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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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1-7


 帳場の小部屋を出てロビーへ戻る途中、沙耶香は窓の外を見て、思わず足を止めた。

 霧はもう完全に晴れて、対岸の杉木立が、ひと枝ひと枝までくっきり見えていた。

 その杉の梢のさらに上空に、ふだんの旅情の景色とまるで関係のないものが、ゆっくりと姿を現していた。

 谷の入口から登ってくる、新しいパトカーだった。

 赤い回転灯は、もう回っていない。

 回す必要のないほど、宿のまわりは、もう警察に押さえられているからだった。

 その代わり、車体の屋根にくくりつけられた荷物のかたまりが、遠目にも目立った。

 捜査の長期化を見越して、装備を増やしてきたのだろう。

 ロビーに降りると、夢野りりがソファの隅に座っているのが目に入った。

 朝食のあと部屋へ戻ったはずだったが、また下りてきたらしい。

 膝の上に文庫本が一冊置かれていたが、ページはほとんどめくられていなかった。

 代わりにロビーの出入り口を、何度も気にしている。

 そこを通り過ぎる仲居や警官のたびに、ちらりと視線を上げては、すぐに目を伏せる。

 その仕草を見て、沙耶香はあることに気づいた。

 この子は、自分が「あの人」と話したのが誰だったかを、思い出そうとしている。

 それも、姿だけでなく、声で。

「りりちゃん。ちょっと、いい?」

 沙耶香は、できるだけ穏やかな声で隣に腰を下ろした。

 りりは、首だけでこちらを向いた。

 その目に、わずかに警戒のような色が走るのを、沙耶香は見逃さなかった。

 警戒というよりも、申し訳なさからくる、こわばりのようなものだった。

「ごめんね。落ち着いてからにしようと思ってたんだけど、警部さんが、もう一度だけ詳しく聞きたいって。私と三嶋くんで、一緒に聞いていいかなって」

 ええ、と小さく答えたりりの声は、ふだんのアイドルの声からはほど遠かった。

 聞き慣れた誰かの声ではなく、ただ困っている若い女の子の声だった。

 沙耶香はその声を聞きながら、相手をライターの仕事の対象として見ようとした。

 その方が、自分の感情を抑えて、まっすぐに話を聞ける気がした。

 少しして、九能と三嶋が連れ立ってロビーに現れた。

 九能はりりに軽く会釈をして、向かいのソファに腰を下ろした。

 すぐ隣に三嶋が、カメラを膝の上に伏せて座った。

 警官の制服姿は、誰一人ロビーには入ってこなかった。

 それも、九能の指示だったのだろう、と沙耶香は察した。

 りりに緊張を与えないための、ささやかな配慮だった。

「お嬢さん」

 九能の声は、刑事のそれというよりも、孫を諭す祖父のような調子だった。

「昨日聞いたことを、もう一度確かめさせてください。あなたが、奥の部屋を見てきてくれと声をかけられた、あのときのことです」

「はい」

 りりは、両手で文庫本を握りしめた。

 その指先が、白くなっていた。

「思い出せる範囲で、いいんです。声をかけてきた相手のこと。声のこと。立っていた場所のこと。何でも構いません」

 九能は、急かさなかった。

 ふだんなら、刑事の聴取は、相手を多少なりとも追い詰めながら進めるものなのだろう。

 だが、九能は、りりの場合は反対をやった。

 ゆっくりとした口調、間を空けた問い、相手が考え込んだら黙って待つ姿勢。

 その間、ロビーの柱時計がこつ、こつ、と鳴った。

 外の風が、しゃらしゃらと玄関の風鈴を揺らした。

