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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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5/15

1-5

 翌朝、谷には薄く霧が下りていた。

 宿の三階の窓から見下ろす渓流は、白い湯けむりと朝霧がほどけきらずに混じり合って、対岸の杉木立がぼんやりと滲んで見えた。

 旅情ライターとしてなら、間違いなく見開きの扉ページに使いたい風景だった。

 ふだんなら、沙耶香はとっくに手帳を開いて、霧の色合いや空気の匂いを書き留めていたはずだ。

 だが、この朝は手帳を開く気にもなれなかった。

 外の景色がどれほど美しくても、その下で人が二人、すでに死んでいる。

 その重さが、ペン先を鈍らせていた。

 部屋を出る前、沙耶香は鏡の前にしばらく立った。

 化粧水を手のひらに広げて顔にあてると、冷たさがしみるように感じられた。

 寝不足の目の下に、薄い隈が浮いている。

 それを軽く指でぼかしながら、頭の中では昨夜九能と交わした会話を、ひとつずつ反芻していた。

 写真の中の四人。

 二人はもう死んだ。

 残るは、鳴海半蔵と、あの痩せた男。

 その二人の周りで、まだ何かが動いている。

 そう考えただけで、鏡の中の自分の顔が、わずかに強張ったように見えた。

 朝食を、三嶋と夢野りりと三人で取った。

 部屋に運んでもらった膳には、谷の幸が変わらず丁寧に盛られていたが、味の感想を口にする気にはなれなかった。

 りりは、ほとんど箸をつけなかった。

 うつむいたまま、味噌汁の椀を両手で包み込むようにして、湯気だけを見つめていた。

 三嶋が、いつもの調子で軽口を叩いては、その都度、自分の言葉が空回りしているのを察して、ばつが悪そうに口をつぐむ。

 そんな朝だった。

 食後、沙耶香はりりに、しばらく部屋で休んでいるように言った。

 りりは小さくうなずいて、自分の部屋へ戻っていった。

 その背中が、ふだんよりひとまわり小さく見えた。

 廊下を歩いていくその姿を見送りながら、沙耶香は胸の奥で、何度目かの問いを自分に向けた。

 なぜ、あの子が、第一発見者になったのか。

 その問いには、まだ満足のいく答えがなかった。

 一階に下りると、廊下の途中で、沙耶香の足が自然に止まった。

 帳場の脇の小部屋から、低い声が漏れていた。

 九能が、若い刑事と何か話し込んでいるようだった。

 聞き取れる単語は少なかったが、声の調子から、いい知らせではないことが、すぐに分かった。

 息を整えて、沙耶香はその前を通り過ぎようとした。

「篠原さん。ちょうどよかった」

 襖の隙間から顔を覗かせた九能の方が、先に気づいて呼び止めた。

 その表情は、昨夜よりさらに険しく沈んでいた。

 九能の顔色を見ただけで、沙耶香は事態が悪い方へ転がっていることを察した。

 部屋に入ると、机の上には、麓の警察から送られてきたらしい何枚かの書類と、地図が広げられていた。

 地図の上に、赤い丸がいくつか書き込まれている。

 ひとつは、この宿の位置。

 もうひとつは、麓の駅。

 そして、駅から少し離れた場所にも、丸がついていた。

 赤い丸は、見るだけで何かが起きた場所を示しているように見える。

 沙耶香は、その三つの赤丸を、ゆっくりと目で追った。

「警部さん。何か」

「あった、と言うべきか、なかった、と言うべきか、ですな」

 九能は、少し疲れた目で苦笑のような表情を浮かべ、机の端に腰を半分のせた。

 その指の節が、地図の駅前の丸を、こつんと叩く。

 軽い動きだったが、その音が、妙に重く部屋に響いた。

 廊下の方で、仲居が足袋の音もさせずに通り過ぎていく気配があった。

 その気配が消えるのを待ってから、九能は声を落とした。

