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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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17/21

1-17

 季節は、もう、すっかり冬に入っていた。

 東京の朝の空気は、谷の宿の廊下のそれとは違う種類の冷たさで、沙耶香の頬を撫でていた。

 谷の冷たさが、湯けむりと木のにおいの混じった冷たさだったとすれば、東京のそれは、コンクリートとアスファルトとガラスのにおいの混じった、もっと乾いた冷たさだった。

 それでも、その乾いた冷たさの中に立っていると、谷で吸い込んだあの冷気の重さが、不思議とからだの底の方で、まだ静かに眠っているような気がした。

 沙耶香は、毎朝、その感覚を確かめるところから一日を始めるようになっていた。

 谷で得たもののすべてを、忘れないために。

 机の上には、白い紙の束のかたわらに、もう一冊、新しいノートが置かれていた。

 表紙には、ペンの先で、簡単な題字が書きつけてある。

『湯けむり温泉郷殺人レポート 取材ノート』。

 その題字は、まだ、仮のものだった。

 夢野りりからもらった本のタイトルとは、別のものとして、ライターの取材記録専用のノートとして、沙耶香はそれを置いていた。

 事件の本そのもののタイトルと、取材記録のノートのタイトル。

 その二つを別物として扱うのは、長年の旅情ライターとしての、ささやかな職業のしきたりだった。

 ノートには、すでに、いくつもの項目が、几帳面な字で並んでいた。

「鳴海半蔵 私財整理について」「木下家 立ち退き前の住居の位置」「十年前の再開発 概要と関連自治体」「梓弓遥 経理担当時代の業務範囲」。

 それぞれの項目の下に、警察と相談しながら、出していい範囲の情報の手控えが、ていねいに書きつけられている。

 沙耶香は、その項目の一覧を眺めながら、これからの数週間、自分が何を、どこまで歩くべきかを、もう一度、頭の中で確かめていた。

 谷で起きた事件は、新聞には小さく扱われるだけで終わった。

 地方ニュースとして、二人の死者と、密室の手口、そして容疑者の逮捕。

 それくらいの情報量で、世間の関心からは、すぐに離れていった。

 それは、ありがたいことでもあり、また、こわいことでもあった。

 これだけのことが起きて、十年前の長い悲しみまでが背景にあって、それでも、世間の側からは、ほんの数行の見出しの向こうにしか、見えない。

 放っておけば、十年前の町のことも、亡くなった方たちのことも、夢野りりが見たあの夜の廊下のことも、また、誰の記憶からも、抜けていってしまう。

 そうさせないために、自分はこれを書くのだ、と沙耶香は、改めて自分に言い聞かせた。

 その日の午後、沙耶香は、ある区役所に向かった。

 十年前の再開発が行われた、東京の郊外の一角を所管する、小さな区役所だった。

 事前に九能から、その区の住民生活担当の窓口に、こちらが行くことを伝えてもらってあった。

 警察の方から「ある事件の関係で、書類の確認に来た、信頼できるライターを、可能な範囲で協力してやってほしい」と、ていねいに口添えしてもらっていた。

 おかげで、窓口の担当者は、沙耶香の名刺を確認したあと、奥の小さな相談室に通してくれた。

 担当の男性は、四十代の半ばと見えた。

 紺色のセーターの上に、薄い灰色のジャケットを羽織っている。

 机の上に、いくつもの古いファイルを、丁寧に積み上げてあった。

「篠原さんですね。九能さんから、伺っております」

「お忙しいところを、すみません」

「いえ、こちらこそ。長く、この地域を見ている人間なら、いつかは、誰かに、ちゃんと話さなければいけないことだと、思っていましたから」

 担当者の声には、押し付けがましさはなかった。

 ただ、十年という時間を、行政の側でずっと見届けてきた人間の、静かな重さがあった。

 その重さは、九能のそれとは、また少し違う質感の重さだった。

「これが、十年前の再開発の、当時の事業概要です」

 担当者は、ファイルの一番上の冊子を、机の上に開いた。

 地図の上に、計画区域が、薄い赤線で囲んである。

 その赤線の中に、いくつもの細い路地と、密集する小さな建物が、地図記号で、ぎっしりと描かれていた。

「ここから、ここまでが、当時、再開発のために、まとめて立ち退きの対象になった一角です」

「思ったよりも、広いんですね」

「ええ。区の側からすれば、防災と街路整備のための、いわゆる『正当な再開発』のはずでした」

「正当な、というのは」

「事業の目的と、計画書の中の数字の上では、特に問題のない案件だった、ということです」

「実際には」

「住民の方への補償のところで、いま、振り返れば、いくつも、ほころびが出ています」

 担当者は、ファイルの中ほどのページを、開いてくれた。

 そこには、当時、再開発に同意した世帯と、最後まで同意しなかった世帯の一覧が、表になっていた。

 数字の合計と、補償金額の総額が、欄外に、ていねいに書きつけられている。

「ここに並んでいる金額は、書類上の金額です」

