1-8
翌朝、九能弦十郎は、谷を発った。
宿の玄関先、薄暗いうちから車に乗り込む九能を、沙耶香と三嶋、そして夢野りりの三人が見送った。
吐く息が、白く尾を引いた。
谷の朝は冷えるが、その朝はとりわけ冷たかった。
「東京に着いたら、まず鳴海半蔵の身辺だ」
九能は、後部座席に荷物を放り込みながら、低く言った。
「あの男に、もう一度、十年前のことを白状させる。間宮と梓弓が殺された、と知ってまだ平静を装えるような人間じゃない、はずだ」
その「はずだ」という言い方に、九能の中の小さなためらいがにじんでいた。
長年金融の裏側で泳いできた人間というのは、こちらが思うほど簡単には崩れない。
九能の声音は、それを承知の上での慎重さだった。
「篠原さん。こっちのことは、頼みます」
「お任せください」
「夢野りり嬢のことは、刑事を一人、宿に残していく。麓と本部との連絡も、その人間を通してくれ。何かあれば、夜中でも構わん」
沙耶香は、深くうなずいた。
九能の目が、最後に、後部座席のドアを閉める前に、ひとつだけ夢野りりに止まった。
「お嬢さん」
「はい」
「あなたの声の記憶が、いま、いちばん値打ちのある証拠です。だから、絶対に、無理はせんように」
短い言葉に、これまでで一番、九能らしくない優しさがにじんでいた。
りりは、こくり、と一度だけうなずいて、コートの袖をぎゅっと握った。
車が、つづら折りの道を下って見えなくなるまで、三人は玄関先に立っていた。
排気の音が完全に谷の下へ消えてから、沙耶香はゆっくり振り返って、宿の中へ戻った。
ロビーの空気は、九能が抜けたあとも、不思議と緩まなかった。
警官が一人、目立たぬ場所にずっと座っていたからだ。
九能が残していった「見えない護衛」だった。
朝食を取りに食堂に下りると、すでにいくつもの席に、宿泊客たちが疎らに腰を下ろしていた。
宿の人数は、事件のあと、目に見えて減っていた。
警察の都合で出立を引き止められていた客のうち、聴取が一通り済んだ者から、順に解放されていったのだ。
代わりに、新規の宿泊客は、当面受け入れていない。
宿の中は、客と従業員と、わずかな警官だけの、奇妙な人口で回り始めていた。
その「奇妙さ」が、沙耶香に、かえって取材の足場を与えた。
人が減れば、残っている人間の動きが、よりはっきり目に映る。
仲居や手伝いの誰が、誰と話し、誰の部屋にどれくらいの頻度で出入りしているか、観察しやすい。
朝食を済ませて、沙耶香は手帳を開いた。
新しいページの上に、何本かの線を引いて、宿の人間関係を簡単な図にしようとしていた。
女将を中心に、ベテラン仲居が二人、若い仲居が三人。
料理長と、料理場の手伝いが二人。
帳場の事務方が、一人。
そして、外部の臨時手伝い――そのうちの一人が、田中与一。
線を引いていくうちに、ひとつ気になる「線」が浮かんできた。
宿の中で、夢野りりの担当をしている仲居が、二人いた。
ベテランの一人と、若い仲居の一人。
事件の前後で、若い仲居の方が、明らかに、りりの部屋に出入りする頻度を増やしていた。
仲居仲間に「私が行きます」と言って、自分から担当を引き取った、という話が、女将から取材中にぽろりと出た。
ふつうなら、ただの親切心だ。
たまたま芸能人の担当をしたい、というミーハーな気持ちかもしれない。
そう片付けてもよかった。
だが、いまの宿で、ふつうのことなど、ひとつも信じていいことはなかった。
沙耶香は、若い仲居の名と、行動の癖を、手帳に書きつけた。
「あの仲居さん、なんか、僕も気になってたんですよね」
朝食を終えて隣に座ってきた三嶋が、声を低めて言った。
「三嶋くんも?」
「うん。だってあの人、廊下を歩くとき、僕のカメラのあるところを、わざわざ大回りで避けるんですよ。最初は、撮られたくないだけかなって思ったんですけど」
「うん」
「でも、僕が三脚を立ててないときでも、避けてるんです。気のせいかもしれませんけど、なんか、写真に写るのを徹底して嫌がってる感じで」
