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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜湯けむり温泉郷密室殺人事件〜  作者: みなと劉


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16/21

1-16

 東京に戻ってからの、最初の朝。

 沙耶香は、自宅のマンションの台所で、いつものインスタントコーヒーを淹れていた。

 電気ケトルの中で、湯の沸く音が、低く立ち上がる。

 カップの底には、薄茶色の粉が、ふだんよりほんの少し多めに入っていた。

 谷で味わった、ほんものの煎茶のあたたかさのあとでは、自分の家の安いコーヒーの一杯さえ、なぜか、いつもよりていねいに淹れたくなった。

 窓の外には、いつもの街並みが広がっていた。

 向かいのマンションの窓に、洗濯物が下がっている。

 歩道では、犬を連れたおじいさんが、いつもの時間に、いつものコースを歩いていく。

 通りの向こうの公園からは、朝のラジオ体操の音楽が、薄く流れてきていた。

 旅情ライターとして、何百回となく書いてきた言葉で言うなら、「とくに記事にするほどのことのない、ふつうの朝の景色」だった。

 しかし、いまの沙耶香には、その「とくに記事にするほどのことのない」風景の一枚一枚が、なぜか、こちらの方に深く食い込んできた。

 ふつうにあること。

 ふつうに、誰かが生きて、ふつうに、誰かと挨拶を交わしているということ。

 四日前まで、自分にとって、それは、当たり前の、空気のような世界だった。

 谷を一度往復してきたいまは、それが、いかにありがたい当たり前なのか、息のひとつごとに分かるようになっていた。

 机の上には、谷から持ち帰った白い紙の束が、ひとまとめにして置かれていた。

 その横に、ふだんの取材ノートと、いくつかの古い旅情ライターの仕事のファイルが積まれている。

 机の真ん中だけ、わざとぽっかりと、空けてあった。

 そこに、これから書き始めることになる原稿のスペースを、すでに用意しておきたかったのだった。

 ノートパソコンは、まだ閉じたままだった。

 開くのは、もう少し、あとでいい、と沙耶香は思った。

 書き始める前に、もうしばらく、谷で見たもの、聞いたものを、自分の中で、ゆっくりと整え直しておきたかった。

 コーヒーをひと口飲んでから、沙耶香はノートを開いた。

 谷の手帳の続きの新しいページに、ひとつだけ、書いた。

 帰ってきた、と。

 ただ、それだけだった。

 その短い三文字が、いまの彼女の状態を、いちばん正確に表していた。

 しばらく窓辺で立ちつくしていると、玄関のチャイムが鳴った。

 宅配便ではない、ふつうの来客のときの押し方だった。

 ドアを開けると、三嶋正が、両手にスーパーの袋を提げて、立っていた。

「おはようございます、沙耶香さん」

「おはよう。何、それ」

「いえね、東京、戻ってきたばっかりだし、なんか沙耶香さん、ちゃんと食べてないんじゃないかなと思って」

 スーパーの袋からは、卵と、パンと、ヨーグルトと、それから、明らかに食べきれない量のバナナのかたまりが、覗いていた。

「バナナ、買いすぎでしょう」

「あ、これ、特売で。三嶋家もちょっと食べきれない量だったから、お裾分けです」

「お裾分け、というレベルじゃないでしょ、これ」

「ええ、まあ」

 三嶋は、めずらしく頬を赤くしていた。

 おそらく、本当に「ちゃんと食べていないだろう」と思って心配して来た、というのが八割で、残りの二割で、谷から戻ってきた相棒に、なんとなく顔を出しておきたかった、というのが、ふだんよりも分かりやすく見えた。

