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パトカーのサイレンが、谷の底から這い上がってくるように聞こえてきたのは、それから一時間ほど経ってからだった。
宿の者が警察に通報してから、ずいぶん長く待たされたような気がしたが、考えてみればこんな山奥である。
麓の警察署から、つづら折りの道を上ってくるだけで、それだけの時間がかかるのだった。
赤い回転灯が、玄関先の杉木立を、ちかちかと染めた。
最初に降りてきたのは、制服の警官が二人。
続いて、地味な背広の中年の男が、ゆっくりと車から降りてきた。
白髪まじりの髪を、きっちりと後ろへ撫でつけている。
背は高くないが、肩幅が広く、どっしりとした体つきだった。
何より、その目つきが鋭かった。
玄関のあたりに集まっていた宿泊客や仲居たちを、ひと撫でするように見渡したその一瞬で、男はその場の全員の顔を覚えてしまったように見えた。
「県警の九能です」
男は、女将に向かって低く名乗った。
「九能、弦十郎。この事件の担当をさせてもらいます」
声に、無駄な抑揚がなかった。
それでいて、聞く者の背筋を、自然と伸ばさせるような響きがあった。
沙耶香は、ロビーの隅で夢野りりの肩を抱いたまま、その警部の姿を見ていた。
長くこの仕事をやってきた人間だ、とひと目で分かった。
旅先でいくつもの事件に出くわしてきた沙耶香には、そういう人間を見分ける目が、いつのまにか備わっていた。
九能は、まず現場の部屋へ上がっていった。
鑑識らしい数人が、機材を抱えて後に続く。
残された宿泊客たちは、ロビーに集められ、一人ずつ事情を聞かれることになった。
最初に呼ばれたのは、第一発見者の夢野りりだった。
りりは、青ざめた顔のまま、若い刑事に連れられて別室へ消えていった。
沙耶香は、その背中を心配そうに見送った。
次に呼ばれたのが、沙耶香だった。
通されたのは、帳場の奥の、ふだんは事務に使っているらしい小部屋だった。
机をはさんで、九能弦十郎が座っていた。
手元の手帳に、何やら細かい字で書き込みをしている。
「篠原沙耶香さん、ですな」
「はい」
「旅情ライター。ふうん」
九能は、手帳から目を上げて、まっすぐに沙耶香を見た。
その視線は、値踏みするようでいて、どこか奥の方で別のことを考えているような、不思議な目だった。
「で、あなたは昨夜、被害者の電話の声を聞いた、と。さっき仲居から、そう聞きましたが」
沙耶香は、はっとした。
仲居に、朝の混乱の中で、つい昨夜のことを話してしまっていた。
あの部屋から、男の人が電話で言い争うような声が漏れていた、と。
「ええ、聞きました。昨夜、部屋に戻る途中で。あの奥の部屋から、男の人の声が」
「どんな声でした」
「『あれはそうじゃない』と。それを、何度も繰り返していました。『信じてくれ』とも。誰かと、言い争っているような感じでした」
九能は、しばらく黙って沙耶香を見つめていた。
それから、ふっと口の端を持ち上げて、言った。
「正直に言いましょうか、篠原さん。今の段階で、いちばん怪しいのは、あなたですよ」
「えっ」
「考えてもみてください。被害者は密室で死んでいた。昨夜その部屋から漏れていた電話の声を、唯一聞いていたと、自分から名乗り出た人物がいる。捜査の常道で言えば、こういう人間がいちばん怪しい。声を聞いた、というのが、そもそも作り話かもしれん」
沙耶香は、思わず机に手をついた。
冗談ではない。
「私は、本当にただ聞いただけです。立ち聞きする気もありませんでした。でも、あの声の調子が、あまりにただ事じゃなかったから」
「ほう」
「それに、私はあの男性のことなんて、昨日まで顔も名前も知りませんでした。広間で一人でお酒を飲んでいるのを、遠くから見ただけです。動機も、機会もありません」
沙耶香は、ほとんど一息にそうまくし立てた。
言いながら、自分でも、なんと頼りない弁明だろうと思った。
知らない、見ただけ、動機がない。
そんなものは、いくらでも嘘をつける。
ところが、九能は、その沙耶香の様子を、じっと観察していた。
そして、不意に、すっと表情をやわらげた。
「あなたは、違うな」
「……え?」
「あなたは、この事件には関係ない。少なくとも、手を下した側ではない」
沙耶香は、ぽかんとした。
たった今まで、いちばん怪しいと言っていた当の本人が、手のひらを返したように、そう言うのだった。
「どうして、そう言い切れるんですか」
九能は、手帳を閉じて、椅子の背にもたれた。
「長いことこの仕事をやっとるとね、篠原さん。嘘をつく人間の喋り方というのが、分かるようになる」
「喋り方……」
