まっていた。
廊下に張られていた最後の黄色いテープも、午前のうちに、ひとつずつ静かに剥がされていった。
剥がしたテープは、若い刑事の手のひらの上で、ていねいに四角に折りたたまれて、束ねられていた。
物そのものは、ただの粘着テープなのに、その畳まれ方には、長い夜の重みが残っているように、沙耶香には見えた。
ロビーの片隅では、女将と、ベテラン仲居が、机をはさんで何やら帳簿を広げていた。
事件のあいだに乱れた宿の予定を、ひとつずつ、これからの再開の段取りへと組み直していく作業らしかった。
その机のすぐ脇に、湯気の上がるポットが置かれている。
ふだんの宿の朝の風景に、ようやく、こうやってひとつずつ「ふだん」が戻り始めていた。
沙耶香は、ロビーから廊下を少しだけ歩いて、自分の部屋に戻った。
胸の前から、ようやく白い紙の束を、机の上に下ろした。
紙の束は、しっとりとした湿り気を帯びていた。
何枚かは、彼女の指のかたちに、わずかにしわが寄っている。
その上に、ペン立てから取り出した古い万年筆をひとつ、そっと添えた。
ふだん原稿のときに使う、彼女の仕事道具のひとつだった。
ノートと、ペンと、ライターの紙束。
そのみっつが、机の上で並んだとき、沙耶香はようやく、ひと息、深い息を吐いた。
ここまでの夜と朝のあいだに、自分が手に入れたものの重みが、ようやく、机の上のかたちとして、見えていた。
部屋の隅に置いた荷物を見ると、もう、出立のための半分の準備は、知らぬまに済んでいた。
旅情ライターとして谷に入ったのは、ほんの数日前のことだった。
それが、いまは、別の重さの荷物を抱えて、ここを出ていく日が、もう、近かった。
廊下の方から、軽い足音が近づいてきた。
三嶋正だった。
部屋の前で、彼は、いったん声をかけてから、襖の隙間に顔をのぞかせた。
「沙耶香さん。ちょっと、いいですか」
「ええ」
三嶋は、カメラを首から下げたままだった。
ただ、その表情は、もう、いつもの仕事中の集中の顔ではなかった。
長い夜の中で出さなかった分の、緩みが、ようやく顔に戻ってきていた。
「お疲れさま、ですよね、いちおう」
「いちおう、ね」
「いちおう、で大丈夫ですか、これ」
「もう大丈夫」
三嶋は、ほっと笑った。
「沙耶香さん、いまから、警部さんと話、するんですよね」
「うん。荷物の整理のあとで、もう一度、ロビーで時間を取ってもらってある」
「あの、その前にね」
「うん」
「夢野さんが、なんか、ひとつ、相談ごとがあるみたいで」
「相談」
「ええ。さっきから、ロビーで、文庫本ぱらぱらやりながら、私の顔を見るたびに、何か言いかけては、引っ込めて、また見るたびに、言いかけては、引っ込めて。たぶん、沙耶香さんに話したいことなんですよ」
その様子を思い浮かべて、沙耶香は思わず、ふっと、笑った。
「分かった。ありがとう。私から、声、かけてみる」
「ですよね。たぶん、それが正解です」
三嶋は、軽く頭をかきながら、部屋の前から退いた。
廊下を歩く彼の後ろ姿には、もう、夜中の闇の中で、無言でカメラを構え続けていた緊張は、なかった。
ふだんの、すこしどんくさいカメラマンの背中に、ちゃんと戻っていた。
沙耶香は、白い紙の束を机の上に置いたまま、いったん、ロビーに下りた。
ロビーのいつもの隅に、夢野りりは、いつものように、文庫本を膝に乗せて座っていた。
ただし、その姿には、ここ何日かと、決定的に違うところがあった。
膝の上の文庫本は、ちゃんと、ページが、四分の一ほど進んでいた。
その進みかたを見ただけで、沙耶香の胸の奥が、わずかに、ほどけた。
「りりちゃん」
声をかけると、りりは、ぱっと顔を上げた。
その目に、はずかしげな、しかし、まっすぐな光が、すでに灯っていた。
「篠原さん」
「お話、あるんでしょう」
「あ……三嶋さん、もしかして」
「ばらしちゃってたね、三嶋くん」
「やっぱり……」
