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春が、ようやく、東京の街にも降りてきた。
街路樹の根もとに、ほんのわずかな草の青がのぞき始め、コンビニのウィンドウには、もう花見団子の貼り紙が出ている。
寒さの厳しい朝にも、空気の奥のほうに、たしかに、湿った土のにおいが混じり始めていた。
沙耶香は、その朝、ふだんよりも早く目を覚ました。
時計の針は、ようやく六時を回ったところだった。
窓のカーテンを開けると、東の空が、薄い橙にうっすらと染まっていた。
谷の宿で迎えたあの最初の朝とも、間宮徹の死を見つけたあの灰色の朝とも、東京の灰色の公判の朝とも、すこし違う、やわらかな光だった。
机の上には、すでに、出かけるための小さな荷物が並べてあった。
旅情ライターとしての、ふだんの取材用のカバン。
その奥に、新しい一冊のノートと、谷の宿で使っていた万年筆。
そして、いちばん上に、まだ何も書かれていない、白いままの最後のページが、ファイルに入れて、そっと収めてあった。
谷へ、行く日だった。
沙耶香と、三嶋正と、夢野りりと、お母さま、そして九能弦十郎。
五人で、湯けむり温泉郷の湯の宿半月に、ふたたび泊まりに行く日。
事件のためではなく、ふつうの一泊二日の宿として、行く日だった。
待ち合わせは、東京の駅の改札の前。
沙耶香が改札を抜けると、すでに、三嶋が、いつも以上にきっちりとしたシャツに、いつも通りのカメラを首から下げて、立っていた。
「沙耶香さん、おはようございます」
「おはよう、三嶋くん」
「めずらしくシャツを着てるからって、何も突っ込まないでくださいよ」
「言わないわよ」
「絶対、なんか言うと思ってましたよ」
「言わないって、言ったでしょう」
ふだんの軽口だった。
それが、いまの沙耶香には、どんな台詞よりも、ありがたかった。
そのあと、改札の方から、ふたつの影が、ゆっくり歩いてきた。
夢野りりと、お母さま。
お母さまは、薄い藤色のセーターに、グレーのコートを着ていた。
髪は、肩のあたりまで切りそろえてあって、ほんの少しだけ、白いものが混じっている。
夢野りりは、いつものニット帽を、今日もかぶっていた。
それでも、サングラスや、つばの広い帽子は、もう、していなかった。
お母さまの一歩前を、ややゆっくりと歩いている。
その歩き方の中に、長いあいだお母さまを支えてきた、若い女の子の小さな配慮が、自然ににじんでいた。
「篠原さん。三嶋さん。おはようございます」
「おはよう、りりちゃん。お母さま、はじめまして。篠原と申します」
「あ、こちらこそ、はじめまして」
お母さまは、深く、深く、頭を下げた。
「いつも、りりが、たいへんお世話に」
「いえ、こちらこそ。今日、来てくださって、ありがとうございます」
「篠原さんのお話、りりから、もう、ずっと前から、聞いておりまして」
「ええ」
「お会いできて、本当に、嬉しいです」
その「嬉しい」のひとことに、つくられた挨拶の調子は、なかった。
ただ、ながいあいだ家の中で、自分の体調と向き合い続けてきた人の、しずかな素直さがあった。
その素直さに、沙耶香は、ほんのわずか、目の奥が熱くなった。
そのあとから、ホームの方から、もうひとり、ゆっくりと歩いてきた人がいた。
九能弦十郎だった。
今日の九能は、ふだんの背広姿ではなかった。
落ち着いた紺色のセーターに、グレーのジャケット。
足元は、ふだんよりわずかに楽な、革靴ではなく、革のローファーになっていた。
警察の同僚から見たら、もしかしたら、別人かもしれない、と思うほどの、ふつうの旅装だった。
「皆さん。お待たせしました」
「警部さん」
「いえ、今日は、警部殿は、なしです」
「警部、ぬきで」
「ええ。今日は、ただの、九能、です」
「分かりました」
そう言って、沙耶香は、軽く、笑った。
「では、改めまして、九能さん」
「ええ。よろしくお願いいたします」