「ありがとう。お茶、いれるから、入っていく?」

「お邪魔します」

 短いあいだ、リビングのちゃぶ台のうえで、たいしたことのない世間話をした。

 三嶋の方の最近の仕事の話、沙耶香の方の取材の予定、お互いの体調の話。

 ふだんの自分たちの言葉のテンポを、改めて取り戻していくような時間だった。

 その途中で、机の上の白い紙の束が、自然に、ふたりの視線の中に入ってきた。

「これ、谷の」

「うん」

「鳴海さんの、あの話の」

「うん」

 三嶋は、しばらく、紙の束を眺めていた。

「もう、書き始めるんですか」

「いえ。まだ」

「そっか」

「もう少し、谷のことを、自分の中で整理してから。それと、警部さんからの連絡が、もう一度入ったあとで、書き始めようと思ってる」

「警部さんから、何か、来るんですか」

「鳴海さんの東京の件のあと、いくつか、最後の確認事項を、警部さんがまとめておくって、駅で言ってくれてたから」

「あの方、本当に、こまめですよね」

「うん」

 三嶋は、ふっと、笑った。

「あの人、東京に戻ってからも、たぶん、なんだかんだ、僕らのこと、気にかけてくれてますよ」

「うん」

「沙耶香さん、それ、ちゃんと、新しい原稿の中で、書いてあげてくださいね」

「もちろん」

「あ、でも、警部さん、自分のことは『地味な脇役で』って言ってましたよね」

「うん」

「だから、地味な脇役の名前で、地味に、すごく、いいタイミングで、ちゃんと出てくる感じで」

「分かってる」

「沙耶香さん、そういうの、すごい上手だから」

「お世辞は、いいから」

「お世辞じゃないですよ」

 三嶋は、ぱたぱた、と袋の上の方を畳んで、立ち上がりかけた。

「あの、沙耶香さん。ひとつだけ」

「うん」

「夢野さんとは、もう、連絡、取りました?」

「まだ。事務所通じて、ご挨拶のお花、送ったくらい」

「あの子、たぶん、しばらく、お仕事休まされますよね」

「うん。事務所と、警部さんが、調整するって言ってた」

「沙耶香さんから、ちゃんと連絡してあげた方が、いい気がします」

「うん。今日中に、一度、連絡入れる」

「ですよね。じゃあ、僕、これで」

「ありがとう、三嶋くん」

「いえ、お裾分けです」

「お裾分け、半分くらい、持って帰ってよ。本当に、食べきれない」

「あ、はい」

 三嶋は、慌ててバナナの一房を、自分の袋に戻した。

 その動きが、いつもの三嶋らしい、ぶきっちょさだった。

 その不器用さが、いまの沙耶香には、なぜか、何より、ありがたかった。

 三嶋が帰ったあと、沙耶香は、しばらく、ちゃぶ台の上の卵のパックを、ぼんやり眺めていた。

 そして、ふっと笑って、それを、冷蔵庫にしまいに行った。

 冷蔵庫の扉を閉めた瞬間に、台所の脇のテーブルに置いてあった携帯電話が、低く震えた。

 着信の相手の名前を見て、沙耶香は、ひとつだけ、ぎゅっと、息を整えた。

 九能弦十郎、と表示されていた。

 電話を取ると、九能のいつもの低い声が、向こうから、まっすぐ届いてきた。

「篠原さん。いま、お時間、よろしいか」

「ええ。大丈夫です」

「東京は、もう、落ち着かれましたか」

「はい。家のコーヒーが、ようやく、いつものコーヒーに戻ってきたところです」

「それは、何より」

 ふっと、低い笑い声が、電話越しに聞こえた。

 その笑い声の中に、もう、谷のあいだの捜査現場の張りつめた響きはなかった。

 ただの、年上の友人のような響きだった。

「ひとつ、お伝えしておきたいことがあって、電話しました」

「はい」

「鳴海半蔵さんの件です」

「鳴海さん」

「ええ。東京に戻られたあと、しばらく、こちらの方で、引き続き聴取と、身辺の確認をしておりましたが、いったん、その全体に、線が引けました」

「といいますと」

「鳴海さんは、ご自分の関与のあった範囲を、こちらに、すべて話し終えられました。そして、その内容に基づいて、十年前の不動産取引で被害を受けた方々への、できるかぎりの補償の手続きを、ご自分の判断で、始められた」

「補償」

「ご自身の財産を、できるかぎり整理してね。残りの人生を、十年前の方たちのために、使う、ということです」

 沙耶香は、思わず、台所の壁に手をついた。

「警部さん」

「ええ」

「それは、鳴海さんが、ご自分から、おっしゃったんですか」

「そうです。こちらが、要求したことではない」

「……分かりました」

「もちろん、刑事責任については、別途、検察と裁判所が判断する話です。鳴海さん自身も、それは、お受けする覚悟です。だが、それとは別に、ご自分のなかで、その線は、もう、引いておかれたい、ということだった」