りりは、口元に手を当てて、はじめて、ふだんのアイドルらしい、子どもっぽい笑い方をした。
その笑顔の中に、ここ何日かの怯えのなごりは、もう、ほとんど混じっていなかった。
「ちょっと、外、行きませんか」
「外?」
「宿の前のところでいいんです。今日、お日さま、ちょっと出てるから」
沙耶香は、うなずいて、ロビーの外套掛けから、薄手のショールを取った。
ふたりで、玄関先まで歩いた。
冬の山の朝とは思えないほどの、やわらかな日差しが、玄関先の石段の上に降りていた。
風はまだ冷たかったが、その冷たさの中にも、もう、夜の闇のときのような、針のような尖りはなかった。
宿の玄関の脇に、苔のついた古い石段がある。
そこに、ふたりは、間を空けてふたつ並んで、腰を下ろした。
少しのあいだ、夢野りりは、目の前の渓流の方を、ただ眺めていた。
朝の光の中を、湯けむりが、変わらず、ゆっくりと立ち上っていた。
「篠原さん」
「うん」
「わたし、もう少しだけ、お話、聞いてもらってもいいですか」
「もちろん」
夢野りりは、文庫本を膝に置きなおして、両手で表紙を、ぎゅっと押さえた。
その手の上に、薄い日差しが、まっすぐに落ちていた。
「わたし、アイドルになったきっかけって、いままで、あんまり人に話したことがなくて」
「うん」
「お父さんが、わたしが小さい頃に、もう亡くなってて。お母さんが、ずっと、ひとりで、いろんな仕事を掛け持ちして、わたしを育ててくれて」
「うん」
「お母さん、あんまり、強い人じゃないんです」
夢野りりの声は、低かった。
「働きすぎちゃう人で、それでね、いっとき、心の調子も、すごく、悪くなった時期があって。わたしが、もう、子どもじゃ、なくなったくらいの時期に」
「うん」
「そのときにね、わたし、お母さんに、自分でいくらか、お金を入れてあげられる仕事を、探したくて。学校終わってから、いっぱい、オーディションみたいなところに行って、それで、ちっちゃい事務所だったけど、拾ってもらえて」
「アイドルになった、と」
「はい」
「いまの事務所と、いまの仕事は、好きなの」
「好きです。すごく」
ためらわずに、夢野りりは、答えた。
「歌うのも、踊るのも、好きだし、応援してくれてる人と、目が合うときの、あの、ぱっと光が来る感じも、好きで」
「うん」
「ただ、ね、篠原さん」
「うん」
「ずっと、自分のことを、自分の言葉で、ちゃんと話したこと、なかったんです」
「ファンの人にも?」
「ファンの人には、もちろん、しゃべってはいるんです。ステージのトークコーナーとか、SNSとか。でも、ぜんぶ、用意してある言葉で、しゃべってて。お母さんのこととか、お父さんのこととか、ぜんぜん、表に出してこなくて」
「うん」
「アイドルって、なんとなく、そういうの、隠した方がいい、って言われてて」
「うん」
「でも、ね」
夢野りりは、いったん、深く息を吸った。
「ここに来てから、いろんなことが、いっぺんに、わたしの中で、変わっちゃって」
「うん」
「目の前で、人が亡くなるっていうことを、生まれて初めて見て。それで、わたしも、もしかして同じふうになるかもしれなかった、っていう怖さも、ちゃんと感じて」
「うん」
「そのうえで、わたしのために、警部さんが動いてくださって、篠原さんと、三嶋さんと、お部屋の前で、夜どおし、いっしょにいてくださって」
「うん」
「あの仲居さんの最後の声を、忘れたくない、って思って」
「うん」
「自分のこと、もうこれ以上、隠して生きていく必要、ないんじゃないかな、って思ったんです」
夢野りりの声は、少しずつ、ゆっくりと、しかし、まっすぐ前に進み始めていた。
それは、長いトンネルの先で、自分の中の灯りが、ようやくひとつ、しっかり点いた人の声だった。
沙耶香は、相づちを、必要以上に挟まなかった。
ライターとしての癖で、こういう瞬間、相手の声を、できるかぎり、まっすぐに通してあげるべきだ、と知っていた。
「だから、ね」
