1-19
季節は、年を越して、しばらくしてからのことだった。
東京の街は、年末の慌ただしさを、ふっと忘れたような、しずかな冬の中に沈んでいた。
外を歩くひとびとのコートが、皆、少しだけ、肩のあたりで縮こまっている。
そういう、寒さに身を寄せ合うような、東京の二月だった。
初公判から、もう、何度か、別の公判期日が積み重なっていた。
そのあいだ、沙耶香は、机に向かう日と、外へ取材に出る日を、ほとんど半々の割合で続けていた。
机の上の原稿は、ずいぶんと分量を増やしていた。
紙の束の上の方には、湯けむり温泉郷の最初の朝の景色が並び、その下に、間宮の部屋の密室と、河原の梓弓遥のこと、そして九能と出会ったあの帳場の小部屋の場面が、つぎつぎと書き継がれていた。
中盤からあとは、東京編が始まる。
鳴海半蔵の自宅近くのオートロックのマンション、十年前の不動産取引の現場を撮りに行ったときの東京の郊外の路地、木下春子の父親の小さな部屋。
そして、いちばん新しいいくつかのページに、東京地裁での初公判のあの灰色の朝の光景が、はっきりとした形で、収まっていた。
事件のあらすじだけを追えば、もうほとんど、本の輪郭は、見えていた。
それでも、沙耶香の中で、まだ、答えの出ていない章が、ふたつだけ残っていた。
ひとつは、いちばんさいごの章。
夢野りりが、お母さんを連れて、湯けむり温泉郷へもう一度行く場面。
事件の話で本を閉じない、と決めていた、その最終章だった。
もうひとつは、その手前の章。
木下春子の、これからの章。
この事件のあとで、彼女がどこに立つのか。
そのことは、まだ、誰にも、はっきりとは決まっていなかった。
決まっていないものを、無理に書こうとしないこと。
それも、長い旅情ライターの経験のなかで、沙耶香が学んできた仕事のしきたりのひとつだった。
その日、沙耶香は、午前のうちに、ある区の総合病院に、九能と一緒に向かう約束をしていた。
木下春子が、いま、療養の一部の段階を過ごしている病院だった。
ふつうなら、関係者以外が、こうやって病室を訪ねることは、まずできない。
ただ、検察と、弁護人と、医師と、本人の同意の上で、ごく短い時間だけ、こちらの面会が許されることになっていた。
「篠原さんと、九能さんに、もう一度会いたい」と、彼女自身が、医師に申し出たのだという。
九能は、ふだんの背広姿で、駅前の交差点で、沙耶香を待っていた。
「お待たせしました、警部さん」
「いえ、ちょうどです」
「今日、お時間、いただいてしまって、すみません」
「いえ。これは、わたしの方の、ある種のけじめでもあります」
九能は、淡く笑った。
「あの夜、配電盤の前で泣き崩れた彼女に、わたしは、刑事として、何かを言ってあげるしかなかった。あの夜の言葉が、彼女の中で、どう残っているか。それを、確かめておきたい」
「ええ」
「篠原さんは、ライターとして、何を聞きに行かれますか」
「ひとつだけです」
「といいますと」
「本の中で、彼女のことを、どんな言葉で書いてほしいか。それを、本人の口から、聞きに行きます」
九能は、軽く、うなずいた。
その目に、信頼の色だけが、まっすぐに乗っていた。
病院の正面玄関を入って、長い廊下を、ふたりは並んで歩いた。
廊下のあちこちで、看護師たちが、慌ただしくはなく、しかし、休まずに、自分の仕事をしている。
その動きの中に、谷の宿の仲居たちの動きと、どこか似た、毎日の手の運びがあった。
ふだん、ほとんどの人が、その手の運びには気づかない。
そのことに、いまの沙耶香は、改めて、すこし、胸を打たれた。
担当の医師が、面会室まで案内してくれた。
面会室は、白い壁の小さな部屋で、机が一脚と、椅子が三脚、置かれているだけだった。
そして、その椅子のひとつに、若い女性が、しずかに座っていた。
木下春子だった。
谷の宿の制服姿ではなかった。
