1-17
季節は、もう、すっかり冬に入っていた。
東京の朝の空気は、谷の宿の廊下のそれとは違う種類の冷たさで、沙耶香の頬を撫でていた。
谷の冷たさが、湯けむりと木のにおいの混じった冷たさだったとすれば、東京のそれは、コンクリートとアスファルトとガラスのにおいの混じった、もっと乾いた冷たさだった。
それでも、その乾いた冷たさの中に立っていると、谷で吸い込んだあの冷気の重さが、不思議とからだの底の方で、まだ静かに眠っているような気がした。
沙耶香は、毎朝、その感覚を確かめるところから一日を始めるようになっていた。
谷で得たもののすべてを、忘れないために。
机の上には、白い紙の束のかたわらに、もう一冊、新しいノートが置かれていた。
表紙には、ペンの先で、簡単な題字が書きつけてある。
『湯けむり温泉郷殺人レポート 取材ノート』。
その題字は、まだ、仮のものだった。
夢野りりからもらった本のタイトルとは、別のものとして、ライターの取材記録専用のノートとして、沙耶香はそれを置いていた。
事件の本そのもののタイトルと、取材記録のノートのタイトル。
その二つを別物として扱うのは、長年の旅情ライターとしての、ささやかな職業のしきたりだった。
ノートには、すでに、いくつもの項目が、几帳面な字で並んでいた。
「鳴海半蔵 私財整理について」「木下家 立ち退き前の住居の位置」「十年前の再開発 概要と関連自治体」「梓弓遥 経理担当時代の業務範囲」。
それぞれの項目の下に、警察と相談しながら、出していい範囲の情報の手控えが、ていねいに書きつけられている。
沙耶香は、その項目の一覧を眺めながら、これからの数週間、自分が何を、どこまで歩くべきかを、もう一度、頭の中で確かめていた。
谷で起きた事件は、新聞には小さく扱われるだけで終わった。
地方ニュースとして、二人の死者と、密室の手口、そして容疑者の逮捕。
それくらいの情報量で、世間の関心からは、すぐに離れていった。
それは、ありがたいことでもあり、また、こわいことでもあった。
これだけのことが起きて、十年前の長い悲しみまでが背景にあって、それでも、世間の側からは、ほんの数行の見出しの向こうにしか、見えない。
放っておけば、十年前の町のことも、亡くなった方たちのことも、夢野りりが見たあの夜の廊下のことも、また、誰の記憶からも、抜けていってしまう。
そうさせないために、自分はこれを書くのだ、と沙耶香は、改めて自分に言い聞かせた。
その日の午後、沙耶香は、ある区役所に向かった。
十年前の再開発が行われた、東京の郊外の一角を所管する、小さな区役所だった。
事前に九能から、その区の住民生活担当の窓口に、こちらが行くことを伝えてもらってあった。
警察の方から「ある事件の関係で、書類の確認に来た、信頼できるライターを、可能な範囲で協力してやってほしい」と、ていねいに口添えしてもらっていた。
おかげで、窓口の担当者は、沙耶香の名刺を確認したあと、奥の小さな相談室に通してくれた。
担当の男性は、四十代の半ばと見えた。
紺色のセーターの上に、薄い灰色のジャケットを羽織っている。
机の上に、いくつもの古いファイルを、丁寧に積み上げてあった。
「篠原さんですね。九能さんから、伺っております」
「お忙しいところを、すみません」
「いえ、こちらこそ。長く、この地域を見ている人間なら、いつかは、誰かに、ちゃんと話さなければいけないことだと、思っていましたから」
担当者の声には、押し付けがましさはなかった。
ただ、十年という時間を、行政の側でずっと見届けてきた人間の、静かな重さがあった。
その重さは、九能のそれとは、また少し違う質感の重さだった。
「これが、十年前の再開発の、当時の事業概要です」
担当者は、ファイルの一番上の冊子を、机の上に開いた。
地図の上に、計画区域が、薄い赤線で囲んである。
