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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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1-1

 湯けむりが、白くたなびいていた。

 篠原沙耶香は、二両編成のローカル線の窓ガラスに額を寄せて、谷あいを縫うように流れていく景色をぼんやりと眺めていた。

 線路の右手は切り立った杉木立で、左手の遥か下に、雪解け水を含んで膨れた渓流が、白い泡を立てながら走っている。

 ときおりトンネルに入ると、車内の蛍光灯に照らされた自分の顔が、黒くなった窓ガラスにくっきりと映った。

 少し疲れた顔をしている、と沙耶香は思った。

 二十九歳。

 旅情ライターという、聞こえはいいが要するに食うや食わずのフリーランスを、もう五年も続けている。

 旅先の宿や料理や風景を文章にして、雑誌やウェブ媒体に売り込む。

 売れれば原稿料が入り、売れなければ自分の交通費がそのまま消える。

 そういう生活だった。

 その彼女が、今、この谷の奥へ向かっているのは、ひとえに福引のおかげである。

 年の瀬の商店街、くたびれたテントの下で回した抽選器から、からん、と金色の玉が転がり出たときのことを、沙耶香はまだ少し信じられずにいた。

 特等、湯けむり温泉郷一泊二日ペア宿泊券。

 係のおじさんの方が、当の沙耶香よりも驚いた顔をして、慌てて鈴を鳴らしていた。

「沙耶香さん、ほら、あれ撮りました? 川のとこ、すごい色してましたよ」

 向かいの席で、三嶋正がカメラの液晶を覗き込みながら、間延びした声を出した。

「撮ってない。だって今あなた、窓に向かって寝てたじゃない」

「寝てません。目を閉じて構図を考えてたんです」

「それを世間では寝てるって言うのよ」

 三嶋は、へへ、と気の抜けた笑い方をして、首から提げた一眼レフのレンズキャップをくるくると指で回した。

 三十一歳、フリーのカメラマン。

 沙耶香とは三年前、ある旅行雑誌の取材で組んで以来、なんとなく仕事の相棒のようになっている。

 少しどころか、かなりドジなところがある男だった。

 新幹線の切符を忘れる、三脚を宿に置いてくる、待ち合わせの駅を一つ間違える。

 そういうことを平然とやらかす。

 それでいて、なぜかシャッターを切るべき一瞬だけは、絶対に外さなかった。

 何百枚撮ったうちのたった一枚が、誰も気づかなかった決定的な何かを写し止めている。

 そういう男なのだった。

 今回のペア宿泊券のもう一枚を、沙耶香はこの相棒に使わせることにしていた。

 二人で行けば、文章と写真がそろう。

 うまくすれば、この湯けむり温泉郷の記事を、どこかの媒体に持ち込めるかもしれない。

 宿泊そのものはタダなのだから、損はない、という算段だった。

「あのね、三嶋くん」

「はい?」

「私、なんだか嫌な予感がするのよね」

「予感って、なんですか急に」

「いつもそうなの。私が旅行に行くと、なぜか事件の方からやってくる」

 三嶋は、はあ、と気のない返事をして、また液晶に目を落とした。

「やだなあ、縁起でもない。せっかくのタダ旅行なんだから、楽しみましょうよ」

「あなたは知らないでしょうけどね。三年前の北陸も、去年の山陰も、私が行った先で必ず何か起きてるの」

「偶然ですよ、偶然」

「偶然が三回も四回も続いたら、それはもう体質って言うのよ」

 沙耶香は半ば本気でそう言ったが、三嶋はもう聞いていなかった。

 列車が長いトンネルを抜けると、ふいに視界が開けた。

 谷が大きく左へ折れて、その向こうの斜面に、湯気を立てる屋根の群れが見えた。

 湯けむり温泉郷。

 古い湯治場が、いつのまにか観光地として整えられ、それでもどこか鄙びた風情を残している土地だった。

 無人駅のホームに降りると、硫黄のにおいを含んだ湿った空気が、まっすぐに鼻を突いた。

 足元の側溝からも、薄く湯気が立ち上っている。

「うわ、本当に湯けむりだらけですね」

 三嶋がさっそくカメラを構えた。

「いいわね、その絵。導入の見開きに使えそう」

 沙耶香は手帳を取り出して、駅舎の様子、空気のにおい、足元の温度まで、こまめに書き留めていく。

 これが彼女の仕事のやり方だった。

 その場の空気を、できるだけ細かく言葉にしておく。

 あとで原稿に向かったとき、いちばん効いてくるのは、こうした細部の記憶だった。

 宿の送迎の車が来るまで、二人は駅前のたった一軒の商店の軒先で待った。

 迎えに来たのは、年配の運転手が一人。

「湯の宿、半月へお泊まりのお客さんで?」

「はい、篠原です」