 宿の朝の音だけが、しばらく場を満たした。

 しばらくして、りりが、ぽつりと言った。

「廊下、でした」

「廊下。それは、何階の」

「三階の、自分の部屋の前を出てすぐの、廊下です。朝、わたしが部屋を出たすぐあとに」

 沙耶香は、自分の部屋を頭に思い浮かべた。

 夢野りりの部屋は、三階の中ほど。

 奥の間宮の部屋までは、廊下を十数歩ほどだった。

 その途中で、誰かに声をかけられた、ということだ。

「そのとき、廊下に、ほかに人はいましたか」

「いえ、いなかった、と思います。少なくとも、わたしが見た範囲では」

「ということは、声をかけてきた相手も、その時間、廊下にあなたと二人きりだった」

 その含みが、空気を冷たくした。

 人が一人もいない廊下を選んで、声をかける。

 それ自体に、すでに「打ち合わせ」の匂いがあった。

「ええ、はい」

「相手は、どこに立っていましたか」

「えっと……ちょっと、わたしのうしろの方、でした」

「うしろ?」

「はい。声が、最初、後ろから聞こえました。だから、振り向いて、それで初めて顔を見たような気がします」

 九能は、ふむ、と短くうなずいた。

 その「ふむ」に、いくつもの判断がこもっているのを、沙耶香は感じた。

 たとえば、後ろからの声というのは、相手の顔を一瞬で印象づけないための工夫でもありうる。

 正面から「奥の部屋を見てきてくれ」と頼まれていたら、りりはもっと顔をはっきり覚えていただろう。

「顔は」

「あんまり、覚えてないんです」

 りりは、申し訳なさそうにうつむいた。

「ぱっと振り向いて、声をかけられたから、咄嗟に『はい』って返事して。それで、もう奥の部屋の方を見てて。話してた時間も、たぶん、十秒もなかったと思います」

「服装は」

「えっと……宿の制服、だったような気がします」

「ような、というと、確信は持てない、ということですね」

「はい」

 九能の眉が、わずかに上がった。

 その微かな動きを、沙耶香は見逃さなかった。

「宿の制服」「ような気がします」――この二つの間に、捜査の重要な隙間があった。

 宿の制服とまったく同じものでなくても、それに似た、色の落ち着いた和服や作務衣であれば、客の目には「宿の人」として通る。

 特に、廊下で背後から声をかけられた一瞬の印象であれば、なおさら。

「お嬢さん。声は、どうでした」

「声……」

「男だったか、女だったか。年は若かったか、年配だったか。何か訛りはなかったか。早口だったか、ゆっくりだったか」

 九能は、五つの問いを、ほぼ抑揚を変えずに重ねた。

 ひとつずつ聞くと、相手がそのひとつに集中しすぎて、別の答えがにじまなくなる。

 まとめて五つ重ねると、相手は答えやすい順から、ばらばらに思い出す。

 その「ばらばら」に出てくる順番こそが、本人にとっていちばん印象に残った特徴であることが多い。

 ライターとしての沙耶香も、同じことをやる。

 九能のやり方を、彼女は内心、感心して見ていた。

 りりは、しばらく目を伏せた。

 それから、思い出すように、ぽつりと答え始めた。

「男の人、でした」

「ほう」

「年は、たぶん、お父さんくらい」

「四十代から、五十代の前半、というところですか」

「はい、それくらい」

「訛りは」

「特に、なかった、です。きれいな、しゃべり方で」

「早口でしたか、ゆっくりでしたか」

「ふつう、より、ちょっと、ゆっくりだった気がします」

 九能は、手帳に短く何かを書きつけた。

 書き終えてから、ゆっくりと、最後の質問をした。

「その声、もう一度聞けば、分かりますか」

 りりは、ぱっと顔を上げた。

 その目に、初めて少し、はっきりとした光が戻った。

「……たぶん。たぶん、分かると思います」