ふだんの、ごくふつうの淡い色のセーターと、ジーンズ。
髪は、谷で見たときよりも、わずかに短く切られていた。
顔は、まだ、ずいぶんと、ほっそりとして見えた。
それでも、目の中の暗さは、谷の夜のときとは、もう、別物だった。
そこには、まだ深い疲れがあったが、その疲れの底に、薄く、自分自身を見つめなおそうとする光が、灯っていた。
「篠原さん。九能さん」
「こんにちは、春子さん」
「こんにちは」
ふたりが椅子に腰を下ろすと、彼女は、両手を膝の上で、ぎゅっと組み合わせた。
「来てくださって、ありがとうございます」
「いえ」
「あの……いきなりで、なんなんですけど」
「ええ」
「篠原さん」
「うん」
「お父さんに、会ってくださったと、聞きました」
「うん」
「お父さんが、お父さん自身のこと、いっぱい話してくださったって」
「うん」
「あの……ありがとうございました」
その「ありがとう」は、谷の宿のときの、震えた声のものとは、別の種類のものだった。
絞り出した感謝、というよりも、いちど自分の中で整え終わってから、ていねいに口にした、感謝だった。
「お父さんはね」
沙耶香は、できるだけ、おだやかに答えた。
「春子さんのこと、責めて、おられないですよ」
「はい。それも、聞きました」
「あなたのお兄さんの、ノートのこと、ね」
「はい」
「あれを、本の中に、お兄さんのお名前で、書かせていただいて、いいことになりました」
「お父さんが」
「うん」
「ほんとうに」
「ほんとうに」
春子は、しばらく、唇を噛んでいた。
それから、ゆっくり、口を開いた。
「篠原さん」
「うん」
「お兄ちゃんのこと、お願いします」
「うん」
「お兄ちゃんが、最後に、わたしに言ってくれた言葉、ちゃんと、本の中に、残してあげてください」
「もちろん」
「『誰のことも、巻き込むな』」
「うん」
「あれを、わたし、あの夜、笹目さんに向かって、言うことになるとは、思ってもいませんでした」
「うん」
「お兄ちゃんが、あの言葉を、わたしに、何のために、最後に残してくれたのか。あのときまで、わたし、ちゃんと、考えたことがなかったんです」
「うん」
「お兄ちゃんは、たぶん、わたしの中で、何かが、いつか、ぐっとふくらんで、別の人に利用されかける日が来るって、わかってたんだと思います」
「うん」
「だから、最後に、あの言葉を」
春子の声が、ふっと震えた。
「あれは、わたしへの、お兄ちゃんからの、お守りだったんだと、いまは、思います」
九能が、しずかに口を開いた。
「春子さん」
「はい」
「お兄さんは、たぶん、あなたが、いつか、自分の意志で、誰かを巻き込む側にも、巻き込まれる側にも、立ちうる人間になることを、いちばんよくわかっていた人だ」
「ええ」
「だからこそ、自分の最後の言葉として、あれを選ばれたんだろうと、わたしは思っています」
「警部さん」
「ええ」
「警部さんに、ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あの夜、配電盤の前で、わたしを止めてくださったのは、警部さんの部下の方でしたよね」
「ええ」
「あのとき、警部さんが、もし、ご自分の手で、わたしを取り押さえに来てくださっていたら」
「うん」
「わたし、たぶん、もっと、暴れていたかもしれません」
「ええ」
「だから、警部さんは、わざと、ご自分の声を、その前から、笹目さんの方に向けて、出してくださっていたんですよね」
九能は、わずかに、目を伏せた。
「あなたを、追い詰めすぎないようにしたかった」
「ええ」
「あなたを、最後まで、ひとりの人間として、扱いたかった」
「ええ」
「春子さん」
「はい」
「あなたが、あの夜、最後に、自分の口で、お兄さんの言葉を、笹目に向かって、口にしてくれたこと」
「ええ」
「あれが、わたしの捜査の中で、いちばん、報われた瞬間です」