その赤線の中に、いくつもの細い路地と、密集する小さな建物が、地図記号で、ぎっしりと描かれていた。
「ここから、ここまでが、当時、再開発のために、まとめて立ち退きの対象になった一角です」
「思ったよりも、広いんですね」
「ええ。区の側からすれば、防災と街路整備のための、いわゆる『正当な再開発』のはずでした」
「正当な、というのは」
「事業の目的と、計画書の中の数字の上では、特に問題のない案件だった、ということです」
「実際には」
「住民の方への補償のところで、いま、振り返れば、いくつも、ほころびが出ています」
担当者は、ファイルの中ほどのページを、開いてくれた。
そこには、当時、再開発に同意した世帯と、最後まで同意しなかった世帯の一覧が、表になっていた。
数字の合計と、補償金額の総額が、欄外に、ていねいに書きつけられている。
「ここに並んでいる金額は、書類上の金額です」
「書類上、というと」
「実際に、住民の方々の手元に、最終的に渡った金額とは、必ずしも一致していなかった、ということが、後年、いくつかの内部告発をきっかけに、分かってきました」
「告発、というのは」
「再開発に関わった、ある事業者の元社員からの、匿名の手紙が、最初でした」
その「匿名の手紙」の存在を、沙耶香は、九能からの事前のメモで、すでに知っていた。
担当者は、机の上のもう一冊のファイルを、ゆっくりと開いた。
「これが、その告発のあと、区として、改めて整理した、住民の方々への聞き取りの記録です」
「拝見しても、いいですか」
「もちろん。九能さんから、篠原さんに見ていただいて構わない、と、お話をいただいていますので」
沙耶香は、ファイルを丁寧に手元に引き寄せて、いくつかのページを、めくっていった。
そこには、ひとつひとつの世帯について、当時の住居の写真と、住んでいた家族構成と、立ち退き後の生活の変化が、簡潔な文章で記録されていた。
ある家は、町工場を畳んだあと、ご主人が体を壊して、数年後に亡くなっていた。
ある家は、新しい賃貸住宅に移ったあと、子どもが学校になじめずに不登校になり、家族全体が地方の親戚の家に身を寄せていた。
ある家は、補償金の一部を別人に騙し取られて、生活が立ち行かなくなり、最終的に世帯主が、自分でいのちを絶っていた。
沙耶香は、しばらく、ページの上に、目を伏せた。
これらの一行一行の上に、ひとりひとりの人生が、十年分の重みを乗せて、ある。
そのことを思うと、ペンを動かす自分の手が、急に、ひどく不器用なものに感じられた。
「篠原さん」
担当者が、低く言った。
「無理に、お読みになる必要は、ありません」
「いえ、読みます」
「ええ」
「読んで、書きます」
沙耶香は、自分に言い聞かせるように、もう一度、ファイルに目を落とした。
「ただ、お願いがあります」
「はい」
「ここに記録されている方々の中で、もし、いまもご連絡を取れる方が、いらっしゃるなら」
「ええ」
「直接、お話を、伺わせていただくことは、可能でしょうか」
担当者は、しばらく考えてから、答えた。
「事前に、私たちの方から、ご連絡を取って、ご本人のご了承をいただいたうえで、でしたら」
「もちろんです」
「篠原さん。ひとつだけ、覚えておいてください」
「はい」
「あの再開発で、ご家族や、ご自身の人生を、深く傷つけられた方々の中には、もう、誰の言葉も信じたくない、と言いたい方も、当然、いらっしゃいます」
「ええ」
「そういう方には、無理に、お話を伺おうとしないでください」
「分かりました」
「『書いてくださって構いません』とおっしゃってくださる方の声だけを、ていねいに、集めてください」
「はい」
その担当者の言葉のひとつひとつに、沙耶香はうなずいた。
ライターの仕事の中で、これまでも何度か、聞いてきたものに近い注意事項だった。
それでも、こんなにまっすぐに、こんなに静かに、その注意を口にしてくれた人は、はじめてだった。