「たぶんで、いい」

 九能は、深く息を吐いた。

 その深さで、沙耶香にも分かった。

 刑事にとって、いま、まさにそれが欲しかった答えだ、ということが。

 声を覚えている第一発見者。

 しかも、声をかけてきた人物の特徴を、なんとか言葉にできる第一発見者。

 それは、これからの捜査の中で、決定的に重要な道具になる。

 九能は、椅子の背にゆっくりともたれた。

「お嬢さん。あなたは、犯人にとって、不都合な人になりつつあります」

「えっ」

「いや、脅かしているわけじゃない」

 九能は、すぐにとりなした。

「逆だ。あなたは、犯人が決して残したくなかった『声を覚えている人間』になっている。だから、私たちは、あなたを、ちゃんと守る」

 その一言に、りりの肩が、ふっと落ちた。

 張り詰めていた糸が、ようやくゆるんだような、そんな落ち方だった。

 文庫本の上に置かれていた手が、震えながら、ゆっくりと開いた。

 沙耶香は、知らずその手の上に、自分の手を重ねていた。

 手のひらに伝わってきたのは、想像していたよりも、ずっと細い指の感触だった。

 ロビーには、しばらく、外の風鈴の音だけが続いた。

 少しして、九能は腰を上げ、若い刑事を呼んだ。

「お嬢さんに、しばらく付いていてくれ。トイレも、廊下も、一人にするな」

 刑事は、はい、と短く返事をして、少し離れた席に静かに座った。

 夢野りりに「見えない護衛」を一人つけた、ということだった。

 その配慮が、目立たないが、本物だった。

 ロビーの隅へ移動した九能は、沙耶香と三嶋を手招きした。

 声を低くして、低く話し始める。

「四十代から五十代前半。男。きれいなしゃべり方で、ゆっくり気味。宿の制服に似た服を着ていた可能性がある。これは、布団敷きの田中の年恰好と、矛盾しない」

「田中、ですか」

「ええ。彼が朝、もう一度、夢野りり嬢の前に現れていた、ということは、ありうる」

 九能は、メモを開いた。

「ただし、これだけでは断定はできん。同じ年恰好の男など、宿にも、谷にも、いくらでもいる」

 そう言いつつ、九能の指は、田中の名のところを軽く叩いていた。

 筆頭候補は、もう田中で間違いないという、無言の決め方だった。

「警部さん」

 三嶋が、めずらしく真剣な顔で口を挟んだ。

「夢野さん、声を、聞けば分かるって言いましたよね」

「ああ」

「それなら、田中って人の声を、なんとかして録ったものがあれば」

 沙耶香は、はっとした。

 そんなものが、あるはずがない。

 布団敷きの臨時手伝いの声を、録音して保管してある場所など、ふつう、ない。

 しかし、三嶋がこれを口にする以上、何か考えていることがあった。

「あの、宿の防犯カメラとか、玄関の音声記録とか、そういうの、ないんですかね」

「玄関には防犯カメラはある、と女将に確認した。だが、映像だけで、音はない」

「ですよね」

 三嶋は、少し肩を落とした。

 それでも、めげずに次の手を口にした。

「だったら、田中って人が、毎月手伝いに来てる他の宿にも、防犯のあれがあるかもしれない。麓のスーパーとか、駅の券売機の周りとか、そういう所でも、肉声が混じってる映像があれば」

 九能は、ふっと笑った。

 その笑い方が、これまでで、いちばん人間らしい笑い方だった。

「あんた、見かけによらず、いい筋を立てるなあ」

「えっ、それ、また褒められてるんですか、けなされてるんですか」

「褒めとる、褒めとる」

 九能は、笑いを引っ込めると、すぐに刑事の顔に戻った。

「麓の警察と、こっちの本部に、当たらせよう。田中が出入りしていた宿、よく行っていた店、駅の防犯映像。音の入っているものを、片端から集める。たとえ短い音声でも、夢野りり嬢にあとで聞かせれば、判別はつく」

