1-16
東京に戻ってからの、最初の朝。
沙耶香は、自宅のマンションの台所で、いつものインスタントコーヒーを淹れていた。
電気ケトルの中で、湯の沸く音が、低く立ち上がる。
カップの底には、薄茶色の粉が、ふだんよりほんの少し多めに入っていた。
谷で味わった、ほんものの煎茶のあたたかさのあとでは、自分の家の安いコーヒーの一杯さえ、なぜか、いつもよりていねいに淹れたくなった。
窓の外には、いつもの街並みが広がっていた。
向かいのマンションの窓に、洗濯物が下がっている。
歩道では、犬を連れたおじいさんが、いつもの時間に、いつものコースを歩いていく。
通りの向こうの公園からは、朝のラジオ体操の音楽が、薄く流れてきていた。
旅情ライターとして、何百回となく書いてきた言葉で言うなら、「とくに記事にするほどのことのない、ふつうの朝の景色」だった。
しかし、いまの沙耶香には、その「とくに記事にするほどのことのない」風景の一枚一枚が、なぜか、こちらの方に深く食い込んできた。
ふつうにあること。
ふつうに、誰かが生きて、ふつうに、誰かと挨拶を交わしているということ。
四日前まで、自分にとって、それは、当たり前の、空気のような世界だった。
谷を一度往復してきたいまは、それが、いかにありがたい当たり前なのか、息のひとつごとに分かるようになっていた。
机の上には、谷から持ち帰った白い紙の束が、ひとまとめにして置かれていた。
その横に、ふだんの取材ノートと、いくつかの古い旅情ライターの仕事のファイルが積まれている。
机の真ん中だけ、わざとぽっかりと、空けてあった。
そこに、これから書き始めることになる原稿のスペースを、すでに用意しておきたかったのだった。
ノートパソコンは、まだ閉じたままだった。
開くのは、もう少し、あとでいい、と沙耶香は思った。
書き始める前に、もうしばらく、谷で見たもの、聞いたものを、自分の中で、ゆっくりと整え直しておきたかった。
コーヒーをひと口飲んでから、沙耶香はノートを開いた。
谷の手帳の続きの新しいページに、ひとつだけ、書いた。
帰ってきた、と。
ただ、それだけだった。
その短い三文字が、いまの彼女の状態を、いちばん正確に表していた。
しばらく窓辺で立ちつくしていると、玄関のチャイムが鳴った。
宅配便ではない、ふつうの来客のときの押し方だった。
ドアを開けると、三嶋正が、両手にスーパーの袋を提げて、立っていた。
「おはようございます、沙耶香さん」
「おはよう。何、それ」
「いえね、東京、戻ってきたばっかりだし、なんか沙耶香さん、ちゃんと食べてないんじゃないかなと思って」
スーパーの袋からは、卵と、パンと、ヨーグルトと、それから、明らかに食べきれない量のバナナのかたまりが、覗いていた。
「バナナ、買いすぎでしょう」
「あ、これ、特売で。三嶋家もちょっと食べきれない量だったから、お裾分けです」
「お裾分け、というレベルじゃないでしょ、これ」
「ええ、まあ」
三嶋は、めずらしく頬を赤くしていた。
おそらく、本当に「ちゃんと食べていないだろう」と思って心配して来た、というのが八割で、残りの二割で、谷から戻ってきた相棒に、なんとなく顔を出しておきたかった、というのが、ふだんよりも分かりやすく見えた。
「ありがとう。お茶、いれるから、入っていく?」
「お邪魔します」
短いあいだ、リビングのちゃぶ台のうえで、たいしたことのない世間話をした。
三嶋の方の最近の仕事の話、沙耶香の方の取材の予定、お互いの体調の話。
ふだんの自分たちの言葉のテンポを、改めて取り戻していくような時間だった。
その途中で、机の上の白い紙の束が、自然に、ふたりの視線の中に入ってきた。
「これ、谷の」
「うん」
「鳴海さんの、あの話の」
「うん」
三嶋は、しばらく、紙の束を眺めていた。
「もう、書き始めるんですか」
「いえ。まだ」
「そっか」
