1-18
公判の日は、朝から灰色の空だった。
雪というほどではなく、東京の冬らしい、ひと色だけの曇天が、低くたれこめていた。
地下鉄を上がってすぐの裁判所の前に立つと、その曇り空の下で、堂々とした建物の灰色が、いっそう冷たく見えた。
裁判所、という場所は、何度か旅情ライターとは関係のない仕事で取材に来たことがあった。
しかし、今日は、これまでのどの取材より、足元が重かった。
胸ポケットの中の、谷の宿で九能から渡された細い糸が、いまも、しっかりと畳んで仕舞い込んである。
その糸の感触を、コートの上から、軽く指で押さえる癖が、最近の沙耶香にはついていた。
入り口の前で、三嶋正が待っていた。
カメラは、今日は持ってきていなかった。
「沙耶香さん。おはようございます」
「おはよう」
「寒いですね」
「ええ」
「中、入ったら、もうちょっと、あったかいですかね」
「たぶん」
ふだんなら、もう少しのほほんとした合いの手を入れるところを、三嶋もきょうは、ぎこちなく言葉を選んでいた。
裁判所の入口の警備員に、傍聴券を見せて、長い廊下を、ふたりで歩いていく。
廊下のあちこちで、スーツの男女がすれ違っていく。
弁護士らしき人、書記らしき人、検事らしき人、そして、ただ、傍聴に来た一般の人。
それぞれの足音が、それぞれの理由で、廊下の上を行き来していた。
沙耶香は、その足音の混ざり方を、ふと、谷の宿の廊下のそれに、少しだけ似ていると思った。
ただ、こちらの足音には、湯けむりの匂いも、寒椿の赤もなかった。
ただ、決められた手続きの音だけが、淡々と続いていた。
事件の本格的な裁判は、これからも長く続く。
きょう傍聴するのは、その最初の段階、いわゆる初公判の一日目だった。
被告人は、二人。
笹目修造――いまや事件の主犯と認定された、写真の中のあの痩せた男。
そして、田中与一――宿の中で布団敷きの臨時手伝いを装って、毒の仕込みと密室の細工に手を貸した、共犯者。
木下春子は、別の枠組みでの審理になっていて、きょうの法廷には、姿を見せない。
鳴海半蔵もまた、彼自身の関与の整理が、別の手続きで進められていた。
きょうの法廷で問われるのは、純然たる「殺人と、関連する罪」の部分だった。
法廷の前の長椅子に、ひとりの男性が、すでに座っていた。
紺のセーターの上に、薄手のジャケット。
きょうのために選んだとは思えない、いつもの服装だった。
それでも、その背中は、いつもよりわずかに、まっすぐに見えた。
「お父様」
沙耶香が声をかけると、男性は、ゆっくり振り向いた。
木下春子の父親だった。
「篠原さん。三嶋さん」
「お時間に、間に合われて、よかったです」
「ええ、なんとか」
ふたりが隣に腰を下ろすと、男性は、深く、ひとつ息を吐いた。
「正直に申し上げますとね」
「はい」
「最後まで、来るかどうか、迷っていました」
「ええ」
「あの男の顔を、こんな近くで見ることに、ほんとうに、どれだけ意味があるのか、自分でも、よく分からなかった」
「ええ」
「でも、ね。きょう、ここに来なければ、わたしは、息子と、娘に、ちゃんと向き合えていない気がしてね」
「ええ」
「だから、来ました」
「ええ」
男性の、その短い「来ました」を、沙耶香はノートに書きとめなかった。
ただ、しっかりと、自分の中に置いた。
廊下の奥の方から、低く、別の足音が近づいてきた。
地味な背広に、ふだんよりさらに、しっかりと撫でつけられた白髪まじりの髪。
九能弦十郎が、こちらへ歩いてきていた。
きょうは、警察官ではなく、捜査の責任者として、検察側の証人として呼ばれている立場だった。
それでも、その歩き方は、谷の宿で見たときと、何も変わらなかった。
「皆さん。きょうは、わざわざ」
「警部さんも、おつかれさまです」
「いえいえ」
九能は、軽く頭を下げてから、男性のほうへ向き直った。
「木下さん、奥様も、お子様も、ほんとうに、申し訳ありません」
「警部さんに、頭を下げていただくことじゃ、ありません」
「いえ、ここは、わたしの方からも、ひとこと」
