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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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3/15

1-3

 その日の昼を過ぎても、谷を覆う雲は晴れなかった。

 間宮徹の遺体が麓へ運ばれてからも、宿の中には、重く湿った空気がよどんでいた。

 宿泊客たちは、当面、宿から出ないようにと九能から求められていた。

 谷へ下る道は一本きりで、その途中に警官が立っている。

 逃げ場のない、閉じられた場所だった。

 沙耶香は、ロビーの隅のソファで、冷めた茶をすすっていた。

 向かいでは、三嶋がノートパソコンを開いて、カメラから取り込んだ写真を一枚ずつ確認している。

 九能に頼まれた、昨日からの撮影分の点検だった。

「これがロビーで、これが廊下で……うわ、こんなに撮ってたんだ、僕」

「あなた、いつもそうやって無駄に枚数だけは多いのよね」

「無駄じゃないですよ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって言うでしょう」

「下手だって自分で認めてるじゃない」

 そんな軽口を叩き合っていられたのも、そこまでだった。

 昼下がり、谷の下の方から、また一台、車の上ってくる音が聞こえた。

 それきり、宿の周りが、急に慌ただしくなった。

 警官たちが廊下を走り、無線のやり取りが飛び交う。

 ただ事ではない気配に、沙耶香はソファから腰を浮かせた。

 ほどなく、九能が険しい顔でロビーに現れた。

「篠原さん。それに、カメラマンさんも。ちょっと来てもらえますか」

「何かあったんですか」

「もう一人、出た」

 九能の声は、低く、苦かった。

「死人が、もう一人だ」

 宿から渓流沿いに五分ほど下った、河原だった。

 切り立った崖の下、ごろごろとした大きな石の転がる、水際のあたり。

 そこに、人だかりができていた。

 警官たちがブルーシートで囲おうとしている、その隙間から、沙耶香はそれを見てしまった。

 水際に、女が一人、横たわっていた。

 濡れた長い髪が、石の上に広がっている。

 歳は、四十前後だろうか。

 仕立てのいいコートが、水を吸って黒く重たげに張りついていた。

 ひと目で、もうこと切れているのが分かった。

「身元は」

 九能が、傍らの若い刑事に尋ねた。

「宿の宿帳と、所持品から照合中ですが」

 若い刑事が、ビニール袋に入った運転免許証を、九能に差し出した。

 九能は、それをしばらく見つめてから、低く名前を読み上げた。

「梓弓遥。四十二歳。住所は……東京だな」

 沙耶香は、はっとした。

 東京。

 間宮徹も、東京の人間だった。

「警部さん。この方も、宿の宿泊客なんですか」

「いや」

 九能は、首を振った。

「宿帳には、この名前はない。宿の者に確認したが、見覚えもないと言う。つまり、この女は、宿には泊まっていなかった。なのに、宿のすぐ下の河原で死んでいる」

「外から、来ていた人……」

「そういうことになる。問題は、なぜこんな山奥の、この宿の真下の河原に、東京の女が一人で来ていたのか、ということだ」

 九能は、しゃがみ込んで、遺体のそばの石をじっと見た。

「篠原さん。あなたの目で見て、何か気づくことは」

 沙耶香は、ブルーシートの内側に入れてもらい、できるだけ冷静に、女の様子を観察した。

 旅情ライターの観察癖が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

「……この方、ここで足を滑らせて落ちた、というふうには見えません」

「ほう。なぜ」

「靴です。ヒールの低い、街用のパンプスを履いています。こんな河原を、自分から歩いて下りてくる靴じゃありません。それに、コートも髪も、きれいすぎる。崖から転がり落ちたなら、もっと泥や擦り傷がついているはずです」

 九能は、感心したように、ふっと息を吐いた。

「やはり、見ているところが違うな、あなたは」

「つまり、誰かに、ここまで運ばれてきた、ということでしょうか」

「その可能性が高い。検死を待たんと断定はできんが、別の場所で死んで、ここに置かれた。あるいは、ここまで連れてこられて、ここで殺された」

 そのとき、三嶋が、青い顔で口を開いた。

「あの、また密室、ってわけじゃ、ないんですよね。今度は、外なんだから」

「ああ、これは密室じゃない。河原だ。誰でも来られる」

 九能は立ち上がって、崖の上を見上げた。

「だが、人目につかん。宿からは、この河原は崖の陰になって見えない。道からも見えない。誰かがここで何をしようと、まず気づかれない場所だ。犯人は、それを知っていて、ここを選んだ」