夢野りりは、ぐっと、文庫本を強く握った。
「篠原さんに、わたしのこと、書いてほしくて」
「うん」
「もちろん、事件のこと、ちゃんと書いてほしいんです。お亡くなりになった方のことも、巻き込まれた方のことも。それから、わたしが、巻き込まれたことを、責任から逃すために、書くんじゃなくて」
「うん」
「そういうのを、ぜんぶ、ちゃんと書いた上で、その本の中の、わたしの章には、お母さんのこととか、わたしがアイドルになった理由とか、そういうのも、ちょっとだけ、入れていいですか」
「いいに、決まってる」
沙耶香は、すぐに、答えた。
その「すぐに」が、自分でも、ちょうどよかった、と思った。
「ありがとうございます」
夢野りりは、目の縁を、わずかに、指で拭った。
「篠原さん。あれから、ずっと考えてたタイトルが、あって」
「タイトル」
「はい」
「言ってみる?」
夢野りりは、深く深く、一度息を吸って、ゆっくりと言った。
「『旅先で事件に巻き込まれた悲しきアイドル事件簿』」
その声色には、自分でも少し照れるような、しかし、はっきりとした思いの強さがにじんでいた。
沙耶香は、しばらく、その言葉を、口の中だけで、ゆっくり繰り返した。
長い、すこしぎこちないタイトルだった。
それでも、その「悲しき」のひと言の中に、夢野りりが、自分のことを、もう、隠さないと決めた覚悟が、はっきり乗っていた。
「いいタイトル」
沙耶香は、答えた。
「もう、それしかない、ってくらい、いい」
「ほんとですか」
「ほんと」
「あの、もし、変えた方がいいなら、もちろん、篠原さんの方で」
「いいえ。これで」
沙耶香は、薄く笑った。
「これで、いきます」
夢野りりは、ぱあっと顔を明るくして、両手で口を覆った。
その仕草が、いつものアイドルのものなのか、ふだんの彼女自身のものなのか、もう、沙耶香には、すこし区別がつかなくなりつつあった。
ふと、玄関の方から、低い咳ばらいが聞こえた。
九能弦十郎が、外套の襟元を整えながら、こちらへ歩いてきていた。
「お話の途中で、申し訳ない」
「いえ、ちょうど終わったところでした」
「それは、よかった」
九能は、石段の脇に立ったまま、ふたりを見下ろした。
その姿勢は、もう、刑事として誰かを見下ろす姿勢ではなく、ただの、年長者のそれだった。
「夢野さん」
「はい」
「先ほど、麓の警察と、こちらの本部のあいだで、最後の確認をしてきました」
「はい」
「ここからは、警察の側で、外に向けて、最低限の情報を出す段取りに入ります。マスコミにも、いずれは事件のことが伝わる」
「はい」
「あなたの名前は、できるかぎり、表に出さないように手配します。ただ、芸能関係の取材は、おそらく、いくつか、出てくる」
「分かっています」
「事務所の方には、警察から、こちらの状況を、改めて連絡しておきます。あなた自身が、東京に戻られたあと、すぐに無理な仕事を入れさせないように、念のための一筆を、こちらから入れさせてもらっていいですか」
「お願い、します」
夢野りりは、深く頭を下げた。
ふだんなら、ファンの目を意識して整える、優雅なお辞儀ではなかった。
ただの、ひとりの若い女の、まっすぐな礼だった。
九能はそれを、ふっと、目を細めて受け取った。
「篠原さん」
「はい」
「あなたとの話、いまから、よろしいですか」
「もちろんです」
ふたりは石段から立ち上がって、玄関の中へ戻った。
夢野りりは、ロビーまで戻ったところで、こちらに小さく手を振って、自分の部屋へ上がっていった。
その背中の頼りなさは、もう、ずいぶん減っていた。
九能は、ロビーの奥の小さな個室に、沙耶香を案内した。
夜のあいだ、捜査の打ち合わせに使われていた、あの帳場脇の小部屋だった。
机の上には、すでに、ふたつの湯のみが用意されていた。
仲居の手配ではなく、九能自身が、廊下の途中で頼んでくれたものらしかった。
「お茶、いれましょうか」
「いえ、私が」