「もう少し、谷のことを、自分の中で整理してから。それと、警部さんからの連絡が、もう一度入ったあとで、書き始めようと思ってる」
「警部さんから、何か、来るんですか」
「鳴海さんの東京の件のあと、いくつか、最後の確認事項を、警部さんがまとめておくって、駅で言ってくれてたから」
「あの方、本当に、こまめですよね」
「うん」
三嶋は、ふっと、笑った。
「あの人、東京に戻ってからも、たぶん、なんだかんだ、僕らのこと、気にかけてくれてますよ」
「うん」
「沙耶香さん、それ、ちゃんと、新しい原稿の中で、書いてあげてくださいね」
「もちろん」
「あ、でも、警部さん、自分のことは『地味な脇役で』って言ってましたよね」
「うん」
「だから、地味な脇役の名前で、地味に、すごく、いいタイミングで、ちゃんと出てくる感じで」
「分かってる」
「沙耶香さん、そういうの、すごい上手だから」
「お世辞は、いいから」
「お世辞じゃないですよ」
三嶋は、ぱたぱた、と袋の上の方を畳んで、立ち上がりかけた。
「あの、沙耶香さん。ひとつだけ」
「うん」
「夢野さんとは、もう、連絡、取りました?」
「まだ。事務所通じて、ご挨拶のお花、送ったくらい」
「あの子、たぶん、しばらく、お仕事休まされますよね」
「うん。事務所と、警部さんが、調整するって言ってた」
「沙耶香さんから、ちゃんと連絡してあげた方が、いい気がします」
「うん。今日中に、一度、連絡入れる」
「ですよね。じゃあ、僕、これで」
「ありがとう、三嶋くん」
「いえ、お裾分けです」
「お裾分け、半分くらい、持って帰ってよ。本当に、食べきれない」
「あ、はい」
三嶋は、慌ててバナナの一房を、自分の袋に戻した。
その動きが、いつもの三嶋らしい、ぶきっちょさだった。
その不器用さが、いまの沙耶香には、なぜか、何より、ありがたかった。
三嶋が帰ったあと、沙耶香は、しばらく、ちゃぶ台の上の卵のパックを、ぼんやり眺めていた。
そして、ふっと笑って、それを、冷蔵庫にしまいに行った。
冷蔵庫の扉を閉めた瞬間に、台所の脇のテーブルに置いてあった携帯電話が、低く震えた。
着信の相手の名前を見て、沙耶香は、ひとつだけ、ぎゅっと、息を整えた。
九能弦十郎、と表示されていた。
電話を取ると、九能のいつもの低い声が、向こうから、まっすぐ届いてきた。
「篠原さん。いま、お時間、よろしいか」
「ええ。大丈夫です」
「東京は、もう、落ち着かれましたか」
「はい。家のコーヒーが、ようやく、いつものコーヒーに戻ってきたところです」
「それは、何より」
ふっと、低い笑い声が、電話越しに聞こえた。
その笑い声の中に、もう、谷のあいだの捜査現場の張りつめた響きはなかった。
ただの、年上の友人のような響きだった。
「ひとつ、お伝えしておきたいことがあって、電話しました」
「はい」
「鳴海半蔵さんの件です」
「鳴海さん」
「ええ。東京に戻られたあと、しばらく、こちらの方で、引き続き聴取と、身辺の確認をしておりましたが、いったん、その全体に、線が引けました」
「といいますと」
「鳴海さんは、ご自分の関与のあった範囲を、こちらに、すべて話し終えられました。そして、その内容に基づいて、十年前の不動産取引で被害を受けた方々への、できるかぎりの補償の手続きを、ご自分の判断で、始められた」
「補償」
「ご自身の財産を、できるかぎり整理してね。残りの人生を、十年前の方たちのために、使う、ということです」
沙耶香は、思わず、台所の壁に手をついた。
「警部さん」
「ええ」
「それは、鳴海さんが、ご自分から、おっしゃったんですか」
「そうです。こちらが、要求したことではない」
「……分かりました」
「もちろん、刑事責任については、別途、検察と裁判所が判断する話です。鳴海さん自身も、それは、お受けする覚悟です。だが、それとは別に、ご自分のなかで、その線は、もう、引いておかれたい、ということだった」