 その手筋は、地道だった。

 派手な追跡劇では、まったくない。

 しかし、犯人が「声」を残してしまったという一点を、徹底的に突く戦法だった。

「培ってきた」やり方というのが、こういうものなのだな、と沙耶香は改めて感じた。

 ロビーから帳場の小部屋へ移動する途中、三嶋が小声でつぶやいた。

「あの夢野さん、あんなふうに人助けに動員させちゃって、いいのかな」

「動員って、人聞きの悪い言い方しないで」

「だってですよ」

 三嶋は、いつもの間延びした声に戻っていた。

「あの子、もうただの宿泊客じゃないですよね、これ。完全に、捜査の中の人ですよ。アイドルが」

 それを言うなら、私も三嶋くんも、と沙耶香は思った。

 旅情ライターとカメラマンが、警部と一緒に、宿の中で犯人を絞り込もうとしている。

 ふつうなら、ありえない構図だった。

 ありえないことが、ありえない方向に転がっていく感じが、もう止まらなくなっていた。

 そういう一日の途中に、自分たちは立っている。

 小部屋に着くと、九能はあらたな書類の山を机に置いた。

 麓の警察から、田中与一の足取りの中間報告が、追加で届いていた。

 書類の最初の一枚を、九能は二人にも見えるように回した。

「麓の駅の改札の防犯映像、確認できた。昨日朝、田中らしき男が、駅の窓口で切符を買って、改札を通っとる」

「行き先は」

「これも、東京方面だ」

 沙耶香は、思わず九能と顔を見合わせた。

 主犯らしき痩せた男と、共犯らしき田中。

 二人の行き先が、同じ方角だった。

 しかも、出発の時間は、ほとんど続いている。

「合流するつもりだった、ということでしょうか」

「あるいは、すでに合流済みかもしれん」

 九能の口調は、低かった。

「東京の方の警察にも、もうこの足取りは伝えてある。だが、相手は、われわれが追っていることを、当然織り込み済みで動いとる。簡単には尻尾を出さんだろう」

 そう言って、九能は別の書類に目を落とした。

 そこに書かれていたのは、別の系統の報告だった。

「もうひとつ、本部からの報告がある。十年前の、間宮と鳴海の不動産取引の件だ」

 沙耶香は、書類に目を寄せた。

 罫線の薄い古い登記の写しと、当時の関係者の一覧らしきものが、ホチキスで留められていた。

 一覧の中に、何カ所か、赤いマーカーで丸が引かれている。

「これ、何ですか」

「不審な金の流れの跡だ」

 九能は、淡々と言った。

「当時の取引には、表向きの売買代金とは別に、いくつかの不審な振り込み記録が残っている。間宮の会社から、いくつもの個人名義の口座に、まとまった金が動いている。その金が、最終的にどこへ行ったのか、追いきれていない」

「個人名義の口座……」

「ええ。経理を握っていたのは、梓弓遥だ。彼女が指示通りに金を動かした、ということだろう」

 赤いマーカーの丸を、沙耶香は指でなぞった。

 それぞれの丸の脇に、走り書きで人名のようなものが添えられている。

 その中のいくつかには、見覚えがないが、ある一つの名前で、沙耶香の指が止まった。

「これは……」

「気づきましたか」

 九能の声が、低くなった。

 そこに書かれていた名前は、沙耶香が手帳に書き写したばかりの、ある人物の名前だった。

 田中与一。

 沙耶香は、ぐっと息を呑んだ。

 十年前の不動産取引の不審な金の流れ先のひとつに、田中与一の名があった。

「同名異人かもしれません」

「いや、住所も照合した。本部の照合では、麓の田中与一と、十年前の振り込み先の田中与一は、同一人物の可能性が高い」

「ということは……」

「ええ。田中は、十年前のあの取引のときから、すでに、間宮と鳴海の周辺で動いていた人間だ。臨時の手伝いとして、ぽっと出てきた人間ではない。十年前から、続いていた話だ」

 沙耶香は、もう一度書類の上の田中の名を見た。

 布団敷きの臨時手伝い、という肩書きが、紙の上であっけなく崩れていく。

 その下から現れたのは、十年前の不審な金の流れの末端にあった、一人の名前。

 そして、その金の出所には、間宮と鳴海と、梓弓遥がいた。

「警部さん。これは、もう」

「ええ。十年前から、何かに巻き込まれていた、あるいは、巻き込みに加担していた人間だ。それが今、ここに帰ってきている」

 九能は、深く椅子の背にもたれた。

 天井を見ながら、低く独りごちる。

「ここまで来ると、私が知りたいのは、もうひとつだ」

「もうひとつ?」

「十年前のあの取引で、いったい誰が、何を、誰に押しつけたのか」

 九能の言葉に、沙耶香は、間宮の電話の声を、また思い出した。

 あれはそうじゃない。

 巻き込まないでくれ。

 間宮もまた、押しつけられそうになっていた一人だった。

 ということは、押しつける側が、別にいる。

「警部さん。十年前のあの写真に写っていた四人、つまり、間宮、梓弓、鳴海、そして痩せた男――そのうちの誰かが、ほかの三人に、何かを押しつけて、自分だけ罪を逃れようとしていた、ということでしょうか」