担当者は、最後に、ファイルの中の、ひとつのページを、そっと、開いて見せてくれた。
「この方が、もしよろしければ、いちばん最初にお会いしていただきたい方です」
そこに記されていた世帯主の姓は、木下、だった。
「これは……」
「ええ。例の、若い仲居さんの、ご実家のお父様です」
ファイルの中の、当時の家の写真が、薄く、印刷されていた。
下町の古い長屋風の二階建てで、二階の窓に、子どもたちのものらしい、小さなぬいぐるみが、いくつか並んで覗いていた。
その玄関先に、ご夫婦と、お兄さんらしい少年と、まだ小さい少女が、四人で並んで立っていた。
少女の手には、赤いふうせんが、ひとつ、ふわりと浮かんでいた。
「お父様、いま、どうされているんですか」
「奥様を、立ち退きの数年後に、お亡くしになりました。お兄様は、ご存じの通り、ご病気でお亡くなりです」
「お父様だけ、いま、ひとりで」
「ええ。郊外の小さなアパートに、お一人で住まわれています。年金と、ささやかな仕事で、暮らしておられます」
「お会いさせていただいて、いいでしょうか」
「ええ。ご本人に、警察の方からお話があって、『その方になら、自分のことも、家族のことも、ぜんぶ話していい』と、お返事をいただいています」
担当者は、いったん言葉を切ってから、続けた。
「篠原さん。お父様は、いま、娘さんのことを、責めて、いらっしゃいません」
「責めて、いない」
「ええ。ご自分が、長年、十年前のことを表に出さずに、家族の中だけで、ひとりで、抱え込んでしまっていたから、娘さんが、別の人の言葉にすがってしまったのだ、とおっしゃっています」
沙耶香は、しばらく、ファイルの上の、家族の写真を見ていた。
少女の小さな手の中で、赤いふうせんが、十年前のある日、ふわり、と浮かんでいる。
その赤い色だけが、白黒に近いセピアの写真の中で、ひときわ、はっきりと残っていた。
「篠原さん」
「はい」
「写真は、原則として、こちらでお預かりしているものは、外には出せません。ですが、お父様が、もし、ご自宅にお持ちのお写真をご提供くださるなら、そちらは、ご本人の許可があれば、本の中で、お使いいただいて構わない、と思います」
「ありがとうございます」
「写真の有無は、ご本人とのお話のあとで、ご判断いただければ」
「分かりました」
その日のうちに、担当者を通じて、木下春子の父親と、後日、自宅で会う約束ができた。
沙耶香は、区役所を出てから、しばらく、近くの公園のベンチに座っていた。
公園の中央には、小さな池があって、その水面に、午後の薄陽が、白く光っていた。
通りすがりの子どもが、池の縁で、つま先立ちをして、水を覗き込んでいる。
その姿を、しばらく、ただ眺めていた。
ふだんなら、ライターとして、すぐに手帳を取り出して、池の色や、子どもの服の色や、頬の赤さなどを、書き留めるところだった。
しかしその日は、手帳を出す気にも、なれなかった。
ただ、その光景を、ぜんぶ、自分の中に、しずかに収めておきたかった。
「ふつうに、子どもが、池をのぞき込んでいる」
そういう景色のうえに、自分の本の最後のページが、いつか、置かれるべきだ、と沙耶香は思った。
事件の派手な解決ではなく、こういう、何でもない、ふつうの午後のうえに。
数日後、沙耶香は、もう一度、別の場所に出かけた。
東京の郊外にある、簡素な集合住宅の一室。
木下春子の父親が、ひとりで暮らしている、その家だった。
呼び鈴を鳴らすと、すぐに、しずかな足音が、扉の向こうから近づいてきた。
開いた扉の向こうに、白髪を短く刈り上げた、痩せた男性が立っていた。
頬がこけ、目元には深い隈があったが、その目は、思っていたよりも、まっすぐにこちらを見ていた。
「篠原さんでしょうか」
「はい。突然、お邪魔して、すみません」
「いえ。九能さんから、お話は伺っております」
