1-4
夜が、谷を黒く塗りつぶしていった。
第二の事件のあと、宿の警戒は一段と厳しくなった。
谷へ下る道には、夜通し警官が立つことになり、宿の玄関にも、一人。
逃げ場のない山中で、宿泊客たちは、めいめいの部屋に閉じこもっていた。
夕食は、再びそれぞれの部屋に運ばれた。
沙耶香は、三嶋と夢野りりを自分の部屋に呼んで、三人で膳を囲むことにした。
一人にしておくには、りりの様子が、あまりに心細げだったからだ。
「すみません、篠原さん。なんだか、わたしのせいで、みなさんに迷惑かけて」
「あなたのせいじゃないわ。あなたも、巻き込まれただけなんだから」
沙耶香は、できるだけ穏やかに言った。
巻き込まれた。
その言葉を口にしながら、沙耶香は内心、ひやりとした。
りりは、本当に、ただ巻き込まれただけなのだろうか。
それとも、誰かによって、巻き込まれるように仕向けられたのか。
あの「様子を見てきてあげて」という一言が、頭から離れなかった。
食事のあと、襖が静かに叩かれた。
九能だった。
手に、数枚の書類を持っている。
「夜分にすみませんな。少し、進展がありましてね」
「警部さん。どうぞ、お入りください」
九能は、部屋に上がると、夢野りりの顔を見て、わずかに表情をやわらげた。
「お嬢さん。あなたも、ここにいたか。ちょうどいい。あなたにも、聞いておきたいことがある」
りりは、こくりとうなずいた。
九能は、机に書類を広げた。
「本部から、照会の結果が届きました。例の、十年前の写真の二人。三嶋さんが撮ってくれた、あの鮮明な一枚のおかげで、片方の身元が割れた」
沙耶香は、身を乗り出した。
「あの、痩せた方ですか」
「いや、まず割れたのは、恰幅のいい方だ」
九能は、書類の一枚を指で示した。
「名前は、鳴海半蔵。六十二歳。東京で、金融業をやっている男だ。表向きは投資コンサルタント、まあ、平たく言えば、金を貸す商売だな」
「金融業……」
「それも、あまり堅気とは言えん商売のようだ。過去に、いくつか怪しい噂がある。だが、表沙汰になったことはない。うまく立ち回ってきた男らしい」
九能は、もう一枚の書類を重ねた。
「そして、間宮徹。死んだ男だ。あれは不動産関係と言ったが、もう少し詳しく調べると、十年ほど前、ある大きな不動産取引に関わっていた。その取引に、金を出していたのが――」
「鳴海半蔵」
沙耶香が、思わず先を引き取った。
「そういうことだ。間宮の不動産取引に、鳴海が金を融通していた。十年前のあの写真は、その取引が成立した祝いの席か何かだろう。料亭のような場所で撮られていた」
九能は、写真をもう一度、机の中央に置いた。
「間宮、鳴海。この二人は、金と不動産で、十年前につながっていた」
「では、この女の方は」
沙耶香は、写真の中で間宮に寄り添う、梓弓遥を指さした。
「梓弓遥。彼女についても、少し分かった。当時、間宮の会社で働いていた女だ。経理を任されていたらしい。間宮とは、仕事だけでなく、個人的にも親しかったようだ」
「経理……お金の流れを、いちばんよく知っていた人ですね」
「鋭いな、篠原さん。その通りだ」
九能は、満足げにうなずいた。
「金を出す鳴海。不動産を動かす間宮。金の流れを握る経理の梓弓。十年前、この三人を中心に、ある不動産取引が動いていた」
そこまで言って、九能は、最後の一人――写真の中の、痩せて目つきの鋭い男に、指を移した。
「問題は、この男だ。三嶋さんの写真で顔は鮮明だが、本部のデータベースには、まだ一致するものがない。素性が、つかめん」
「データベースにない、ということは」
「過去に、警察の世話になったことのない人間、ということだ。つまり、表向きは、まっとうに生きてきた人間。だが」
九能は、目を細めた。