「例の、痩せた男です。あの男、もう、この谷を出とります」

 短い言葉だったが、沙耶香の背中を、ひやりとしたものが伝った。

 逃げられた、というよりは、最初からそうなる予定だった、という響きが、九能の声にあった。

 その響きの中に、捜査側がいかに後手に回らされているか、ということまで含まれていた。

 机に広げられた書類のうちの一枚を、九能はゆっくりとつまみ上げた。

 余白に、走り書きで時刻が書きつけられている。

 午前一時を回った時間。

 ふつうの観光客なら、まず動かない時間帯だった。

 沙耶香は、その時刻の数字を、思わず指でなぞった。

 夜中の一時。

 事件発覚より、何時間も前だった。

「麓の町のタクシー会社に当たらせたら、出てきましてね。一昨日の深夜、ここの宿のすぐ下まで車を呼んで、客を乗せて駅まで運んだという記録が」

 九能は、書類の時刻を、人差し指の腹でなぞった。

 なぞる指の動きが、まるで犯人の動きを追跡している矢印そのもののように見えた。

 その手つきには、長年の刑事の、執念のようなものがにじんでいる。

「客の人相が、写真のあの男と、ぴたりと一致したそうです。コート、痩せ型、目つき。タクシーの運転手は、駅前で降ろして、男が早朝の始発に乗ったところまで、ちゃんと見届けとります」

 タクシーから駅、駅から始発。

 その流れの速さに、沙耶香は思わず息を呑んだ。

 予定が前もって組まれていなければ、こうは動けない。

 宿の中で間宮の遺体が見つかったのは、その何時間も後だった。

 つまり、犯人は、自分が殺した相手の発見を待たずに、もうこの土地から退いていたのだ。

 そう考えると、犯人の中で「間宮の死」は、もはや確認の必要すらない既定事項だったのだろう、と分かる。

 仕掛けに失敗があるとは、最初から考えていない人間の動き方だった。

「始発で、どこへ」

「東京方面です。乗り換えがいくつもあるから、終点まで乗ったのか、途中で降りたのかは、まだ分からん。ですが、東京の駅に出てしまったとなると、その先は、もう人の海です」

 九能は、深く息を吐いた。

 その息に、自分への苛立ちが混じっているのが、聞こえる気がした。

 事件の通報を受けたのは、昨日の朝。

 だがその数時間前に、もう犯人はタクシーを呼んでいる。

 毒が完全に回りきって、被害者が確実に死ぬのを、見届けてすらいない。

 仕事は終わったから抜ける、という、機械じみた動き方だった。

 沙耶香は、地図の駅前の赤丸を、じっと見つめた。

 霧の出る前の、まだ暗い駅前の風景が、頭の中で勝手に組み上がっていく。

 待ち合わせたかのように現れるタクシー、無言で乗り込む痩せた男、運転席のミラーに映る無表情な横顔。

 それはまるで、観光客の旅情とは正反対の、孤独で乾いた風景だった。

 そして、その風景の中に、笑い声も、温泉の湯気も、土地の人の挨拶も、ひとつも存在していない。

 沙耶香はその想像の中で、自分の旅情ライターとしての視点が、まるで通じない別世界をのぞき込んでいるような感覚に囚われた。

「身元の方は、まだ割れませんか」

「データベース上は、依然として一致なしです。だが、本部の捜査員が、別の角度から動いとります」

 九能は、もう一枚、別の書類を取り上げた。

 そこには、十年ほど前の日付と、不動産会社の名前が並んでいる。

 罫線が薄れて読みにくい、古い登記の写しのようだった。

 ところどころに、丸や下線が書き込まれている。

 それは、本部の捜査員が一人ずつ照合した跡なのだろうと、沙耶香は察した。

 地味だが、こういう書類の上の作業にこそ、捜査の本体があるのだと感じた。

「十年前の、間宮と鳴海の不動産取引。あれを、もう一度洗わせとります。当時、その取引に関わった人間――社員、取引先、立会人、銀行の担当――それらの一覧を作って、ひとつずつ顔写真と照合していく。時間はかかるが、地道に潰せば、必ず網に引っかかる」