 沙耶香は、しばらく、声を出せなかった。

 谷の宿の踊り場で、毛布の中から、自分の罪を、自分の罪として、ここに置いていく、と言った、あの老人の声が、もう一度、耳の奥で聞こえた。

「警部さん」

「はい」

「それは、書いていいことですか」

「ええ。本人にも、確認してあります。書いていただいて構いません」

「分かりました」

「ただし、ね、篠原さん」

「はい」

「ご本人は、ひとつ、はっきり言いました。『これは、わたしが、ようやく、自分の人生の終わりの方で、自分の意志でやれた、ささやかな弁解のひとつにすぎない。だから、立派な行いとして、決して、書かないでほしい』と」

 沙耶香は、深く、深く、うなずいた。

「分かりました。ちゃんと、その通りに、書きます」

「お願いします」

 電話の向こうで、九能は、しばらく、ゆっくり息を吸って、吐いた。

「もうひとつ、お伝えしておきたいことがあります」

「はい」

「木下春子さんの件です」

「はい」

「彼女、いま、心と身体の両方を、ゆっくり休めてもらうために、しばらくのあいだ、医療と、福祉の支援を入れた、特別な扱いになっています」

「ええ」

「もちろん、刑事責任は、別途問われる話です。配電盤への小さな仕掛けと、いくつかの宿の中での加担。これは、軽い話ではない」

「ええ」

「ただ、彼女の動機の中に、十年前の再開発で家を失った家のひとつの、若い生き残りとしての、深い傷があったということ。お兄さんを、その後の生活の苦しみの中で亡くしている、ということ。これらは、検察への報告書の中にも、しっかり書きこんであります」

「警部さんが、お書きになったんですか」

「ええ」


「……」


「篠原さん」

「はい」

「これは、私の個人的な感想として、聞いてもらえれば、いいんですが」

「はい」

「木下春子さんは、いつかきっと、ふつうの暮らしの中に、自分の足で戻ってこられる人だと、私は、信じています」

 その低い声を、沙耶香は、しっかり、自分の中に、書きとめた。

「ありがとうございます、警部さん」

「いえ」

「あの子のこと、私も、書いていいですか」

「もちろん。ただし」

「ただし?」

「彼女の本名は、いま、外に出さないでください。記事の中では、別の名前にしてあげてください。彼女が、いつか、ふつうの暮らしに戻るときに、そこに、十年前と、今回の事件の二重の重荷を、必要以上に背負わせない方がいい」

