1-21
朝の光が、谷を、ゆっくり、満たしていた。
沙耶香が宿の小部屋で目を覚ましたとき、窓の外の杉木立の梢の先に、もう、淡い金色がのっていた。
夜のあいだに、机の上で本の最後の章のいちばん最初の一行を書き終えてから、ペンも、ノートも、その位置のまま動かさずに眠っていた。
寝床から起き上がって、机の上の白い紙に、もう一度、目を落とした。
『湯けむり温泉郷に、ふたたび、春が来た。』
ひと晩おいても、その一行は、自分の手で書いたものに、ちゃんと、なっていた。
沙耶香は、ふっと、息を吐いて、その一行に、軽く頭を下げた。
これからまだ、何十行も、何百行も、書き継いでいくべき章の、最初の一行だった。
朝食は、五人で、宿の広間の隅の、いちばん谷川に近い席を、女将がさりげなく整えてくれていた。
夢野りりとお母さまが先に席に着いていて、奥の方で、もう、湯気の上がる味噌汁の椀を、両手で包みこんでいた。
「篠原さん、おはようございます」
「おはよう、りりちゃん。お母さま、おはようございます」
「おはようございます。よくお眠りになれましたか」
「ええ、おかげさまで」
そう答えながら、沙耶香は、心の中で、ひそかに、よく眠れた、と、もう一度、自分のために繰り返した。
谷に来てから、ここまでぐっすり眠ったのは、たぶん、はじめてのことだった。
ほどなく、三嶋が、寝ぐせのついた頭を、慌てた手で押さえながら、ぱたぱたと広間に入ってきた。
「すみません、寝坊して」
「いつものことでしょう」
「いや、今日はね、谷の朝焼け、絶対撮るぞって、夜のうちに気合い入れてたのに」
「で、撮れなかったと」
「はい、見事に寝てました」
沙耶香は、思わず吹き出した。
夢野りりも、お母さまも、声を出して笑った。
ふだんの三嶋に戻った姿を、お母さまも、もう、自然に受け入れていた。
そのあとから、ゆっくりと、九能が広間に現れた。
セーターの上にジャケットを羽織ったままで、ふだんの「警部殿」のときよりも、肩のあたりの線が、ずいぶんと、楽に見えた。
「皆さん、おはようございます」
「九能さん、おはようございます」
「夕べは、よく休ませていただきました」
「川の音、よく聞こえる部屋でしたものね」
「ええ。あの音だけで、半年分くらい、眠れた気がします」
九能の冗談を、夢野りりは、ふっとうれしそうに笑って受け取った。
そういう冗談を、ふだんの言葉として口にできる人だ、ということを、いまの夢野りりは、ちゃんと、ふだんの感覚で受け取れるようになっていた。
朝食のあいだ、特別な話は、何もしなかった。
谷の春のお漬物の話、宿のお米のおいしさの話、三嶋のカメラの新しいレンズの話、九能の若い頃に登った別の山の話、お母さまが好きだという地方の小さなお菓子の話。
そんなとりとめのない話だけが、白いお茶の湯気のあいだを、ゆっくり、行き来していた。
沙耶香は、ノートを取り出さなかった。
ただ、その時間ぜんぶを、自分の中に、しずかに、しまっていった。
食事のあと、五人は、宿の玄関先で、女将と、ベテラン仲居と、もういちど、挨拶を交わした。
「またのお越しを、心よりお待ちしております」
「ええ。必ず、また」
夢野りりは、女将の手を、両手でしっかりと握って、お辞儀をした。
そのお辞儀の仕方は、もう、ふだんのアイドルのものでも、谷で初めて会ったときのぎこちないものでもなかった。
ただ、ひとりの若い女の、まっすぐな挨拶だった。
「お母さまも、お元気で」
「ええ。ありがとうございました」
「お風邪、ひかれませんように」
「はい」
女将は、五人ひとりひとりに、丁寧に、頭を下げた。
そのあいだ、宿の中で、ふだんの仲居たちが、別の宿泊客の方々を、ふつうに送り出していた。
ふだんの宿の朝の風景が、ふだんのまま、五人のすぐ脇で、動き続けていた。
その「ふだん」の中に、自分たちもまた、ふつうのお客として、ぴたりと収まっている。
そのことが、いまの沙耶香にとって、いちばん、ありがたかった。
送迎の車で、また谷を下りていった。
つづら折りの道を、ヘッドライトをつけずに、慎重に。
途中、川岸のいちばん広いところで、夢野りりが、ふっと、運転手の方に、丁寧に声をかけた。
「すみません、すこしだけ、停めていただいても、いいですか」
「ええ、もちろん」
運転手は、車を、道のわきにそっと寄せて、止めてくれた。
夢野りりは、お母さまの手を取って、車の外に降りた。