沙耶香はそう言って、机に近づくと、自然に、九能の湯のみと自分の湯のみに、ポットからお茶を注いだ。
九能は、机の上に肘をついて、しばらく、その湯のみの湯気を眺めていた。
「篠原さん」
「はい」
「あなたと、三嶋さんと、夢野さんが、いてくれなかったら、わたしは、今回のこと、たぶん、解けなかった」
「警部さん」
「いや、これは、お世辞じゃない」
九能は、低く言った。
「事件の捜査というのは、結局、人の話を、いかに本気で聞けるか、というだけの仕事です。それが、警察の人間だけで全部できるかというと、できないことの方が、多い」
「ええ」
「あなたは、ライターとして、ふつうに話を聞いた。三嶋さんは、ふつうに写真を撮った。夢野さんは、ふつうに、廊下を歩いた」
「ええ」
「そのふつうの中に、私たちの捜査では絶対に届かない隙間が、いくつもあった」
九能の目の中に、長い夜のあとの、ある種の透明さがあった。
「だから、最後にもう一度、こちらから、はっきり、お願いしておきたい」
「はい」
「夢野さんが、あなたに頼んだ記事のこと。あれは、ぜひ、書いてもらいたい」
「警部さん」
「ええ」
「私で、いいんでしょうか」
「あなたしかいません」
九能は、即答した。
「あなたが書かないと、あの子の声は、結局、世の中のどこにも届かない。声というのは、放っておくと、すぐに、ふつうの空気に紛れてしまう」
「警部さん」
「裁判の中で、もちろん、彼女の証言は、きちんと残ります。だが、それだけでは、足りない。あの子が、なぜ、あの場所に立っていたのか。なぜ、第一発見者にされたのか。なぜ、それでも、自分の口でその先を話そうとしたのか。そういうところは、調書の中には、なかなか入りきらん」
「だから、私に」
「ええ」
「警部さん。ひとつ、お願いしてもいいですか」
「なんですか」
「事件のことを書くにあたって、必要な範囲で、捜査の中の、表に出してもいい情報を、教えていただいてもいいですか。もちろん、関係者の方々のプライバシーや、まだ裁判の途中の段階で、書くべきでないところは、警部さんと相談しながら」
「もちろん、お願いします」
九能は、深くうなずいた。
「捜査の側からも、出していい範囲で、必ず、情報を入れます。書くべき範囲、書くべきでない範囲、その線引きは、私の方も、最後まで、責任を持つ」
「ありがとうございます」
「もうひとつ」
「はい」
「あなたの記事の中で、わたしのことは、できるだけ、地味な脇役として書いてもらえると、ありがたい」
「警部さん」
「警部殿、というだけで、本来、十分です。あなたの記事の主役は、最初から、夢野さんと、それから、十年前のあの町の人たちと、いまも谷の中で泣いている若い仲居の子だ」
その言葉は、奇妙に静かだった。
そして、奇妙に、揺らがなかった。
長い夜の中で、何度も背中越しに見てきた九能弦十郎の姿が、いま、目の前のひとりの人間として、はっきりと、沙耶香の中に納まった。
「分かりました」
沙耶香は、答えた。
「警部さんは、できるだけ、地味な脇役で。でも」
「でも?」
「事件のいちばん大事なところで、ふっと、出てくださる脇役、として」
その答え方に、九能はわずかに目を細めて、ふっと、笑った。
「あなたは、本当に、ライターらしいな」
「ええ。これでも、ライターですから」
「これからも、よろしくお願いします、篠原さん」
「こちらこそ、お願いします、警部さん」
ふたりは、机をはさんで、ちいさく、しかし、たしかな会釈を交わした。
その会釈の中に、長い夜のあいだに育った、奇妙な信頼の、最後のかたちが、あった。
谷を発つ準備は、午後のうちに整った。
宿の玄関先で、女将と、ベテラン仲居が、丁寧に三人を見送ってくれた。
夢野りりは、サングラスもマスクもしていなかった。
ふだんの仕事の場ではあれほど神経を使う「目立たない格好」を、ここでは、もう必要としていなかった。