九能は、深く、もう一度、頭を下げた。
「春子さんのことも、含めて、わたしの方の捜査の中で、もっと早く、何か気づけたところが、いくつもあったかもしれない。そのことについて、まず、わたしから、お詫びします」
「警部さん」
「ええ」
「あなたが、あの夜、谷で、春子の言葉を、ちゃんと聞いてくださったこと」
「ええ」
「あれだけで、わたしと、息子の家族のあいだの、いちばん最後のところは、もう、ちゃんと、見ていただけました」
男性の声は、低かった。
「ですから、これ以上、お詫びを、なさらないでください」
「いえ」
「ね、警部さん」
「ええ」
「きょうは、わたしのために、ではなく、あの男に、ちゃんと、すべての事実を、突きつけてやってください」
「ええ」
九能は、まっすぐ、男性の目を見て、深くうなずいた。
「そのために、わたしは、きょう、この席に呼ばれております」
「お願いします」
「ええ」
短いやりとりのあいだに、廊下の入り口側から、開廷を告げる係員の声が、低く響いた。
男性、沙耶香、三嶋、九能。
それぞれの方向から、それぞれの理由で、四人は、法廷の中へと、入っていった。
法廷の中は、思っていたよりも、ずっと、しずかな空間だった。
中央に裁判官席。
右側に検察官席、左側に弁護人席。
その手前に、被告人席。
そして、その後ろが、傍聴席だった。
傍聴席の真ん中あたりに、沙耶香と三嶋、それから木下春子の父親が、ひと固まりになって座った。
少し離れた席に、見覚えのない数人の男女が、すでに座っていた。
立ち退きで人生を変えられた、別の家族の方々かもしれない、と沙耶香は思った。
直接話したわけではなかったが、その背中の傾き方が、木下春子の父親のそれと、よく似ていた。
廊下からの足音が、法廷の中に近づいてきた。
警官に挟まれて、ふたりの男が、被告人席へと、入ってきた。
ひとりは、笹目修造。
もうひとりは、田中与一。
谷の宿で見たときよりも、ふたりとも、ひと回り痩せて見えた。
笹目の頬は、もう、写真の中の鋭さを保ってはいなかった。
ただ、目つきの奥のあの空っぽさは、いまも、変わらなかった。
田中の方は、ずっと床ばかりを見ていた。
警官に促されてはじめて、被告人席に、ゆっくり腰を下ろした。
裁判長が、人定質問から始める。
被告人の氏名、年齢、職業、本籍。
それぞれが、低い声で、ひとことずつ答えていく。
笹目修造の本名「笹目修造」が、自分の口から、はっきりと法廷の中に出されたとき、沙耶香は、思わず、姿勢を正した。
「細雪」と呼ばれていた男が、長い長いまわり道のあと、ここでようやく、自分の本名で、法廷の前に立った。
その瞬間を、たぶん、九能だけは、自分の長年の仕事の中で、何度も見てきたはずだった。
公判のあいだ、検察側の起訴状の朗読が、ゆっくり続いた。
殺人、殺人未遂、住居侵入、有印私文書偽造、その他のいくつかの罪状。
それぞれの罪状の説明の中で、間宮徹、梓弓遥という二人の名前が、はっきりと、何度も出てきた。
沙耶香は、ひとつひとつの名前のたびに、目を伏せた。
奥の部屋で倒れていた間宮の姿。
河原の石の上で、コートを重たげに広げていた梓弓の姿。
そのふたつの絵が、法廷のしずかな空気のあいだに、ふっと、もう一度、よみがえった。
弁護側の冒頭陳述では、笹目側の弁護人が、被告人の生い立ちと、十年前の不動産取引における立場を、丁寧に説明した。
被告人もまた、十年前のあの再開発の中で、ある人物に騙され、人生を狂わされたひとりであった、という筋の冒頭陳述だった。
その説明の途中で、傍聴席の中に、ぎゅっ、と、小さな衣擦れの音がした。
別の家族の方々の、誰かの肩が、こわばった音だった。
沙耶香は、その音を、横目で確かめた。
被告人の弁護として、それなりに筋の通った話だった。
ただ、その話の中で、間宮と、梓弓と、鳴海と、十年前のあの町の人々の名前が、いつのまにか、被告人の苦しみのための背景のように、すべりこんでいた。
それは、ふつうの公判の冒頭陳述の中では、何ら異例のものではなかった。
