回収物№6958――音のないオルゴール【前編】
オルゴールは、音が鳴らない。
依頼書の一行目には、そう書かれていたが二行目には、こうある。
――鳴らないはずなのに、音が聞こえた分だけ記憶が消える――
意味が分からない。
分からないが、この仕事では分からないことなど、これっぽっちも珍しくない。
今回の依頼も「立ち会い回収希望」だった。軽バンの後部から資材と回収ボックスを取り出し、指定の住所へ向かう。
現場は古いアパートの一階だった。
依頼者は五十代の女性で、憔悴している。社員証を見せると中へ通された。玄関正面がキッチン、その奥に和室が二部屋並んでいた。向かって右側を居間として、左側を寝室として使っているのか、左側の部屋は襖が閉じられている。
「何の曲だったかは、もう覚えていないんです」
右側の和室にある机の上に、木製のオルゴールが置かれていた。古くて小さな傷がいくつもある。子ども向けなのか、可愛らしい動物が彫刻されていた。
「鳴らないんですよ」
女性がネジを回すと、ゼンマイの巻き戻る音だけがして、旋律は流れない。
確かに無音だ。
――無音だけど。
回された瞬間、空気がわずかに揺れたように感じた。
ああ、いつもの説明できない違和感だな、と思う。
「記憶が消える……とありますが、具体的にはどんな記憶が消えるんですか?」
「思い出です。……娘の声とか、誕生日とか」
俺の問いに、彼女は涙を拭いながら答えた。
「昨日までは確かに覚えていたのに、今日になると抜け落ちてるんです」
俺は無線に触れた。
「対象、記憶干渉型」
上司の声が即座に返った。
『封入後は、開けるな。中を見るな。音を探すな』
音を探すな。
その言い方に引っ掛かりを感じつつも、俺は手袋をはめ、オルゴールを持ち上げた。
木製にしては、軽い。
何故か、指先が痺れる。
箱の中で、音が鳴っている気がした。
耳ではなく、もっと内側の……記憶の奥で、微かに。
寂しいような、泣きたくなるような、切ない感情が溢れてくる。
袋に入れようとした瞬間、依頼者が声を上げた。
「待って!」
そう叫んだ彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「それ、娘の誕生日に買ったんです。だから……」
怖さに震えながらも、大粒の涙をこぼした彼女は、嗚咽で言葉が続かず、その場に泣き崩れてしまった。
回収を待つよう言われたのは初めてで、俺は一瞬だけ迷う。
迷いが生じた隙間に、頭の中で、さっき鳴った気がした音よりも、はっきりとした旋律が流れた。どこかで聞いたことのある曲だ。
確か……小学校の、音楽室で。鍵盤ハーモニカで、皆で弾いた。
……いや。きっと気のせいだ。
小学校の頃のことなど、ろくに覚えていないんだから。
俺は迷いを振り切ってオルゴールを袋に入れ、封を閉じた。
その瞬間。
依頼者の表情が、わずかに空白になる。
「……あれ?」
「どうしました」
「私……今、何を話していましたっけ……」
ざわり、と背筋が冷えた。
直前まで回収を拒もうとして涙までこぼしていたのに。
音が聞こえた分だけ記憶が消える――。
たった今、俺の頭に流れた旋律は、彼女にも届いていたのだろうか。忘れてしまった、娘さんの誕生日を思い出させる回収物……この存在さえ忘れてしまったんだろうか。
依頼者の視線が、つと俺の手元に向いた。
「あ……そうそう、回収を頼んでいたんですよね。それじゃあ、よろしくお願いします」
軽く頭を下げて微笑む彼女の目から、まだぽろぽろと涙がこぼれている。
その姿が恐ろしく奇妙なものに見えて、俺は「回収します」と伝え、急いで部屋を出た。
車へ向かう途中、上司からの無線が入る。
『消えたのか』
「依頼者の直近記憶が抜けました」
『想定内だ』
想定内。
回収時に記憶が消える事を見越していたのか。俺は手にした袋を見る。中で動いたり音がしたりする様子はない。なのに、頭の奥で旋律が続いている。
――止まらない。
軽バンの後部を開け、回収ボックスに入れて固定すると、すぐに車を走らせた。僅かに開けた窓から入る風の音が、オルゴールの旋律に聞こえ、信号待ちで止まったと同時に、耳を塞ぐ。
「消えない……なんなんだ、この曲……」
耳を塞いでも、頭を振っても、脳内で再生されているかのように消えない。
無線機から上司の低い声が車内に響いた。
『音を追うな』
「追ってません」
『思い出そうとするな』
そう言われて、初めて気づく。
俺は曲名を探していた。