「書類上、というと」

「実際に、住民の方々の手元に、最終的に渡った金額とは、必ずしも一致していなかった、ということが、後年、いくつかの内部告発をきっかけに、分かってきました」

「告発、というのは」

「再開発に関わった、ある事業者の元社員からの、匿名の手紙が、最初でした」

 その「匿名の手紙」の存在を、沙耶香は、九能からの事前のメモで、すでに知っていた。

 担当者は、机の上のもう一冊のファイルを、ゆっくりと開いた。

「これが、その告発のあと、区として、改めて整理した、住民の方々への聞き取りの記録です」

「拝見しても、いいですか」

「もちろん。九能さんから、篠原さんに見ていただいて構わない、と、お話をいただいていますので」

 沙耶香は、ファイルを丁寧に手元に引き寄せて、いくつかのページを、めくっていった。

 そこには、ひとつひとつの世帯について、当時の住居の写真と、住んでいた家族構成と、立ち退き後の生活の変化が、簡潔な文章で記録されていた。

 ある家は、町工場を畳んだあと、ご主人が体を壊して、数年後に亡くなっていた。

 ある家は、新しい賃貸住宅に移ったあと、子どもが学校になじめずに不登校になり、家族全体が地方の親戚の家に身を寄せていた。

 ある家は、補償金の一部を別人に騙し取られて、生活が立ち行かなくなり、最終的に世帯主が、自分でいのちを絶っていた。

 沙耶香は、しばらく、ページの上に、目を伏せた。

 これらの一行一行の上に、ひとりひとりの人生が、十年分の重みを乗せて、ある。

 そのことを思うと、ペンを動かす自分の手が、急に、ひどく不器用なものに感じられた。

「篠原さん」

 担当者が、低く言った。

「無理に、お読みになる必要は、ありません」

「いえ、読みます」

「ええ」

「読んで、書きます」

 沙耶香は、自分に言い聞かせるように、もう一度、ファイルに目を落とした。

「ただ、お願いがあります」

「はい」

「ここに記録されている方々の中で、もし、いまもご連絡を取れる方が、いらっしゃるなら」

「ええ」

「直接、お話を、伺わせていただくことは、可能でしょうか」

 担当者は、しばらく考えてから、答えた。

「事前に、私たちの方から、ご連絡を取って、ご本人のご了承をいただいたうえで、でしたら」

「もちろんです」

「篠原さん。ひとつだけ、覚えておいてください」

「はい」

「あの再開発で、ご家族や、ご自身の人生を、深く傷つけられた方々の中には、もう、誰の言葉も信じたくない、と言いたい方も、当然、いらっしゃいます」

「ええ」

「そういう方には、無理に、お話を伺おうとしないでください」

「分かりました」

「『書いてくださって構いません』とおっしゃってくださる方の声だけを、ていねいに、集めてください」

「はい」

 その担当者の言葉のひとつひとつに、沙耶香はうなずいた。

 ライターの仕事の中で、これまでも何度か、聞いてきたものに近い注意事項だった。

 それでも、こんなにまっすぐに、こんなに静かに、その注意を口にしてくれた人は、はじめてだった。

 担当者は、最後に、ファイルの中の、ひとつのページを、そっと、開いて見せてくれた。

「この方が、もしよろしければ、いちばん最初にお会いしていただきたい方です」

 そこに記されていた世帯主の姓は、木下、だった。

「これは……」

「ええ。例の、若い仲居さんの、ご実家のお父様です」

 ファイルの中の、当時の家の写真が、薄く、印刷されていた。

 下町の古い長屋風の二階建てで、二階の窓に、子どもたちのものらしい、小さなぬいぐるみが、いくつか並んで覗いていた。

 その玄関先に、ご夫婦と、お兄さんらしい少年と、まだ小さい少女が、四人で並んで立っていた。

 少女の手には、赤いふうせんが、ひとつ、ふわりと浮かんでいた。

「お父様、いま、どうされているんですか」

「奥様を、立ち退きの数年後に、お亡くしになりました。お兄様は、ご存じの通り、ご病気でお亡くなりです」

「お父様だけ、いま、ひとりで」

「ええ。郊外の小さなアパートに、お一人で住まわれています。年金と、ささやかな仕事で、暮らしておられます」

「お会いさせていただいて、いいでしょうか」

「ええ。ご本人に、警察の方からお話があって、『その方になら、自分のことも、家族のことも、ぜんぶ話していい』と、お返事をいただいています」

 担当者は、いったん言葉を切ってから、続けた。

「篠原さん。お父様は、いま、娘さんのことを、責めて、いらっしゃいません」

「責めて、いない」

「ええ。ご自分が、長年、十年前のことを表に出さずに、家族の中だけで、ひとりで、抱え込んでしまっていたから、娘さんが、別の人の言葉にすがってしまったのだ、とおっしゃっています」

 沙耶香は、しばらく、ファイルの上の、家族の写真を見ていた。

 少女の小さな手の中で、赤いふうせんが、十年前のある日、ふわり、と浮かんでいる。

 その赤い色だけが、白黒に近いセピアの写真の中で、ひときわ、はっきりと残っていた。

「篠原さん」

「はい」

「写真は、原則として、こちらでお預かりしているものは、外には出せません。ですが、お父様が、もし、ご自宅にお持ちのお写真をご提供くださるなら、そちらは、ご本人の許可があれば、本の中で、お使いいただいて構わない、と思います」

