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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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1-15

 谷の上の宿に、また昼が来た。

 夜のあいだに薄く積もりかけた雪は、午前の光のうちにほとんど溶けて、屋根瓦の縁にだけ、わずかな白いひとすじが残っているだけだった。

 宿の中では、すでに片付けが始まっていた。

 廊下に張られていた最後の黄色いテープも、午前のうちに、ひとつずつ静かに剥がされていった。

 剥がしたテープは、若い刑事の手のひらの上で、ていねいに四角に折りたたまれて、束ねられていた。

 物そのものは、ただの粘着テープなのに、その畳まれ方には、長い夜の重みが残っているように、沙耶香には見えた。

 ロビーの片隅では、女将と、ベテラン仲居が、机をはさんで何やら帳簿を広げていた。

 事件のあいだに乱れた宿の予定を、ひとつずつ、これからの再開の段取りへと組み直していく作業らしかった。

 その机のすぐ脇に、湯気の上がるポットが置かれている。

 ふだんの宿の朝の風景に、ようやく、こうやってひとつずつ「ふだん」が戻り始めていた。

 沙耶香は、ロビーから廊下を少しだけ歩いて、自分の部屋に戻った。

 胸の前から、ようやく白い紙の束を、机の上に下ろした。

 紙の束は、しっとりとした湿り気を帯びていた。

 何枚かは、彼女の指のかたちに、わずかにしわが寄っている。

 その上に、ペン立てから取り出した古い万年筆をひとつ、そっと添えた。

 ふだん原稿のときに使う、彼女の仕事道具のひとつだった。

 ノートと、ペンと、ライターの紙束。

 そのみっつが、机の上で並んだとき、沙耶香はようやく、ひと息、深い息を吐いた。

 ここまでの夜と朝のあいだに、自分が手に入れたものの重みが、ようやく、机の上のかたちとして、見えていた。

 部屋の隅に置いた荷物を見ると、もう、出立のための半分の準備は、知らぬまに済んでいた。

 旅情ライターとして谷に入ったのは、ほんの数日前のことだった。

 それが、いまは、別の重さの荷物を抱えて、ここを出ていく日が、もう、近かった。

 廊下の方から、軽い足音が近づいてきた。

 三嶋正だった。

 部屋の前で、彼は、いったん声をかけてから、襖の隙間に顔をのぞかせた。

「沙耶香さん。ちょっと、いいですか」

「ええ」

 三嶋は、カメラを首から下げたままだった。

 ただ、その表情は、もう、いつもの仕事中の集中の顔ではなかった。

 長い夜の中で出さなかった分の、緩みが、ようやく顔に戻ってきていた。

「お疲れさま、ですよね、いちおう」

「いちおう、ね」

「いちおう、で大丈夫ですか、これ」

「もう大丈夫」

 三嶋は、ほっと笑った。

「沙耶香さん、いまから、警部さんと話、するんですよね」

「うん。荷物の整理のあとで、もう一度、ロビーで時間を取ってもらってある」

「あの、その前にね」

「うん」

「夢野さんが、なんか、ひとつ、相談ごとがあるみたいで」

「相談」

「ええ。さっきから、ロビーで、文庫本ぱらぱらやりながら、私の顔を見るたびに、何か言いかけては、引っ込めて、また見るたびに、言いかけては、引っ込めて。たぶん、沙耶香さんに話したいことなんですよ」

