1-3
その日の昼を過ぎても、谷を覆う雲は晴れなかった。
間宮徹の遺体が麓へ運ばれてからも、宿の中には、重く湿った空気がよどんでいた。
宿泊客たちは、当面、宿から出ないようにと九能から求められていた。
谷へ下る道は一本きりで、その途中に警官が立っている。
逃げ場のない、閉じられた場所だった。
沙耶香は、ロビーの隅のソファで、冷めた茶をすすっていた。
向かいでは、三嶋がノートパソコンを開いて、カメラから取り込んだ写真を一枚ずつ確認している。
九能に頼まれた、昨日からの撮影分の点検だった。
「これがロビーで、これが廊下で……うわ、こんなに撮ってたんだ、僕」
「あなた、いつもそうやって無駄に枚数だけは多いのよね」
「無駄じゃないですよ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって言うでしょう」
「下手だって自分で認めてるじゃない」
そんな軽口を叩き合っていられたのも、そこまでだった。
昼下がり、谷の下の方から、また一台、車の上ってくる音が聞こえた。
それきり、宿の周りが、急に慌ただしくなった。
警官たちが廊下を走り、無線のやり取りが飛び交う。
ただ事ではない気配に、沙耶香はソファから腰を浮かせた。
ほどなく、九能が険しい顔でロビーに現れた。
「篠原さん。それに、カメラマンさんも。ちょっと来てもらえますか」
「何かあったんですか」
「もう一人、出た」
九能の声は、低く、苦かった。
「死人が、もう一人だ」
宿から渓流沿いに五分ほど下った、河原だった。
切り立った崖の下、ごろごろとした大きな石の転がる、水際のあたり。
そこに、人だかりができていた。
警官たちがブルーシートで囲おうとしている、その隙間から、沙耶香はそれを見てしまった。
水際に、女が一人、横たわっていた。
濡れた長い髪が、石の上に広がっている。
歳は、四十前後だろうか。
仕立てのいいコートが、水を吸って黒く重たげに張りついていた。
ひと目で、もうこと切れているのが分かった。
「身元は」
九能が、傍らの若い刑事に尋ねた。
「宿の宿帳と、所持品から照合中ですが」
若い刑事が、ビニール袋に入った運転免許証を、九能に差し出した。
九能は、それをしばらく見つめてから、低く名前を読み上げた。
「梓弓遥。四十二歳。住所は……東京だな」
沙耶香は、はっとした。
東京。
間宮徹も、東京の人間だった。
「警部さん。この方も、宿の宿泊客なんですか」
「いや」
九能は、首を振った。
「宿帳には、この名前はない。宿の者に確認したが、見覚えもないと言う。つまり、この女は、宿には泊まっていなかった。なのに、宿のすぐ下の河原で死んでいる」
「外から、来ていた人……」
「そういうことになる。問題は、なぜこんな山奥の、この宿の真下の河原に、東京の女が一人で来ていたのか、ということだ」
九能は、しゃがみ込んで、遺体のそばの石をじっと見た。
「篠原さん。あなたの目で見て、何か気づくことは」
沙耶香は、ブルーシートの内側に入れてもらい、できるだけ冷静に、女の様子を観察した。
旅情ライターの観察癖が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「……この方、ここで足を滑らせて落ちた、というふうには見えません」
「ほう。なぜ」
「靴です。ヒールの低い、街用のパンプスを履いています。こんな河原を、自分から歩いて下りてくる靴じゃありません。それに、コートも髪も、きれいすぎる。崖から転がり落ちたなら、もっと泥や擦り傷がついているはずです」
九能は、感心したように、ふっと息を吐いた。
「やはり、見ているところが違うな、あなたは」
「つまり、誰かに、ここまで運ばれてきた、ということでしょうか」
「その可能性が高い。検死を待たんと断定はできんが、別の場所で死んで、ここに置かれた。あるいは、ここまで連れてこられて、ここで殺された」
そのとき、三嶋が、青い顔で口を開いた。
「あの、また密室、ってわけじゃ、ないんですよね。今度は、外なんだから」
「ああ、これは密室じゃない。河原だ。誰でも来られる」
九能は立ち上がって、崖の上を見上げた。