その姓だけで、向こう側に九能の姿が立っているのが、はっきり分かった。
九能弦十郎の名は、こうやって、関係者のあいだに、いまも、地味な脇役のように、しずかに置かれていた。
部屋の中は、ひどく簡素だった。
小さなちゃぶ台がひとつ、座椅子がふたつ、テレビと、本棚と、仏壇。
仏壇の上には、すでに何枚も写真が並べられていた。
奥様の写真と、お兄さんの写真と、ご家族で写った、十年前の小さなスナップ。
そのスナップの中に、区役所のファイルで見たのと同じ、赤いふうせんを持った少女の姿があった。
「狭いところで、すみません」
「いえ。とんでもないです」
ふたりは、ちゃぶ台をはさんで、向かい合った。
お茶を、男性が、自分で淹れてくれた。
「篠原さん」
「はい」
「春子のこと、書いていただけるそうで」
「はい。お父様の許される範囲で」
「ありがとうございます」
「お父様」
「はい」
「先に、ひとつだけ、申し上げておきます」
「ええ」
「春子さんが、谷の宿で、どんな立場に置かれていたか、警察の方から、もう、お聞きでしょうか」
「うかがいました」
「お父様は、春子さんのこと」
「責めてはいません」
男性は、はっきり、首を振った。
「責めてはいません。あの子の中で、長いこと、あれをどうしていいか、分からないまま、ふくらんでいたものが、たまたま、悪い方角にはけて、しまった、ということだ、と思っています」
「ええ」
「悪い方角にはけて、しまったのは、結局、わたしのせいだ、とも、思っています」
「お父様の」
「ええ」
男性は、ゆっくり、湯のみを両手で包み込んだ。
「十年前、女房を、亡くしてからね」
「はい」
「わたしも、息子も、娘も、家族のあいだで、ほとんど、十年前のことを、口にしなかったんですよ」
「ええ」
「あんなに大きなことが、あったのに、ね」
「ええ」
「お互いに、口にすると、また誰かが、いっぺん壊れてしまう気がしてね。だから、口にしないことで、家族を、なんとか、守ろうとしてしまった」
「ええ」
「そのおかげで、息子は、最後まで、自分の苦しみを、わたしや、娘に、ぜんぶは、見せてくれませんでした」
「お兄さま」
「ええ」
男性は、しばらく、湯気の上の方を見ていた。
「息子は、入院していたあいだも、わたしには『俺は、大丈夫だから、お父さん、心配しないでくれ』としか、言いませんでした」
「ええ」
「あの子も、たぶん、わたしと同じで、家族の中の誰かを、もう、これ以上、傷つけてしまわないために、自分の苦しさを、自分の中で、ぜんぶ、引き取ろうとした」
「ええ」
「その息子が、最後に、妹のところに、はじめて、まっすぐな言葉を、残してくれた」
「『誰のことも、巻き込むな』」
「ええ」
男性は、はじめて、目を伏せた。
「あれは、息子なりの、家族への、最後の遺言だった、と、いまは、思っています」
「ええ」
「あの子は、自分の中で、もう、最後の最後で、ようやく、家族の口を、ひとつ、開けてやろうとしたんでしょうね」
「ええ」
「春子は、それを、ちゃんと、覚えていてくれて」
「ええ」
「だから、わたしは、いま、息子にも、娘にも、責められたくない、と思っているんです」
男性は、湯のみを置いて、ふっと、笑った。
「責めるなら、わたしが、自分を、責めればいい」
「お父様」
「いえ、これは、わたしの中で、ようやく決めたことです」
「ええ」
「篠原さん。これは、本のなかに、書いていただいて、構いません」
「お父様の、いまの、お言葉」
「ええ。みんな、書いてください」
その許しを、沙耶香は、深く、深く、受け取った。
ノートには、ほとんど、ペンを動かしていなかった。
頭と心の中だけで、いま、目の前のこの男性の声を、ていねいに、貯めていた。
「お父様」
「はい」
「もうひとつ、お願いしてもいいですか」
「ええ」
「お兄さまの、お名前を、書かせていただいて、いいですか」
「春子の兄の」
「はい」
