1-6
ロビーの隅で、三嶋は誰に見られるでもなく、低く口笛を吹くような顔をしていた。
「沙耶香さん。これ、ビンゴじゃないですか」
「ええ。少なくとも、警部さんに知らせる価値はある」
三嶋がめずらしく真剣な顔をしていたので、沙耶香は思わず吹き出しそうになった。
ふだんはピントを外したり三脚を忘れたりしているくせに、こういうときの彼は、ふと別人のように見える。
ドジな面と、勘の鋭さが、紙一重で同居している男なのだった。
ロビーの柱時計が、十時を打った。
その低い音が、宿全体にゆっくりと染み渡るように響いた。
時の流れが、再び動き始めた合図のように、沙耶香には感じられた。
すぐに帳場に戻って、九能にそのまま伝えた。
田中与一の名と、住所、先月から急に出入りするようになったこと。
九能は、立ったまま手帳を開いて、要点を素早く書き取っていった。
「田中与一、か。先月、急に、この宿に入ってきた」
低く繰り返す声に、確かな手応えがにじんでいた。
九能の目に、捕食者じみた静かな光が点る。
長年の刑事の勘が、確実な手がかりを掴んだときの目だった。
その目を見て、沙耶香は、自分がいま、捜査の本流に確かに食い込めたことを実感した。
旅情ライターの自分が、こんな目をした男の傍らに立っている。
それは奇妙な誇らしさと、同じだけの怖さを伴っていた。
「あの痩せた男が、十年前のことで動き出すなら、宿の中に手伝う人間が要る。布団を敷きにお客の部屋を回るなら、誰の部屋にも、自然に入れる」
「ええ。徳利のお酒に何か仕込むにも、奥の部屋に近づくのも、不審に思われずに済みます」
九能は、すぐに若い刑事を呼んで、住所を告げた。
「ただし、慎重にやれ。家に上がるな。家の様子だけを見て、戻ってこい。本人がいるかどうかも、外から確認するだけだ。へたに踏み込んで、向こうに逃げられたら、元も子もない」
刑事は短く返事をして、足早に廊下を駆けていった。
捜査の指示というのは、こんなにも具体的なものなのだと、沙耶香は内心、感心していた。
「踏み込むな」とまで言うのは、相手の用心深さを警部が高く見積もっている証拠だった。
刑事が出ていったあと、九能は腕を組んで、しばらく天井を見ていた。
その視線の先には、長押にかかった古い掛け額がある。
旅情の宿らしい、抑えた絵柄の山水画だった。
絵の中の山は、薄墨で描かれて、現実の谷の姿と、どこか似ていた。
その絵を見ていた九能の目が、ふっと現実に戻ってくる。
「篠原さん。もうひとつ、頼まれてくれませんか」
「なんでしょう」
「もう一度、間宮の部屋を見たい。今度は、一人で見るんじゃなく、あなたの目も借りて」
沙耶香は、うなずいた。
布団敷きの手伝いが、あの部屋にも当然入っていたはずだった。
そう考えると、昨日見た部屋の風景も、別の意味を持ってくる。
廊下の奥、間宮徹の死んだ部屋は、まだ立ち入り禁止のテープが張られていた。
九能が、慣れた手つきでそれを外し、襖を静かに開ける。
朝の光が、襖の隙間から細く差し込んでいた。
光の筋の中に、ほこりの粒がゆっくりと舞っているのが見えた。
時が止まったような、静かな部屋だった。
その静けさが、かえって何かを語っているように沙耶香には感じられた。
人が一人死んだ部屋には、独特の沈黙がある。
それは恐怖というよりも、何かを言いそびれたまま放り出された、というような、未完成の沈黙だった。
部屋の中は、昨日見たときのままだった。
畳の上の白いテープ、転がる徳利の影、整えられた布団。
布団――。
沙耶香の視線が、そこで止まった。
布団は、寝具として乱されることなく、夕食前にきちんと敷かれた状態のまま、こちらを向いて静まり返っていた。
そう、間宮はこの布団を、まだ一度も使っていない。
倒れたのは、酒席のすぐそばだったからだ。
枕の位置、掛布団の角の折り目、そのどれもが、まだ「これから使われる」ことを前提とした整え方になっている。
寝具というのは、こんなにも雄弁なものか、と沙耶香は思った。
「警部さん。この布団、夕食前に敷かれていたんですよね」
沙耶香は、布団に近づきながら、低く言った。