ふたりして、川岸まで、ゆっくり歩いた。
そして、しばらく、ふたりで、ただ川の流れだけを見ていた。
少し離れたところで、三嶋が、また、ファインダー越しに、その親子の後ろ姿を、しばらく見ていた。
シャッターは、押されなかった。
押されなかったのに、その光景は、確かに、三嶋の中にも、そして沙耶香の中にも、はっきりと、写真として、残っていた。
九能は、ふだんの背広姿の警部のときと同じように、川岸に、ひとり、まっすぐ立っていた。
その姿は、捜査の最後の場面のときの背中とは、もう、ずいぶん、別のものになっていた。
ただ、その背中の、しんとした静けさだけは、谷の宿の廊下で見たあのときと、まったく同じだった。
しばらくして、夢野りりとお母さまは、車に戻ってきた。
夢野りりの目元には、わずかに、なみだの跡があった。
しかし、その目元の中の光は、もう、ふだんの女の子の光だった。
車は、また、ゆっくりと、谷を下っていった。
麓の駅前で、五人は、それぞれの車に分かれた。
夢野りりとお母さまは、別の路線で、東京のもう少し別の方角に戻る予定だった。
沙耶香と三嶋、そして九能は、来た時と同じ路線で、東京に戻る。
ホームに上がる前、九能だけ、ふと、駅前のロータリーで足を止めた。
「皆さん、ここで、いったん、ご一緒は、お別れですね」
「ええ」
「夢野さん」
「はい」
「ご家族で、ほんとうに、よくおいでくださいました」
「いえ。九能さんが、いてくださって、よかったです」
「ありがとうございます」
九能は、お母さまにも、深く、頭を下げた。
「お母さま」
「はい」
「これからも、ご家族で、お元気で」
「ええ」
「もしも、いつか、また、わたしのほうから、ご挨拶のお手紙を差し上げるかもしれません」
「ええ、お待ちしております」
お母さまは、にっこり笑って、頭を下げた。
そして、九能は、沙耶香と三嶋の方を向いた。
「篠原さん。三嶋さん」
「はい」
「ここまでの長い時間、本当に、おつかれさまでした」
「警部さんも」
「いえ、ですから、今日は、ただの、九能、です」
「ええ、すみません。九能さん」
「ええ」
「九能さん、また、東京で、お会いできますよね」
「もちろん」
「お茶代は、警部さん持ち、で」
「あなたが、ライターとして、ちゃんと取材料をいただけるようになった日が来たら、ね」
「もう、いただいてますよ」
「いえ、その本が、ちゃんと、世に出てからです」
九能は、ふっと笑った。
「そのときには、必ず、わたしから」
「お願いします」
そう答えて、沙耶香は、深く、頭を下げた。
ホームに上がってからも、ふたつの路線の列車のドアが閉まる直前まで、五人は、何度も、お互いに、軽く手を上げては、下ろし、上げては、下ろし、を、繰り返した。
特別なお別れのことばは、誰も、口にしなかった。
ふだんの旅の、ふだんの見送りと、ぜんぶ、同じだった。
それでも、ホームの上の春の風の中で、五人のあいだに張られた、見えない一本の線が、もう、簡単にはほどけないかたちで、しずかに残っていた。
東京に戻ってから、しばらくのあいだ、沙耶香はほとんど、机の前に座りつづけた。
谷で得た朝の景色と、川岸の親子の声と、九能の杯のひと口めと、女将の白がゆの湯気とを、ひとつずつ、本のいちばん最後の章の中に、ていねいに、ていねいに、書き継いでいった。
書きながら、ときどき、机の上の取材ノートを、もう一度、開いた。
そこに残っている、夢野りりの「ありがとう」の一行や、お母さまの「ありがとうは、お母さんの方からいいたい言葉」の一行や、九能の「主観の中の正義を、人を殺すための弁解にしてはならない」の一行を、何度も、何度も、声に出さずに、読み返した。
そのたびに、谷の宿の廊下の灯りと、東京の街灯の白さと、病院の面会室の光が、頭の中で重なって、机の上のスタンドの淡い明かりへと、ゆっくり、収れんしていった。
最後の章の最後の一行を書き終えたのは、ある夜のことだった。
時計の針は、ちょうど深夜の十二時を回ったあたりを指していた。
机の上のいちばん上の紙の上に、沙耶香は、ペンで、ひとつだけ、最後の一行を書いた。
『湯けむりが、また白く、たなびいていた。』
その一行は、本のいちばん最初の章の、最初の一行と、ほとんど同じだった。
ほとんど同じだったが、いまの彼女には、もう、最初の一行と最後の一行は、別の音色のひと行に聞こえていた。