 その様子を思い浮かべて、沙耶香は思わず、ふっと、笑った。

「分かった。ありがとう。私から、声、かけてみる」

「ですよね。たぶん、それが正解です」

 三嶋は、軽く頭をかきながら、部屋の前から退いた。

 廊下を歩く彼の後ろ姿には、もう、夜中の闇の中で、無言でカメラを構え続けていた緊張は、なかった。

 ふだんの、すこしどんくさいカメラマンの背中に、ちゃんと戻っていた。

 沙耶香は、白い紙の束を机の上に置いたまま、いったん、ロビーに下りた。

 ロビーのいつもの隅に、夢野りりは、いつものように、文庫本を膝に乗せて座っていた。

 ただし、その姿には、ここ何日かと、決定的に違うところがあった。

 膝の上の文庫本は、ちゃんと、ページが、四分の一ほど進んでいた。

 その進みかたを見ただけで、沙耶香の胸の奥が、わずかに、ほどけた。

「りりちゃん」

 声をかけると、りりは、ぱっと顔を上げた。

 その目に、はずかしげな、しかし、まっすぐな光が、すでに灯っていた。

「篠原さん」

「お話、あるんでしょう」

「あ……三嶋さん、もしかして」

「ばらしちゃってたね、三嶋くん」

「やっぱり……」

 りりは、口元に手を当てて、はじめて、ふだんのアイドルらしい、子どもっぽい笑い方をした。

 その笑顔の中に、ここ何日かの怯えのなごりは、もう、ほとんど混じっていなかった。

「ちょっと、外、行きませんか」

「外?」

「宿の前のところでいいんです。今日、お日さま、ちょっと出てるから」

 沙耶香は、うなずいて、ロビーの外套掛けから、薄手のショールを取った。

 ふたりで、玄関先まで歩いた。

 冬の山の朝とは思えないほどの、やわらかな日差しが、玄関先の石段の上に降りていた。

 風はまだ冷たかったが、その冷たさの中にも、もう、夜の闇のときのような、針のような尖りはなかった。

 宿の玄関の脇に、苔のついた古い石段がある。

 そこに、ふたりは、間を空けてふたつ並んで、腰を下ろした。

 少しのあいだ、夢野りりは、目の前の渓流の方を、ただ眺めていた。

 朝の光の中を、湯けむりが、変わらず、ゆっくりと立ち上っていた。

「篠原さん」

「うん」

「わたし、もう少しだけ、お話、聞いてもらってもいいですか」

「もちろん」

 夢野りりは、文庫本を膝に置きなおして、両手で表紙を、ぎゅっと押さえた。

 その手の上に、薄い日差しが、まっすぐに落ちていた。

「わたし、アイドルになったきっかけって、いままで、あんまり人に話したことがなくて」

「うん」

「お父さんが、わたしが小さい頃に、もう亡くなってて。お母さんが、ずっと、ひとりで、いろんな仕事を掛け持ちして、わたしを育ててくれて」

「うん」

「お母さん、あんまり、強い人じゃないんです」

 夢野りりの声は、低かった。

「働きすぎちゃう人で、それでね、いっとき、心の調子も、すごく、悪くなった時期があって。わたしが、もう、子どもじゃ、なくなったくらいの時期に」

「うん」

「そのときにね、わたし、お母さんに、自分でいくらか、お金を入れてあげられる仕事を、探したくて。学校終わってから、いっぱい、オーディションみたいなところに行って、それで、ちっちゃい事務所だったけど、拾ってもらえて」

「アイドルになった、と」

「はい」

「いまの事務所と、いまの仕事は、好きなの」

「好きです。すごく」

 ためらわずに、夢野りりは、答えた。

「歌うのも、踊るのも、好きだし、応援してくれてる人と、目が合うときの、あの、ぱっと光が来る感じも、好きで」

「うん」

「ただ、ね、篠原さん」

「うん」

「ずっと、自分のことを、自分の言葉で、ちゃんと話したこと、なかったんです」

「ファンの人にも?」

「ファンの人には、もちろん、しゃべってはいるんです。ステージのトークコーナーとか、SNSとか。でも、ぜんぶ、用意してある言葉で、しゃべってて。お母さんのこととか、お父さんのこととか、ぜんぜん、表に出してこなくて」