沙耶香は、唇に指をあてた。
それは、職業の癖がついた人間の動きだった。
たとえば、防犯映像の存在に敏感な人間。
カメラのレンズが向けられる範囲を、無意識に避けて歩く人間。
「ふつうの仲居さんは、お客さんが撮ってる写真の中に、自分が写り込んだって、別に気にしないでしょうね」
「ですよね」
「ましてや、相手は『記事になります』って明言してるライターとカメラマンよ。むしろ、明るい笑顔で写りたい、って言う人もいるくらい」
三嶋は、首を縦に振った。
意見の合った時の三嶋は、不思議と頼もしい顔をする。
「警部さんに、すぐ伝えた方がいいやつですよね、これ」
「ええ。あとで、宿に残ってる刑事さんに話す。でも、その前に、もう少し、自分の目で確かめておきたい」
ロビーに戻ったところで、夢野りりが、ちょうど部屋から下りてきた。
ふだんは午前中、ほとんど部屋にこもっていたりりだったが、その日は、なぜか手に小さなノートを抱えていた。
「篠原さん」
「あら、りりちゃん。どうしたの」
「あの……これ、なんですけど」
りりは、ためらいながら、ノートを差し出した。
開いてみると、几帳面な字で、いくつもの単語が書きつけられていた。
「声、思い出そうとして。寝る前から、起きてからも、ずっと、頭の中で、リピートしてみてたんです」
「リピート」
「そう。あの朝の、廊下のあの声を。歌の練習で、レッスンの先生の声を、家に帰ってからも頭の中で何度も再生して、真似する練習を、するんですけど。それを、ちょっとやってみて」
沙耶香は、ノートの内容に目を落とした。
そこには、「声の特徴」を表すらしい言葉が、几帳面に書き分けてあった。
ゆっくり。
少し低め。
語尾を、軽く落とす癖。
「すみません」を、「すいません」ではなく、ちゃんと「すみません」と発音する。
「いえ、はい、いえ、はい」と相槌の数が多い。
息継ぎの位置が、ふつうの人より少し早い。
それは、もうほとんど、声優か俳優のメモのようだった。
「これ、すごい」
沙耶香は、思わず声を上げた。
「ちょっと、見ていい?」
三嶋が横から覗き込んで、ぴゅう、と小さく口笛を吹いた。
「夢野さん、君、職業違うんじゃないの」
「ふだんは、歌詞を覚えるのと、振り付けを覚えるのに、こういう細かいメモ取ってるんです。今回は、その応用、というか」
りりは、頬を赤くしながらうつむいた。
その姿は、まったく、いつものアイドルのものだった。
だが、ノートの内容は、立派な「証言」だった。
短い時間、後ろから声をかけられただけ、と言いながら、これだけの特徴を、自分の中の記憶から絞り出してきた。
それは、捜査側にとって、思いがけない援軍だった。
「警部さんに、必ず伝える。ありがとう、りりちゃん」
「役に、立ちますか」
「立つどころじゃない。立ちすぎるくらい」
りりは、ほっとしたように、薄く笑った。
その笑い方は、まだ怯えのにじんだ笑い方ではあったが、昨日までよりは、確かに自分を取り戻し始めていた。
午前のうちに、沙耶香は宿に残った若い刑事を捕まえて、若い仲居のことと、りりの「声のメモ」を伝えた。
刑事は、すぐに無線で本部の九能に連絡を取った。
東京についたばかりの九能から、短い返答が戻ってきた。
「若い仲居の方は、こちらでも調べる。本人は宿にいさせたまま、行動だけ見張れ。問い詰めるな」
「了解しました」
「夢野りり嬢の声のメモは、急いで写しを送ってくれ。これは、東京での聴取で必ず使う」
無線越しの九能の声は、ふだんよりやや早口だった。
東京の現場でも、もう何かが動き始めている気配だった。
午後、沙耶香と三嶋は、宿を一度離れて、麓の町まで下りていくことにした。
刑事から、車を一台、貸してもらった。
「布団敷きの田中が、よく出入りしていた」と女将が話していた、もう一軒の宿に、取材という形で立ち寄ってみるためだった。
谷を下りる道は、思いがけず急で、沙耶香はハンドルを握る手に、知らず力が入っていた。