「ええ。仲居の話と一致します。布団敷きの手伝いが回ったのは、夕食どきと重なる時間帯です。客が広間や別室で食事を取っている間に、布団を一気に敷いて回る」
九能の説明は、簡潔だった。
その簡潔さが、ある可能性を、はっきり浮かび上がらせる。
その時間、間宮はこの部屋にいない。
部屋には、布団敷きの手伝いだけが入る。
そして、夕食のための徳利は――。
「徳利は、いつ、ここへ」
「夕食どきの少し前に、仲居が運んだそうです。本人が部屋食を頼んでいたから、間宮の場合は、夕食の膳と一緒に運ばれている。間宮は広間ではなく、部屋で食事を取っていたわけです」
沙耶香は、徳利の置かれていた畳の場所を見つめた。
部屋食の膳が一度運ばれ、運んだあと、仲居は廊下に出る。
すれ違いで、あるいはその後の時間帯に、布団敷きの手伝いが「失礼します」と声をかけて入る。
夕食を取りに行ってまだ戻っていない――そういう客の部屋に、堂々と入っていく仕事の人間。
その時間帯に、徳利は無防備に、膳の上にぽつんと置かれていることになる。
その絵が、ぞっとするほど自然に頭の中で組み上がった。
殺意というのは、こんなふうに、宿の日常の段取りの隙間に、するりと入り込めるものなのか。
そう思うと、ふだん何気なく利用している温泉宿の風景が、ひどく別物のものに見えてきた。
「警部さん。布団を敷きに来た人間が、間宮さんが食事から戻る前に、徳利の中身に何か仕込むことは」
「できる、ということになる」
九能は、低く答えた。
声の調子に、確信に近いものが滲んでいた。
「筋が、通る。彼が食事を済ませて部屋に戻る。誰も触っていないと信じている徳利の酒を、自分で杯に注いで、自分で飲む。何の疑いも、持たずに」
その光景を、沙耶香は思い浮かべた。
夕食を終えて部屋に戻った間宮が、ふっと息をついて、徳利を傾ける。
杯の中で、揺れる酒に、薄く何かが溶け込んでいる。
そんな絵が、はっきりと頭に浮かんで、沙耶香は思わず目をそらした。
そらした視線の先に、また布団があった。
主を失った布団は、もう誰にも使われない。
その当たり前のことが、急に物悲しく感じられた。
九能は、徳利のあった畳の場所を、しゃがみ込んで眺めた。
その背中が、しばらく動かなかった。
「だが、これでも、まだ密室の説明には足りん」
九能は、低く言った。
「布団を敷くために部屋に入った者は、仕事が済めば、部屋を出る。襖は、出ていったあとに外から閉まる。そのあと、間宮が戻ってきて、自分で内側から鍵をかけたなら、それでよい。だが、もし、別の誰かがそのあとに乗り込んできて、間宮に止めを刺したり、何かをしたりした上で、密室を作って出ていったのだとしたら――」
「別の細工が、要りますね」
「ええ」
沙耶香は、襖をじっと見た。
そして、ふと、襖の脇の障子の桟に目を留めた。
朝の光が斜めに差し込んでいて、桟のひとつだけ、わずかに光り方が違うように見えた。
それは、ほんの違和感だった。
ライターとして、風景の中の違和感を捉える癖は、こうして思いがけないところで役に立つことがある。
「警部さん。これ」
「どうした」
九能が、すぐに腰を上げて寄ってきた。
二人で、その桟の前にしゃがみ込む。
注意して見なければ、見過ごしてしまうような、ごく細い筋だった。
桟の表面のニスが、わずかにこすれて、その下の白っぽい木地が、糸ほどの幅で覗いている。
九能は鼻先がふれるほど近くに顔を寄せて、しばらく動かなかった。
その肩の動きが、息を浅くしていることを示していた。
刑事が、現場で本物を見つけたときの呼吸だった。
「糸の跡だ、これは」
九能の声が、低く響いた。
その声が、沙耶香の耳に、いやに鮮明に届いた。
「ごく細い糸が、ここを通って、強く引かれた跡だ。新しい。一日や二日の前のものだろう」
九能は、その跡に顔を寄せて、しばらく動かなかった。
その横顔が、いつもより硬く見えた。
長年の経験が、この細い筋ひとつから、犯人の手の動きを読み取っていく。
その緊張感が、空気を通じて、沙耶香にも伝わってきた。
たった一筋。
それだけのもので、これだけ多くのことが分かるのか。
沙耶香は、捜査というものの根気強さを、改めて思った。