ただ、被害者のご家族の側から見れば、その「すべりこみ方」のひとつひとつが、新しい傷口になることを、沙耶香は、肌でわかった。
冒頭陳述のあと、検察側からの証人として、九能弦十郎が、証言席に呼ばれた。
九能は、ゆっくり立ち上がって、証言席に向かった。
その歩き方は、谷の宿で布団部屋に踏み込んでいったときと、何ひとつ違わなかった。
長年の刑事の、迷いのない歩き方だった。
宣誓のあと、九能はマイクを引き寄せて、検察官の質問に、ひとつひとつ、低く、確かに答え始めた。
事件発覚直後の宿での状況。
被害者間宮徹の死亡現場の様子と、密室と判定された経緯。
障子の桟に残った、ごく細い糸の擦れ跡。
そこから、糸を使った密室トリックを推定するに至った経緯。
布団部屋から発見された薬剤と、配電盤の小さな仕掛けの意味。
宿の中での、田中与一と、若い仲居の動きの観察結果。
東京での鳴海半蔵の聴取と、彼が認めた十年前の事業の概要。
九能は、それらを、感情を一切のせずに、淡々と語った。
ところどころで、検察官が補足の質問を入れる。
そのたびに、九能は、自分の手帳を、ほとんど見ずに、要点を答えた。
長い夜のあいだに、自分の頭の中に、ぜんぶの絵を、すでに焼きつけて持っている人間の答え方だった。
ひとつだけ、声の調子が変わった瞬間があった。
検察官が、最後の方で、こう問うた。
「九能警部。被告人笹目修造の動機の中に、被害者間宮ほかへの、いわば『個人的な怨恨』と呼べるものは、含まれていたとお考えですか」
九能は、しばらく沈黙した。
それから、低く、しかし、はっきりと答えた。
「ある」
その「ある」のひとことが、法廷の中の空気を、少し、引き締めた。
「ただし、それは、被告人本人の中だけのものではなかった、と、私は捜査の過程で判断しております」
「どういうことでしょうか」
「被告人は、十年前の不動産取引の中で、自分が中心的な役割を果たしておきながら、表に名前を出さずに、間宮さんや梓弓さん、鳴海さんに、責任を負わせる構図を、自分の意志で作りました」
「ええ」
「その後、被告人は、十年のあいだ、自分自身を、再開発の被害者の側に置きなおしました。被害者の方々の中に紛れ込み、その怒りや、悲しみを、自分の中で、自分の怨恨として、培っていきました」
「ええ」
「結果として、被告人の中の動機は、ある時期から、被害者の方々への、過剰な共感のかたちをとった、自分自身の罪の隠蔽の延長になりました」
「と、いいますと」
「被告人は、間宮さんや梓弓さん、鳴海さんへの怨恨を、自分のためだけではなく、被害者の方々のためにも、自分が代表して晴らしているかのような形に、塗り替えていました」
「自分のためにではなく、被害者の方々のために、ということでしょうか」
「ええ。ですが、これは、実態としては、被害者の方々の苦しみを、自分の罪悪感の隠蔽のために、もう一度、利用するという行為であります」
九能の言葉は、ゆっくりだった。
ひとつひとつ、選び抜いて、置いている言葉だった。
「被害者の方々の中には、被告人を信じてしまった方も、複数おられました」
「ええ」
「特に、十年前のあの再開発で、ご家族を失った、ある家の若い女性の場合、被告人を、被害者の側の最も近い理解者として、長く信頼してしまっておりました」
「ええ」
「結果として、その女性は、被告人の指示のもとで、いくつかの行為に加担することになりました」
「ええ」
「その女性の責任は、別途、別の手続きの中で問われることになりますが、私の見方を申し上げれば、被告人の責任は、その女性を、そこまで追い込んだという点においても、極めて重い、と考えます」
九能のその一連の言葉に、傍聴席のあちこちで、小さなため息のような音が、ばらばらと立った。
それは、押し殺された安堵のようでもあり、押し殺された悲しみのようでもあった。
沙耶香は、隣の木下春子の父親の手が、膝の上で、強くもう一方の手を、握りしめているのを見た。
しわの寄ったその手が、震えていた。
沙耶香は、自分の手帳の上で、強くペンを握りすぎないように、気をつけて、字を書きとめた。