ひとつは、何も知らない旅情ライターが、まだ何も知らずに、谷を眺めはじめた最初のひと行。
もうひとつは、長い長い夜と、ふだんの春のひかりを、両方くぐった人間が、もういちど、谷の春の空に、ふたたび、湯けむりが立ち上がっているのを、見つめている、最後のひと行。
ペンを置いてから、沙耶香はしばらく、机の上に手のひらを置いていた。
その手のひらの下から、長い長い夜のあいだに自分の中に降り積もったすべてのものの、しずかな重みが、はっきりと、伝わってきた。
数か月後、その本は、ある中堅の出版社から、世に出ることになった。
タイトルは、夢野りりの希望の通りだった。
『旅先で事件に巻き込まれた悲しきアイドル事件簿』。
サブタイトルとして、小さく、「湯けむり温泉郷殺人レポート より」と添えてあった。
カバーの装丁は、深い、夜のあいだの、青の濃いひと色を基調にして、その上に、本文中のある一行が、ごく小さな白い文字で、薄く印刷されていた。
『主観の中の正義を、人を殺すための弁解にしてはならない。』
そのひと文を、誰の言葉として読むのかは、読み手にだけ、ゆだねられていた。
裏表紙の下のほうには、ひとこと、こう書かれていた。
『写真 三嶋正』。
別に、もう一行、ごく小さく、こう書かれていた。
『取材協力 ある警察官、ある家族のかたがた、ある宿のかたがた、そして、湯けむり温泉郷のすべての風景に』。
その出版から数週間後、夢野りりは、芸能活動を、すこしずつ、再開しはじめていた。
ステージへの本格的な復帰は、まだ少し先だった。
彼女が選んだのは、ラジオの深夜番組の、若い人向けのパーソナリティのコーナーへの、ゲスト出演だった。
そこで彼女は、自分のお母さまのこと、谷の宿のこと、そして、自分の中に、長いあいだ、しまったまま、誰にも見せてこなかったいくつかの言葉のことを、ぽつぽつと、ふだんの女の子の声で、話していった。
「あの本のことは、聞いてもいいですか」
ラジオのパーソナリティのお兄さんが、ていねいに尋ねた。
「ええ」
夢野りりは、しずかに笑った。
「事件のことは、もう、書いてあるとおりです」
「ええ」
「ただね」
「ええ」
「あの本の中で、わたしが、いちばん、好きなのは」
「ええ」
「いちばん最後のページの、最後の一行なんです」
「最後の一行」
「ええ」
「『湯けむりが、また白く、たなびいていた。』」
夢野りりは、その一行を、ふだんの女の子のままで、しずかに、放送に流した。
「あれをね、読み終わったあとに、わたし、また、生きていきたいなって、思えたんですよ」
「ええ」
「だから、いつか、あの本を読んでくださった方が、たいへんなときに、もう一度、いちばん最後の一行のところだけでも、開いてくださったら、すごく嬉しいです」
その放送の夜、沙耶香は、たまたまラジオを点けたまま、机に向かって、別の仕事の原稿を書いていた。
夢野りりの声が、スピーカーから、ふっと届いたとき、沙耶香は、自分のペンの手を、思わず止めた。
部屋の中の照明を、いつもより、すこしだけ落とした。
机の上のスタンドの淡い明かりだけが、原稿の上に残った。
その明かりの中で、ラジオの中の若い女の子の声が、いまの自分の本のいちばん最後の一行を、ふだんの口調のままで、優しく読み上げていた。
沙耶香は、ふっと、目を閉じた。
谷の宿の廊下と、東京地裁の長椅子と、病院の面会室の白い壁と、川岸での親子の後ろ姿が、ぜんぶ、いっぺんに、頭の中で、ひとつのやわらかいひかりに、まとまっていった。
その同じころ、東京の郊外のある小さな町では、木下春子が、新しい仕事に、ふだんの女の子として、しずかに通いはじめていた。
それは、谷の宿の仲居の仕事とは、まったく別の、ふつうの事務の仕事だった。
事件のことを、職場の人たちは、たぶん、ほとんど知らなかった。
ただ、彼女の父親と、九能だけが、その新しい毎日のいちばん近いところで、ふだんの彼女を、しずかに、見守っていた。
ある日の夕方、彼女は、職場の帰り道で、駅前の小さな書店に立ち寄った。
ふと、その新刊の棚に、深い青の色のカバーの一冊が、目に入った。
タイトルを読んで、彼女はしばらく、その本を、棚から取って、両手で、表紙を見つめていた。
「『旅先で事件に巻き込まれた悲しきアイドル事件簿』」
声には、出さなかった。