「ああ、福引のお客さんですなあ。聞いとりますよ。どうぞ、寒いから早う乗ってください」

 車は谷川沿いの細い道を、ゆっくりと上っていった。

 道の片側はガードレールもない崖で、下に渓流が白く光っている。

「この道、雪の日はえらいことですよ」

 運転手がのんびりと言った。

「冬場、ひどく降ると、ここで二日くらい孤立しますからなあ。電話も、ときどき通じにくうなる」

「孤立、ですか」

「ええ。まあ、それも温泉宿の風情ですわ」

 沙耶香は、なんとなくその言葉を手帳の隅に書き留めた。

 孤立、という二文字が、なぜか胸の奥に小さく引っかかった。

 例の嫌な予感が、また少し首をもたげる。

 旅館「湯の宿 半月」は、渓流に張り出すように建つ、古い木造三階建てだった。

 黒く艶を帯びた板壁、苔のついた石段、軒先に下がる色あせた提灯。

 格式というより、長い時間そのものが宿に染み込んでいるような佇まいだった。

 玄関で出迎えてくれたのは、女将らしい和服の女性と、若い仲居が二人。

「ようこそお越しくださいました。福引のお客様ですね、おめでとうございます」

「恐れ入ります。お世話になります」

 帳場で宿帳に記帳していると、三嶋がロビーのあちこちにレンズを向けていた。

 天井の太い梁、磨き込まれた木の床、隅に置かれた古い柱時計。

 そのファインダーの中を、ふいに、つばの広い帽子の人影が横切った。

「あれ……」

 三嶋が小さく声を漏らした。

 帽子に、大きなサングラス。

 ロビーから廊下へ抜けていく、すらりとした若い女性の後ろ姿だった。

「どうしたの」

「沙耶香さん、今の、夢野りりじゃないですか」

「ゆめの?」

「アイドルですよ。最近テレビでよく見る子です。お忍びかな、こんなとこに」

 沙耶香はその名にあまりぴんとこなかったが、三嶋がそう言うなら、そうなのだろう。

 芸能人がお忍びで来るほどには、静かでいい宿ということかもしれない。

 それも、記事の材料になる。

 部屋は三階の角部屋だった。

 二間続きの広い和室で、窓を開けると真下に渓流が見え、対岸の杉木立まで一望できた。

 部屋の床の間には、季節外れの寒椿が一輪、控えめに生けてあった。

「いい部屋ねえ。福引様々だわ」

 沙耶香は窓辺に座って、しばらく谷の景色を眺めた。

 三嶋は早くも三脚を立て、夕暮れの渓谷を撮り始めている。

 荷ほどきを終えて一階のロビーに降りると、ソファに腰かけて雑誌を読んでいた例の女性が、ふと顔を上げた。

 帽子とサングラスを外した、素顔だった。

 驚くほど整った、まだあどけなさの残る顔立ちの女の子だった。

 その子が、なぜか沙耶香たちの方へ、まっすぐ近づいてきた。

「あの、旅行のお仕事の方ですか」

「えっ」

「さっき、フロントで聞こえちゃって。ライターさんとカメラマンさんだって」

 人懐こい、まっすぐな目をしていた。

「ええ、まあ。私が旅情ライターの篠原で、彼がカメラマンの三嶋です」

「やっぱり! わたし、夢野りりっていいます。あの、アイドル、なんですけど」

 りりは少し恥ずかしそうに、自分の名前を名乗った。

 仕事に疲れて、一人で骨休めに来たのだという。

 マネージャーにも内緒で、スマホもほとんど見ないようにして、ただ温泉にだけ入りに来た。

「だから、人と話すの、久しぶりで。なんか嬉しくて」

「お一人なの、こんな山奥に」

「はい。誰も知らないところに来たかったんです」

 無防備な子だな、と沙耶香は思った。

 芸能人が、見ず知らずのライターに自分から声をかけて、身の上まで話してしまう。

 危なっかしいような、それでいて放っておけないような、不思議な子だった。

「よかったら、夕食ごいっしょしません? わたし一人だと、ちょっと寂しくて」

 その申し出を、沙耶香は断る理由を思いつかなかった。

 夕食は、それぞれの部屋食が基本の宿だったが、りりがわざわざ仲居に頼んで、三人で広間の隅に膳を並べてもらった。

 岩魚の塩焼き、山菜の天ぷら、猪肉の小鍋。

 谷の幸が、素朴だが丁寧に盛られていた。

「これ、絶対記事に書いてくださいね。わたしも食べに来た甲斐があるって思えるように」

 りりは無邪気に笑いながら、岩魚の身をほぐしていた。

 食事をしながら、沙耶香はそれとなく宿の他の客のことを観察していた。

 旅情の記事を書くとき、その宿にどんな人が集まるかは、土地の雰囲気をつかむ大事な手がかりになる。

 広間の向こうの席に、中年の男が一人で酒を飲んでいた。

 仕立てのいいスーツを着崩して、しきりに携帯電話を気にしている。

 その少し離れた席に、もう一組。

 恰幅のいい初老の男と、その連れらしい、目つきの鋭い痩せた男が、低い声で何か話し込んでいた。

 恰幅のいい方が、ときおり大きな声で笑う。