 その言葉に、沙耶香は少しだけ救われた気がした。

 派手な追跡劇ではないが、警部の言う「培ってきた」仕事の力が、こういう照合の積み重ねの中にあるのだということが、伝わってきた。

 帳場の柱時計が、こつ、こつ、と静かに時を刻んでいた。

 その音だけが、しばらく部屋を満たした。

 ふと、九能の口調が、すっと低くなった。

 その声色の変化に、沙耶香は無意識に身を起こした。

 刑事という人種は、本当に重要なことを言うとき、声を張らない。

 そのことを、彼女はこの一日で学んでいた。

「ただ、私が今、いちばん気にしとるのは、その男じゃないんですよ、篠原さん」

 沙耶香は、書類から顔を上げた。

 九能の目は、もう書類を見ていなかった。

 廊下の方を、じっと見ていた。

 その視線の先には、薄暗い宿の廊下がのびていて、その奥のどこかに、夢野りりの部屋がある。

 廊下の途中、行灯の小さな明かりが、ぼうっとした輪郭で灯っているのが見えた。

 その明かりが、なぜか、ひどく頼りなく感じられた。

「夢野りりさんに、奥の部屋を見てきてくれと頼んだ、『誰か』だ」

 その一言で、部屋の空気が、ぐっと冷えた気がした。

 廊下を、別の仲居が足音もなく通り過ぎていく。

 その白足袋の動きを、沙耶香は知らず目で追っていた。

 ふだんなら気にも留めない、その当たり前の動きが、急に意味を持って見えてくる。

 仲居の動きが、急に意味を持って見えるということは、誰でもいい、誰でも怪しい、ということだった。

 その曖昧さが、ぞっとするほど不気味だった。

「あの痩せた男が、その夜のうちに谷を出ていたのだとすれば、翌朝、夢野りりさんに声をかけたのは、別の人間だ。つまり、この谷には、もう一人、犯人側の人間がいた。あるいは、今もまだ、いる」

 沙耶香は、無意識に拳を握った。

 宿の中の、誰か。

 仲居か、料理場の手伝いか、それとも別の客か。

 ロビーに新聞を広げているあの初老の宿泊客の顔も、廊下の隅で電話をしていた中年の女性の顔も、急に色を変えて見えた。

 旅情ライターとしては、宿に集まる客たちの顔こそが、原稿の材料になる。

 それが今は、ひとつひとつ容疑者の顔として頭の中で並び直されていく。

 職業の癖が、こんなふうにねじれて働くことを、沙耶香は今まで知らなかった。

「警部さん。私に、何かできることが」

「ある」

 九能は、迷いなく答えた。

 そして、すぐに、その答えを少しだけ柔らかく言い直した。

「いや、頼みたい、と言うべきか。あなたなら、できるだろう、と思っている」

 九能は、地図を畳んで、机の端に寄せた。

 ふだんは厳めしい顔つきだが、こちらに頼みごとをするときの目には、まっすぐな信頼のようなものがあった。

 その目を向けられて、沙耶香は不思議と気が引き締まる。

 頼られる、ということに、彼女はあまり慣れていなかった。

 ライターという仕事は、頼まれた原稿を黙々と書く仕事だ。

 こうやって、面と向かって「あなたなら、できる」と言われることは、めったにない。

 それだけに、警部の言葉は、不意打ちのように胸の奥に届いた。

「私が、警察として聞き込みをかけると、相手はどうしても身構える。だが、あなたは旅情ライターだ。記事のための取材だと言って、人と話すのに、ちっとも不自然がない」

 九能は、指で机をひとつ叩いた。

「仲居や、宿の手伝いの者に、こう聞いてみてほしい。一昨日の夜、奥の部屋――間宮の部屋に、何か届け物をした者はおらんか。あるいは、そのあたりで、何か手伝いをしていた者はおらんか」