ただ、ひとつ、ふっと、肩の力を抜いて、その本を、レジに持っていった。
家に帰ってから、彼女はその本を、自分の机のいちばん大事なところに、しずかに置いた。
今夜は、まだ、開かなかった。
何日かして、夜のしずかな時間に、彼女はようやく、いちばん最後のページから、本を開いた。
最後のページのいちばん下のところには、本文の最後の一行が、ぽつんと、置かれていた。
『湯けむりが、また白く、たなびいていた。』
そのひと行を、彼女は、しばらく、目で、なぞった。
それから、ゆっくり、本を閉じた。
涙は、出なかった。
ただ、ふっと、ひとつ、深い息を吐いた。
そしてその夜、彼女は、ずいぶん久しぶりに、お父さまに、長い長い電話をかけた。
電話の向こうで、お父さまが、しずかに、ひと言、ひと言、彼女の話を、聞いていた。
それは、もう、ふだんの家族の、ふだんの夜の電話だった。
数年後、ある春のことだった。
東京の街の片すみで、夢野りりは、自分のお母さまと、ふたりだけのアコースティックの小さなコンサートを開いた。
百人ほどしか入らない、地下のちいさなライブハウスだった。
会場の入り口に、いつもの大きなアイドルの公演のときのような、派手な看板はなかった。
ただ、入り口の脇に、手書きの黒板が、ひとつだけ置かれていた。
『夢野りり 春の夜のうたコンサート 〜お母さん、ありがとう〜』。
そのコンサートに、招待客として、いちばん奥の、いちばん隅の席を、彼女自身が予約してくれた人が、ひとりいた。
その席に、地味な紺色のセーターの上にジャケットを羽織った、年配の男性が、ひとりで座っていた。
九能弦十郎だった。
その隣には、もうひとつ、空席があった。
その空席の背もたれの上に、彼女の事務所のスタッフが、丁寧に、一輪の白い花を、そっと置いていた。
その白い花は、十年前の小さな町で生まれ、長く家族のことを、自分の中で守りながら過ごし、最後にお妹さんに「誰のことも、巻き込むな」と残して、しずかにこの世を去った、ひとりの若い男のための席だった。
会場の真ん中ほどの席には、三嶋正がいて、首から、もちろん、いつものカメラを下げていた。
その隣の席には、沙耶香が、ノートと、ペンと、それから、ずいぶん使い込まれた一冊の本を、膝の上に置いて、座っていた。
本の表紙は、もう、すこし、しわになりかけていた。
しわのひとつひとつに、長い長い夜と、ふだんの春のひかりが、それぞれ、ちゃんと、染み込んでいた。
ステージのライトが、しずかに、灯った。
その光の中に、夢野りりが、いつものニット帽をぬいで、ふだんの女の子の髪のままで、お母さまと並んで、ピアノの前に、ゆっくり腰を下ろした。
最初の一音が、客席の空気の中に、ふっと、ひろがった。
その音色を聞きながら、沙耶香は、ノートにも、ペンにも、手を伸ばさなかった。
ただ、膝の上の本の表紙の上に、そっと、両方のてのひらを、重ねていた。
ライターとして書ききった本のいちばん上で、いま、自分は、ふつうのお客のひとりとして、ふつうに、ひとつの夜のうたを聞いている。
そのことが、なにより、ありがたかった。
ステージの上の若い女の子が、いま、ふだんの女の子の声で、自分の歌を、自分のお母さまと、ふたりで、はじめて、ふつうの声で、世のなかに向かって、歌い始めていた。
その歌の声の中に、ぜんぶの長い夜の重みと、ぜんぶの春のひかりの光が、もう、ばらばらにほどけないかたちで、しずかに、まじりあっていた。
沙耶香は、ふっと、目を閉じた。
頭の中に、湯けむり温泉郷の春の朝の景色が、もう一度、ゆっくりと立ち上がっていった。
その湯けむりの、白いひとすじの中に、いま、ステージの上の歌の声と、客席の中のひとりひとりの息と、空席の上の白い花と、九能の静かな肩のラインと、三嶋のシャッターのちいさな音と、自分自身の手のひらの熱が、すべて、まじって、空のずっと上の方へ、ふんわりと、流れていった。
そして、目を開けたとき、ステージの上で、夢野りりが、こちらに気づいて、ふだんの女の子のままで、にっこりと、笑った。
その笑顔の中に、最後にもう一度、白く、確かに、湯けむりが、立ち上がっていた。
旅先で事件に巻き込まれた悲しきアイドル事件簿は、こうして、長い長い夜のさきで、ようやく、ひとつの春のうたの中に、しずかに、しずかに、収まっていった。
そして、湯けむりは、また白く、たなびいていた。
了。
---