九能は、夢野りりとお母さまのほうへ、ゆっくりと頭を下げた。
「お忙しいなか、ご一緒させていただいて、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。あの、九能さん」
お母さまが、ほんのわずかに、声をふるわせて、言った。
「りりのこと、本当に、ありがとうございました」
「いえ、わたしは、何も」
「何も、ではないのは、わたしが、いちばんよく分かっておりますから」
その短いやりとりに、夢野りりの目の縁に、ふっと、薄く、なみだの光が浮かんだ。
しかし、それは、谷の夜のときのなみだとは、別のなみだだった。
ただ、深く、深く、感謝のなみだだった。
新幹線とローカル線を乗り継いで、午前のうちに、五人は、湯けむり温泉郷の麓の駅に着いた。
駅前のロータリーには、宿の送迎の車が、すでに待っていてくれた。
運転手は、いつかと同じ、年配の方だった。
「お久しぶりです、運転手さん」
「ああ、福引のお客さん。お元気そうで、なによりですわ」
「お世話になります。今日は、五人で」
「五人さんで。ありがたいことで」
運転手は、丁寧にひとりひとりの荷物を受け取って、車に積み込んでくれた。
夢野りりは、お母さまのコートを、自分から、ふっと、軽くなおしてあげた。
「お母さん、お風邪、ひかないようにね」
「ええ」
そのやりとりを、九能が、しずかに、目の端で見ていた。
「沙耶香さん」
九能は、低く、沙耶香にだけ聞こえる声で言った。
「ええ」
「いい家族ですね」
「ええ」
「篠原さん」
「はい」
「あなたの本のいちばん最後の章は、もう、今日のこの瞬間から、はじまっていると思います」
「ええ」
「メモを、急いで取ろうとなさらないでください」
「ええ」
「今日のことは、ぜんぶ、まず、ご自分の中に、入れていってください」
その声に、沙耶香は、深く、深く、うなずいた。
ノートに書こうとしていた手を、いったん、引っ込めた。
書くべきものは、書いたあとも、何度でも、頭の中に立ち戻ってくる。
頭の中に確実に入っていない景色だけを、紙の上の言葉に頼って思い出そうとするのは、いまの仕事の流儀ではなかった。
その日の朝のすべてを、沙耶香は、まず、自分の中で、ていねいに、ながめた。
谷を上っていく細い道。
苔のついた石段の脇に咲きはじめている、ちいさな水仙。
宿の玄関の前に立つ女将の、晴れやかな顔。
そして、宿の中の廊下を歩いていく、五人の足音。
宿の女将は、玄関先に、ふだんよりひとまわり丁寧な笑顔で、五人を迎えてくれた。
「ようこそ、お越しくださいました」
「お世話になります」
「篠原さま、三嶋さま、お元気そうで、ほんとうに」
「お元気そうで、と、こちらこそ、いいたいくらいです」
「いやですよ、お客さま」
女将は、ふっと声を立てて、笑った。
その笑い声の中に、谷の宿が、ふだんのふだんに戻りつつあることが、はっきりとあった。
「夢野さま」
女将は、夢野りりの方にも、ていねいに頭を下げた。
「お忙しいなか、また来てくださって」
「いえ、こちらこそ。今日は、お母さんも、いっしょに」
「お母さま、はじめまして」
「お世話になります」
「いいえ。お部屋のご用意は、できております。三階の、いつものお部屋に、ご家族のお部屋を、ご用意しております」
「ありがとうございます」
部屋に通されてから、しばらく、五人はそれぞれの部屋で、まず、ひと息ついた。
夢野りり親子は、二間続きのお部屋。
沙耶香、三嶋、九能は、それぞれ、別々の小部屋。
九能が選んだのは、奥のほうの、簡素な、しかし、谷川の音がいちばんよく聞こえる部屋だった。
「警部殿ではなく、ただの九能ですから」と本人が言って、自分で選んだ部屋だった。
午後、五人は、宿の女将に断って、宿の前の渓流沿いの小道を、ゆっくり歩いた。
雪はもう、ほとんど残っていなかった。
ただ、川岸の石のあいだに、わずかな白いものが、まだ、ひと押しふた押し残っているところもあった。