 その問いかけ方に、捜査の年季が透けて見えた。

「料理場の手伝い」だとか「布団敷きの手伝い」だとか、具体的な作業名を口に出さない。

 それを口にすると、聞かれた相手が、無意識にその仕事に話を寄せてしまうからだ。

 ただ「あのあたりで、何か手伝いをしていた者」と曖昧に問うことで、相手の方から、自分が見たままを話してくれる。

 沙耶香は、これは確かに、ライターの仕事に近い、と思った。

 雑誌の取材で、相手の本音を引き出すために、自分はどんなふうに質問を組み立ててきたか。

 その経験の延長線上に、九能の頼みは、ぴたりと収まる。

 九能は、低く付け加えた。

「特に、宿の常勤じゃない、臨時の手伝い。繁忙期には、外から人を雇うことがある宿です。その中に、見覚えのない顔が混じっていなかったか。最近、急に出入りするようになった者がいないか。そこを、それとなく聞いてほしい」

 沙耶香の中で、すでにひとつの仮説が立ち上がっていた。

 宿の人間として動いていれば、廊下を行き来しても怪しまれない。

 仲居の顔を借りれば、客の部屋にだって、いくらでも自然に入れる。

 布団を敷きに、布団を上げに、お茶を運びに。

 そのどれもが、密室の中に立ち入る正当な口実になる。

「やってみます」

 沙耶香は、短く答えた。

 その短さに、自分でも驚いた。

 ためらう余地が、もう自分の中になかった。

 九能は、軽くうなずいたあと、声の調子をひとつ落とした。

「無理は、するな」

 その一言で、机を挟んだ空気が、わずかにやわらかくなった。

「怪しい気配を感じたら、すぐに私を呼んでくれ。一人で踏み込まんように」

 九能の声には、本気の心配がにじんでいた。

 ふだんは飄々と人を観察している警部の、その下にある人柄が、ふいに覗いた瞬間だった。

 沙耶香は、自分でも意外なほど、胸の奥が温かくなるのを感じた。

 たった一日のやり取りで、この風変わりな警部に、なんとなく信を置き始めている自分がいる。

 それは、ライターとして人を見てきた目が、認めた相手だからかもしれなかった。

 人を見ることを職業にしていると、信頼できる相手というのは、ほとんど第一印象で分かってしまう。

 九能はそういう、信頼に値する人種だった。

 帳場の小部屋を出て、沙耶香は廊下で待っていた三嶋を呼んだ。

 カメラを首から提げたまま、三嶋は壁にもたれて、所在なげに窓の外を眺めていた。

 霧がだいぶ薄れて、対岸の杉木立の輪郭が、やっと見え始めている。

 朝の光が、廊下の奥まで届き始めていた。

 廊下の板の節目が、その光の中で、ふだんよりはっきりと浮かんで見えた。

「三嶋くん。あなたも、一緒に来て」

「えっ、どこ行くんですか」

 三嶋は、寝起きみたいな顔でこちらを振り返った。

「取材よ、取材。旅情ライターと、カメラマンの仕事」

「いや、それ、絶対普通の取材じゃないですよね」

 口ではそう言いながら、三嶋はもう、カメラのストラップを握り直していた。

 長い付き合いだから、沙耶香の言う「取材」が、ふつうのそれと違うときの空気を、彼もとっくに察している。

 ぶつくさ言うのは、彼なりの照れ隠しのようなものだった。

 廊下の途中ですれ違った若い仲居に、沙耶香は軽く会釈をした。

 仲居も丁寧に頭を下げて、足早に通り過ぎていく。

 その立ち居振る舞いに、長年この宿で働いてきた人間の落ち着きがあった。

 こういう人たちの中に、もし他人の悪意を運んだ人間が混じっているのだとしたら――そう考えただけで、沙耶香の足取りが少し重くなった。

 二人がまず話を聞きに行ったのは、宿の女将だった。

 帳場の奥の小部屋で、女将は熱い茶を二つ、わざわざ淹れ直してくれた。

 福引で当たって泊まりに来た客が、こんな騒ぎに巻き込まれていることを、女将はしきりに恐縮していた。

「ほんとに、なんと申し上げてよいか。せっかくお越しくださったのに」

「いえ、それは私たちが気にすることでは。それより、お聞きしていいですか。記事にまとめるとき、宿の方の働きぶりにも触れたいので」

 沙耶香は、できるだけ自然に、取材の体裁を整えた。