どこで聞いたか、思い出そうとしていた。まだ小さかった自分の指が、たどたどしく鍵盤ハーモニカを弾いている光景。俺の隣で得意げな笑みを浮かべながら、楽しそうに弾く誰かの姿。
自覚してようやく、旋律が止まった。
バックミラーで後部を確認してみる。回収ボックスは音もなく、そこにある。異常はない。
ホッとため息を漏らし、やっと安心して運転ができた。
保管庫へ向かう途中、保管庫の管理人から無線で連絡が入った。
『その回収物ですけど、立ち会いがあるんですよ』
「立ち合いですか? 一体誰が?」
『依頼者の知人なんです。回収物の温度確認ができる人なんですよ。凄いでしょう?』
その言い方で分かった。
青葉舞日だ。
依頼者の知人だと言うけれど、管理人は舞日を知っている。そう感じた。
保管施設の駐車場。街灯の下に、管理人と彼女は立っていた。
ぬいぐるみの回収で会った時より、少し顔色が悪いように見える。
「……また会いましたね」
「依頼者の知り合いだったのか」
「相談を受けました」
舞日の視線が回収ボックスへ向き、瞳がわずかに細まる。中に収められた回収物を推し測るかのように。隣に立つ管理人は、タブレットを手に、いつもの笑顔だ。
「冷たい。あれよりも、更に低い温度です」
「あー、あの子ね。なるほど……他には?」
舞日は少し首を傾げ、頬に手を当てた。
「音……曲が鳴っています」
「鳴ってない」
俺は反射的に否定した。あの旋律を舞日に聞かせたくない。記憶が消えるなんて、そんな体験をさせたくない。
「鳴ってます。あなたの中で」
「俺の……?」
言葉を失って立ち尽くす俺に、彼女は一歩近づいて来た。
ただ、回収ボックスには触れない。触れないまま、目を閉じている。
「これは、思い出を削って、曲を補ってる」
「なるほど、なるほど。今までは今回の依頼者の、今は――彼の、かな?」
「そう……なりそうです」
俺の記憶を削っている?
舞日の説明は、理屈を超えている。けれど、俺の中の違和感が消えた。理屈よりも、納得が先に来るような感覚だった。その後も、管理人は舞日の言葉を、淡々とデータに入力していく。
突然、頭の中で旋律が大きくなり、激しい頭痛で視界が歪んだ。
景色がモノクロームに変わり、呼吸がままならない。足元が揺れて平衡感覚が失われていく。
――やばい、倒れる。
その瞬間、肩を支えられた。
舞日だ。
細い腕なのに、力強い。
「この曲を、聞かないで」
彼女の声が、旋律を遮り、不思議と音が遠ざかる。
それに合わせたように、呼吸が戻る。
顔を上げると、すぐ目の前で、舞日の心配そうな瞳が俺を覗き込んでいた。
間近で目が合い、デジャヴを感じる。
この目を知っている。
俺はどこかで、この目を見た。昔、もっと低い位置から、見上げた記憶。
教室の窓際。
午後の光。
揺れる真っ白で大きなカーテン。
「……思い出せない」
思い出そうとすると、旋律が戻り、頭が重く痛む。舞日の両手が、俺の耳を塞ぐと、途端に旋律が遠ざかった。じっと覗き込む舞日の目を見ていると、眉間の奥の重みがスッと消えた。
俺は舞日から目を背け、支えられていた体を起こした。
「もう、大丈夫」
「本当? 無理しないで」
その言い方が、懐かしかった。
――会ったのは、以前の回収の時が初めてなのに。
沈黙に無線が割り込んだ。
『そこまでだ』
上司の声は、いつもより低い。
『青葉舞日』
舞日のフルネームを呼んだ。
一瞬、驚いたけれど、舞日は依頼者でもある。所長が名前を知っているのは当然か。
「……覚えてるんですね」
舞日は静かに答えた。
覚えている?
何をだ。
『逆井乃。お前には以前、彼女を関わらせるなと言った』
サカイノ?
誰の事だろう、そう思ったのと同時に管理人が答えた。
「仕方ないでしょー、この件では、ボクもデータが必要だったんだからね」
上司の大きなため息が流れる。
『空木、何でお前まで』
「俺は……関わらせていません」
『距離が近い。近づくなと言ったはずだ』
どこかから見ているのかと思うほど的確な指摘。俺は今更ながら舞日と距離を取ろうとして、はっとした。
いつの間にか、手を繋いでいた。慌てて離し、思わず後ずさる。
そのタイミングで、上司がぽつりと言った。
『お前は、覚えていないか』
舞日にでも管理人にでもなく、俺に向けられた言葉だった。
心臓が、ひと際大きく鳴った。
「何をです?」
上司からの返事はないまま、通信が切れた。いつも理解が追いつかないままに、この仕事をしているけれど――今夜は特に、何もかもが理解できない。
鳴らない無線機をジッと見つめていても、そこに答えなど見えやしなかった。