冬と春のあいだを、ぴたりと歩く一日だった。
夢野りりは、お母さまの腕に、自分の腕を絡めて歩いた。
ふだん、テレビの中で見るあのアイドルの歩き方とは、ぜんぜん違う、ふつうの娘さんの歩き方だった。
「お母さん、ほら、あの杉の木」
「ええ」
「あれが、わたしが、最初に着いた日に、すごくきれいだなって思った杉の木」
「ええ」
「篠原さんも、はじめてのときに、すごく褒めてた」
「うん」
「お母さん、見て」
「ええ、見てる」
そんなふうな会話が、何度も、何度も、繰り返された。
ふだんなら、なんでもない会話だった。
それが、いまの沙耶香には、本のいちばんやさしい場所の言葉として、響いてきた。
途中、川の流れがいちばん落ち着いて見える、ある一カ所で、夢野りりは、ふっと、足を止めた。
お母さまも、横で立ち止まった。
夢野りりは、しばらく、川の流れをじっと見ていた。
それから、低く、お母さまに向かって、言った。
「お母さん」
「ええ」
「あのね」
「ええ」
「今日まで、わたしを、ひとりで、ここまで、育ててくれて、ありがとう」
その短い一言を、ふだんならアイドルのステージで、何百回となく言われている言葉に近いのに、ここで、ふだんの娘の声で、まっすぐに、お母さまに向けて言った。
お母さまは、いちど、目を伏せた。
それから、ぎゅっと、夢野りりの腕を、自分のほうに引き寄せた。
「りり」
「うん」
「ありがとう、はね」
「うん」
「お母さんの方から、いいたい言葉」
「お母さん」
「ありがとうね、りり」
「うん」
「お母さんに、ぜんぜん、なにもできないのに、こんなに、生きてきてくれて」
「うん」
「お母さん、こんなにも、しあわせ、もらってる」
ふたりは、しばらく、川の流れの上で、肩を寄せ合っていた。
少し離れたところで、三嶋が、ふっとカメラを構えた。
シャッターは、押されなかった。
三嶋は、ただ、ファインダー越しに、その光景を、しばらく、見ていた。
それから、そっとカメラを下ろした。
沙耶香も、もちろん、ノートを取り出さなかった。
ただ、その川岸の風の匂いを、頬の温度を、自分の中に、深く、深く、しまいこんだ。
少し離れた木立の脇で、九能が、こちらに背を向けて、谷の方を見ていた。
その背中が、いつもより、すこしだけ、まるく見えた。
長い長い夜の中で、ずっと張りつめてきた背中が、ようやく、谷のあかるい風の中で、ひと息、ゆるんでいた。
その夕方、五人は、宿の広間で、夕食を取った。
岩魚の塩焼き、山菜の天ぷら、猪肉の小鍋。
谷の幸は、四日間の夜のあいだも、ぜんぜん変わらず、ふだんの味のまま、五人の前に並んだ。
ただ、四人の前の膳のいちばん奥に、女将がさりげなく、一品だけ、特別な料理を添えてくれていた。
ちいさな小鉢の中に、谷の水で炊いた、薄い味の白がゆ。
「お母さま、もしお召しあがりにくいようでしたら、こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
お母さまは、丁寧に頭を下げて、その白がゆを、ひと口、ふた口、ゆっくり召し上がった。
「あら、おいしい」
そう言って、ふっと、笑った。
その笑顔を見て、夢野りりは、思わず、横を向いて、ノートで顔を覆った。
声は出さなかった。
ただ、肩が、わずかに揺れただけだった。
その揺れを、お母さまは、もう、しっかり、横で受け止めていた。
そして、なにも言わずに、自分の隣の娘の肩を、もう一度、ぎゅっと、抱き寄せた。
食事の途中、九能が、ぽつりと、低く言った。
「お母さま」
「はい」
「いま、いただいているこのお酒」
「ええ」
「ひとくちめだけ、わたしの方から、いただいてもよろしいですか」
そのいい方が、ふっと、固い「警部」のものではなく、年配のひとりの男のものだった。
お母さまは、にっこり笑って、徳利を、九能の方に、すっと寄せた。
「どうぞ、どうぞ」
九能は、丁寧に杯を取って、軽く頭を下げた。