「十年前の写真で、この三人と同じ席にいて、しかも昨夜、現にこの宿にいた。間宮と梓弓が殺された、まさにその夜にだ。これが、無関係のはずがない」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
谷川のせせらぎだけが、襖の向こうから聞こえていた。
そのとき、三嶋が、ぽつりと言った。
「あの、僕、ひとつ気になることがあるんですけど」
「なんだ、言ってみろ」
「その痩せた男の人、昨夜は宿にいたんですよね。でも、今朝、間宮さんが見つかったあと、僕、その人を見てないんです。聞き込みのときも、ロビーに集められた客の中に、いなかった気がする」
沙耶香は、はっとした。
言われてみれば、そうだった。
朝、宿泊客が一人ずつ事情を聞かれていたとき、あの痩せた男の姿は、なかった。
「警部さん。その男、宿帳には」
九能が、苦々しげに書類をめくった。
「それも、おかしいんだ。昨夜、間宮や鳴海と同じ時間帯にチェックインしている客の中に、一人、宿帳の住所が出鱈目な人物がいる。書かれた住所を当たらせたが、そんな番地は存在しない。名前も、偽名だろう」
「偽名で泊まって、事件のあと、姿を消した」
「ああ。おそらく、夜のうちに、こっそり宿を出ている。道に警官を立てる前に、だ。第一の事件が発覚する前に、もう逃げていた可能性が高い」
沙耶香の中で、ばらばらだった点が、少しずつ線でつながり始めていた。
間宮が殺された夜、宿にいた。
事件が発覚する前に、姿を消した。
そして、十年前の写真に、被害者たちと一緒に写っている。
この痩せた男こそが、事件の中心にいる。
そう考えるのが、自然だった。
「警部さん」
沙耶香は、思い切って口を開いた。
「間宮さんは、どうやって毒を盛られたんでしょう。あの徳利のお酒に、何かが仕込まれていたという話でしたけど」
九能は、待っていたかのように、別の書類を取り出した。
「解剖の速報が来た。死因は、やはり毒物だ。植物由来の、ある毒。即効性ではないが、確実に死に至る。摂取してから、苦しみながら、しばらくして絶命する」
「しばらくして……」
「そこが、ひとつの鍵だ。間宮は、毒を飲んでから、すぐに死んだわけじゃない。ある程度の時間、生きていた。あなたが電話の声を聞いたのは、夜の何時頃でした」
沙耶香は、記憶をたどった。
「夕食のあと、部屋に戻る途中ですから……たぶん、夜の九時を少し過ぎた頃だったと思います」
「電話の声には、苦しんでいる様子はありましたか」
「いえ。切迫した感じはありましたけど、苦しそうではありませんでした。普通に、言い争っていました」
「ということは、その九時過ぎの時点では、間宮はまだ毒を飲んでいなかった。あるいは、飲んだ直後で、まだ効き始めていなかった」
九能は、指を折りながら考えを整理していった。
「間宮は、部屋で一人、酒を飲んでいた。徳利の酒に、毒が入っていた。だが、誰が、いつ、その毒を入れたのか。間宮が自分で飲む酒に、犯人はどうやって毒を混ぜたのか」
「お酒は、宿の方が部屋に運んだんですよね」
「ああ。仲居に確認した。夕食の膳と一緒に、徳利を運んでいる。だが、その時点で毒が入っていたなら、仲居の誰かが疑われる。それに、毒入りの酒を、いつ誰が飲むか分からん膳に乗せるのは、犯人にとっても不確実すぎる」
沙耶香は、考え込んだ。
「では、間宮さんが部屋に運ばれたお酒に、あとから誰かが毒を入れた、ということでしょうか。でも、部屋は密室で」
「そこだ」
九能は、ぴしゃりと言った。
「結局、すべてが、あの密室につながる。犯人は、どうやってあの部屋に入り、酒に毒を入れ、そしてどうやって、内側から鍵のかかった密室を作り上げて出ていったのか。それが解けなければ、何も始まらん」
沈黙が、また落ちた。
そのとき、ずっと黙って聞いていた夢野りりが、おずおずと手を挙げた。
