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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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2/15

1-2

 パトカーのサイレンが、谷の底から這い上がってくるように聞こえてきたのは、それから一時間ほど経ってからだった。

 宿の者が警察に通報してから、ずいぶん長く待たされたような気がしたが、考えてみればこんな山奥である。

 麓の警察署から、つづら折りの道を上ってくるだけで、それだけの時間がかかるのだった。

 赤い回転灯が、玄関先の杉木立を、ちかちかと染めた。

 最初に降りてきたのは、制服の警官が二人。

 続いて、地味な背広の中年の男が、ゆっくりと車から降りてきた。

 白髪まじりの髪を、きっちりと後ろへ撫でつけている。

 背は高くないが、肩幅が広く、どっしりとした体つきだった。

 何より、その目つきが鋭かった。

 玄関のあたりに集まっていた宿泊客や仲居たちを、ひと撫でするように見渡したその一瞬で、男はその場の全員の顔を覚えてしまったように見えた。

「県警の九能です」

 男は、女将に向かって低く名乗った。

「九能、弦十郎。この事件の担当をさせてもらいます」

 声に、無駄な抑揚がなかった。

 それでいて、聞く者の背筋を、自然と伸ばさせるような響きがあった。

 沙耶香は、ロビーの隅で夢野りりの肩を抱いたまま、その警部の姿を見ていた。

 長くこの仕事をやってきた人間だ、とひと目で分かった。

 旅先でいくつもの事件に出くわしてきた沙耶香には、そういう人間を見分ける目が、いつのまにか備わっていた。

 九能は、まず現場の部屋へ上がっていった。

 鑑識らしい数人が、機材を抱えて後に続く。

 残された宿泊客たちは、ロビーに集められ、一人ずつ事情を聞かれることになった。

 最初に呼ばれたのは、第一発見者の夢野りりだった。

 りりは、青ざめた顔のまま、若い刑事に連れられて別室へ消えていった。

 沙耶香は、その背中を心配そうに見送った。

 次に呼ばれたのが、沙耶香だった。

 通されたのは、帳場の奥の、ふだんは事務に使っているらしい小部屋だった。

 机をはさんで、九能弦十郎が座っていた。

 手元の手帳に、何やら細かい字で書き込みをしている。

「篠原沙耶香さん、ですな」

「はい」

「旅情ライター。ふうん」

 九能は、手帳から目を上げて、まっすぐに沙耶香を見た。

 その視線は、値踏みするようでいて、どこか奥の方で別のことを考えているような、不思議な目だった。

「で、あなたは昨夜、被害者の電話の声を聞いた、と。さっき仲居から、そう聞きましたが」

 沙耶香は、はっとした。

 仲居に、朝の混乱の中で、つい昨夜のことを話してしまっていた。

 あの部屋から、男の人が電話で言い争うような声が漏れていた、と。

「ええ、聞きました。昨夜、部屋に戻る途中で。あの奥の部屋から、男の人の声が」

「どんな声でした」

「『あれはそうじゃない』と。それを、何度も繰り返していました。『信じてくれ』とも。誰かと、言い争っているような感じでした」

 九能は、しばらく黙って沙耶香を見つめていた。

 それから、ふっと口の端を持ち上げて、言った。

「正直に言いましょうか、篠原さん。今の段階で、いちばん怪しいのは、あなたですよ」

「えっ」

「考えてもみてください。被害者は密室で死んでいた。昨夜その部屋から漏れていた電話の声を、唯一聞いていたと、自分から名乗り出た人物がいる。捜査の常道で言えば、こういう人間がいちばん怪しい。声を聞いた、というのが、そもそも作り話かもしれん」

 沙耶香は、思わず机に手をついた。

 冗談ではない。

「私は、本当にただ聞いただけです。立ち聞きする気もありませんでした。でも、あの声の調子が、あまりにただ事じゃなかったから」

「ほう」

「それに、私はあの男性のことなんて、昨日まで顔も名前も知りませんでした。広間で一人でお酒を飲んでいるのを、遠くから見ただけです。動機も、機会もありません」

 沙耶香は、ほとんど一息にそうまくし立てた。

 言いながら、自分でも、なんと頼りない弁明だろうと思った。

 知らない、見ただけ、動機がない。

 そんなものは、いくらでも嘘をつける。

 ところが、九能は、その沙耶香の様子を、じっと観察していた。

 そして、不意に、すっと表情をやわらげた。

「あなたは、違うな」

「……え?」

「あなたは、この事件には関係ない。少なくとも、手を下した側ではない」

 沙耶香は、ぽかんとした。

 たった今まで、いちばん怪しいと言っていた当の本人が、手のひらを返したように、そう言うのだった。

「どうして、そう言い切れるんですか」

 九能は、手帳を閉じて、椅子の背にもたれた。

「長いことこの仕事をやっとるとね、篠原さん。嘘をつく人間の喋り方というのが、分かるようになる」

「喋り方……」

「人間は、本当のことを話すときと、嘘をつくときで、言葉の出てくる順番が違うんですよ。嘘をつく人間は、相手の反応をうかがいながら、少しずつ話を足していく。順番が、整いすぎる。あらかじめ用意してあるからね」