「ありがとうございます」

「写真の有無は、ご本人とのお話のあとで、ご判断いただければ」

「分かりました」

 その日のうちに、担当者を通じて、木下春子の父親と、後日、自宅で会う約束ができた。

 沙耶香は、区役所を出てから、しばらく、近くの公園のベンチに座っていた。

 公園の中央には、小さな池があって、その水面に、午後の薄陽が、白く光っていた。

 通りすがりの子どもが、池の縁で、つま先立ちをして、水を覗き込んでいる。

 その姿を、しばらく、ただ眺めていた。

 ふだんなら、ライターとして、すぐに手帳を取り出して、池の色や、子どもの服の色や、頬の赤さなどを、書き留めるところだった。

 しかしその日は、手帳を出す気にも、なれなかった。

 ただ、その光景を、ぜんぶ、自分の中に、しずかに収めておきたかった。

「ふつうに、子どもが、池をのぞき込んでいる」

 そういう景色のうえに、自分の本の最後のページが、いつか、置かれるべきだ、と沙耶香は思った。

 事件の派手な解決ではなく、こういう、何でもない、ふつうの午後のうえに。

 数日後、沙耶香は、もう一度、別の場所に出かけた。

 東京の郊外にある、簡素な集合住宅の一室。

 木下春子の父親が、ひとりで暮らしている、その家だった。

 呼び鈴を鳴らすと、すぐに、しずかな足音が、扉の向こうから近づいてきた。

 開いた扉の向こうに、白髪を短く刈り上げた、痩せた男性が立っていた。

 頬がこけ、目元には深い隈があったが、その目は、思っていたよりも、まっすぐにこちらを見ていた。

「篠原さんでしょうか」

「はい。突然、お邪魔して、すみません」

「いえ。九能さんから、お話は伺っております」

 その姓だけで、向こう側に九能の姿が立っているのが、はっきり分かった。

 九能弦十郎の名は、こうやって、関係者のあいだに、いまも、地味な脇役のように、しずかに置かれていた。

 部屋の中は、ひどく簡素だった。

 小さなちゃぶ台がひとつ、座椅子がふたつ、テレビと、本棚と、仏壇。

 仏壇の上には、すでに何枚も写真が並べられていた。

 奥様の写真と、お兄さんの写真と、ご家族で写った、十年前の小さなスナップ。

 そのスナップの中に、区役所のファイルで見たのと同じ、赤いふうせんを持った少女の姿があった。

「狭いところで、すみません」

「いえ。とんでもないです」

 ふたりは、ちゃぶ台をはさんで、向かい合った。

 お茶を、男性が、自分で淹れてくれた。

「篠原さん」

「はい」

「春子のこと、書いていただけるそうで」

「はい。お父様の許される範囲で」

「ありがとうございます」

「お父様」

「はい」

「先に、ひとつだけ、申し上げておきます」

「ええ」

「春子さんが、谷の宿で、どんな立場に置かれていたか、警察の方から、もう、お聞きでしょうか」

「うかがいました」

「お父様は、春子さんのこと」

「責めてはいません」

 男性は、はっきり、首を振った。

「責めてはいません。あの子の中で、長いこと、あれをどうしていいか、分からないまま、ふくらんでいたものが、たまたま、悪い方角にはけて、しまった、ということだ、と思っています」