 痩せた方は、ほとんど笑わなかった。

「あの方たち、お知り合い同士なんでしょうか」

 りりが、つられたようにそちらを見て言った。

「さあ、どうかしらね。商談か何かじゃない?」

 沙耶香はそう答えながら、手帳に小さく書きつけた。

 一人客の男、携帯を気にしている。

 恰幅のいい男と、痩せた男。

 ただの観察癖だったが、この走り書きが、のちに思いがけない意味を持つことになる。

 食後、三嶋が「夜の渓谷を撮ってくる」と言って、カメラを抱えて外へ出ていった。

 りりは「もうひとっ風呂浴びてきます」と、上気した顔で大浴場へ向かった。

 一人になった沙耶香は、自分の部屋に戻ろうと、三階への階段を上っていった。

 廊下は、足元にだけ小さな行灯が灯る、薄暗い造りだった。

 古い木の廊下は、一歩ごとに、きしきしと低く鳴った。

 自分の部屋へ向かおうとしたとき、廊下のいちばん奥の部屋から、男の声が漏れ聞こえてきた。

 襖越しの、押し殺した声だった。

 電話をしているらしい。

 ふだんなら気にも留めなかっただろう。

 だが、その声の調子に、ただならぬものがあった。

「だから、あれはそうじゃないんだ」

 切迫した、しかし懸命に声を低く保とうとしている響きだった。

 沙耶香は、思わず足を止めた。

 立ち聞きする気などなかった。

 ただ、その言葉が、なぜか彼女の足を縫い止めたのだった。

「あれはそうじゃない。何度言ったらわかるんだ。本当だ。あんたが思ってるようなことじゃない」

 短い沈黙。

 相手が何か言っているらしい。

「……信じてくれ。あれはそうじゃないんだ。これ以上、俺を巻き込まないでくれ」

 そこで、声がふっと途切れた。

 電話を切ったのか、相手が黙ったのか。

 沙耶香は、何かいけないものを聞いてしまったような気がして、足音を忍ばせて自分の部屋へ戻った。

 襖を閉めて、布団の上に座り込む。

 あれはそうじゃない。

 その言葉が、耳の奥で妙にこびりついて離れなかった。

 何が、そうじゃないというのか。

 誰が、何を、あの男に押しつけようとしているのか。

 例の嫌な予感が、今度ははっきりと、胸の中で形を取り始めていた。

 窓の外では、谷を渡る夜風が、杉木立をざわざわと鳴らしていた。

 そのどこかで、三嶋がまだシャッターを切っているはずだった。

 沙耶香は、なかなか寝つけなかった。

 布団に入ってからも、あの押し殺した声が、何度も耳の奥でよみがえった。

 それでも、谷川のせせらぎと、遠い湯の音にいつしか紛れて、彼女は浅い眠りに落ちていった。

 そして、朝が来た。

 最初に異変に気づいたのは、沙耶香ではなかった。

 夢野りりだった。

 朝食前、廊下の奥で、若い女の悲鳴のような声が上がった。

 沙耶香が襖を開けて飛び出すと、廊下のいちばん奥――昨夜、あの電話の声が漏れていたあの部屋の前に、夢野りりが青ざめた顔で立ちすくんでいた。

「どうしたの、りりちゃん」

「あの……お返事が、ないんです。さっきから、何度も声をかけてるのに」

 りりの手は、小さく震えていた。

「お部屋の前を通ったら、新聞が朝刊のまま、扉の外に挟まったままで。それで気になって、声をかけたんですけど」

 仲居が二人、駆けつけてきた。

 何度ノックしても、襖の向こうから返事はない。

 仲居の一人が、思い切って襖に手をかけた。

 だが、開かない。

「内側から、心張り棒が……いえ、鍵が、かかってます」

 その部屋は、内側から固く施錠されていた。

 旅館の者が合鍵を持ってきて、引き戸の錠を解き、無理やり襖をこじ開けた。

 開いた途端、沙耶香の鼻を、酒のにおいと、もうひとつ、何か嗅ぎ慣れない異臭が突いた。

 部屋の真ん中で、昨夜広間で一人酒を飲んでいた、あの中年の男が、倒れていた。

 仕立てのいいスーツのまま、畳の上に、不自然な格好で。

 傍らに、徳利と杯が一つ、転がっていた。

 男はもう、息をしていなかった。

 その顔には、苦しんだ跡が、はっきりと残っていた。

「救急車……いえ、警察を」

 女将の声が、廊下の奥で裏返った。

 沙耶香は、立ちすくむ夢野りりの肩を、思わず抱き寄せていた。

 りりの体は、小刻みに震え続けていた。

 第一発見者となってしまったこの少女が、なぜそこにいたのか。

 なぜ、よりによって彼女が、最初にこの密室の扉を叩くことになったのか。

 そのことの意味を、沙耶香はまだ知らない。

 窓の外では、昨日と変わらず、谷じゅうに白い湯けむりが、ゆっくりと立ち上っていた。

 ただ、その湯けむりの白さが、今朝はなぜか、ひどく冷たく見えた。


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