 九能は、自分の手のひらを、ゆっくりと広げてみせた。

「ところが、あなたのさっきの話し方は、そうじゃなかった。思い出した順に、ばらばらと出てきた。声の調子のことを先に言って、それから自分の弁明を慌てて付け足した。あれは、嘘をつく人間の喋り方じゃない。本当のことを、思い出しながら話す人間の喋り方だ」

 沙耶香は、しばらく言葉が出なかった。

 たった数分のやり取りで、この男は、彼女のそういうところまで見抜いていたのか。

「……かまをかけたんですね。いちばん怪しい、って言って、私がどう反応するか見ていた」

「まあ、そういうことです」

 九能は、悪びれもせずに、小さく笑った。

「気を悪くされたなら、謝ります。ただ、こっちも商売でしてね。最初に揺さぶってみないと、分からんことが多い」

 沙耶香は、毒気を抜かれて、思わず溜め息をついた。

「人が悪い人ですね、警部さんって」

「よく言われます」

 九能は、ふと真顔に戻って、机に身を乗り出した。

「それより、篠原さん。ひとつ、頼みがあるんですがね」

「頼み?」

「あなた、旅情ライターだそうですな。仕事柄、宿の造りだとか、人の出入りだとか、そういうものをよく見るでしょう」

「ええ、まあ。観察癖は、職業病みたいなものですけど」

「だったら、少し、力を貸してくれませんか」

 沙耶香は、面食らった。

「私が、ですか」

「われわれ警察は、よそ者だ。この宿のことも、土地のことも、何も知らん。聞き込みをかけても、相手は身構える。だがあなたは、昨日からここに泊まっている、いわば内側の人間だ。客の顔も、仲居の動きも、ふつうに見てきている」

 九能は、指で机を軽く叩いた。

「それに、あなたには、あの電話の声を聞いた、という強みがある。事件の最初の手がかりを、たまたま握っている人間だ。捜査の輪に入れておいた方が、かえって都合がいい。容疑者として遠ざけておくより、よほどね」