九能のその言葉に、春子は、しばらく、顔を覆った。
両手のすき間から、抑えきれない声が、ほんのわずかだけ、漏れた。
それは、嗚咽ではなかった。
しずかな、ひとつの、ながい息だった。
しばらくして、春子は、両手を下ろした。
目元は、もう、谷の夜のときのように、無理に張りつめてはいなかった。
ふつうに泣いた人の、ふつうに濡れた目元だった。
「篠原さん」
「うん」
「ひとつ、お願いがあって」
「うん」
「わたしのこと、本の中で、わたしの本名で、書いてくださって、構いません」
「いいの」
「はい」
「春子さん。それは、これからのあなたの人生にとって、たぶん、ずっと、重い形で残るかもしれない」
「分かっています」
「うん」
「だからこそ、本名で、書いてください」
「うん」
「わたしは、もう、自分の名前のうえに、いろんな重さを、ちゃんと乗せて生きていきたい」
「うん」
「逃げる名前を、自分のために、もうひとつ、作らないでください」
その答え方は、まっすぐだった。
谷の宿のときの、追い詰められた声とも、配電盤の前で泣き崩れた声とも、別の人の声だった。
ひとりの若い女が、自分の人生を、自分の名前のうえで、もう一度引き受けようとしている声だった。
「分かりました」
沙耶香は、ノートを開かないまま、頭の中で、ていねいに、その意思を書きとめた。
「春子さんの本名で、書きます」
「お願いします」
「ただし、ね」
「うん」
「いつか、何かの場面で、その名前を見てくれた人が、あなたを責めるために使うのではなく、あなたを支えるために使ってくれるように、私は、ちゃんと、文章の方も、整えます」
「ありがとうございます」
「これからもね、本のことで、何度か、お父様にも、九能さんにも、相談すると思う」
「はい」
「春子さんにも、書く前と、書いたあとで、原稿を、見ていただきます」
「いいんですか」
「いいに、決まってる」
そう答えてから、沙耶香は、自分の中の小さな決意を、ひとつ、確かめた。
これは、ふつうの取材の本の作り方とは違う、ということを。
これは、関係者の方々と、ライターと、警察と、医師と、家族と、それぞれが、ひとつの本の上に、ちゃんと向き合っていく仕事になる、ということを。
その重さを、自分は、最後まで、引き受ける。
面会室の壁の時計が、ふっと、低い音をたてた。
時間が、ゆっくり、終わりに近づいていた。
「春子さん」
「はい」
「最後にもうひとつだけ、聞いてもいい?」
「どうぞ」
「あなた、もし、本の中に、自分のために残しておきたい言葉が、ひとつだけあるとしたら、なにかある?」
しばらく、春子は、考え込んだ。
それから、ゆっくり、口を開いた。
「お兄ちゃんの言葉を、お守りに、ふつうの暮らしを、もう一度、はじめから、はじめます」
その言葉を、沙耶香は、しっかりと、自分の中に、いれた。
ノートには書かなかった。
ただ、家に帰ってから、いちばん最初に書きとめる言葉として、頭のいちばんやわらかい場所に、預けておいた。
病院から駅に戻る途中、九能と沙耶香は、ふだんは入ったことのない、小さな食堂で、ふたりで遅い昼食をとった。
カウンターだけの、家庭的な店で、メニューは煮魚定食と、肉じゃが定食と、カレーライスだけだった。
ふたりとも、煮魚定食を選んだ。
「警部さん」
「はい」
「あの子は、たぶん、これから、ふつうの暮らしの中で、何度も、自分の中の重さに、ぶつかると思います」
「ええ」
「そのたびに、何度でも、立て直していけるように、本の中の彼女の章は、書こうと思います」
「いい考えだ」
「警部さんは、これから、どうなさるんですか」
「わたしですか」
「ええ」
「わたしは、もうしばらく、いまの職場で、刑事を続けます」
「警察を、辞めて、谷の宿の常連客になります、なんてことは、ないんですか」
沙耶香は、思わず冗談を言った。