「篠原さん。あんたは、この事件の鍵を、今、ひとつ見つけた」
九能は、立ち上がって、襖の引き戸の錠と、窓のねじ締まり錠を、順に見回した。
低く、独り言のような調子で続ける。
「内側から鍵をかける、と一口に言うがな。鍵というのは、外から細工する手立てが、いくつもある。代表的なのが、糸を使う方法だ」
九能の指が、襖の錠の摘みを、軽くつまむ仕草をした。
「鍵の摘みに細い糸をかけ、襖と柱の隙間から外へ出しておく。襖を閉めたあと、外から糸を引く。すると、内側の摘みが回って、錠がかかる」
九能の指が、目に見えない糸を、すっと引くような仕草をする。
その動きを見ているだけで、密室の薄い殻が、薄紙のようにめくれていくのが分かった。
目の前で、トリックの解説そのものが、ひとつの手品のように立ち上がる。
そして、その手品の種は、家中にある日用品ですべて間に合うほど、慎ましいものだった。
「鍵が回ったら、糸の片端を放して、もう一方から引き抜く。糸さえ細ければ、隙間からそっと抜ける。古典的だが、確実だ」
沙耶香は、思わず窓を振り返った。
古い木製の窓のねじ締まり錠は、回転式で、つるりとした金具がついている。
「窓も、同じ手口で」
「ねじ締まり錠の方が、もっと簡単だ。糸を金具に回り込ませて引っ張れば、ねじ式の錠なんぞ、外から自由に回せる。外から閉めたものを、内側から閉めたように見せかける。これが、密室の正体だ」
その淡々とした口調が、かえって背筋に響いた。
絵解きをされてしまえば、なんと単純な仕掛けなのだろう。
だが、それを思いつき、実際にやり遂げて、誰の目にも触れずに済ませる――そこには、明らかに、入念な計画と、土地勘と、共犯者の手があった。
そして、もうひとつ。
「事故に見せたかった」という、犯人の意図が、改めて骨格として浮かび上がってくる。
このトリックは、外から鍵を回したことを「絶対に悟らせない」ためのもの。
つまり、表向きは「自分で鍵をかけて、自分で死んだ」という絵を、誰にも疑わせずに成立させるためのもの。
その絵が崩れたら、捜査全体の前提が、ひっくり返る。
「警部さん。糸の細工をしたのは、布団敷きの田中ですか。それとも、間宮さんと一緒に部屋に入った、あの痩せた男の方ですか」
九能は、すぐには答えなかった。
しばらく考え込んでから、ゆっくりと首を振った。
「断定はできん。だが、どちらか一人ではなく、二人で動いている、と私は見ている」
「役割分担、ということですか」
「ええ。たとえば、布団敷きの田中が、徳利に毒を仕込む。あとから訪ねてきた痩せた男が、間宮と何かを話し、相手が酒に口をつけるのを見届ける。あるいは、毒がうまく回らなかった場合に備えて、別の手を打つ役を引き受ける。そして、最後に、糸を使った密室の細工が、二人のうちのどちらかの手で行われる」
九能は、独り言のように、低く繰り返した。
「役割分担。確かにあるな」
主犯と、共犯。
その絵が、もう、はっきりと浮かび上がっていた。
そして、その絵の中で、夢野りりがどう使われたのか、ということも、自然と見えてくる。
朝、第一発見者として奥の部屋に立たせる役。
それは、現場の発見時刻を犯人側がコントロールする、最後の駒だ。
そう考えると、りりに「様子を見てきて」と声をかけた人物が誰か、というのが、ひときわ重い問いになってくる。
そのとき、廊下の方で、慌ただしい足音が聞こえた。
田中の家を見に行かせていた、あの若い刑事が、戻ってきたらしかった。
足音が、止まる前から、もういい知らせではないことが分かった。
廊下を駆けてくる靴音の調子に、はやる気持ちと、わずかな悔しさが混じっていた。
「警部、ご報告します」
「どうだった」
「田中与一の自宅に、本人はおりません」
その声に、九能の肩がわずかに下がった。
期待していた答えではない、というよりは、最悪の答えではない、という小さな安堵にも見えた。
「近所に当たったところでは、昨日の朝早くに、大きな鞄を持って家を出るのを見た者が、何人かおります。それきり、戻っていないようです」
九能の顔が、苦く歪んだ。
田中もまた、事件発覚と前後して、麓を発っていた。