「人間は、本当のことを話すときと、嘘をつくときで、言葉の出てくる順番が違うんですよ。嘘をつく人間は、相手の反応をうかがいながら、少しずつ話を足していく。順番が、整いすぎる。あらかじめ用意してあるからね」
九能は、自分の手のひらを、ゆっくりと広げてみせた。
「ところが、あなたのさっきの話し方は、そうじゃなかった。思い出した順に、ばらばらと出てきた。声の調子のことを先に言って、それから自分の弁明を慌てて付け足した。あれは、嘘をつく人間の喋り方じゃない。本当のことを、思い出しながら話す人間の喋り方だ」
沙耶香は、しばらく言葉が出なかった。
たった数分のやり取りで、この男は、彼女のそういうところまで見抜いていたのか。
「……かまをかけたんですね。いちばん怪しい、って言って、私がどう反応するか見ていた」
「まあ、そういうことです」
九能は、悪びれもせずに、小さく笑った。
「気を悪くされたなら、謝ります。ただ、こっちも商売でしてね。最初に揺さぶってみないと、分からんことが多い」
沙耶香は、毒気を抜かれて、思わず溜め息をついた。
「人が悪い人ですね、警部さんって」
「よく言われます」
九能は、ふと真顔に戻って、机に身を乗り出した。
「それより、篠原さん。ひとつ、頼みがあるんですがね」
「頼み?」
「あなた、旅情ライターだそうですな。仕事柄、宿の造りだとか、人の出入りだとか、そういうものをよく見るでしょう」
「ええ、まあ。観察癖は、職業病みたいなものですけど」
「だったら、少し、力を貸してくれませんか」
沙耶香は、面食らった。
「私が、ですか」
「われわれ警察は、よそ者だ。この宿のことも、土地のことも、何も知らん。聞き込みをかけても、相手は身構える。だがあなたは、昨日からここに泊まっている、いわば内側の人間だ。客の顔も、仲居の動きも、ふつうに見てきている」
九能は、指で机を軽く叩いた。
「それに、あなたには、あの電話の声を聞いた、という強みがある。事件の最初の手がかりを、たまたま握っている人間だ。捜査の輪に入れておいた方が、かえって都合がいい。容疑者として遠ざけておくより、よほどね」
「容疑者扱いは、もう撤回してくれたんじゃ」
「したした。だから、こうして協力を頼んでいる」
九能は、にやりと笑った。
沙耶香は、しばらく考えた。
旅情ライターとして来たはずが、いつのまにか殺人事件の渦中にいる。
例の嫌な予感は、見事に的中してしまったわけだ。
だが、ここで尻込みするほど、彼女は気の弱い人間ではなかった。
それに、あの夢野りりのことが、気がかりだった。
なぜ、あの子が第一発見者になったのか。
その疑問が、胸の奥でくすぶり続けていた。
「……分かりました。私にできることなら」
「ありがたい」
「ただし、ひとつ条件があります」
「ほう、条件とは」
沙耶香は、まっすぐに九能を見返した。
「事件が解決したら、私にこの件を、記事として書かせてください。もちろん、捜査に差し支えのない範囲で、許可をいただいてから。私は、ライターですから」
九能は、一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。
「なるほど。さすが、商売人だ。いいでしょう。約束します」
そんなやり取りをしている最中に、小部屋の襖が、勢いよく開いた。
「沙耶香さーん! 大変です、僕、聞き込みされちゃいました! なんか僕、すごく怪しまれてる気がするんですけど!」
三嶋正だった。
カメラを首から提げたまま、半泣きのような顔で飛び込んできた。
「だってですよ、昨夜の夜、僕一人で外で写真撮ってたって言ったら、若い刑事さんに『つまり、アリバイがないんですね』って、すごい目で見られて」
「あなた、それは怪しまれて当然でしょう。夜中に一人で外をうろついてたんだから」
「うろついてません、撮影です!」
九能が、その騒がしいやり取りを、面白そうに眺めていた。
「あなたが、カメラマンの三嶋さんか」
「は、はい。三嶋正です。あの、僕、本当に何もしてなくて」
「分かってますよ」
九能は、あっさりと言った。
「あなたみたいに、見るからに何も隠せそうにない人間が、密室殺人なんぞ仕組めるわけがない」
「……それ、褒められてるんですかね、けなされてるんですかね」
「さあ、どっちでしょうな」
沙耶香は、思わず吹き出してしまった。
こうして、篠原沙耶香と三嶋正は、九能弦十郎というこの風変わりな警部と、この事件で知り合うことになった。
旅情ライターとカメラマン、そして県警の警部。
奇妙な顔ぶれが、ひとつの密室殺人を前に、はからずも肩を並べることになったのだった。
事情聴取が一段落すると、九能は沙耶香と三嶋を伴って、もう一度現場の部屋を見に行くことにした。