「沙耶香さん、運転、上手ですね」
「お世辞は、いいから」
「お世辞じゃないですよ。前に組んだとき、僕、よく後部座席で寝てたじゃないですか。あれ、信用してる証拠です」
「ただのぐうたらでしょう」
口ではそう返しながら、沙耶香は内心、少し笑っていた。
三嶋のこの調子が、こんなときには、いちばんの助けになる。
緊張で固まりそうな空気を、彼はいつも、なんとはなしに緩めてくれた。
麓の町は、谷の宿のあるあたりと比べれば、別世界のように開けていた。
低い屋根の民家が並び、商店街に、観光客向けの土産物屋と、地元向けの八百屋が、肩を並べて店を出している。
その商店街の外れに、もう一軒の宿があった。
谷の半月よりも、ひとまわり小さく、簡素な造りの宿だった。
帳場で、女将らしい老婦人が、温泉饅頭を蒸す手を止めて、こちらに笑顔を向けた。
「あら、お客さん。お泊まりかね」
「いえ、申し訳ありません。記事の取材で、少しお話を伺いたくて」
沙耶香は、いつも通り、ノートを開いた。
谷の半月のことと、湯けむり温泉郷の魅力を取り上げたい、という、もっともらしい体裁を整える。
実際、その取材は、純然たる嘘ではなかった。
落ち着いたら、本当にこの土地の記事を書くつもりだった。
「ああ、半月さんね。あちらは、たいへんなことになってて。お気の毒に」
「ええ、本当に」
少しの世間話のあとで、沙耶香は、それとなく田中の話に持っていった。
「お忙しい時期に、外からのお手伝いさんを頼まれることが多いと、半月さんでも伺ったんですが」
「ええ、頼みますよ。うちみたいに小さな宿でも、団体さんが入る日には、人手がねえ」
「最近、田中与一さんという方が、よく入ってらっしゃるとか」
その名を出した瞬間、老婦人の顔が、ふっと曇った。
それは、嫌な記憶を呼び覚まされた、という顔つきだった。
「ああ、田中さん。あの人ね……」
「何か」
「いえね。お仕事は、まあ、きちんとされる方なんですけどね。なんていうかな。あの人、人と目を、まったく合わせない人で」
沙耶香は、ペンを動かす手を止めた。
「目を、合わせない」
「ええ。布団敷きにしても、料理場の下働きにしても、お話をしているとき、こっちのことを見ないでね。畳ばかり見て、はあ、はい、はあ、はい、って、相槌だけ打って。陰気と言ってしまうのは申し訳ないけど、なんだか、不自然なくらいに、目を伏せる方で」
老婦人は、湯気の上がる蒸し器に視線を戻しながら、続けた。
「ただ、ね。最近、それがちょっと、変わってきたの」
「変わった、というと」
「目を合わせる回数が、増えたんですよ。特に、お客さんの顔を、よくよく見るようになって。ふつうのお手伝いさんは、お客さんの顔って、あんまり覚えないものなのに。あの人は、最近、お客さんの名前と顔を、ぴたっと結びつけて覚えてしまわれてね」
沙耶香の背筋を、薄ら寒いものが伝った。
それは、宿の手伝いの仕事に、必要のない技能だった。
客の顔と名前を一致させて、しかも入念に覚える。
ふつうは、ベテランの仲居や、女将のような立場の人間が、サービスのために覚える領域だ。
布団敷きの臨時の手伝いが、なぜそんなことを、ここのところ熱心にやるようになったのか。
理由は、ひとつしか思いつかなかった。
「奥さん」
沙耶香は、できるだけ落ち着いた声で言った。
「その田中さんが、特に熱心に顔を覚えていらしたお客さんって、もしかして、わかります?」
老婦人は、しばらく考え込んだ。
「うちで、田中さんが熱心に顔を見てらしたのは、たしか、東京から来た団体さんの中の、ご年配の男性でしたよ。やたら大きな声でお話しになる、恰幅のいい方でね」
沙耶香の頭の中で、ぱちん、と何かが合わさった。
恰幅のいい、東京から来た年配の男。
それは、十年前の写真の中の鳴海半蔵そのものだった。
「その方、お名前は、覚えていらっしゃいますか」
