回収物№6958――音のないオルゴール【後編】
「さて――キミ。そろそろ保管作業に入ろうか」
管理人の明るい声が、沈黙を破った。タブレットを小脇に抱え、もう歩きだしている。
「あ……はい」
俺は回収ボックスを持ち直し、慌ててその後を追った。
「アナタ。青葉さんは、少しここで待っていて。遅い時間だから、カレに送らせるからね」
舞日は黙ったまま頷き、深々と頭を下げている。
一度、振り返ったとき、街灯の下でぽつんと立つ舞日の姿が、やけに小さく見えた。
それが酷く寂しげで、離れがたい気持ちになった。
保管庫の中は、いつもと違いざわめいていた。
人が多いわけじゃない。係員たちの動きもいつも通り。なのに、忙しない空気に満ちていた。
静かすぎても違和感が溢れるけれど、こうもざわめいていると、気味の悪さが際立って感じて嫌だった。
管理人に指定された棚にボックスを置いた瞬間、側面が微かに震える。
これはいつも通り。そして、いつも通りの、完全な無音。
「回収ナンバー、六九五八。回収日時、九月七日。保管庫ナンバー、十三のS二八九一番」
タブレットに入力しながら、俺はさっきまでのことを思い出していた。
今のところ、記憶が消えているとは思えない。回収からここまでの自分の行動を、きちんと辿れる。
ほっとすると同時に、もう旋律が全く聞こえてこないと気づいた。
「――削られた分は戻らないんだよね」
管理人がポツリと呟いた。誰に向けた言葉か分からないけれど、向き合っているのは俺だけだ。
「あの……俺……」
「あー、キミね。明日は健康診断に行ってね」
……またか。
「この間、行ったばかりですけど」
「具合、悪くなってたじゃない」
それは、確かに。
「それと、さっきも言ったけど、彼女、送ってあげてね」
「いや、でも、俺……」
「こんな時間に、こんな場所から、一人で帰らせるの?」
それもそうか……。
保管施設から彼女のアパートは遠い。この時間、この場所で、タクシーを捕まえるなど不可能だろう。
車に戻ってエンジンをかけると、舞日が待つ街灯まで移動した。
「乗って」
助手席に乗った舞日がシートベルトをつけるのを確認してから、車を走らせた。
この行為はルール違反に近い。上司にも近づくなと言われたばかりだ。
とは言え、管理人の指示でのことだ。きっと不問だろう。
「……同じ小学校でしたよね」
唐突に、舞日が言う。
ハンドルを握る手に力がこもった。
「違うよ」
小学生の時の記憶など、ほとんどないのに、即答していた。
「私たち、四年二組だった……」
クラス名を聞いて、頭の奥で音楽が鳴る。一瞬、身構えたけれど、さっき聞こえた旋律とは違い、記憶の中から引き出されたかのような感覚だった。
音楽室。
オルゴール。
窓際の席。
黒板の前に立つ、小さな背中。
目はフロントガラスの先に延びる道路を見ているのに、頭の中で断片的なシーンが浮かんでは消える。
そこに空白がある。クラスメイトや先生の姿が曖昧で、ぼんやりと揺らいでいた。それなのに、黒板の前に立つ背中だけが、妙にくっきり浮かぶ。なぜ、この人のことだけ覚えているんだろう。
「……覚えてない」
はっきりと思い出せない気持ちを、正直に口にした。
舞日は少しだけ笑った。
寂しそうでも、怒ってもいない。
「そうですよね」
その言い方が、胸に引っかかる。
信号が変わり、ブレーキを踏むと、俺はその色を見つめた。
赤が滲む。
この仕事は、回収物の記憶に触れる。触れすぎれば、削られるのだろうか。
――もしかすると、俺は、もう何かを失っているのかもしれない。自分でも気づかないうちに。
舞日と会った時は、ただ守りたいと思ったけれど――。
今は、彼女に対して別の感情が湧いていた。
違和感と、ほんの少しの胸の痛みが。
今年は残暑が厳しくて、夜もまだ蒸し暑い日が続いている。なのに、今夜は肌寒い。以前の回収の時、舞日の部屋が……近づいた時の体温が、そして掴んだ手首が、とても冷たかった事を思い出した。
今、肌寒いのも、彼女のせいだろうか。
バックミラーで、そっと様子を窺ってみると、シートに身を預けて真っ直ぐ前を見つめていた。街灯を過ぎるたびに明暗を繰り返す舞日の顔が、やけに綺麗に見える。
同じ小学校で、同じクラスだったというのが本当ならば、俺と舞日は同じ歳か。
あのアパートの部屋の感じや、こんな時間に出歩いている事を考えると、結婚しているとは思えない。
恋人は――いるんだろうか。
いや、違う。俺はそんなことを気にする立場じゃない。
ないはずなのに……気になってしまう。
ミラーに映った舞日の視線が動いたのが見えて、俺はぱっと視線を逸らした。
『近づくなと言ったはずだ』
上司の言葉を思い出す。
なぜ、何度も同じことを言うんだ?
そんなにも警戒しないといけない、何があると言うんだろう。
ルールにある『詮索しない』を、俺は自分の都合のいいように受け止めて、知らないままでいすぎたんだろうか。全てとまでは言わなくても、知っておくべき事があるんじゃないだろうか。
それでも……知らないでいる方が、楽ではある。
淡々と回収をして保管すればいい。疑問も違和感も、奇妙な体験も、全部気のせいで済ませられる。知ってしまうと、好奇心が抑えられずに、知りたい欲求がどこまでも続きそうで怖い。
気づけば、いつの間にか舞日のアパートの前まで来ていた。
「ありがとうございました」
車を降りた彼女は、小さな声でそう言って頭を下げる。
「いえ……もう遅いので早く休んでください」
俺の言葉に舞日はもう一度、頭を下げた。それを見て、思わず助手席の窓を降ろすと、無意識のうちに身を乗り出していた。
「あの、本当に……気をつけて」
アパートは目の前なのに、何を気をつけろと言うのか。
自分の語彙力のなさに呆れた。
「それは、空木さんの方です。運転、気をつけてください」
かすかに微笑む舞日に、何か言いたいのに言葉が見つからない。
胸の奥に変な痛みを感じながら、車を出した。
俺の車が角を曲がるまで、見送ってくれている舞日の姿を、バックミラーで見つめながら。