「うん」

「アイドルって、なんとなく、そういうの、隠した方がいい、って言われてて」

「うん」

「でも、ね」

 夢野りりは、いったん、深く息を吸った。

「ここに来てから、いろんなことが、いっぺんに、わたしの中で、変わっちゃって」

「うん」

「目の前で、人が亡くなるっていうことを、生まれて初めて見て。それで、わたしも、もしかして同じふうになるかもしれなかった、っていう怖さも、ちゃんと感じて」

「うん」

「そのうえで、わたしのために、警部さんが動いてくださって、篠原さんと、三嶋さんと、お部屋の前で、夜どおし、いっしょにいてくださって」

「うん」

「あの仲居さんの最後の声を、忘れたくない、って思って」

「うん」

「自分のこと、もうこれ以上、隠して生きていく必要、ないんじゃないかな、って思ったんです」

 夢野りりの声は、少しずつ、ゆっくりと、しかし、まっすぐ前に進み始めていた。

 それは、長いトンネルの先で、自分の中の灯りが、ようやくひとつ、しっかり点いた人の声だった。

 沙耶香は、相づちを、必要以上に挟まなかった。

 ライターとしての癖で、こういう瞬間、相手の声を、できるかぎり、まっすぐに通してあげるべきだ、と知っていた。

「だから、ね」

 夢野りりは、ぐっと、文庫本を強く握った。

「篠原さんに、わたしのこと、書いてほしくて」

「うん」

「もちろん、事件のこと、ちゃんと書いてほしいんです。お亡くなりになった方のことも、巻き込まれた方のことも。それから、わたしが、巻き込まれたことを、責任から逃すために、書くんじゃなくて」

「うん」

「そういうのを、ぜんぶ、ちゃんと書いた上で、その本の中の、わたしの章には、お母さんのこととか、わたしがアイドルになった理由とか、そういうのも、ちょっとだけ、入れていいですか」

「いいに、決まってる」

 沙耶香は、すぐに、答えた。

 その「すぐに」が、自分でも、ちょうどよかった、と思った。

「ありがとうございます」

 夢野りりは、目の縁を、わずかに、指で拭った。

「篠原さん。あれから、ずっと考えてたタイトルが、あって」

「タイトル」

「はい」

「言ってみる?」

 夢野りりは、深く深く、一度息を吸って、ゆっくりと言った。

「『旅先で事件に巻き込まれた悲しきアイドル事件簿』」

 その声色には、自分でも少し照れるような、しかし、はっきりとした思いの強さがにじんでいた。

 沙耶香は、しばらく、その言葉を、口の中だけで、ゆっくり繰り返した。

 長い、すこしぎこちないタイトルだった。

 それでも、その「悲しき」のひと言の中に、夢野りりが、自分のことを、もう、隠さないと決めた覚悟が、はっきり乗っていた。

「いいタイトル」

 沙耶香は、答えた。

「もう、それしかない、ってくらい、いい」

「ほんとですか」

「ほんと」

「あの、もし、変えた方がいいなら、もちろん、篠原さんの方で」

「いいえ。これで」

 沙耶香は、薄く笑った。

「これで、いきます」

 夢野りりは、ぱあっと顔を明るくして、両手で口を覆った。

 その仕草が、いつものアイドルのものなのか、ふだんの彼女自身のものなのか、もう、沙耶香には、すこし区別がつかなくなりつつあった。

 ふと、玄関の方から、低い咳ばらいが聞こえた。

 九能弦十郎が、外套の襟元を整えながら、こちらへ歩いてきていた。

「お話の途中で、申し訳ない」

「いえ、ちょうど終わったところでした」

「それは、よかった」

 九能は、石段の脇に立ったまま、ふたりを見下ろした。

 その姿勢は、もう、刑事として誰かを見下ろす姿勢ではなく、ただの、年長者のそれだった。

「夢野さん」

「はい」

「先ほど、麓の警察と、こちらの本部のあいだで、最後の確認をしてきました」

「はい」

「ここからは、警察の側で、外に向けて、最低限の情報を出す段取りに入ります。マスコミにも、いずれは事件のことが伝わる」

「はい」

「あなたの名前は、できるかぎり、表に出さないように手配します。ただ、芸能関係の取材は、おそらく、いくつか、出てくる」

「分かっています」

「事務所の方には、警察から、こちらの状況を、改めて連絡しておきます。あなた自身が、東京に戻られたあと、すぐに無理な仕事を入れさせないように、念のための一筆を、こちらから入れさせてもらっていいですか」