「分かりました」

「篠原さんなら、そういう気配りができる方だと、信じています」

「ありがとうございます」

 電話を切ったあと、沙耶香は、しばらく、台所の窓の外を見ていた。

 向かいの公園で、子どもたちの声が、わずかに上がっていた。

 学校の昼休みの時間に、近所の子が、いつもの遊び場に走ってきている、その声だった。

 その声の中に、不思議と、谷の宿で笑った夢野りりの笑い声と、似た響きがあった。

 午後、沙耶香は、深く息を整えてから、夢野りりの所属事務所に連絡を入れた。

 電話の向こうで、応対した男性のマネージャーは、想像していたよりも、ずっと、こちらの話を、まっすぐに聞いてくれた。

「篠原さんですね。本人から、何度も、お名前を伺っております」

「お忙しい中、すみません」

「いえ、こちらこそ、本当に、夢野が、たいへんお世話になりまして」

「お加減は、いかがですか」

「ええ、おかげさまで」

 マネージャーの声は、低くなった。

「警察の方から、しばらく休ませてくれ、と、丁寧にお話をいただきまして。事務所としても、当面、本人の体調を最優先に、ゆっくり休ませる方向で、いま、調整しています」

「ありがとうございます」

「本人は、表向きには、体調不良で、しばらく芸能活動を休止する、というご案内をさせていただいています。本当のことは、当面、表には出しません」

「ええ」

「夢野が、篠原さんに、本当に会いたがっておりまして。もし、ご都合がつくようでしたら、近いうちに、一度、本人と直接、お会いいただくこと、お願いできますか」

「もちろん、伺います」

 数日のあいだに、日取りの調整が進み、ある午後、沙耶香は、都心からすこし離れた、夢野りりの住まいに近い、静かな喫茶店で、彼女と会うことになった。

 その喫茶店は、地下にある小さな店で、入口の扉の上に、古い真鍮のベルが、ささやかに鳴る種類の店だった。

 待ち合わせの時間より少し前に着いてしまった沙耶香は、いちばん奥の、いちばん隅の席を選んで、座った。

 照明は薄暗く、テーブルの上のキャンドルだけが、ぼうっと小さく揺れていた。

 その揺れる灯りを見ながら、谷の宿の非常灯の光を、なぜか、ふっと思い出した。

 ドアの上のベルが、軽く鳴った。

 入り口に、薄手のコートを着た、ニット帽の若い女が立っていた。

 ニット帽の縁から、明るい色の髪のひとふさが、わずかにのぞいている。

 夢野りりだった。

 谷で見たときよりも、ほんの少しだけ、目元の色が落ち着いていた。

「篠原さん」

「りりちゃん」

 ふたりは、テーブルをはさんで、向かい合った。

 それから、しばらく、お互いに、何も言わなかった。

 ようやく、夢野りりが、ぽつりと、口を開いた。

「お元気でしたか」

「ええ。あなたも」

「はい」

「お母さまは」

「お母さん、いま、すごく落ち着いてます。お薬を、ちょっとずつ整えてもらえてて」

「それは、よかった」

「篠原さんに、お母さんのこと、いっぱい話しました」

「いっぱい?」

「ええ。谷から帰ってきた日の夜から、ずっと、お母さんと、いろいろ話してて。お母さん、わたしが、こんなに、いっぺんに、自分の話、するの、はじめて、って」

 夢野りりは、目を伏せた。

 その目元には、もう、谷で見たような、追い詰められた怯えはなかった。

「お母さんが、なんて」

「『りりが、こんなに、自分のこと、話せるようになって、お母さん、嬉しい』って」

 その短い一言を、夢野りりは、口の中で、ていねいに、もう一度繰り返した。

「お母さん、わたしのこと、本当に、信じてくれてるんだなって、改めて思いました」

「うん」

「篠原さんも、信じてくださって、ありがとうございました」

「私が、信じてた、なんて、たいしたことじゃないよ」

「ううん。たいしたことです」

 夢野りりは、はっきり、首を振った。

「篠原さんが、あの夜、扉のところで『私たちがついてるから』って言ってくれたとき、わたし、本当に、生きてていいんだって、思えたんですよ」

 沙耶香は、しばらく、何も言わなかった。

 ただ、テーブルのキャンドルの灯りを、しばらく見ていた。

「りりちゃん」

「はい」

「あの本のこと、相談してもいい?」

「はい」

「事件のことを、私の方で、ある程度、まとめ始めています」

「はい」

「警察の方とも、いま、出していい情報、出してはいけない情報、ひとつずつ、確認しながら、進めてる」

「はい」

「鳴海さんのことも、書かせていただくつもり。木下さんのことも、別の名前で、書く」

「はい」

「で、ね」

「うん」

「夢野りり、という名前は、本の中では、そのまま、本物の名前で、出すかどうか、もう一度、あなたに、確認しておきたい」