沙耶香は、しばらく、声を出せなかった。
谷の宿の踊り場で、毛布の中から、自分の罪を、自分の罪として、ここに置いていく、と言った、あの老人の声が、もう一度、耳の奥で聞こえた。
「警部さん」
「はい」
「それは、書いていいことですか」
「ええ。本人にも、確認してあります。書いていただいて構いません」
「分かりました」
「ただし、ね、篠原さん」
「はい」
「ご本人は、ひとつ、はっきり言いました。『これは、わたしが、ようやく、自分の人生の終わりの方で、自分の意志でやれた、ささやかな弁解のひとつにすぎない。だから、立派な行いとして、決して、書かないでほしい』と」
沙耶香は、深く、深く、うなずいた。
「分かりました。ちゃんと、その通りに、書きます」
「お願いします」
電話の向こうで、九能は、しばらく、ゆっくり息を吸って、吐いた。
「もうひとつ、お伝えしておきたいことがあります」
「はい」
「木下春子さんの件です」
「はい」
「彼女、いま、心と身体の両方を、ゆっくり休めてもらうために、しばらくのあいだ、医療と、福祉の支援を入れた、特別な扱いになっています」
「ええ」
「もちろん、刑事責任は、別途問われる話です。配電盤への小さな仕掛けと、いくつかの宿の中での加担。これは、軽い話ではない」
「ええ」
「ただ、彼女の動機の中に、十年前の再開発で家を失った家のひとつの、若い生き残りとしての、深い傷があったということ。お兄さんを、その後の生活の苦しみの中で亡くしている、ということ。これらは、検察への報告書の中にも、しっかり書きこんであります」
「警部さんが、お書きになったんですか」
「ええ」
「……」
「篠原さん」
「はい」
「これは、私の個人的な感想として、聞いてもらえれば、いいんですが」
「はい」
「木下春子さんは、いつかきっと、ふつうの暮らしの中に、自分の足で戻ってこられる人だと、私は、信じています」
その低い声を、沙耶香は、しっかり、自分の中に、書きとめた。
「ありがとうございます、警部さん」
「いえ」
「あの子のこと、私も、書いていいですか」
「もちろん。ただし」
「ただし?」
「彼女の本名は、いま、外に出さないでください。記事の中では、別の名前にしてあげてください。彼女が、いつか、ふつうの暮らしに戻るときに、そこに、十年前と、今回の事件の二重の重荷を、必要以上に背負わせない方がいい」
「分かりました」
「篠原さんなら、そういう気配りができる方だと、信じています」
「ありがとうございます」
電話を切ったあと、沙耶香は、しばらく、台所の窓の外を見ていた。
向かいの公園で、子どもたちの声が、わずかに上がっていた。
学校の昼休みの時間に、近所の子が、いつもの遊び場に走ってきている、その声だった。
その声の中に、不思議と、谷の宿で笑った夢野りりの笑い声と、似た響きがあった。
午後、沙耶香は、深く息を整えてから、夢野りりの所属事務所に連絡を入れた。
電話の向こうで、応対した男性のマネージャーは、想像していたよりも、ずっと、こちらの話を、まっすぐに聞いてくれた。
「篠原さんですね。本人から、何度も、お名前を伺っております」
「お忙しい中、すみません」
「いえ、こちらこそ、本当に、夢野が、たいへんお世話になりまして」
「お加減は、いかがですか」
「ええ、おかげさまで」
マネージャーの声は、低くなった。
「警察の方から、しばらく休ませてくれ、と、丁寧にお話をいただきまして。事務所としても、当面、本人の体調を最優先に、ゆっくり休ませる方向で、いま、調整しています」
「ありがとうございます」
「本人は、表向きには、体調不良で、しばらく芸能活動を休止する、というご案内をさせていただいています。本当のことは、当面、表には出しません」
「ええ」