ペンを動かしている自分の手のひらにも、知らずに汗がにじんでいた。
検察官の質問が、ひととおり終わった。
弁護人の側からも、九能への反対尋問があった。
弁護人は、控えめな、しかし、被告人の側からは当然のいくつかの問いを、丁寧に重ねた。
九能の答えは、終始、淡々としていた。
質問のひとつひとつに、自分の捜査の根拠を、はっきりとつけて、答えた。
途中で、弁護人が、こう問うた。
「九能警部。被告人が、十年前の再開発の被害者の方々のために、自分の中で、なんらかの正義を信じていた可能性については、否定されないと、先ほど、述べられましたね」
「ええ。本人の主観の中では、その正義は、存在していたと思います」
「その主観の中の正義は、被害者の方々の側からも、ある程度、共感されていた、可能性はあるとお考えですか」
「あるかもしれません」
九能は、はっきりと答えた。
「ですが、その共感を、人を殺し、人を傷つけるための弁解にしてはならない、と、わたしは捜査の責任者として、はっきり申し上げます」
弁護人は、わずかにうなずいて、それ以上、その線は追わなかった。
九能の証言が終わって、彼が証言席を降りるとき、傍聴席のいちばん前の方で、ひとりの女性が、頭を、少しだけ下げた。
立ち退きで家を失った、別の家族のひとりのようだった。
九能はその礼に気づいたが、こちらからは目礼を返さなかった。
刑事という立場の中で、いまの自分が、被害者の方々に向けるべき態度を、はっきり選んでいる動きだった。
公判は、一日では終わらない。
きょうは、検察側の冒頭陳述と、いくつかの証拠の取り調べ、九能の証言、弁護側の反対尋問、というところまでで、一度終わる。
次の期日が告げられ、休廷の合図とともに、被告人たちは、警官に連れられて、廊下の方に消えていった。
笹目修造は、最後にもう一度、振り返って、傍聴席の方を見た。
その視線が、ふと、傍聴席の三列目あたりに、止まった。
木下春子の父親が、そこに座っていた。
笹目は、無言で、ほんのわずかに、首を傾けた。
それは、頭を下げるというよりも、首が、勝手に、わずかに前にずれた、というだけの動きだった。
それでも、その瞬間に、傍聴席の真ん中で、男性が、ぎゅっと、ひとつ、目を閉じた。
法廷を出てから、しばらくのあいだ、誰も、口をきかなかった。
廊下の長椅子のところで、四人はもう一度、向かい合った。
九能と、沙耶香と、三嶋と、木下春子の父親。
ロビーの片隅で、ペットボトルのお茶を、それぞれが手にしていた。
「お疲れさまでした」
九能が、低く、最初に口を開いた。
「警部さんが、いちばん、お疲れですよ」
「いえ」
「警部さん」
「ええ」
「九能さんの、あの最後の答え方」
「はい」
「あれは、わたしが、いちばん、聞きたかった言葉でした」
「ええ」
「主観の中の正義を、人を殺すための弁解にしてはならない、と」
「ええ」
「あれを、警部さんが、ちゃんと法廷で言ってくださって、本当に、よかった」
「あの言葉は、わたしが、自分のために言いました」
九能は、ゆっくり、答えた。
「自分のために」
「ええ」
「警察の仕事をしていてもね。長く事件を見ていると、自分の中にも、ふっと、似たような考えが、まぎれこむことがある」
「ええ」
「『この人のためなら、ここまでなら、行ってもいいかもしれない』と」
「ええ」
「それを、まぎれこませてしまったら、結局、誰のためにもならない。きょうの法廷の言葉は、まず、自分自身に、もう一度、釘を刺すために、言いました」
その言葉に、男性は、深く、深く、うなずいた。
「警部さん」
「はい」
「わたしは、きょうから、息子と、娘と、女房に、ようやく、ちゃんと、家の中で、向き合えるような気がします」
「ええ」
「いままで、写真の前で、何を話していいか、分からないまま、立ち尽くしていただけだった」
「ええ」
「これからは、ちゃんと、ひとつずつ、家族に、十年前のことも、いまのことも、話してやれそうな気がしますよ」
「ええ」