「あの……わたしが言うことじゃないかもしれないんですけど」
「いや、なんでも言ってみなさい」
九能が、優しく促した。
「昨夜、わたし、お風呂に行く途中で、廊下で間宮さんを見たんです。あの、奥の部屋の方を。そのとき、間宮さん、誰かと一緒でした」
部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
「誰かと、一緒だった?」
「はい。男の人と、二人で。間宮さんが、その人を部屋に招き入れるところでした。なんだか、二人とも、難しい顔をしていて。わたし、お邪魔しちゃいけないと思って、急いでお風呂に行ったんですけど」
「その男の顔は、見たか」
「ちらっとだけ。でも……」
りりは、机の上の写真に、そっと指を伸ばした。
そして、その指は、迷うことなく、あの痩せて目つきの鋭い男を指した。
「この人だった気が、します。後ろ姿が多かったけど、横顔が、こんな感じで」
沙耶香と九能は、顔を見合わせた。
間宮が殺された夜、痩せた男が、間宮の部屋に入っていった。
それを、夢野りりが、偶然、目撃していた。
「お嬢さん。それは、間違いないか」
「絶対とは、言えません。でも、たぶん」
りりは、不安げに目を伏せた。
九能は、しばらく考え込んでから、ゆっくりと言った。
「これで、流れが見えてきた。間宮が殺された夜、この痩せた男が、間宮の部屋を訪ねている。間宮は、その少し前に、誰かと電話で言い争っていた。あれはそうじゃない、巻き込まないでくれ、と」
九能は、写真の痩せた男を、こつこつと指で叩いた。
「電話の相手も、部屋を訪ねてきたのも、この男だとしたら。間宮は、この男に、十年前の何かの責任を押しつけられそうになっていた。電話で否定し、それでも納得せず、男は直接、部屋に乗り込んできた。そして」
「お酒に、毒を」
沙耶香が、低く言った。
「その可能性は、高い。だが、それでも密室の謎は残る。男が毒を盛って部屋を出たとして、なぜ、内側から鍵がかかっていたのか」
九能は、書類をまとめながら、立ち上がった。
「とにかく、この痩せた男の素性を、何としても割らねばならん。それと、もう一つ」
九能は、夢野りりを、まっすぐに見た。
「お嬢さん。あなたが今朝、奥の部屋を見てきてくれと頼まれた、という話。その『誰か』が、宿の人間だったのか、別の人間だったのか。それを、思い出してほしい。あなたは、第一発見者になるように、誰かに仕向けられた可能性がある」
りりの顔が、さっと青ざめた。
「仕向けられた……わたしが、ですか」
「考えすぎかもしれん。だが、第一発見者というのは、捜査では重要な意味を持つ。もし誰かが、あなたを意図的に第一発見者に仕立てたのだとしたら、それは、何かを隠すため、あるいは、捜査の目をある方向に向けさせるためだ」
沙耶香は、りりの肩に、そっと手を置いた。
りりは、小さく震えていた。
「大丈夫。私たちがついてるから」
「篠原さん……」
その夜、九能が去ったあとも、沙耶香は長いこと眠れなかった。
間宮、鳴海、梓弓、そして、名もなき痩せた男。
十年前の不動産取引。
金を出す者、不動産を動かす者、金の流れを握る者。
そして、その四人を写した、色あせた一枚の写真。
四人のうち、二人がすでに死んだ。
残るは、鳴海半蔵と、あの痩せた男。
順番に消されているのだとしたら、次は誰なのか。
それとも――。
沙耶香は、窓辺に立って、闇に沈む谷を見つめた。
どこかで、まだ動いている者がいる。
この谷の、すぐ近くに。
あるいは、もうこの谷を出て、どこかへ向かっているのかもしれない。
谷を渡る夜風が、杉木立を、ざわざわと鳴らしていた。
その音が、今夜はやけに、不吉に聞こえた。
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