九能は、ふっと、声を出して笑った。
「そんな、おしゃれな引退、わたしには、できませんよ」
「冗談です」
「ええ」
「ただ、ね、警部さん」
「ええ」
「事件のあと、何年か経ってから、わたしも、もう一度、湯けむり温泉郷に、夢野りりちゃんと、お母さんと、三嶋くんと、ふつうの旅情ライターとして、行きたいと思っているんです」
「いいですね」
「もしご都合がつけば、警部さんも、ご一緒に」
「行きます」
九能の即答が、おだやかだった。
「ただし、その日は、わたしは、警部殿ではなく、ただの、ひとりの宿のお客として、お邪魔します」
「もちろんです」
「お酒、ご一緒できますか」
「警部さんの一杯目を、私が、注がせてください」
「ありがたい」
九能はそう言って、笑ってから、ふっと、湯のみの煮魚のたれの匂いを、深く吸い込んだ。
その仕草の中に、長い長い職業人生の、一瞬の素の時間が、垣間見えた気がした。
その日、家に戻ってから、沙耶香はずいぶん長い時間、机に向かわなかった。
ただ、湯のみのお茶を、ゆっくり飲み、テレビの音を低く流しっぱなしにして、しばらく、なにもしなかった。
それも、ライターの仕事のうちだった。
書く前に、心の中の余白を、いったん、ちゃんと残すこと。
それを、長い仕事の中で、彼女は、自分なりに身につけていた。
夕方近く、携帯電話が、軽く震えた。
夢野りりの所属事務所のマネージャーからの連絡だった。
「篠原さん。お忙しいところを、失礼いたします」
「いえ。どうぞ」
「実は、夢野が、改めて、篠原さんに、ご相談したいことが、あるとのことで」
「相談、ですか」
「ええ。電話よりも、できれば直接、もう一度、お会いして、お話を、と」
「もちろん、行きます。日にちと場所を」
数日後、沙耶香は、また、あの地下の小さな喫茶店に、夢野りりと向かい合っていた。
入口の真鍮のベルが、もう、何度目かの音色を立てていた。
「篠原さん」
「うん」
「お忙しいのに、すみません」
「ううん。なんでも、聞かせて」
夢野りりは、両手で、紅茶のカップを包み込んだ。
ふっと息を吸ってから、ゆっくり、言った。
「実は、わたし、本の最後の章、わたしも、一緒に書きたいんです」
「うん」
「文章を、わたしが書く、って意味じゃなくて」
「うん」
「最後の章にする予定の、お母さんと谷に行くところ」
「うん」
「本の中だけのお話、じゃなくて、ほんとうに、お母さんと、谷に、もう一度、行ってきたいんです」
「うん」
「そのときに、篠原さんも、もし、よかったら、いっしょに、来ていただけませんか」
「うん」
「それで、わたしが、お母さんに、見せてあげたかった景色や、お母さんに、伝えたかったこととか、現地で、ぜんぶ、わたしと、お母さんの言葉で、お話します」
「うん」
「そのお話を、篠原さんに、ぜんぶ、聞いていただいて、本の中に、入れてほしいんです」
「うん」
「最後の章は、わたしが書く言葉、お母さんが書く言葉、篠原さんの目で見た景色」
「うん」
「みっつで、いっしょに、書く章にしたいんです」
その願いを、沙耶香は、しずかに受け取った。
ふだんなら、ライターは、最後の章にこそ、いちばん自分の文体を込める。
その「自分の文体」を、夢野りりは、わたしと、お母さんと、いっしょに、と言ってくれている。
それは、ふつうの仕事の発想から見れば、書き手の領域を踏みこまれる申し出にもなりうる。
しかし、いまの沙耶香には、もう、その「ふつうの仕事の発想」が、奇妙なくらい、遠かった。
「いっしょに、書こう」
沙耶香は、はっきり、答えた。
「ほんとうですか」
「うん」
「篠原さん、ライターの方なのに、いいんですか」
「ライターだから、いい」
「うん」
「最後の章だけは、私のための章じゃなくて、あなたと、お母さんと、谷のための章にする」
「ありがとうございます」
「いつ行く?」