「お願い、します」

 夢野りりは、深く頭を下げた。

 ふだんなら、ファンの目を意識して整える、優雅なお辞儀ではなかった。

 ただの、ひとりの若い女の、まっすぐな礼だった。

 九能はそれを、ふっと、目を細めて受け取った。

「篠原さん」

「はい」

「あなたとの話、いまから、よろしいですか」

「もちろんです」

 ふたりは石段から立ち上がって、玄関の中へ戻った。

 夢野りりは、ロビーまで戻ったところで、こちらに小さく手を振って、自分の部屋へ上がっていった。

 その背中の頼りなさは、もう、ずいぶん減っていた。

 九能は、ロビーの奥の小さな個室に、沙耶香を案内した。

 夜のあいだ、捜査の打ち合わせに使われていた、あの帳場脇の小部屋だった。

 机の上には、すでに、ふたつの湯のみが用意されていた。

 仲居の手配ではなく、九能自身が、廊下の途中で頼んでくれたものらしかった。

「お茶、いれましょうか」

「いえ、私が」

 沙耶香はそう言って、机に近づくと、自然に、九能の湯のみと自分の湯のみに、ポットからお茶を注いだ。

 九能は、机の上に肘をついて、しばらく、その湯のみの湯気を眺めていた。

「篠原さん」

「はい」

「あなたと、三嶋さんと、夢野さんが、いてくれなかったら、わたしは、今回のこと、たぶん、解けなかった」

「警部さん」

「いや、これは、お世辞じゃない」

 九能は、低く言った。

「事件の捜査というのは、結局、人の話を、いかに本気で聞けるか、というだけの仕事です。それが、警察の人間だけで全部できるかというと、できないことの方が、多い」

「ええ」

「あなたは、ライターとして、ふつうに話を聞いた。三嶋さんは、ふつうに写真を撮った。夢野さんは、ふつうに、廊下を歩いた」

「ええ」

「そのふつうの中に、私たちの捜査では絶対に届かない隙間が、いくつもあった」

 九能の目の中に、長い夜のあとの、ある種の透明さがあった。

「だから、最後にもう一度、こちらから、はっきり、お願いしておきたい」

「はい」

「夢野さんが、あなたに頼んだ記事のこと。あれは、ぜひ、書いてもらいたい」

「警部さん」

「ええ」

「私で、いいんでしょうか」

「あなたしかいません」

 九能は、即答した。

「あなたが書かないと、あの子の声は、結局、世の中のどこにも届かない。声というのは、放っておくと、すぐに、ふつうの空気に紛れてしまう」

「警部さん」

「裁判の中で、もちろん、彼女の証言は、きちんと残ります。だが、それだけでは、足りない。あの子が、なぜ、あの場所に立っていたのか。なぜ、第一発見者にされたのか。なぜ、それでも、自分の口でその先を話そうとしたのか。そういうところは、調書の中には、なかなか入りきらん」

「だから、私に」

「ええ」

「警部さん。ひとつ、お願いしてもいいですか」

「なんですか」

「事件のことを書くにあたって、必要な範囲で、捜査の中の、表に出してもいい情報を、教えていただいてもいいですか。もちろん、関係者の方々のプライバシーや、まだ裁判の途中の段階で、書くべきでないところは、警部さんと相談しながら」