男性は、しばらく考えた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「ええ。ぜひ、書いてやってください」
「お名前は」
「木下 道也、と申します」
「みちや、さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「あの子の名前を、ちゃんと、書いていただけるんですね」
「もちろんです」
男性は、しばらく、目を閉じていた。
それから、ゆっくり、目を開けた。
「篠原さん」
「はい」
「ひとつ、お渡ししたいものがあります」
「はい」
男性は、立ち上がって、押し入れの中から、薄い紙袋を取り出してきた。
紙袋の中には、何枚かの古いスナップ写真と、一冊の薄いノートが入っていた。
「これは、息子が、最後に、病院のベッドで、書きためていたものです」
「ノート、ですか」
「ええ。病院での、ふだんの記録のあいだに、家族へのちょっとした言葉や、十年前の家のあったあたりのことが、ぽつぽつと、書きつけてあります」
「拝見しても、いいんですか」
「もちろん。むしろ、できれば、その中のいくつかの言葉を、本の中で、息子の言葉として、ご紹介いただけたら」
「お父様」
「あの子が、家族の中で、ようやく、自分の言葉を、外に出した最初の本になります」
その一言に、沙耶香は、もう、声を出せなかった。
ただ、紙袋を、両手で、しっかりと受け取った。
「大切に、扱います」
「お願いします」
「お父様も、お元気で」
「篠原さんも」
「お会いできて、本当に、よかったです」
「こちらこそ」
その日の帰り道、沙耶香はずっと、紙袋を、胸に押し当てるようにして歩いていた。
その紙袋の中には、ひとりの若い男が、十年前に失われた町と、家族と、自分の人生を、いちばん最後の場所で、しずかに書きつけたノートが入っていた。
夕方の街灯の白い光の中を、紙袋を抱えたまま、沙耶香はゆっくり歩いた。
風が、ふっと、頬を撫でた。
その風の中に、谷の宿の朝のにおいが、なぜか、わずかに混じっている気がした。
家に戻って、沙耶香は、すぐにはノートを開かなかった。
机の上にそっと置いて、しばらく、湯のみのお茶を、ゆっくり飲んだ。
それから、ようやく、丁寧に、紙袋を開いた。
中のノートを、机の上に並べる。
そのノートの最初のページに、几帳面な字で、こう書かれていた。
『お父さんと、お母さんと、春子へ。俺がいない時間の分まで、家族を、続けていってください』。
その一行だけで、沙耶香は、しばらく、机に手をついて、深く、頭を下げていた。
夜が、ゆっくり、深まっていった。
沙耶香は、ノートを大切に開いたまま、自分のもう一冊のノートを、その隣に開いた。
そして、新しいページに、ペンで、ひとつだけ、書きつけた。
『木下 道也』。
たった四文字。
しかし、その四文字を書きつけたことで、沙耶香の中で、この本のもうひとつの軸が、はっきりと立ち上がった。
夢野りりの章。
鳴海半蔵の章。
そして、木下道也の章。
加害と、被害と、そのあいだに置かれた人々の、それぞれの声。
それを、ひとつひとつ、対等な重さで、ていねいに編んでいくこと。
それが、これからの彼女の仕事だった。
机の上のノートと、白い紙の束と、いま受け取ったばかりの薄いノート。
そのみっつが、机の上に並んだとき、沙耶香は、深く、深く、ひとつ、頭を下げた。
その夜、彼女は、ようやく、本のいちばん最初の一行のあとの、何行かを、書き始めた。
書き終わったとき、東京の街には、すでに、十二月の夜の冷たい星が、いくつも、出ていた。
その星の光の下で、ノートパソコンの画面の中に、まだ、世に出ていない一冊の本の最初の数行が、ぼうっと、白く浮かんでいた。
その白さの中に、湯けむり温泉郷の、最初の朝の景色が、もう、確かに、ひとつ、立ち上がり始めていた。
---