「ええ」

「悪い方角にはけて、しまったのは、結局、わたしのせいだ、とも、思っています」

「お父様の」

「ええ」

 男性は、ゆっくり、湯のみを両手で包み込んだ。

「十年前、女房を、亡くしてからね」

「はい」

「わたしも、息子も、娘も、家族のあいだで、ほとんど、十年前のことを、口にしなかったんですよ」

「ええ」

「あんなに大きなことが、あったのに、ね」

「ええ」

「お互いに、口にすると、また誰かが、いっぺん壊れてしまう気がしてね。だから、口にしないことで、家族を、なんとか、守ろうとしてしまった」

「ええ」

「そのおかげで、息子は、最後まで、自分の苦しみを、わたしや、娘に、ぜんぶは、見せてくれませんでした」

「お兄さま」

「ええ」

 男性は、しばらく、湯気の上の方を見ていた。

「息子は、入院していたあいだも、わたしには『俺は、大丈夫だから、お父さん、心配しないでくれ』としか、言いませんでした」

「ええ」

「あの子も、たぶん、わたしと同じで、家族の中の誰かを、もう、これ以上、傷つけてしまわないために、自分の苦しさを、自分の中で、ぜんぶ、引き取ろうとした」

「ええ」

「その息子が、最後に、妹のところに、はじめて、まっすぐな言葉を、残してくれた」

「『誰のことも、巻き込むな』」

「ええ」

 男性は、はじめて、目を伏せた。

「あれは、息子なりの、家族への、最後の遺言だった、と、いまは、思っています」

「ええ」

「あの子は、自分の中で、もう、最後の最後で、ようやく、家族の口を、ひとつ、開けてやろうとしたんでしょうね」

「ええ」

「春子は、それを、ちゃんと、覚えていてくれて」

「ええ」

「だから、わたしは、いま、息子にも、娘にも、責められたくない、と思っているんです」

 男性は、湯のみを置いて、ふっと、笑った。

「責めるなら、わたしが、自分を、責めればいい」

「お父様」

「いえ、これは、わたしの中で、ようやく決めたことです」

「ええ」

「篠原さん。これは、本のなかに、書いていただいて、構いません」

「お父様の、いまの、お言葉」

「ええ。みんな、書いてください」

 その許しを、沙耶香は、深く、深く、受け取った。

 ノートには、ほとんど、ペンを動かしていなかった。

 頭と心の中だけで、いま、目の前のこの男性の声を、ていねいに、貯めていた。

「お父様」

「はい」

「もうひとつ、お願いしてもいいですか」

「ええ」

「お兄さまの、お名前を、書かせていただいて、いいですか」

「春子の兄の」

「はい」

 男性は、しばらく考えた。

 それから、ゆっくりとうなずいた。

「ええ。ぜひ、書いてやってください」

「お名前は」

「木下 道也、と申します」

「みちや、さん」

「はい」

「ありがとうございます」

「あの子の名前を、ちゃんと、書いていただけるんですね」

「もちろんです」

 男性は、しばらく、目を閉じていた。

 それから、ゆっくり、目を開けた。

「篠原さん」

「はい」

「ひとつ、お渡ししたいものがあります」

「はい」

 男性は、立ち上がって、押し入れの中から、薄い紙袋を取り出してきた。

 紙袋の中には、何枚かの古いスナップ写真と、一冊の薄いノートが入っていた。