「もちろん、お願いします」

 九能は、深くうなずいた。

「捜査の側からも、出していい範囲で、必ず、情報を入れます。書くべき範囲、書くべきでない範囲、その線引きは、私の方も、最後まで、責任を持つ」

「ありがとうございます」

「もうひとつ」

「はい」

「あなたの記事の中で、わたしのことは、できるだけ、地味な脇役として書いてもらえると、ありがたい」

「警部さん」

「警部殿、というだけで、本来、十分です。あなたの記事の主役は、最初から、夢野さんと、それから、十年前のあの町の人たちと、いまも谷の中で泣いている若い仲居の子だ」

 その言葉は、奇妙に静かだった。

 そして、奇妙に、揺らがなかった。

 長い夜の中で、何度も背中越しに見てきた九能弦十郎の姿が、いま、目の前のひとりの人間として、はっきりと、沙耶香の中に納まった。

「分かりました」

 沙耶香は、答えた。

「警部さんは、できるだけ、地味な脇役で。でも」

「でも?」

「事件のいちばん大事なところで、ふっと、出てくださる脇役、として」

 その答え方に、九能はわずかに目を細めて、ふっと、笑った。

「あなたは、本当に、ライターらしいな」

「ええ。これでも、ライターですから」

「これからも、よろしくお願いします、篠原さん」

「こちらこそ、お願いします、警部さん」

 ふたりは、机をはさんで、ちいさく、しかし、たしかな会釈を交わした。

 その会釈の中に、長い夜のあいだに育った、奇妙な信頼の、最後のかたちが、あった。

 谷を発つ準備は、午後のうちに整った。

 宿の玄関先で、女将と、ベテラン仲居が、丁寧に三人を見送ってくれた。

 夢野りりは、サングラスもマスクもしていなかった。

 ふだんの仕事の場ではあれほど神経を使う「目立たない格好」を、ここでは、もう必要としていなかった。

 そのこと自体に、彼女の中で何かが変わったのが、はっきりと現れていた。

「篠原さま、三嶋さま、夢野さま」

 女将は、丁寧に頭を下げた。

「このたびは、本当に、ご迷惑を、おかけして」

「いえ。本当に、お世話になりました」

「もし、また、お時間ができたら、今度は、こんなことのない、ふつうのお泊まりで、お越しください」

「必ず」

 沙耶香は、深くうなずいた。

 その「必ず」は、ライターとしての義理だけで言った言葉ではなかった。

 この谷の、湯けむりと、寒椿と、廊下の節目の風合いと、そして、女将や仲居たちの、長い時間の中で磨かれた所作。

 そのすべてに、いつかもう一度、ちゃんと、旅情ライターとしての記事を、向けたかった。

 事件の記事とは、別に。

「ふつうのお泊まりとしての記事」を書ける日が、必ずまた、この谷にも、戻ってくるはずだった。

 車に乗り込む前、夢野りりは、宿の玄関の方を、もう一度振り返った。

「篠原さん」

「うん」

「わたし、また、ここに来ます」

「うん」

「もしできれば、お母さんも、いっしょに」

「うん」

「お母さんに、谷のお湯を、見せたいんです」

 その一言を、沙耶香は、ちゃんと、自分の中に書き取った。

 事件の終わりのあとに、彼女が、自分の人生の続きの方を、ちゃんと向こうに置いている。

 その向き直り方が、たまらなく、まぶしかった。

 車は、ゆっくりと、宿の前を出た。

 つづら折りの道を、ヘッドライトをつけずに、慎重に下っていく。

 谷の道の途中で、沙耶香は、後部座席の窓から、もう一度宿の方を振り返った。

 宿の屋根のうえに、ふた粒、み粒、白いものが舞っていた。

 それは、まぎれもなく、雪だった。

 きょうの雪は、もう、夜のあいだの細雪ではなかった。

 ふつうに谷の上空から、ふつうの寒さの中へ降ってくる、ふつうの雪だった。

 その光景を、沙耶香は、しばらく、目の中に焼きつけた。

 ふつうの雪が、ふつうに降っていく。

 それだけのことが、たまらなく、いとおしかった。

 麓の駅前に着くと、九能弦十郎が、別の車で先回りして待っていてくれた。

 警官たちは、すでにみな、別の業務に散っていた。

 九能は、ホームの方ではなく、駅前のロータリーの脇で、ひとり立っていた。

 その姿は、もう、捜査本部の警部の姿ではなく、ただの、見送りに来た年上の知り合いの姿に近かった。

「警部さん」

「篠原さん。三嶋さん。それから、夢野さん」

「はい」

「短いあいだでしたが、おつきあい、ありがとうございました」

「警部さんも、お疲れさまでした」

「いえいえ」

 九能は、軽く首を振った。

「これから先も、お互い、それぞれの仕事のうえで、何かあれば、いつでも、連絡してください」

「警部さん」

 沙耶香が、ひとつ、言った。

「東京で、また、お会いできますよね」

「ええ」

 九能は、ふっと、笑った。

「東京に、戻られたら、いつかまた、お茶でも」

「ぜひ」

「お茶代は、わたしが」

「いえいえ、私が」

「いやいや、わたしが」

「警部さん」