「ええ、確か、鳴海さん、とおっしゃってましたよ。お一人で、ときどき来られて。前にも泊まられたことがあるって。あの方も、お気の毒にねえ」
沙耶香は、目の前が一瞬、ぐらりとした気がした。
田中は、湯けむり温泉郷に「先月から」入り込んでいたのではなかった。
それより前から、麓のこの宿で、鳴海半蔵の顔と動きを、すでに記録していたのだ。
ハンターが、獲物の動線を覚えるように。
布団敷きや料理場の下働きは、その「観察」のための、上等な擬装だった。
「いつ頃から、田中さんは、こちらに?」
「うーん、いつだったかしらね。半年か、もうちょっと前かしら。ちょうど、鳴海さんが、お一人でうちに泊まりに来られるようになった、その少しあとくらいで」
半年。
田中の動きは、思っていたよりも、ずっと前から始まっていた。
そのことが、犯人側の計画の規模を、改めて沙耶香に突きつけた。
宿の取材を切り上げて、車に戻った。
ハンドルを握る指が、まだ少し冷たかった。
「沙耶香さん」
「何」
「これ、ちょっと、想像してたよりも、でかい話ですね」
「ええ」
三嶋は、めずらしく、しばらく外の景色を黙って眺めていた。
商店街の細い道を抜けながら、いくつもの軒先と、軒先の暖簾と、人影とすれ違っていく。
そのどれにも、もう、無条件で「のどかな旅情の風景」とは思えない気配が、混じり始めていた。
谷へ戻る道の途中で、沙耶香は車を一度停めた。
携帯で、九能に直接、連絡を取るためだった。
東京の九能の番号は、出発前に渡されていた。
呼び出し音が三回鳴って、九能は出た。
「篠原です。麓のもう一軒の宿で、田中の話を聞いてきました」
沙耶香は、できるだけ簡潔に、老婦人の証言を伝えた。
田中が半年以上前から麓の宿に入り込んでいたこと。
最近になって、客の顔を熱心に覚え始めたこと。
そして、その「熱心に覚えた相手」が、鳴海半蔵だったこと。
電話の向こうで、九能が、低く息をついた。
「半年前から、ですか」
「ええ」
「その情報、いま、なによりありがたい。鳴海の身辺に、田中の姿が、何度も近づいていた、ということだ。鳴海本人は、それに気づいていなかった可能性が高い」
「気づいていなかった?」
「ええ。鳴海は、ふつうの宿の手伝いの顔を、いちいち覚えるような男じゃない。だから、田中は安心して『観察者』を続けられた」
九能の声が、急に固くなった。
「これは、本人にも伝える必要がある」
「鳴海さんに、ですか」
「ええ。彼は今、自分の自宅マンションに引きこもっていて、こちらの聴取にも、まともに応じようとしない。怯えてはいるが、何を怯えているか、すべて言ってはくれない。だが、半年前から自分の動向を見られていた、と知れば、さすがに口を割るはずだ」
「警部さん」
沙耶香は、思わず声を強めた。
「鳴海さんは、確かに重要な人かもしれません。でも、いちばん危ないのも、いまの鳴海さんだと思います。守ることも、忘れないでください」
電話の向こうで、九能は、ひとつ、ふっと笑った。
「篠原さん。あんたに、それを言われるとはな」
「すみません、差し出口で」
「いや、いい指摘だ。当然、こちらも、それは前提にやっとる。だが、あんたが心配してくれることが、なんとなく、こちらの背中も支える」
短い沈黙のあと、九能は、別件のように、低く付け加えた。
「もうひとつ、こっちの進展がある」
「はい」
「夢野りり嬢の声のメモ、本部の音声の専門家に見せた。あれを参考に、田中の声の特徴と照合した結果、ほぼ間違いなく、彼女に声をかけたのは、田中本人だ」
沙耶香は、ぎゅっと携帯を握り直した。
これで、田中の役どころが、ほぼ完全に確定した。
第一被害者間宮の部屋での毒の仕込み、密室の細工の片棒、第一発見者夢野りりへの誘導。
田中は、宿の中で起きた一連の操作のほとんどに、深く関わっていた。
そして、それを命じた、あるいは、共に組み立てた人間が、別にいる。
「警部さん。最後にひとつだけ。十年前の写真の、痩せた男の素性、何か、進展は」
「ある」