そのこと自体に、彼女の中で何かが変わったのが、はっきりと現れていた。
「篠原さま、三嶋さま、夢野さま」
女将は、丁寧に頭を下げた。
「このたびは、本当に、ご迷惑を、おかけして」
「いえ。本当に、お世話になりました」
「もし、また、お時間ができたら、今度は、こんなことのない、ふつうのお泊まりで、お越しください」
「必ず」
沙耶香は、深くうなずいた。
その「必ず」は、ライターとしての義理だけで言った言葉ではなかった。
この谷の、湯けむりと、寒椿と、廊下の節目の風合いと、そして、女将や仲居たちの、長い時間の中で磨かれた所作。
そのすべてに、いつかもう一度、ちゃんと、旅情ライターとしての記事を、向けたかった。
事件の記事とは、別に。
「ふつうのお泊まりとしての記事」を書ける日が、必ずまた、この谷にも、戻ってくるはずだった。
車に乗り込む前、夢野りりは、宿の玄関の方を、もう一度振り返った。
「篠原さん」
「うん」
「わたし、また、ここに来ます」
「うん」
「もしできれば、お母さんも、いっしょに」
「うん」
「お母さんに、谷のお湯を、見せたいんです」
その一言を、沙耶香は、ちゃんと、自分の中に書き取った。
事件の終わりのあとに、彼女が、自分の人生の続きの方を、ちゃんと向こうに置いている。
その向き直り方が、たまらなく、まぶしかった。
車は、ゆっくりと、宿の前を出た。
つづら折りの道を、ヘッドライトをつけずに、慎重に下っていく。
谷の道の途中で、沙耶香は、後部座席の窓から、もう一度宿の方を振り返った。
宿の屋根のうえに、ふた粒、み粒、白いものが舞っていた。
それは、まぎれもなく、雪だった。
きょうの雪は、もう、夜のあいだの細雪ではなかった。
ふつうに谷の上空から、ふつうの寒さの中へ降ってくる、ふつうの雪だった。
その光景を、沙耶香は、しばらく、目の中に焼きつけた。
ふつうの雪が、ふつうに降っていく。
それだけのことが、たまらなく、いとおしかった。
麓の駅前に着くと、九能弦十郎が、別の車で先回りして待っていてくれた。
警官たちは、すでにみな、別の業務に散っていた。
九能は、ホームの方ではなく、駅前のロータリーの脇で、ひとり立っていた。
その姿は、もう、捜査本部の警部の姿ではなく、ただの、見送りに来た年上の知り合いの姿に近かった。
「警部さん」
「篠原さん。三嶋さん。それから、夢野さん」
「はい」
「短いあいだでしたが、おつきあい、ありがとうございました」
「警部さんも、お疲れさまでした」
「いえいえ」
九能は、軽く首を振った。
「これから先も、お互い、それぞれの仕事のうえで、何かあれば、いつでも、連絡してください」
「警部さん」
沙耶香が、ひとつ、言った。
「東京で、また、お会いできますよね」
「ええ」
九能は、ふっと、笑った。
「東京に、戻られたら、いつかまた、お茶でも」
「ぜひ」
「お茶代は、わたしが」
「いえいえ、私が」
「いやいや、わたしが」
「警部さん」
「あなたから、ライターとして、ちゃんと取材料をいただけるくらいになったら、その日は、わたしから出させてください」
そう言われて、沙耶香は、思わず、声を出して笑った。
笑ったあとで、自分が長いあいだ、こんなふうに、声を出して笑っていなかったことに、ようやく気がついた。
「警部さん。約束ですよ」
「約束です」
ふたりは、握手を交わした。
九能の手は、見た目よりも、ずっと厚く、暖かかった。
長い時間、刑事として、人と人のあいだに手を入れ続けてきた手だった。
ホームに上がると、ローカル線の二両編成の列車が、すでに、煙のような白い湯気のあたまだけのぞかせて、待っていた。
四日前、沙耶香と三嶋がここに降り立ったのと、まったく同じ顔の列車だった。
それでも、その列車のドアの向こうにある景色は、今日からは、もう、別のものだった。
夢野りりが、ホームの先頭の方で、しばらく、谷の方を振り返って立っていた。
その背中に、駅員のおじさんが、ふっと、軽く頭を下げて通り過ぎた。