「やはり、逃げたか」
「行き先は、今、当たらせています。駅の方の目撃情報を集めているところで」
「すぐに、麓の駅と、近辺のバス停を全部当たれ。それと、東京の方の警察にも連絡を入れろ。あの痩せた男と、合流される前に、片方でも押さえたい」
九能の指示は、明瞭で、淀みがなかった。
そのあとに続けた一言だけが、わずかに苛立ちを含んでいた。
「逃げ足が、速すぎる」
刑事が一礼して廊下へ駆け戻っていく。
その背中を見送りながら、沙耶香は唇を噛んでいた。
主犯の男が、宿を出てすぐに東京へ向かう。
共犯の田中も、翌朝には麓を発つ。
事件発覚と同時に、関係者全員が、谷から離れていく。
それは、間宮一人を殺すための計画にしては、あまりに念入りな撤収の段取りだった。
撤収。
その軍隊めいた言葉が、沙耶香の頭に勝手に浮かんできた。
これは仕事だ、という感覚で動いている人間たちの、整いすぎた退き方だった。
沙耶香は、しばらく黙って、襖の桟の糸の跡を見ていた。
ほんの小さな、こすれた筋ひとつ。
これが、ここまで周到な殺意の、唯一こぼれ落ちた痕跡だった。
完全犯罪を目指した者たちが、最後に残してしまった、ひと擦りの傷跡。
このひと擦りがなければ、すべては事故と病死で済まされていたかもしれない。
そう思うと、この細い筋が、急に神様の悪戯みたいに見えてきた。
「警部さん」
ようやく、沙耶香は声を出した。
声の調子に、自分でも聞き取れるくらいの怖さがにじんでいた。
「これ、間宮さんを殺すためだけの計画じゃないんじゃないでしょうか」
九能が、ゆっくり振り返った。
「ほう」
「梓弓さんも殺されました。あの痩せた男と田中が、二人がかりでここまで用意していたのは、間宮さん一人を消すためじゃない気がします。もっと、続きがある」
九能は、しばらく何も言わなかった。
ただ、ゆっくりとうなずいた。
「私も、それを考えていた」
その低い声に、刑事としての覚悟と、ライターを巻き込みつつあることへのためらいの両方が、滲んでいる気がした。
九能は、襖の桟の糸の跡を、もう一度見下ろした。
そこに残されていない次の事件の痕跡を、まるで、そこに見ているかのようだった。
ない痕跡を「見る」ことができるのが、刑事という人種なのかもしれない。
そう、沙耶香は思った。
「十年前の写真には、四人が写っていた。二人は、もう死んだ。残るは、鳴海半蔵と、あの痩せた男。痩せた男が犯人なら、最後に残るのは、鳴海ですな」
沙耶香は、拳を握った。
「次に狙われているのは、鳴海さんかもしれません」
九能の目が、すっと細くなった。
「篠原さん。あんたの勘は、たぶん当たっとる」
九能は、しばらく黙って、廊下の方を見ていた。
その視線の先には、もう誰もいなかったが、まるで、まだ姿の見えない次の被害者の影を、そこに見ているようだった。
廊下の奥の小さな行灯の明かりが、その視線の先で、なお頼りなく揺れていた。
「鳴海半蔵は、昨日の朝のうちに、急いでこの宿を引き払って、東京の自宅へ戻っとります。間宮の死を聞いて、慌てたんだろう。だが、東京へ帰ったからといって、安全とは限らん」
九能は、廊下の窓の外、薄霧の谷を見やった。
霧はすでにほとんど晴れて、対岸の杉木立が、くっきりと姿を現していた。
「むしろ、東京へ帰ったから、犯人にとっては、好都合かもしれん」
沙耶香の胸の奥で、嫌な予感が、また音を立てた。
谷の上の方で、烏が一声、長く鳴いた。
その声が、薄れていく霧の中に、ゆっくりと吸い込まれていった。
朝の光が、もう完全に廊下を満たしていたが、その明るさの中に、なお冷たいものが残っていた。
宿は静かだった。
その静けさの中で、すでに次の事件への秒針が、どこかで小さく刻み始めている。
そんな気配が、廊下のどこかに、確かに漂っていた。
そして沙耶香は、その秒針の音から逃げるように、ぎゅっと手帳を抱えなおした。
ペン先は、まだ何も書き留めていなかった。
書き留めるべき言葉が、まだ、形にならなかった。
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