「夢野が、篠原さんに、本当に会いたがっておりまして。もし、ご都合がつくようでしたら、近いうちに、一度、本人と直接、お会いいただくこと、お願いできますか」
「もちろん、伺います」
数日のあいだに、日取りの調整が進み、ある午後、沙耶香は、都心からすこし離れた、夢野りりの住まいに近い、静かな喫茶店で、彼女と会うことになった。
その喫茶店は、地下にある小さな店で、入口の扉の上に、古い真鍮のベルが、ささやかに鳴る種類の店だった。
待ち合わせの時間より少し前に着いてしまった沙耶香は、いちばん奥の、いちばん隅の席を選んで、座った。
照明は薄暗く、テーブルの上のキャンドルだけが、ぼうっと小さく揺れていた。
その揺れる灯りを見ながら、谷の宿の非常灯の光を、なぜか、ふっと思い出した。
ドアの上のベルが、軽く鳴った。
入り口に、薄手のコートを着た、ニット帽の若い女が立っていた。
ニット帽の縁から、明るい色の髪のひとふさが、わずかにのぞいている。
夢野りりだった。
谷で見たときよりも、ほんの少しだけ、目元の色が落ち着いていた。
「篠原さん」
「りりちゃん」
ふたりは、テーブルをはさんで、向かい合った。
それから、しばらく、お互いに、何も言わなかった。
ようやく、夢野りりが、ぽつりと、口を開いた。
「お元気でしたか」
「ええ。あなたも」
「はい」
「お母さまは」
「お母さん、いま、すごく落ち着いてます。お薬を、ちょっとずつ整えてもらえてて」
「それは、よかった」
「篠原さんに、お母さんのこと、いっぱい話しました」
「いっぱい?」
「ええ。谷から帰ってきた日の夜から、ずっと、お母さんと、いろいろ話してて。お母さん、わたしが、こんなに、いっぺんに、自分の話、するの、はじめて、って」
夢野りりは、目を伏せた。
その目元には、もう、谷で見たような、追い詰められた怯えはなかった。
「お母さんが、なんて」
「『りりが、こんなに、自分のこと、話せるようになって、お母さん、嬉しい』って」
その短い一言を、夢野りりは、口の中で、ていねいに、もう一度繰り返した。
「お母さん、わたしのこと、本当に、信じてくれてるんだなって、改めて思いました」
「うん」
「篠原さんも、信じてくださって、ありがとうございました」
「私が、信じてた、なんて、たいしたことじゃないよ」
「ううん。たいしたことです」
夢野りりは、はっきり、首を振った。
「篠原さんが、あの夜、扉のところで『私たちがついてるから』って言ってくれたとき、わたし、本当に、生きてていいんだって、思えたんですよ」
沙耶香は、しばらく、何も言わなかった。
ただ、テーブルのキャンドルの灯りを、しばらく見ていた。
「りりちゃん」
「はい」
「あの本のこと、相談してもいい?」
「はい」
「事件のことを、私の方で、ある程度、まとめ始めています」
「はい」
「警察の方とも、いま、出していい情報、出してはいけない情報、ひとつずつ、確認しながら、進めてる」
「はい」
「鳴海さんのことも、書かせていただくつもり。木下さんのことも、別の名前で、書く」
「はい」
「で、ね」
「うん」
「夢野りり、という名前は、本の中では、そのまま、本物の名前で、出すかどうか、もう一度、あなたに、確認しておきたい」
夢野りりは、しばらく、目を伏せた。
それから、ゆっくり、顔を上げた。
「本名で、お願いします」
「いいの」
「うん。だって、わたしの話、っていうのは、わたしの名前で、書いてほしいから」
「事務所の方とも、もう一度、相談する」
「はい。お願いします」
「もしね、事務所が反対する場合は」
「そのときは、わたしも、もう一度、自分の言葉で、事務所と話します」
その言葉に、沙耶香は、深くうなずいた。
「分かった」
「篠原さん」
「うん」
「ひとつだけ、お願いがあって」
「うん」
「本の中で、わたしのいちばん最後のところには、お母さんと、ふたりで、谷の宿に、もう一度行く話を、書いてもらえますか」