「だが、人目につかん。宿からは、この河原は崖の陰になって見えない。道からも見えない。誰かがここで何をしようと、まず気づかれない場所だ。犯人は、それを知っていて、ここを選んだ」
沙耶香は、ぞくりとした。
地の利を知っている。
ということは、犯人は、この土地に、あるいはこの宿に、土地勘のある人間ということになる。
宿の中を、急に身近に感じて、沙耶香は思わず崖の上の建物を振り返った。
宿に戻ると、九能はすぐに、二つの遺体の関連を洗い始めた。
間宮徹と、梓弓遥。
ともに東京の人間。
時を置かず、同じ宿の周辺で死んだ。
これが無関係だとは、誰も思わなかった。
「篠原さん、三嶋さん。少し、付き合ってください」
九能は、帳場を借りて、二人を呼んだ。
机の上に、二人分の所持品の写しが並べられていた。
間宮徹の名刺、手帳、携帯電話。
梓弓遥のバッグの中身、手帳、そして、一枚の古い写真。
「これを見てください」
九能が、梓弓遥のバッグから出てきたという、その古い写真を、机に置いた。
色あせたスナップ写真だった。
どこかの料亭か、宴会場のような場所で、何人かの男女が並んで写っている。
「これは……」
沙耶香は、写真に顔を近づけた。
写っている人物の一人に、見覚えがあった。
死んだ間宮徹だった。
今より少し若いが、間違いない。
そして、その隣に、梓弓遥らしき女が、寄り添うように写っている。
「間宮と梓弓は、知り合いだったんですね」
「それも、かなり古い知り合いのようだ。この写真は、十年は前のものだろう」
九能は、写真の中の、別の人物を指さした。
間宮と遥の後ろに、もう二人、男が写っていた。
一人は、恰幅のいい初老の男。
もう一人は、その横に立つ、痩せて目つきの鋭い男だった。
沙耶香は、息を呑んだ。
「警部さん、この二人……」
「知っているのか」
「昨夜、広間で見ました。この恰幅のいい人と、この痩せた人。二人で、低い声で何か話し込んでいたんです。間宮さんとは、別の席で」
沙耶香は、手帳を慌てて開いた。
昨夜の走り書きが、そこにあった。
恰幅のいい男と、痩せた男。
ただの観察癖で書きつけた、その一行が、今、はっきりと意味を持って立ち上がってきた。
「昨夜、この宿にいた。この写真と、同じ二人が」
九能の目が、鋭く光った。
「篠原さん。それは、確かか」
「確かです。顔は覚えています。恰幅のいい方は、よく笑っていました。痩せた方は、ほとんど笑わなかった。印象に残っていますから」
「十年前の写真に、間宮、梓弓と一緒に写っている男が二人。そのうちの片方が殺され、もう片方も殺された。そして、写真の残りの二人が、昨夜、現にこの宿にいた」
九能は、写真を指でとんとんと叩いた。
「これは、もう偶然じゃない。十年前に、この四人――いや、もっといたかもしれんが――何かでつながっていた人間たちが、今、一人ずつ消されていっている」
沙耶香の背筋を、冷たいものが走った。
「順番に、消されている……」
「その可能性がある。だとすれば、まだ終わっていないかもしれん」
九能は、立ち上がって、帳場の窓から谷を見下ろした。
「篠原さん。あなたが昨夜聞いたという、間宮の電話。あれはそうじゃない、と言っていた、あれだ」
「はい」
「間宮は、誰かに何かを否定していた。あんたが思ってるようなことじゃない、信じてくれ、と。これ以上巻き込まないでくれ、とも言った、と」
「ええ、確かにそう言っていました」
九能は、しばらく考え込んでから、ゆっくりと言葉を継いだ。
「巻き込まないでくれ、という言い方は妙だ。自分が何か悪いことをした人間なら、そうは言わん。これは、自分は無実なのに、何か悪事に引きずり込まれそうになっている人間の言い方だ」
沙耶香も、同じことを感じていた。
あの声には、罪を犯した者の後ろ暗さではなく、無実の者が追い詰められていくような、切実な響きがあった。
「間宮は、十年前の何かについて、誰かから責任を押しつけられそうになっていた。あれはそうじゃない、と必死に否定しながら。そして、その夜のうちに、殺された」
「口を、封じられた」
