第三話:
人は、一人では生きられない。
食べ物を分け合い、
水を守り、
笑い合い、
時には傷つけ合いながら、それでも共に明日へ進んでいく。
だが、神の子として生まれたセラには、それが分からなかった。
誰かのために怒ること。
誰かのために泣くこと。
誰かの笑顔で救われること。
それらは彼にとって、遠い世界の話だった。
第三章では、そんなセラが初めて“人の暮らし”に触れる。
小さな村。慎ましい食卓。
そして、一人の少女との出会い。
その出会いは、やがて彼の選択を変えていく。
これは、戦いの章ではない。
心が少しずつ動き出す章だ。
第三章:潮なき村の少女
朝日が、荒れた大地を照らしていた。
夜の冷気は去り、乾いた風だけが残る。
セラは村の入り口に立っていた。
石と木を積み上げただけの粗末な柵。
崩れかけた見張り台。
痩せた畑。
生きることだけで精一杯――そんな場所だった。
昨夜、炎の中から助けを求める声が聞こえた。
セラは迷わず向かい、人々を救った。
その代償として、どこかで誰かが死んだ。
その事実だけが、胸の奥に沈んでいる。
「ここが……ルナ村よ」
横から声がした。
昨夜、最初に救った少女だった。
栗色の髪を肩で揃え、まだ幼さの残る顔立ち。
だが瞳だけは妙に強い。
「私はリナ。あなたは?」
「……セラ」
「変わった名前ね」
「そうか」
「そこは否定しないのね」
リナは呆れたように笑った。
セラはその表情を見つめる。
笑う理由が、よく分からない。
だが嫌ではなかった。
村人たちが集まってくる。
「この兄ちゃんが助けてくれたんだ!」
「火が急に消えたんだぞ!」
「神官様か?」
口々に騒ぎ立てる。
セラは困ったように視線を逸らした。
「違うわよ」
リナが前に出る。
「この人は……旅人。たぶん」
「たぶん?」
「だって何も知らない顔してるし」
老人が杖をついて近づいてきた。
深い皺の刻まれた顔。
だが目には知性があった。
「わしは村長のガイウスだ」
「助けてくれた恩は忘れん」
「礼はいらない」
セラが即答すると、老人は苦笑した。
「ならば、せめて飯でも食っていけ」
村の食卓は質素だった。
固い黒パン。
薄い野菜の煮込み。
塩気の少ない干し肉。
だが人々は笑っていた。
少ないものを分け合い、誰かが冗談を言い、誰かが笑う。
セラは無言でそれを見ていた。
「どうしたの?」
隣に座ったリナが聞く。
「食べないの?」
「……見ている」
「何を?」
「なぜ、笑えるのか」
リナは少し黙り、やがて肩をすくめた。
「泣いても腹は膨れないから」
「それに、笑わないと今日がしんどいでしょ」
その答えは、セラには理解しきれなかった。
だが――
少しだけ、覚えておこうと思った。
昼過ぎ。
村の外れにある井戸が騒がしくなった。
「水が出ねぇ!」
「また枯れたぞ!」
男たちが怒鳴り声を上げている。
リナが舌打ちした。
「最悪……」
「問題か」
「この辺り、ずっと水不足なの。ここが止まると終わり」
セラは井戸を覗き込んだ。
深い穴。
底に、かすかな湿り気。
「水が欲しいのか」
「当たり前でしょ」
セラは手をかざす。
掌に、淡い青の光。
村人たちがざわめく。
「お、おい……!」
「やめなさい!」
リナが叫ぶ。
だが遅かった。
井戸の底から、水が湧き上がる。
透明な水流が渦を巻き、一気に満ちていく。
歓声が上がる。
「すげぇ!」
「奇跡だ!」
「助かった!」
リナだけが青ざめていた。
「……セラ」
「なんだ」
「その力、使うと……何かあるんでしょ?」
セラは答えなかった。
答えられなかった。
その瞬間。
遠く、空の向こうから。
――水音。
誰かが、沈む音。
セラの指先が止まる。
「……またか」
歓声の中で、その声は誰にも届かない。
夜。
村の広場では小さな宴が開かれていた。
水が戻った祝いだった。
子どもたちが走り回り、女たちが歌い、男たちは酒を回す。
セラは離れた場所で一人座っている。
「やっぱりここにいた」
リナが隣に腰を下ろした。
手には木の杯が二つ。
「飲む?」
「いらない」
「そ。じゃあ私が二つ飲む」
そう言って笑う。
しばらく沈黙が続いた。
やがてリナがぽつりと言う。
「あなた、変ね」
「そうか」
「助けたのに、全然嬉しそうじゃない」
セラは空を見る。
星は少ない。
「……助けると、誰かが死ぬ」
リナの笑みが消えた。
「え?」
「俺が救えば、別の誰かが沈む」
冗談には聞こえなかった。
リナは真顔になる。
「それ、本当?」
「ああ」
「……じゃあ、なんで助けたのよ」
セラは少し考えた。
そして、初めて自分の言葉を探すように言った。
「……お前が、助けてと言った」
リナは息を呑む。
頬がわずかに赤くなった。
「そ、そういう言い方ずるい……」
「何がだ」
「もういい!」
立ち上がって歩き出す。
だが数歩で止まり、振り返った。
「ねえ、セラ」
「なんだ」
「もし本当にそうなら――」
月明かりの中、リナは真っ直ぐに見つめる。
「これからは、一人で決めないで」
「私にも、選ばせて」
その言葉は、不思議だった。
選ぶ。
それは苦しみでしかないと思っていた。
だが彼女は、自分からそれを望んだ。
セラの胸の奥で、何かが小さく揺れた。
「……考えておく」
「なによそれ」
リナは吹き出して笑った。
その笑顔を見た瞬間。
セラの脳裏に、一瞬だけ別の顔がよぎる。
銀の髪。
冷たい瞳。
月光のような横顔。
――知らない。
なのに、なぜか痛かった。
遠くの闇で、誰かがこちらを見ていた。
時の狭間のような影。
クロノスは静かに呟く。
「始まったな」
「人を知る試練が」
村には笑い声が響く。
その裏で、運命は確かに軋み始めていた。
登場人物
セラ
本作の主人公。
ポセイドンの子とされながら、神々から拒絶され異世界へ追放された少年。
人を救う力を持つが、そのたびに別の誰かが溺れ死ぬ呪いを背負っている。
感情に乏しいが、村での出会いによって少しずつ変わり始める。
⸻
リナ
ルナ村に住む少女。
明るく気丈で、困難な状況でも笑う強さを持つ。
倒れていたところをセラに助けられた。
セラの不器用さを面白がりながらも、その孤独にいち早く気づく存在。
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ガイウス
ルナ村の村長。
年老いてはいるが、村人たちから厚く信頼されている。
外から来たセラにも礼を尽くし、人として接する器の大きさを持つ。
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クロノス
時の彼方からセラを見つめる古き神。
直接手を貸すことはないが、要所で現れ、選択の意味を突きつける。
この村での出会いもまた、彼にとっては試練の一部である。
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アルテミス(記憶の影)
まだ姿は現さない。
だがセラの心が揺れた時、断片的な記憶としてその存在がよぎる。
彼女が何者で、なぜセラの中に残っているのかは謎に包まれている。