「その可能性が高い」

「だとしたら、押しつけられた側は、いずれ気づくはずです。事件のあとで、自分たちだけが責任を負わされ、押しつけた本人は、平然と次の人生を生きている、ということに」

「そうだ。だから今になって、十年経って、誰かが復讐を始めた、と見ることもできる」

 九能は、ゆっくり目を閉じた。

「ただ、復讐者と、押しつけ役。どちらが、あの痩せた男なのか。それが、まだ見えん」

「それは……」

「篠原さん。これから先は、十年前を掘っていかんと、何も決まらん」

 九能は、目を開けると、書類の山を引き寄せた。

「篠原さん。三嶋さん。あなたたちは、もうしばらく、この宿にいてくれませんか。記事の取材という形で構わん。夢野りり嬢を、近くで支えてほしい。あの子の声の記憶は、捜査の柱です」

「もちろん、いますよ」

 沙耶香は、即答した。

 三嶋も、深くうなずいた。

 宿泊券は一泊二日のはずだった。

 その期限は、すでに切れている。

 ここから先の宿代は、自費だ。

 旅情ライターの懐に、こたえない出費ではない。

 それでも、沙耶香はそんなことを、もう気にしていなかった。

 夢野りりの細い指の感触が、まだ手のひらに残っていた。

 その手のひらに、嘘はつけなかった。

 夕暮れが近づくころ、麓の警察から、また連絡が入った。

 田中が立ち寄ったらしい、東京駅近くの宿の防犯映像から、ぶつぶつとした音声が拾えた、というのだ。

 短い、聞き取りにくいやり取りだったが、十秒ほど、男の肉声が含まれていた。

 それを、九能はその場で再生して、夢野りりに聞かせた。

 ロビーの隅、警官にそっと囲まれた小さな場で、りりは耳を澄ませた。

 短い音声のあと、りりは、強く目を閉じてうなずいた。

「この声、たぶん、そうです。朝、廊下で『奥の部屋を見てきてくれ』って言ったの、この人だと思います」

 その瞬間、九能は、ふっと長く息を吐いた。

 ようやく、犯人側の一人が、確かな線でつながった。

 夢野りりに「奥の部屋を見てきて」と頼んだ男は、布団敷きの臨時手伝いと名乗っていた田中与一であり、その田中は、十年前の不動産取引で、間宮と鳴海と梓弓の金の流れの先にいた人物だった。

 事件の輪は、もう、はっきりとひとつの輪郭をなしていた。

 ただし、その輪の中心に立っているはずの「痩せた男」の素性だけが、まだ抜けている。

「篠原さん」

 九能は、外の暗くなり始めた谷を見ながら、低く言った。

「あんたは、谷の中の取材を、もう少し続けてくれ。私は、東京の方に動こうと思っとる」

「東京に」

「ええ。鳴海半蔵の周りに、何が動いているか、自分の目で確かめんと、どうにも落ち着かん。あの男が次の標的だとすれば、悠長に待ってはおれん」

 沙耶香は、うなずいた。

 谷と東京。

 二つの場所で、同時に話が進んでいくことになる。

 その先に、もうひとつの密室があることを、このとき沙耶香はまだ、ぼんやりとした不安として感じているだけだった。

 谷の上に、夕暮れの空が、青と紫の境界をひいていた。

 その境界の中に、最初の一番星がひとつ、頼りなく光っていた。

 その光を、沙耶香はしばらくの間、ロビーの窓越しに見ていた。

 そして、心の中で、ひとつだけ静かに決めた。

 この子を、もう、ひとりにはしない。

 夢野りりのあの細い指の冷たさを、彼女は、もう忘れまいと思った。


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