「篠原さん、あなたの目で、この部屋を見てほしい。何か、おかしいと感じるところがないか」
遺体はすでに運び出されていた。
畳には、男が倒れていた位置を示す、白いテープの跡が残っている。
部屋の中は、思いのほか片づいていた。
荒らされた様子はない。
争った形跡もない。
ただ、男が一人で酒を飲み、そのまま倒れた。
そう見えるような、静かな部屋だった。
「被害者の身元は、もう分かっとります」
九能が、手帳を開いた。
「間宮徹。四十六歳。東京で、小さな不動産関係の会社をやっていた男です」
「不動産……」
「宿帳の住所と、所持品から確認しました。死因は、おそらく毒物。詳しいことは解剖待ちですが、傍らの徳利の酒に、何か仕込まれていた可能性が高い」
沙耶香は、畳の上の徳利と杯を見た。
すでに鑑識が中身を採取したあとで、空になっている。
「自分で飲んだ、ということですか」
「あるいは、誰かに飲まされた。だが、ここが問題でね」
九能は、襖と、その引き戸の錠に目をやった。
「この部屋は、内側から鍵がかかっていた。仲居が合鍵で開けるまで、開かなかった。窓も見てください」
沙耶香は、窓辺に歩み寄った。
古い木製の窓には、ねじ締まり錠がついていた。
くるりと回して締めるタイプの、昔ながらの錠だ。
その錠が、内側から、しっかりと締まった状態だった。
「窓の下は、すぐに谷川です。三階だ。ここから出入りするのは、まず無理だ」
九能が言った。
「つまり、犯人がもし酒に毒を盛ったのだとしたら、その犯人は、どうやってこの部屋から出ていったのか。出ていったあと、どうやって内側から鍵をかけたのか。それが、分からん」
完全な密室、というわけだった。
そのとき、それまで黙って部屋の隅をうろうろしていた三嶋が、のんびりと口を開いた。
「あの、これ、事件じゃなくて、事故ってことはないんですか」
九能と沙耶香が、同時に三嶋を見た。
「だってですよ。鍵が内側からかかってたんでしょう? だったら、誰も入れない。誰も出られない。ってことは、その間宮さんって人は、一人で勝手にお酒飲んで、何か悪いものでも食べて、発作で倒れちゃっただけ、ってことじゃ。事故ですよ、事故」
「三嶋くん、あのね」
沙耶香が呆れて言いかけたとき、九能が、意外にも真顔でうなずいた。
「いや。彼の言うことも、馬鹿にはできませんよ、篠原さん」
「えっ」
「現に、この部屋は、事故にしか見えない。一人で飲んで、一人で倒れて、内側から鍵がかかっている。これを、ただの病死、ただの事故として処理してしまえば、それで一件落着だ」
九能は、襖の桟を、指でそっとなぞった。
「だが、私はそうは思わん。なぜなら、誰かがこれを、事故に見せたがっている。その気配がある。事故に見せたい人間がいる、ということはつまり、これは事故ではない、ということだ」
三嶋は、きょとんとしていた。
「はあ。よく分かりませんけど」
「分からなくていい。あなたは、あなたの仕事をしてくれればいい」
九能は、三嶋の首から提げたカメラに、ちらりと目をやった。
「カメラマンさん。あなた、昨日からこの宿で、ずいぶん写真を撮っているんでしょう」
「あ、はい。記事用に、宿のあちこちを」
「その写真、全部、見せてもらえますか。ロビーも、廊下も、客の顔が写り込んだものも、全部だ」
「いいですけど……そんなの、何かの役に立つんですか?」
「立つかどうかは、見てみないと分からん。だが、こういう事件ではね」
九能は、ふっと目を細めた。
「人間の記憶よりも、一枚の写真の方が、よほど正直なことがある。撮った本人も気づいていない何かが、写り込んでいることがね」
沙耶香は、はっとした。
三嶋の写真。
何百枚撮ったうちの、たった一枚が、誰も気づかなかった決定的な何かを写し止めている。
そういう男なのだ、この相棒は。
「三嶋くん、聞いた? あなたの出番かもしれないわよ」
「えっ、僕、何もしてないのに、急にプレッシャーかけられても」
三嶋は情けない声を出したが、その手は、もうカメラの背面の液晶を操作し始めていた。
谷の方から、また一台、車の上ってくる音がした。
遺体を運ぶ、麓からの車だった。
その低い駆動音を聞きながら、沙耶香は窓の外の湯けむりを見つめた。
間宮徹。
四十六歳。
不動産。
そして、あの電話の声。
あれはそうじゃない。
何が、そうじゃなかったのか。
事件は、まだ始まったばかりだった。
そして、沙耶香はこのとき、まだ知らなかった。
この谷で流れる血が、間宮徹一人では、終わらないということを。
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