「容疑者扱いは、もう撤回してくれたんじゃ」

「したした。だから、こうして協力を頼んでいる」

 九能は、にやりと笑った。

 沙耶香は、しばらく考えた。

 旅情ライターとして来たはずが、いつのまにか殺人事件の渦中にいる。

 例の嫌な予感は、見事に的中してしまったわけだ。

 だが、ここで尻込みするほど、彼女は気の弱い人間ではなかった。

 それに、あの夢野りりのことが、気がかりだった。

 なぜ、あの子が第一発見者になったのか。

 その疑問が、胸の奥でくすぶり続けていた。

「……分かりました。私にできることなら」

「ありがたい」

「ただし、ひとつ条件があります」

「ほう、条件とは」

 沙耶香は、まっすぐに九能を見返した。

「事件が解決したら、私にこの件を、記事として書かせてください。もちろん、捜査に差し支えのない範囲で、許可をいただいてから。私は、ライターですから」

 九能は、一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。

「なるほど。さすが、商売人だ。いいでしょう。約束します」

 そんなやり取りをしている最中に、小部屋の襖が、勢いよく開いた。

「沙耶香さーん! 大変です、僕、聞き込みされちゃいました! なんか僕、すごく怪しまれてる気がするんですけど!」

 三嶋正だった。

 カメラを首から提げたまま、半泣きのような顔で飛び込んできた。

「だってですよ、昨夜の夜、僕一人で外で写真撮ってたって言ったら、若い刑事さんに『つまり、アリバイがないんですね』って、すごい目で見られて」

「あなた、それは怪しまれて当然でしょう。夜中に一人で外をうろついてたんだから」

「うろついてません、撮影です!」

 九能が、その騒がしいやり取りを、面白そうに眺めていた。

「あなたが、カメラマンの三嶋さんか」

「は、はい。三嶋正です。あの、僕、本当に何もしてなくて」

「分かってますよ」

 九能は、あっさりと言った。

「あなたみたいに、見るからに何も隠せそうにない人間が、密室殺人なんぞ仕組めるわけがない」

「……それ、褒められてるんですかね、けなされてるんですかね」

「さあ、どっちでしょうな」

 沙耶香は、思わず吹き出してしまった。

 こうして、篠原沙耶香と三嶋正は、九能弦十郎というこの風変わりな警部と、この事件で知り合うことになった。

 旅情ライターとカメラマン、そして県警の警部。

 奇妙な顔ぶれが、ひとつの密室殺人を前に、はからずも肩を並べることになったのだった。

 事情聴取が一段落すると、九能は沙耶香と三嶋を伴って、もう一度現場の部屋を見に行くことにした。

「篠原さん、あなたの目で、この部屋を見てほしい。何か、おかしいと感じるところがないか」

 遺体はすでに運び出されていた。

 畳には、男が倒れていた位置を示す、白いテープの跡が残っている。

 部屋の中は、思いのほか片づいていた。

 荒らされた様子はない。

 争った形跡もない。

 ただ、男が一人で酒を飲み、そのまま倒れた。

 そう見えるような、静かな部屋だった。

「被害者の身元は、もう分かっとります」

 九能が、手帳を開いた。

「間宮徹。四十六歳。東京で、小さな不動産関係の会社をやっていた男です」

「不動産……」

「宿帳の住所と、所持品から確認しました。死因は、おそらく毒物。詳しいことは解剖待ちですが、傍らの徳利の酒に、何か仕込まれていた可能性が高い」

 沙耶香は、畳の上の徳利と杯を見た。

 すでに鑑識が中身を採取したあとで、空になっている。

「自分で飲んだ、ということですか」

「あるいは、誰かに飲まされた。だが、ここが問題でね」

 九能は、襖と、その引き戸の錠に目をやった。

「この部屋は、内側から鍵がかかっていた。仲居が合鍵で開けるまで、開かなかった。窓も見てください」

 沙耶香は、窓辺に歩み寄った。

 古い木製の窓には、ねじ締まり錠がついていた。

 くるりと回して締めるタイプの、昔ながらの錠だ。

 その錠が、内側から、しっかりと締まった状態だった。

「窓の下は、すぐに谷川です。三階だ。ここから出入りするのは、まず無理だ」

 九能が言った。

「つまり、犯人がもし酒に毒を盛ったのだとしたら、その犯人は、どうやってこの部屋から出ていったのか。出ていったあと、どうやって内側から鍵をかけたのか。それが、分からん」

 完全な密室、というわけだった。

 そのとき、それまで黙って部屋の隅をうろうろしていた三嶋が、のんびりと口を開いた。

「あの、これ、事件じゃなくて、事故ってことはないんですか」

 九能と沙耶香が、同時に三嶋を見た。

「だってですよ。鍵が内側からかかってたんでしょう? だったら、誰も入れない。誰も出られない。ってことは、その間宮さんって人は、一人で勝手にお酒飲んで、何か悪いものでも食べて、発作で倒れちゃっただけ、ってことじゃ。事故ですよ、事故」

「三嶋くん、あのね」

 沙耶香が呆れて言いかけたとき、九能が、意外にも真顔でうなずいた。

「いや。彼の言うことも、馬鹿にはできませんよ、篠原さん」

「えっ」

「現に、この部屋は、事故にしか見えない。一人で飲んで、一人で倒れて、内側から鍵がかかっている。これを、ただの病死、ただの事故として処理してしまえば、それで一件落着だ」

 九能は、襖の桟を、指でそっとなぞった。

「だが、私はそうは思わん。なぜなら、誰かがこれを、事故に見せたがっている。その気配がある。事故に見せたい人間がいる、ということはつまり、これは事故ではない、ということだ」

 三嶋は、きょとんとしていた。

「はあ。よく分かりませんけど」

「分からなくていい。あなたは、あなたの仕事をしてくれればいい」

 九能は、三嶋の首から提げたカメラに、ちらりと目をやった。

「カメラマンさん。あなた、昨日からこの宿で、ずいぶん写真を撮っているんでしょう」

「あ、はい。記事用に、宿のあちこちを」

「その写真、全部、見せてもらえますか。ロビーも、廊下も、客の顔が写り込んだものも、全部だ」

「いいですけど……そんなの、何かの役に立つんですか?」

「立つかどうかは、見てみないと分からん。だが、こういう事件ではね」

 九能は、ふっと目を細めた。

「人間の記憶よりも、一枚の写真の方が、よほど正直なことがある。撮った本人も気づいていない何かが、写り込んでいることがね」

 沙耶香は、はっとした。

 三嶋の写真。

 何百枚撮ったうちの、たった一枚が、誰も気づかなかった決定的な何かを写し止めている。

 そういう男なのだ、この相棒は。

「三嶋くん、聞いた? あなたの出番かもしれないわよ」

「えっ、僕、何もしてないのに、急にプレッシャーかけられても」

 三嶋は情けない声を出したが、その手は、もうカメラの背面の液晶を操作し始めていた。

 谷の方から、また一台、車の上ってくる音がした。

 遺体を運ぶ、麓からの車だった。

 その低い駆動音を聞きながら、沙耶香は窓の外の湯けむりを見つめた。

 間宮徹。

 四十六歳。

 不動産。

 そして、あの電話の声。

 あれはそうじゃない。

 何が、そうじゃなかったのか。

 事件は、まだ始まったばかりだった。

 そして、沙耶香はこのとき、まだ知らなかった。

 この谷で流れる血が、間宮徹一人では、終わらないということを。


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