「あなたから、ライターとして、ちゃんと取材料をいただけるくらいになったら、その日は、わたしから出させてください」

 そう言われて、沙耶香は、思わず、声を出して笑った。

 笑ったあとで、自分が長いあいだ、こんなふうに、声を出して笑っていなかったことに、ようやく気がついた。

「警部さん。約束ですよ」

「約束です」

 ふたりは、握手を交わした。

 九能の手は、見た目よりも、ずっと厚く、暖かかった。

 長い時間、刑事として、人と人のあいだに手を入れ続けてきた手だった。

 ホームに上がると、ローカル線の二両編成の列車が、すでに、煙のような白い湯気のあたまだけのぞかせて、待っていた。

 四日前、沙耶香と三嶋がここに降り立ったのと、まったく同じ顔の列車だった。

 それでも、その列車のドアの向こうにある景色は、今日からは、もう、別のものだった。

 夢野りりが、ホームの先頭の方で、しばらく、谷の方を振り返って立っていた。

 その背中に、駅員のおじさんが、ふっと、軽く頭を下げて通り過ぎた。

 特別な視線ではない、ただの、地元の人としての、見送りの会釈だった。

 そういう「ふつう」の会釈が、いまの夢野りりには、誰よりも、似合っていた。

 列車のドアが開いた。

 三人は、いっしょに乗り込んだ。

 ドアが閉まる直前、沙耶香は、もう一度、ホームの方を振り返った。

 ロータリーの脇に立ったままの、九能弦十郎の姿が、見えた。

 九能は、軽く片手を上げて、こちらに、ひとつ、低くうなずいた。

 その短い動作の中に、長い長い夜の最後のあいさつが、すべて、収まっていた。

 列車が、ゆっくりと、走り出した。

 谷の景色が、窓の外を、また、ゆるやかに流れ始めた。

 四日前、最初に見た、霧をはらんだ渓流。

 事件の朝、白い湯けむりが冷たく見えた、あの窓辺の景色。

 そのすべての続きが、いま、こちらに、ふつうの旅情として、ふたたび戻ってきていた。

「沙耶香さん」

 向かいの席の三嶋が、間延びした声で、いつもの調子に戻って言った。

「今回の記事、僕は、いっぱい写真、用意してありますからね」

「ええ。お願いね」

「で、僕、ちょっと、思ったんですけど」

「うん」

「いつかこれ、本当に、小説に、なったりするんですかね」

 その質問に、沙耶香は、しばらく窓の外を見ていた。

 それから、ゆっくり、答えた。

「うん。なる」

「なる、んですね」

「うん」

「タイトルは、もう、決まってます?」

「決まってる」

「言ってもらえます?」

 沙耶香は、向かいの席の夢野りりに、ちらり、と目をやった。

 夢野りりが、目を伏せて、しかし、しっかりと、こくりとうなずいた。

 その瞬間を、写真ではないけれど、しっかりと自分の中に焼きつけてから、沙耶香は、ゆっくり言った。

「『旅先で事件に巻き込まれた悲しきアイドル事件簿』」

 三嶋は、しばらく、その長いタイトルを、口の中だけでもう一度繰り返してから、ほっと笑った。

「いいですね、それ。ぴったりです」

「でしょ」

「で、その本の中で、僕って、どんな扱いです?」

「カメラマン」

「いや、それ、最低限のやつじゃないですか」

「ちょっとぽんこつな、でも、肝心のところでは外さない、カメラマン」

「あ、それ、ちょっと、いいです」

「ちょっと、じゃなくて、けっこう、いい」

「けっこう、いい?」

「ええ。事件の中の、ふつうの相棒として、けっこう、いい」

 三嶋は、目を細めて、首から下げたカメラのストラップを、もう一度、握り直した。

 その後ろの席で、夢野りりが、ふっと、声を立てて笑った。

 その笑い声の中に、もう、夜の闇のなごりは、ほとんど、入っていなかった。

 ただ、若い人の笑い声の、まっすぐな響きだけが、あった。

 列車は、谷の出口の長いトンネルへ、ゆっくりと、入っていった。

 外の景色が、いったん、ふっと、闇に変わった。

 窓のガラスに、三人の顔が、薄く映った。

 そのうちのひとりの顔は、四日前の、まだ何も知らない旅情ライターの顔ではなかった。

 それでいて、何かを失ってしまった人の顔でも、なかった。

 ただ、自分の人生のうえに、もうひとつ、新しい仕事を背負うことを、はっきりと決めた人間の顔だった。

 トンネルの先で、谷の出口の光が、ゆっくりと近づいてきていた。

 その光の向こうに、こちらが、これから戻っていく日常の街並みが、待っているはずだった。

 そして、その街並みの中に、これから、長いあいだかけて、丁寧に書いていくべきひとつの本の、最初の一行が、まだ書かれていない、白いままで、待っているはずだった。

 その一行の上で、いま、列車のリズムにあわせて、沙耶香の指が、ひざのうえで、知らずに小さく、ぱた、ぱた、と動いていた。

 旅情ライター篠原沙耶香の、本当の仕事は、たぶん、ここから、ようやく始まろうとしていた。


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