「これは、息子が、最後に、病院のベッドで、書きためていたものです」

「ノート、ですか」

「ええ。病院での、ふだんの記録のあいだに、家族へのちょっとした言葉や、十年前の家のあったあたりのことが、ぽつぽつと、書きつけてあります」

「拝見しても、いいんですか」

「もちろん。むしろ、できれば、その中のいくつかの言葉を、本の中で、息子の言葉として、ご紹介いただけたら」

「お父様」

「あの子が、家族の中で、ようやく、自分の言葉を、外に出した最初の本になります」

 その一言に、沙耶香は、もう、声を出せなかった。

 ただ、紙袋を、両手で、しっかりと受け取った。

「大切に、扱います」

「お願いします」

「お父様も、お元気で」

「篠原さんも」

「お会いできて、本当に、よかったです」

「こちらこそ」

 その日の帰り道、沙耶香はずっと、紙袋を、胸に押し当てるようにして歩いていた。

 その紙袋の中には、ひとりの若い男が、十年前に失われた町と、家族と、自分の人生を、いちばん最後の場所で、しずかに書きつけたノートが入っていた。

 夕方の街灯の白い光の中を、紙袋を抱えたまま、沙耶香はゆっくり歩いた。

 風が、ふっと、頬を撫でた。

 その風の中に、谷の宿の朝のにおいが、なぜか、わずかに混じっている気がした。

 家に戻って、沙耶香は、すぐにはノートを開かなかった。

 机の上にそっと置いて、しばらく、湯のみのお茶を、ゆっくり飲んだ。

 それから、ようやく、丁寧に、紙袋を開いた。

 中のノートを、机の上に並べる。

 そのノートの最初のページに、几帳面な字で、こう書かれていた。

『お父さんと、お母さんと、春子へ。俺がいない時間の分まで、家族を、続けていってください』。

 その一行だけで、沙耶香は、しばらく、机に手をついて、深く、頭を下げていた。

 夜が、ゆっくり、深まっていった。

 沙耶香は、ノートを大切に開いたまま、自分のもう一冊のノートを、その隣に開いた。

 そして、新しいページに、ペンで、ひとつだけ、書きつけた。

『木下 道也』。

 たった四文字。

 しかし、その四文字を書きつけたことで、沙耶香の中で、この本のもうひとつの軸が、はっきりと立ち上がった。

 夢野りりの章。

 鳴海半蔵の章。

 そして、木下道也の章。

 加害と、被害と、そのあいだに置かれた人々の、それぞれの声。

 それを、ひとつひとつ、対等な重さで、ていねいに編んでいくこと。

 それが、これからの彼女の仕事だった。

 机の上のノートと、白い紙の束と、いま受け取ったばかりの薄いノート。

 そのみっつが、机の上に並んだとき、沙耶香は、深く、深く、ひとつ、頭を下げた。

 その夜、彼女は、ようやく、本のいちばん最初の一行のあとの、何行かを、書き始めた。

 書き終わったとき、東京の街には、すでに、十二月の夜の冷たい星が、いくつも、出ていた。

 その星の光の下で、ノートパソコンの画面の中に、まだ、世に出ていない一冊の本の最初の数行が、ぼうっと、白く浮かんでいた。

 その白さの中に、湯けむり温泉郷の、最初の朝の景色が、もう、確かに、ひとつ、立ち上がり始めていた。


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