その杯に、沙耶香が、すっと、徳利を傾けて、酒を注いだ。
「九能さん」
「ええ」
「お約束、果たさせていただきますね」
「ありがたい」
九能は、ふっと笑って、杯の縁を、軽く、頬の方に近づけた。
それから、ゆっくり、ひと口、飲んだ。
杯を置いたあと、九能は、しばらく目をつぶった。
長い長い、たぶん、何十年分かの、ひと口めだった。
そのひと口の意味を、沙耶香は、たぶん、自分の中で、いつまでも、本の何行かのために、置いておくつもりだった。
夜の宿の廊下を歩く足音が、ぜんぶ、ふだんのおだやかな足音に、戻っていた。
別の宿泊客の家族連れが、廊下の向こうで、子どもの笑い声を立てて、ふだんの宿泊の風景を、ふだんに動かしていた。
そのふだんの中に、五人もまた、ふつうのお客のひとりずつとして、収まっていた。
沙耶香は、自分の小部屋に戻ってから、ふと、机の上に、新しいノートと、白いままの最後のページのファイルを、並べて置いた。
部屋の窓の外には、湯けむりが、いつもの白さで、ゆっくりと立ち上っていた。
その湯けむりの向こう側の闇に、ほのかに、谷の春の空気が、まじっているのが見えた。
沙耶香は、しばらく、その湯けむりを見ていた。
それから、ファイルを開いて、まだ何も書かれていない、本の最後のページを、机の上に、そっと置いた。
机のいちばん端のスタンドの明かりだけが、しずかに、その白いページの上を照らしていた。
その明かりの下で、沙耶香は、深く、深く、息を吸った。
そして、ペンを、握った。
書きはじめる前に、彼女は、もういちどだけ、目を閉じた。
頭の中に、川岸での、夢野りりとお母さまのやりとりが、もう一度、はっきりと浮かびあがった。
その横の、三嶋のカメラを下ろした手の動き。
少し離れたところの、九能の背中。
宿の女将の笑顔。
九能の杯のひと口め。
お母さまが、白がゆを、おいしいと笑った瞬間。
そのすべてが、ひとつの白い湯けむりのなかに、しずかに、撚れていく感じがした。
沙耶香は、ペンを、ゆっくり、紙の上に下ろした。
そして、本のいちばん最後の章の、いちばん最初の一行を、書いた。
『湯けむり温泉郷に、ふたたび、春が来た。』
そのひと行を書きおえたあと、沙耶香は、しばらく、ペンを置いて、その文字を、見ていた。
そのひと行の中に、いままで書いてきたぜんぶの章の重さが、ふだんの春のひかりの色の中に、ようやく、ふんわりと、すべて、収まりかけていた。
長い長い物語の、いちばん最後の章の、いちばん最初の文字だった。
そのあとの一行を、沙耶香は、もう、急がなかった。
谷の宿の窓の外で、湯けむりが、白いまま、ゆっくり、ゆっくり、立ち上っていた。
その立ち上りの中に、谷川の音と、誰かの笑い声と、玄関で挨拶を交わす別の家族の声と、お母さまの「おいしい」の声と、九能のひと口めの息と、川岸での夢野りりの「ありがとう」の声と、ぜんぶが、混ざり合ったまま、ふたたび、空のずっと上の方に、流れていった。
その夜、沙耶香は、もう一度、机の上にノートを開いたまま、寝てしまった。
机の脇の置き時計が、こつ、こつ、と、谷の宿のロビーの柱時計のように鳴っていた。
その音を子守唄に、長い長い夜の最後の眠りが、ようやく、彼女の中に、ふっと、降りてきた。
朝、薄い光に目を覚ましたとき、机の上には、まだ、書きかけのままの本の最後の章の、最初の一行が、しずかに残っていた。
その一行の上に、谷の春の朝のひかりが、すこしずつ、染み込みはじめていた。
旅情ライター篠原沙耶香は、その朝のひかりの中で、ようやく、ふだんの自分自身に、戻りはじめていた。
ふだんに、戻りはじめながらも、しかし、もう、これまでとは、別のかたちで、戻りはじめていた。
長い長い夜のさきにあった、ふだんの春のひかり。
そのひかりの色の中で、新しい自分の仕事の一日が、いま、しずかに、はじまろうとしていた。
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