特別な視線ではない、ただの、地元の人としての、見送りの会釈だった。
そういう「ふつう」の会釈が、いまの夢野りりには、誰よりも、似合っていた。
列車のドアが開いた。
三人は、いっしょに乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、沙耶香は、もう一度、ホームの方を振り返った。
ロータリーの脇に立ったままの、九能弦十郎の姿が、見えた。
九能は、軽く片手を上げて、こちらに、ひとつ、低くうなずいた。
その短い動作の中に、長い長い夜の最後のあいさつが、すべて、収まっていた。
列車が、ゆっくりと、走り出した。
谷の景色が、窓の外を、また、ゆるやかに流れ始めた。
四日前、最初に見た、霧をはらんだ渓流。
事件の朝、白い湯けむりが冷たく見えた、あの窓辺の景色。
そのすべての続きが、いま、こちらに、ふつうの旅情として、ふたたび戻ってきていた。
「沙耶香さん」
向かいの席の三嶋が、間延びした声で、いつもの調子に戻って言った。
「今回の記事、僕は、いっぱい写真、用意してありますからね」
「ええ。お願いね」
「で、僕、ちょっと、思ったんですけど」
「うん」
「いつかこれ、本当に、小説に、なったりするんですかね」
その質問に、沙耶香は、しばらく窓の外を見ていた。
それから、ゆっくり、答えた。
「うん。なる」
「なる、んですね」
「うん」
「タイトルは、もう、決まってます?」
「決まってる」
「言ってもらえます?」
沙耶香は、向かいの席の夢野りりに、ちらり、と目をやった。
夢野りりが、目を伏せて、しかし、しっかりと、こくりとうなずいた。
その瞬間を、写真ではないけれど、しっかりと自分の中に焼きつけてから、沙耶香は、ゆっくり言った。
「『旅先で事件に巻き込まれた悲しきアイドル事件簿』」
三嶋は、しばらく、その長いタイトルを、口の中だけでもう一度繰り返してから、ほっと笑った。
「いいですね、それ。ぴったりです」
「でしょ」
「で、その本の中で、僕って、どんな扱いです?」
「カメラマン」
「いや、それ、最低限のやつじゃないですか」
「ちょっとぽんこつな、でも、肝心のところでは外さない、カメラマン」
「あ、それ、ちょっと、いいです」
「ちょっと、じゃなくて、けっこう、いい」
「けっこう、いい?」
「ええ。事件の中の、ふつうの相棒として、けっこう、いい」
三嶋は、目を細めて、首から下げたカメラのストラップを、もう一度、握り直した。
その後ろの席で、夢野りりが、ふっと、声を立てて笑った。
その笑い声の中に、もう、夜の闇のなごりは、ほとんど、入っていなかった。
ただ、若い人の笑い声の、まっすぐな響きだけが、あった。
列車は、谷の出口の長いトンネルへ、ゆっくりと、入っていった。
外の景色が、いったん、ふっと、闇に変わった。
窓のガラスに、三人の顔が、薄く映った。
そのうちのひとりの顔は、四日前の、まだ何も知らない旅情ライターの顔ではなかった。
それでいて、何かを失ってしまった人の顔でも、なかった。
ただ、自分の人生のうえに、もうひとつ、新しい仕事を背負うことを、はっきりと決めた人間の顔だった。
トンネルの先で、谷の出口の光が、ゆっくりと近づいてきていた。
その光の向こうに、こちらが、これから戻っていく日常の街並みが、待っているはずだった。
そして、その街並みの中に、これから、長いあいだかけて、丁寧に書いていくべきひとつの本の、最初の一行が、まだ書かれていない、白いままで、待っているはずだった。
その一行の上で、いま、列車のリズムにあわせて、沙耶香の指が、ひざのうえで、知らずに小さく、ぱた、ぱた、と動いていた。
旅情ライター篠原沙耶香の、本当の仕事は、たぶん、ここから、ようやく始まろうとしていた。
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