九能の声に、わずかな張りが戻った。
「本部から、さっき連絡があった。十年前の不動産取引の関係者の中で、写真の顔と矛盾しない人物が、何人かに絞れた。そのうちの一人を、私はかなり強く疑っている」
「お名前は」
「ここで電話越しに口にするのは、避けたい。ただ、確証が取れたら、いちばん最初に、あんたに知らせる」
「お願いします」
電話を切って、沙耶香は、しばらくフロントガラスの向こうの空を見ていた。
夕暮れの紫が、谷の上の方から、ゆっくりと降り始めていた。
その紫の中に、もうじき夜が来る、という気配が、確かに混じっていた。
「沙耶香さん、戻りますか」
「ええ」
「あの、夢野さん、夕食どうします?」
「私の部屋で、また三人で食べましょう」
「了解です」
車を再び走らせながら、沙耶香は、自分の中で進みつつある決意を、もう一度確かめた。
九能が東京で動き、自分たちが谷で動く。
その二つの線が、ちゃんと交わるところまで、誰も降りない。
降りられない、ということでもあった。
夢野りりの細い指、十年前の四人の写真、襖の桟の細い糸の跡、若い仲居の不自然な避け方、麓の老婦人が口にした「半年前から」の一言。
それらすべてが、ひとつの夜へと、ゆっくり収束し始めていた。
谷の上に、また一番星が点った。
その光は、昨日のそれより、ほんの少しだけ、はっきりと見えた。
宿に戻ると、ロビーで夢野りりが、また文庫本を膝に置いて待っていた。
ページは、相変わらず、ほとんど進んでいなかった。
沙耶香の姿を見ると、りりはぱっと顔を上げた。
その顔つきの中に、今朝までになかった、ある一つの感情が混じり始めていた。
ただ守ってもらいたいだけの怯えではない。
何かを、自分でも、できるだけのことをしたい、という、わずかな前向きさだった。
「お帰りなさい」
「ただいま、りりちゃん」
「あの、わたし、もうひとつ思い出したことがあって」
「何」
りりは、深く息を吸ってから、ゆっくり言った。
「あの朝、声をかけられたあと、わたしが奥の部屋に向かったとき、すれ違った人が、いたんです」
沙耶香は、思わずソファに腰を下ろした。
「すれ違った、人」
「ええ。仲居さんではない、別の人。コートを着て、廊下を、こっちの方向へ歩いてきた人。すれ違って、わたしは奥の部屋へ。その人は、たぶん、玄関の方へ」
「顔は」
「あんまり、見てません。すれ違っただけだから」
それでも、と、りりは続けた。
「ただ、その人、ちょっと、痩せてた気がするんです。男の人で、コートが、ぶかっとしてて」
沙耶香の心臓が、とくん、と跳ねた。
朝の早い時間、廊下を玄関の方へ歩く、痩せた男のコート姿。
それは、まさに、その時間に始発に乗ろうとしていた、写真の痩せた男の姿と、ぴたりと重なった。
宿に戻ってきた沙耶香の頭の中で、それまで、別々の場所にあったいくつもの断片が、ぐっとひとつの方向に集まり始めていた。
谷の外へと向かう、痩せた男のコートの背中。
廊下の奥で立ちすくむ、まだ何も知らない夢野りりの背中。
そのふたつの背中が、すれ違う、夜明け前の廊下。
そこにこそ、この事件の、もっとも残酷な構図があった。
「りりちゃん」
「はい」
「その話、絶対、忘れないで。明日、警部さんが戻ってきたら、いちばん最初に話して」
りりは、深く、しっかりとうなずいた。
その夜、沙耶香は、長いことペンを止めなかった。
旅情ライターとしてではなく、ひとつの事件の進行を追う書き手として、手帳のページが、どんどん埋まっていった。
書きながら、彼女は、自分のペン先がもう、戻れないところまで、深く事件の中に踏み込んでしまっていることを、はっきりと自覚していた。
それでも、もう、止めることはできなかった。
谷の夜風が、また杉木立を、ざわざわと鳴らしていた。
その音の中に、ひとつ、別の音が混じっている気がした。
東京で、九能が動いている、その遠い足音だった。
二つの場所で、ひとつの夜が、深まろうとしていた。
---