 沙耶香は、ぞくりとした。

 地の利を知っている。

 ということは、犯人は、この土地に、あるいはこの宿に、土地勘のある人間ということになる。

 宿の中を、急に身近に感じて、沙耶香は思わず崖の上の建物を振り返った。

 宿に戻ると、九能はすぐに、二つの遺体の関連を洗い始めた。

 間宮徹と、梓弓遥。

 ともに東京の人間。

 時を置かず、同じ宿の周辺で死んだ。

 これが無関係だとは、誰も思わなかった。

「篠原さん、三嶋さん。少し、付き合ってください」

 九能は、帳場を借りて、二人を呼んだ。

 机の上に、二人分の所持品の写しが並べられていた。

 間宮徹の名刺、手帳、携帯電話。

 梓弓遥のバッグの中身、手帳、そして、一枚の古い写真。

「これを見てください」

 九能が、梓弓遥のバッグから出てきたという、その古い写真を、机に置いた。

 色あせたスナップ写真だった。

 どこかの料亭か、宴会場のような場所で、何人かの男女が並んで写っている。

「これは……」

 沙耶香は、写真に顔を近づけた。

 写っている人物の一人に、見覚えがあった。

 死んだ間宮徹だった。

 今より少し若いが、間違いない。

 そして、その隣に、梓弓遥らしき女が、寄り添うように写っている。

「間宮と梓弓は、知り合いだったんですね」

「それも、かなり古い知り合いのようだ。この写真は、十年は前のものだろう」

 九能は、写真の中の、別の人物を指さした。

 間宮と遥の後ろに、もう二人、男が写っていた。

 一人は、恰幅のいい初老の男。

 もう一人は、その横に立つ、痩せて目つきの鋭い男だった。

 沙耶香は、息を呑んだ。

「警部さん、この二人……」

「知っているのか」

「昨夜、広間で見ました。この恰幅のいい人と、この痩せた人。二人で、低い声で何か話し込んでいたんです。間宮さんとは、別の席で」

 沙耶香は、手帳を慌てて開いた。

 昨夜の走り書きが、そこにあった。

 恰幅のいい男と、痩せた男。

 ただの観察癖で書きつけた、その一行が、今、はっきりと意味を持って立ち上がってきた。

「昨夜、この宿にいた。この写真と、同じ二人が」

 九能の目が、鋭く光った。

「篠原さん。それは、確かか」

「確かです。顔は覚えています。恰幅のいい方は、よく笑っていました。痩せた方は、ほとんど笑わなかった。印象に残っていますから」

「十年前の写真に、間宮、梓弓と一緒に写っている男が二人。そのうちの片方が殺され、もう片方も殺された。そして、写真の残りの二人が、昨夜、現にこの宿にいた」

 九能は、写真を指でとんとんと叩いた。

「これは、もう偶然じゃない。十年前に、この四人――いや、もっといたかもしれんが――何かでつながっていた人間たちが、今、一人ずつ消されていっている」

 沙耶香の背筋を、冷たいものが走った。

「順番に、消されている……」

「その可能性がある。だとすれば、まだ終わっていないかもしれん」

 九能は、立ち上がって、帳場の窓から谷を見下ろした。

「篠原さん。あなたが昨夜聞いたという、間宮の電話。あれはそうじゃない、と言っていた、あれだ」

「はい」

「間宮は、誰かに何かを否定していた。あんたが思ってるようなことじゃない、信じてくれ、と。これ以上巻き込まないでくれ、とも言った、と」

「ええ、確かにそう言っていました」

 九能は、しばらく考え込んでから、ゆっくりと言葉を継いだ。

「巻き込まないでくれ、という言い方は妙だ。自分が何か悪いことをした人間なら、そうは言わん。これは、自分は無実なのに、何か悪事に引きずり込まれそうになっている人間の言い方だ」