その願いに、沙耶香は、はっとした。
「事件の終わりとして、じゃなくて」
「うん」
「わたしと、お母さんの、ふたりの始まり、として」
「うん」
「事件の話で、本を閉じたくないんです」
夢野りりの目は、もう、はっきりとした光を持っていた。
「それは、本当に、その通りに、書く」
「お願いします」
ふたりは、もう一度、深く、うなずきあった。
ふたりのテーブルの上のキャンドルが、また、ゆっくり、ひとつ、揺れた。
その揺れの中で、夢野りりが、ふと、視線をテーブルの上に落とした。
「篠原さん」
「うん」
「あの仲居さんの、お兄さんのこと、本の中に、入れてもいいですか」
「もちろん」
「お兄さんが、最後に、わたしのこと、知らなかったはずなのに、結果として、わたしを救ってくれたみたいだから」
「うん」
「『誰のことも、巻き込むな』って、お兄さんが、最後にお妹さんに言ってくれてなかったら、わたしは、たぶん、もうひとつ深い目に、遭ってたと思う」
「うん」
「そのお兄さんの名前も、書いた方がいい気がして」
「お兄さんの名前は、ご家族と、警察と、相談しながら、決めるね」
「お願いします」
「うん」
「篠原さん」
「うん」
「ありがとう」
その短いひとことに、沙耶香は、しばらく、答えられなかった。
代わりに、もう一度、深く、深く、うなずいた。
その動作のあいだ、地下の喫茶店の薄暗い灯りの中で、ふたりは、ずいぶん長い時間、お互いの顔を、ちゃんと、見つめあっていた。
夢野りりと別れて、夕方の街に出ると、外は、すでに、薄暗くなり始めていた。
街灯が、ひとつ、ひとつ、ぽっ、ぽっ、と灯っていく。
その灯りの中を歩きながら、沙耶香は、ふっと、自分のスーツの胸ポケットに、手を入れた。
そこには、谷から持ち帰ってきた、ごく細い、白い糸が一本、忍ばせてあった。
九能が、間宮の部屋で、密室の絵解きに使ってみせた、あの糸の、余りだった。
九能は、再現が終わったあと、長く伸びた糸の中ほどから、ふっと一片を切り取って、沙耶香の手のひらに、小さく折りたたんで、渡してくれていた。
「お守りに」と、ひと言だけ、九能は言った。
そのお守りを、沙耶香は、その後、いつもポケットに入れて持ち歩いていた。
街灯の下で、その糸の感触を、指の腹で、そっと確かめた。
長さも、太さも、ふつうの糸より、少し細い。
しかし、こちらが選んでさえいれば、ふつうの人生のすぐ脇の隙間からも、ちゃんと、別の世界に通ってしまえるくらいには、薄い糸だった。
「篠原さん。これからも、いつかどこかで、誰かに何かを押しつけられそうになっている、誰かの声を、聞いてあげてください」
ふっと、谷の警部の声が、頭の中で、もう一度よみがえった。
沙耶香は、街灯の下で、ひとつ、深く息を吸って、吐いた。
家へ戻る道、沙耶香はもう一度、自分の鞄の中の小さなノートを取り出した。
新しいページを開いて、そこに、いちばん最初の一行を、書きつけた。
『湯けむりが、白くたなびいていた。』
それだけだった。
たったそれだけの一行を、書いたあと、沙耶香は、しばらく、ペン先を見つめていた。
その一行が、これから、長い、長い、本の、いちばん始まりの一行になるはずだった。
その一行の続きを、これから、自分は、ゆっくりと、けれども、絶対にあきらめずに、書いていく。
そう、心の中で、もう一度、自分自身に、約束した。
街灯の白い光が、夜の街に、ふっと、また、ひとつ、灯った。
その光の中を、旅情ライター篠原沙耶香は、ふだんの自分の家の方角に向かって、ゆっくりと、しかし、はっきりと、歩いていった。
夜は、もう、闇のためだけのものでは、なくなっていた。
長い長い物語の、書き始める前の、最後の静かな夜だった。
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