「九能さんは、たぶん、家族の中の代わりに、いちばん難しい言葉を、わたしの代わりに、きょう、法廷で言ってくださった」
「いえ」
「ありがとうございました」
男性は、ふかぶかと、頭を下げた。
九能は、その頭を、自分も頭を下げて、しずかに受けた。
そのやりとりを、沙耶香は、しずかに見ていた。
ノートには、ほとんど、書かなかった。
ただ、その光景を、ぜんぶ、自分の中に、書きこんだ。
法廷の廊下を出ると、外は、まだ、灰色の空のままだった。
街路樹の枝の上に、ほんの少しだけ、白いものが、ぽつぽつと載っていた。
谷から戻った日の街灯の下のような、ふつうの初冬の、ふつうの東京の景色だった。
その景色の中を、四人は、それぞれの方向へ、ゆっくりと別れていった。
木下春子の父親は、家へ。
九能は、警察署へ。
三嶋は、別の取材先へ。
沙耶香は、自分の仕事部屋へ。
地下鉄の駅に向かう途中、沙耶香は、いったん、街角の小さな立て看板の前で、足を止めた。
そこには、地元の小さな商店街の、年末の福引のお知らせが、貼ってあった。
特等、温泉宿一泊二日ペア宿泊券。
別の温泉地の名前だったが、構図は、まったく同じだった。
沙耶香は、しばらく、その紙の上の字を、ぼんやり見ていた。
数か月前、自分は、似たような紙の前で、ガラガラと玉を回した。
そして、たった一回、金色の玉を引き当てて、谷へ行った。
その「たった一回の偶然」が、いまの自分のすべてを、新しく作り直してしまった。
「事件の方からやってくる」と、何度も、自分は冗談のように言ってきた。
その冗談を、いつのまにか、現実が、ぐっと深いところで、抱き止めてしまっていた。
沙耶香は、ふっと、ひとつ、笑った。
笑ってから、深く、息を吐いた。
それから、立て看板の前を離れ、地下鉄の階段を、ゆっくり下りていった。
家に戻ると、机の上には、まだ書きかけのページが、開いたままになっていた。
そのページの上に、新しい一行を、沙耶香は書きつけた。
『主観の中の正義を、人を殺すための弁解にしてはならない。これは、被告人を裁く者の口だけからではなく、被告人もまた、自分の口で、いつかどこかで、自分自身に向けて、言わなければならない言葉である。』
その一行は、本のいちばん中盤あたりに、ちょうど、収まる位置にあった。
そこから先、何ページ分かを、その夜、沙耶香はいっきに書き進めた。
書きながら、谷の宿の廊下の灯りが、また、頭の中に灯った。
その灯りの中で、夢野りりのノートも、木下道也のノートも、白い紙の束の証言も、ひとつずつ、原稿の中の、それぞれの場所におさまっていく。
夜のいちばん深い時間に、ようやく沙耶香は、ペンを置いた。
机の上の、原稿の枚数は、ずいぶん増えていた。
その分量を、彼女は、しばらく、ぼんやりと眺めた。
これが、長い長い夜のあとに、自分の中に残った、いまの仕事のかたちだった。
机の脇の小さな置き時計が、こつ、こつ、と、谷の宿のロビーの柱時計のように鳴っていた。
その音を聞きながら、沙耶香は、いったん、机に額を伏せた。
そのまま、しばらく、深く、深く、息をした。
法廷の中の、笹目修造のあの一瞬の、首のずれ。
その動きは、長い長い夜の終わりの、ささやかな、しかし、はっきりとした影として、いつまでも、彼女の中に残った。
その影の中に、十年前の少女の赤いふうせんの色と、夢野りりの細い指と、九能弦十郎の低い声と、三嶋の不器用な気遣いと、自分自身の旅情ライターとしてのペン先のすべてが、もう、ばらばらにはほどけないかたちで、つながっていた。
旅情ライター篠原沙耶香は、ふたたび顔を上げて、机の上のページに、もう一度、ペンを下ろした。
長い長い物語の、まだ、半分を超えたばかりだった。
しかし、その半分の重みを、もう、彼女は、ひとりでも、抱える覚悟を、はっきりと、決めていた。
夜は、深く、深く、続いていった。
その夜の中で、ひとつの本の、もうひとつ別の章が、ようやく、はっきりとした形を、取り始めていた。
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