「もし、よかったら、春のすこし手前くらいに」
「春」
「うん。お母さんの体調が、いちばん落ち着いてくる頃で。それに、谷の宿の女将さんが、年明けあと、すこしずつ、ふつうの営業を、戻されているって、聞いて」
「うん」
「ふつうのお客さんが、ふつうにお泊まりしている宿に、ふつうの観光で、わたしとお母さんが、行きたいんです」
「うん」
「篠原さんと、もしご都合がつけば、三嶋さんも」
「ええ」
「三嶋さんの写真、絶対、本の最後の章に、入ってほしいです」
「もちろん」
「警部さんも」
「警部さんも、ね、こないだ、ふつうの客として行きたい、っておっしゃってた」
「ほんとうですか」
「ええ」
「じゃあ、五人で」
「五人で」
夢野りりが、はじめて、ふっと、子どもらしい笑い方をした。
その笑い方の中に、もう、谷の宿の闇の名残りは、どこにもなかった。
そのあとの数週間で、沙耶香は、机の上で、本の中盤と後半を、いっきに書き進めた。
東京地裁での公判の様子、九能の証言、被害者の遺族の方々の声、笹目修造の中の主観の中の正義のゆがみ、十年前の住民のかたがたへの聞き取り、鳴海半蔵の私財整理、木下道也のノート、そして、面会室で会った木下春子の本名での書き残し。
そのひとつひとつを、丁寧に、章のあるべき場所に、置いていった。
書いている途中、何度も、沙耶香はペンを置いた。
机の脇のスタンドの小さなあかりの下で、谷の宿の廊下の灯りと、東京の街灯の白い光と、病院の面会室の白い壁の光が、何度も、自分の頭の中で重なった。
そのたびに、彼女は、軽く目を閉じて、深く息を吸って、また、目を開けた。
そして、つぎの一行を、書きつけた。
数週間のあいだに、本の本体の原稿は、ほとんど、最後の章の手前まで、形になっていた。
机の上に積み上がった原稿の束を見ながら、沙耶香は、ふっと、奇妙な感慨に襲われた。
長い長い夜のあとに、ようやくここまで、自分のことばで、たどり着いた。
それでも、いちばん大事な章が、まだ、書かれずに、白いままで、残っていた。
最後の章の、白いページの上に、彼女は、いま、まだ、ひとつも、ペンを下ろしていなかった。
その白いページを、彼女は、わざと、いちばん上にして、机の真ん中に置いていた。
毎朝、机に向かうたびに、最初に、その白いページが目に入る。
それが、最近の沙耶香の、ひとつの日課になっていた。
そして、その白いページを見るたびに、頭の中で、ふっと、谷の宿の朝の湯けむりが、白く立ち上った。
その朝の景色の中に、まだ、自分が見ていない、もうひとつの春の朝が、用意されているのが、わかった。
その朝に、自分は、ノートとペンと、白いままの最後のページを、しずかに開く。
そこに、夢野りりと、お母さんの声と、三嶋のシャッターの音と、九能のひと口めの酒の杯が、まじり合った湯けむりの光景を、いっしょに、書きこむ。
そう、はっきりと、沙耶香は決めていた。
机の上の白いページの上で、季節は、いま、ようやく、ふゆの終わりの方にかかっていた。
谷の上の空も、たぶん、同じように、すこしずつ、春の手前のひと色に、変わり始めているはずだった。
旅情ライター篠原沙耶香は、その日、はじめて、机の上の最後の白いページを、いちど、そっと、両手のひらで包み込んだ。
ふだんなら、そんな大げさなことは、しない。
ただ、その日は、なぜか、そうしたかった。
両手のひらの下で、白い紙は、もちろん、なにも答えなかった。
それでも、その白さの中に、もう、谷の春の朝のひかりが、わずかに、内側から、にじんで見え始めている気がした。
長い夜が、ようやく、明けていこうとしていた。
そして、長い長い本の、いちばん最後の章を書くための、本当の春が、もうじき、谷の上で、いっぱいに開きかけていた。
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