 夢野りりは、しばらく、目を伏せた。

 それから、ゆっくり、顔を上げた。

「本名で、お願いします」

「いいの」

「うん。だって、わたしの話、っていうのは、わたしの名前で、書いてほしいから」

「事務所の方とも、もう一度、相談する」

「はい。お願いします」

「もしね、事務所が反対する場合は」

「そのときは、わたしも、もう一度、自分の言葉で、事務所と話します」

 その言葉に、沙耶香は、深くうなずいた。

「分かった」

「篠原さん」

「うん」

「ひとつだけ、お願いがあって」

「うん」

「本の中で、わたしのいちばん最後のところには、お母さんと、ふたりで、谷の宿に、もう一度行く話を、書いてもらえますか」

 その願いに、沙耶香は、はっとした。

「事件の終わりとして、じゃなくて」

「うん」

「わたしと、お母さんの、ふたりの始まり、として」

「うん」

「事件の話で、本を閉じたくないんです」

 夢野りりの目は、もう、はっきりとした光を持っていた。

「それは、本当に、その通りに、書く」

「お願いします」

 ふたりは、もう一度、深く、うなずきあった。

 ふたりのテーブルの上のキャンドルが、また、ゆっくり、ひとつ、揺れた。

 その揺れの中で、夢野りりが、ふと、視線をテーブルの上に落とした。

「篠原さん」

「うん」

「あの仲居さんの、お兄さんのこと、本の中に、入れてもいいですか」

「もちろん」

「お兄さんが、最後に、わたしのこと、知らなかったはずなのに、結果として、わたしを救ってくれたみたいだから」

「うん」

「『誰のことも、巻き込むな』って、お兄さんが、最後にお妹さんに言ってくれてなかったら、わたしは、たぶん、もうひとつ深い目に、遭ってたと思う」

「うん」

「そのお兄さんの名前も、書いた方がいい気がして」

「お兄さんの名前は、ご家族と、警察と、相談しながら、決めるね」

「お願いします」

「うん」

「篠原さん」

「うん」

「ありがとう」

 その短いひとことに、沙耶香は、しばらく、答えられなかった。

 代わりに、もう一度、深く、深く、うなずいた。

 その動作のあいだ、地下の喫茶店の薄暗い灯りの中で、ふたりは、ずいぶん長い時間、お互いの顔を、ちゃんと、見つめあっていた。

 夢野りりと別れて、夕方の街に出ると、外は、すでに、薄暗くなり始めていた。

 街灯が、ひとつ、ひとつ、ぽっ、ぽっ、と灯っていく。

 その灯りの中を歩きながら、沙耶香は、ふっと、自分のスーツの胸ポケットに、手を入れた。

 そこには、谷から持ち帰ってきた、ごく細い、白い糸が一本、忍ばせてあった。

 九能が、間宮の部屋で、密室の絵解きに使ってみせた、あの糸の、余りだった。

 九能は、再現が終わったあと、長く伸びた糸の中ほどから、ふっと一片を切り取って、沙耶香の手のひらに、小さく折りたたんで、渡してくれていた。

「お守りに」と、ひと言だけ、九能は言った。

 そのお守りを、沙耶香は、その後、いつもポケットに入れて持ち歩いていた。

 街灯の下で、その糸の感触を、指の腹で、そっと確かめた。

 長さも、太さも、ふつうの糸より、少し細い。

 しかし、こちらが選んでさえいれば、ふつうの人生のすぐ脇の隙間からも、ちゃんと、別の世界に通ってしまえるくらいには、薄い糸だった。

「篠原さん。これからも、いつかどこかで、誰かに何かを押しつけられそうになっている、誰かの声を、聞いてあげてください」

 ふっと、谷の警部の声が、頭の中で、もう一度よみがえった。

 沙耶香は、街灯の下で、ひとつ、深く息を吸って、吐いた。

 家へ戻る道、沙耶香はもう一度、自分の鞄の中の小さなノートを取り出した。

 新しいページを開いて、そこに、いちばん最初の一行を、書きつけた。

『湯けむりが、白くたなびいていた。』

 それだけだった。

 たったそれだけの一行を、書いたあと、沙耶香は、しばらく、ペン先を見つめていた。

 その一行が、これから、長い、長い、本の、いちばん始まりの一行になるはずだった。

 その一行の続きを、これから、自分は、ゆっくりと、けれども、絶対にあきらめずに、書いていく。

 そう、心の中で、もう一度、自分自身に、約束した。

 街灯の白い光が、夜の街に、ふっと、また、ひとつ、灯った。

 その光の中を、旅情ライター篠原沙耶香は、ふだんの自分の家の方角に向かって、ゆっくりと、しかし、はっきりと、歩いていった。

 夜は、もう、闇のためだけのものでは、なくなっていた。

 長い長い物語の、書き始める前の、最後の静かな夜だった。


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