 沙耶香も、同じことを感じていた。

 あの声には、罪を犯した者の後ろ暗さではなく、無実の者が追い詰められていくような、切実な響きがあった。

「間宮は、十年前の何かについて、誰かから責任を押しつけられそうになっていた。あれはそうじゃない、と必死に否定しながら。そして、その夜のうちに、殺された」

「口を、封じられた」

「口封じだとすれば、間宮は、押しつけられそうになっていた『何か』の真相を、知っていたことになる。知っていたから、否定できた。あれはそうじゃない、と」

 九能は、振り返って、沙耶香と三嶋を見た。

「その真相を知る鍵が、この十年前の写真にある。私はそう睨んでいる」

 そのとき、ずっと黙って写真を覗き込んでいた三嶋が、ぼそりと言った。

「あの、警部さん。この写真の二人……昨夜の二人ですけど」

「ああ」

「僕、たぶん、撮ってますよ。昨夜のロビーで」

 帳場の空気が、一瞬で張りつめた。

「なんだと」

「えっと、確か、夢野りりさんを撮ろうとしたときに、後ろにいろんな人が写り込んじゃって。その中に、こういう感じの人、いた気がするんですよね」

 三嶋は、慌ててノートパソコンを引き寄せて、昨夜の撮影分を繰り始めた。

「えっと、これじゃない、これも違う……あ、これだ。これかな」

 画面に、一枚の写真が表示された。

 ロビーで、夢野りりが帽子を取って振り返った、その瞬間を捉えた一枚だった。

 りりの背後、ロビーの奥に、確かに二人の男が写り込んでいた。

 恰幅のいい初老の男。

 そして、その横に立つ、痩せて目つきの鋭い男。

 十年前の写真の、まさに同じ二人だった。

「鮮明だな」

 九能が、画面に顔を寄せた。

「この痩せた方の男。顔が、はっきり写っている」

「あ、はい。これ、わりとうまく撮れた一枚なんですよ。ピントもばっちりで」

 三嶋が、なぜか得意げに胸を張った。

「ふだんはピント外すくせに」

 沙耶香が小声で突っ込んだが、九能はもう聞いていなかった。

「篠原さん、三嶋さん。この写真、いや、この男の顔を、私に預けてくれませんか。県警の方で、この男が何者か、照会してみたい」

「もちろんです」

「この恰幅のいい方と、痩せた方。この二人の素性が割れれば、十年前に何があったのか、見えてくるかもしれん」

 九能は、若い刑事を呼んで、すぐにその写真を印刷させ、本部へ送る手配をした。

 ドジに見えて、三嶋は、肝心の一枚を、確かに撮っていた。

 誰も気づかなかった、事件の核心に立つ二人の顔を。

 それが、後にどれほど大きな意味を持つことになるか。

 このときはまだ、誰も知らなかった。

 九能が照会の手配を終えて出ていったあと、沙耶香はロビーへ戻った。

 夢野りりが、ソファの隅で、膝を抱えるようにして座っていた。

 第二の事件のことは、まだ宿泊客には詳しく知らされていなかったが、ただならぬ気配は、りりにも伝わっているらしかった。

「りりちゃん、大丈夫?」

「篠原さん……」

 りりは、不安げに顔を上げた。

「ねえ、篠原さん。わたし、なんだか怖くて。どうして、わたしが、あの部屋を最初に見つけることになっちゃったんだろうって」

 沙耶香は、はっとした。

 その疑問は、沙耶香自身が、ずっと胸の奥でくすぶらせていたものだった。

 なぜ、よりによって、この子が第一発見者になったのか。

「りりちゃん。あの朝、あなたは、どうしてあの部屋の前を通ったの。あなたの部屋は、あの奥じゃなかったでしょう」

 りりは、少し考えてから、おずおずと答えた。

「それが……あの朝、わたし、誰かに言われたんです」

「言われた? 誰に」

「よく、覚えてないんです。宿の人だと思ってたんですけど。『奥の部屋のお客さんが、朝食に下りてこないから、ちょっと様子を見てきてあげてくれないか』って」

 沙耶香の心臓が、とくん、と跳ねた。

「様子を、見てきてあげて、って」

「はい。親切な人だなって、思って。それで、わたし、見に行ったんです。そしたら、あの……」

 りりの声が、震えた。

 沙耶香は、りりの手を、そっと握った。

 その手は、冷たかった。

 誰かに、言われた。

 奥の部屋の様子を、見てきてあげて、と。

 それが、宿の人間だったのか、それとも――。

 沙耶香の脳裏に、あの河原で見た、街用のパンプスがよぎった。

 そして、十年前の写真の中の、笑わない痩せた男の顔が。

 事件の輪郭が、ゆっくりと、しかし確かに、形を取り始めていた。

 谷の外では、夕暮れの光が、湯けむりをうっすらと朱に染めていた。

 その美しさが、今はただ、不吉なものに見えた。


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