「口封じだとすれば、間宮は、押しつけられそうになっていた『何か』の真相を、知っていたことになる。知っていたから、否定できた。あれはそうじゃない、と」
九能は、振り返って、沙耶香と三嶋を見た。
「その真相を知る鍵が、この十年前の写真にある。私はそう睨んでいる」
そのとき、ずっと黙って写真を覗き込んでいた三嶋が、ぼそりと言った。
「あの、警部さん。この写真の二人……昨夜の二人ですけど」
「ああ」
「僕、たぶん、撮ってますよ。昨夜のロビーで」
帳場の空気が、一瞬で張りつめた。
「なんだと」
「えっと、確か、夢野りりさんを撮ろうとしたときに、後ろにいろんな人が写り込んじゃって。その中に、こういう感じの人、いた気がするんですよね」
三嶋は、慌ててノートパソコンを引き寄せて、昨夜の撮影分を繰り始めた。
「えっと、これじゃない、これも違う……あ、これだ。これかな」
画面に、一枚の写真が表示された。
ロビーで、夢野りりが帽子を取って振り返った、その瞬間を捉えた一枚だった。
りりの背後、ロビーの奥に、確かに二人の男が写り込んでいた。
恰幅のいい初老の男。
そして、その横に立つ、痩せて目つきの鋭い男。
十年前の写真の、まさに同じ二人だった。
「鮮明だな」
九能が、画面に顔を寄せた。
「この痩せた方の男。顔が、はっきり写っている」
「あ、はい。これ、わりとうまく撮れた一枚なんですよ。ピントもばっちりで」
三嶋が、なぜか得意げに胸を張った。
「ふだんはピント外すくせに」
沙耶香が小声で突っ込んだが、九能はもう聞いていなかった。
「篠原さん、三嶋さん。この写真、いや、この男の顔を、私に預けてくれませんか。県警の方で、この男が何者か、照会してみたい」
「もちろんです」
「この恰幅のいい方と、痩せた方。この二人の素性が割れれば、十年前に何があったのか、見えてくるかもしれん」
九能は、若い刑事を呼んで、すぐにその写真を印刷させ、本部へ送る手配をした。
ドジに見えて、三嶋は、肝心の一枚を、確かに撮っていた。
誰も気づかなかった、事件の核心に立つ二人の顔を。
それが、後にどれほど大きな意味を持つことになるか。
このときはまだ、誰も知らなかった。
九能が照会の手配を終えて出ていったあと、沙耶香はロビーへ戻った。
夢野りりが、ソファの隅で、膝を抱えるようにして座っていた。
第二の事件のことは、まだ宿泊客には詳しく知らされていなかったが、ただならぬ気配は、りりにも伝わっているらしかった。
「りりちゃん、大丈夫?」
「篠原さん……」
りりは、不安げに顔を上げた。
「ねえ、篠原さん。わたし、なんだか怖くて。どうして、わたしが、あの部屋を最初に見つけることになっちゃったんだろうって」
沙耶香は、はっとした。
その疑問は、沙耶香自身が、ずっと胸の奥でくすぶらせていたものだった。
なぜ、よりによって、この子が第一発見者になったのか。
「りりちゃん。あの朝、あなたは、どうしてあの部屋の前を通ったの。あなたの部屋は、あの奥じゃなかったでしょう」
りりは、少し考えてから、おずおずと答えた。
「それが……あの朝、わたし、誰かに言われたんです」
「言われた? 誰に」
「よく、覚えてないんです。宿の人だと思ってたんですけど。『奥の部屋のお客さんが、朝食に下りてこないから、ちょっと様子を見てきてあげてくれないか』って」
沙耶香の心臓が、とくん、と跳ねた。
「様子を、見てきてあげて、って」
「はい。親切な人だなって、思って。それで、わたし、見に行ったんです。そしたら、あの……」
りりの声が、震えた。
沙耶香は、りりの手を、そっと握った。
その手は、冷たかった。
誰かに、言われた。
奥の部屋の様子を、見てきてあげて、と。
それが、宿の人間だったのか、それとも――。
沙耶香の脳裏に、あの河原で見た、街用のパンプスがよぎった。
そして、十年前の写真の中の、笑わない痩せた男の顔が。
事件の輪郭が、ゆっくりと、しかし確かに、形を取り始めていた。
谷の外では、夕暮れの光が、湯けむりをうっすらと朱に染めていた。
その美しさが、今はただ、不吉なものに見えた。
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