 ノートを開き、ペンを構える。

 その仕草だけで、相手は急に「話していい場」に置かれた気になるものだ。

 女将も、ふっと姿勢を整え直した。

 商売柄、取材という形で問われることに、ある種の信頼を置いている世代なのだろう。

 茶をひとつ口に含んでから、沙耶香はゆっくり切り出した。

「繁忙期には、お手伝いの方を外から頼まれたりするものですか」

「ええ、頼みますよ。料理場の下働きや、布団敷きや、ね」

 女将は、申し訳なさそうに目を伏せながらも、問われたことには素直に答えてくれた。

 その素直さこそが、この宿の格と、女将の人柄を物語っているように、沙耶香には感じられた。

 聞き出すのに苦労する相手と、そうでない相手がいる。

 女将は、明らかに後者だった。

「一昨日の晩は、お二人来ていただいてましてね。一人は料理場で、もう一人が、お客様のお部屋を回って、布団のお世話をしてくださって」

 沙耶香は、ペンを動かしながら、ちらりと三嶋と目を合わせた。

 布団のお世話。

 つまり、客の部屋に、合鍵を使って堂々と入っていける役回りだった。

 三嶋もそれを理解したらしく、カメラに視線を落としたまま、口を引き結んだ。

 ふだんは緩い男だが、こういうときの彼は、変な合いの手を入れずに黙る。

 そういう線引きが、彼にはちゃんとできていた。

「その布団のお手伝いをしてらした方、お名前を伺ってもいいですか。記事のクレジットに、と申しますか」

「ええ。田中さん、とおっしゃってましてね。田中与一さん。麓の町で、こういうお宿のお手伝いをいくつも掛け持ちでされてる方なんですよ」

 田中与一。

 その名を、沙耶香は手帳の隅に小さく書きつけた。

 ペン先が紙をこする感触が、いつもより少し硬く感じた。

 何気ない名前のはずなのに、書きつけた途端、その四文字が、急にずしりとした重みを持って手帳に居座ったように思えた。

 旅情ライターとして書き留めてきた幾百もの名前――宿の主人、料理人、土地の語り部――その並びの中に、明らかに性質の違う名前が、初めて紛れ込んだ瞬間だった。

「以前から、よく頼まれている方ですか」

「いえ、それが、今回が初めてでね。先月くらいでしたか。急にうちにも『手伝わせてもらえないか』とおっしゃってこられて。ちょうど忙しい時期にかかってましたから、ありがたいと、私も二つ返事で」

 その「先月」という一語が、沙耶香の中で、かちりと音を立てた。

 事件のひと月前に、急にこの宿に入り込んできた、見知らぬ手伝い。

 その時期は、犯人が計画を動かし始めた時期と、ぴたりと重なる可能性が高い。

 事件のための下見、宿の構造の把握、人の出入りの確認。

 ひと月もあれば、外から来た人間が、宿の内部に十分なじむ時間がある。

 しかも、こういう山の宿は、人手不足が慢性化している。

 向こうから「手伝いたい」と言ってこられれば、女将も詳しい身元確認まではしにくいだろう。

 その心理を、犯人側はちゃんと計算に入れていたのだ。

「田中さんは、今は、宿にいらっしゃいますか」

「いえ。一昨日のお仕事が終わってから、ご自宅に戻られたはずですよ。一晩泊まり込みで、翌朝にはお帰りになる、というお約束で。あの晩も、そういうことで」

「ご自宅というのは」

「ええ。麓の町に、ご住所があるはずです。帳簿に書いていただいたものが、確か」

 女将は、奥の棚から、薄い綴じ込みの帳簿を取り出してくれた。

 そこに書かれていた住所と名前を、沙耶香は手帳に書き写した。

 田中与一。

 麓の町の、ある番地。

 文字は几帳面で整っていて、書き慣れた筆跡だった。

 何度もこういう書類を書いてきた人間の字、という気がした。

 裏返せば、職業的に「身分を書類で示してきた」人間の手つきがそこにあるとも言える。

 ふつうの臨時手伝いの応募者なら、もう少し字に勢いがあるか、もしくは雑になるものだ。

 帳簿を閉じてもらい、ふたりは女将に丁寧に礼を言って、ロビーへ戻った。


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