回収物№5141――返ってくるぬいぐるみ【後編】
保管施設のシャッターがゆっくりと上がっていき、中に入ると管理人がにこやかな表情を浮かべて待っていた。
最近、ずっとこうだ。
回収物を持ってくると、係員よりも先に管理人に会う。広い施設の中で、どうして毎回こんなに早く気づかれるのか、考えないようにしていた。
指定された棚に回収ボックスを置いた瞬間、その内側から、激しく暴れる音がした。金属をこじ開けようとするような音ではなく、もっと有機的な、ぶつかり続けるような音。
管理人が、わずかに目を細める。
「……懇望していますね」
「懇望って――」
何に、と聞こうとして、やめた。
そんなはずはないのに、管理人の口から青葉舞日の名前が出そうな気がしたから。
それに、これが、彼女に執着心を持っているなどと、考えたくもなかったから。
管理人はこちらの逡巡など意に介した様子もなく、近くにいた係員を数人呼び、回収ボックスが棚に固定された。樹脂なのかゴムなのか、少なくとも金属ではない素材でできた細い紐は、赤と黒と白の奇妙なまだら模様をしている。
これまでも何度かボックスの中身が動くことがあった。その度、この紐で固定されると静かになる。
今回も、すぐに音が止んだ。
完全な沈黙。さっきまであれほど激しかったのが嘘のように、何もなくなる。その静けさがいつも重くのしかかってくる気がした。
「回収ナンバー、五一四一。回収日時、五月二十八日。保管庫ナンバー、十三のU〇〇七三番」
何の前触れもなく、管理人は回収物の処理番号を読み上げ、俺は慌ててタブレットへと記録した。声のトーンは変わらない。さっき目を細めたことも、もうなかったことのように。
この施設の管理人は不思議な人だ。何度となく顔を合わせているものの、実際に話すことはほとんどない。だから余計に人となりが分かりにくく、上司以上に不思議な存在。
笑顔を浮かべているのに、近づきがたい。温度のない笑顔、という表現が一番近いかもしれない。
「あー、キミね」
帰ろうとしたところを、呼び止められる。
「……はい?」
「明日か明後日、健康診断を受けに行ってね」
「え? あの……先週、行ったばかりで――」
「――行ってね」
食い気味に、しかも有無を言わさない物言いで返された。表情が笑顔のままなのが怖い。俺の知らない何かを知っていて、それを言わないでいる人間の顔だ、と思った。
仕方なしに曖昧な返事をして施設を出た。
保管施設を出るたびに、ある種の違和感が体にまとわりつく。
怖いとか、気持ち悪いとかではなく、もっと淡い、どこかがずれたような感覚だ。今日はそれが、いつもより強い。いつも感じていた違和感が、ごく普通の日常と思えるほど、今日の違和感は強い。
このまま社宅に戻って、すぐにでも眠ってしまいたい。
とはいえ――。
一度、事務所に戻って、資材や車を戻さないといけない。
明け方近くの空は、夜とも朝ともつかない紺色をしていた。ヘッドライトだけを頼りに、俺はゆっくりと車を走らせた。
「依頼者には、触れさせるなと言っただろう」
事務所に戻ってドアを開けた途端、上司の叱責が飛んでくる。
電気はついているのに、部屋がやけに暗く見えた。疲れているせいか、上司の表情が読めない。
「彼女は回収物に触れてません」
「距離を取れと言ったはずだ」
これは否定できない。
今夜の自分を振り返れば、距離を取れていたとは言いがたかった。彼女が手を伸ばしそうになった瞬間、咄嗟に動いた。それは回収物を守るためではなく、彼女を守るためだった。
その違いを、上司は見抜いているかもしれない。
「近づけるな、と言ったんだ」
短い言葉だが、そこには警告以上のものがあった。
上司が俺を見る目は、いつも通り静かで、感情の読めないものだった。怒っているのか、心配しているのか、それとも別の事を計算しているのか、まったく分からない。
今回の回収も、一度は戻ってしまったけれど、ちゃんと成功している。ルールもしっかり守った。青葉舞日にも触れさせていない。
一体、何だというのか。聞いてしまえば早い。それは俺にも分かっている。
本当ならば、直接、上司に聞いてしまうのが一番早いのだと。
ただ、俺には聞く勇気がなかった。聞いて、知ってしまうことが怖かった――だから結局、訳も分からないまま、俺は持ち帰った資材を棚に押し込み、タブレットをデスクに投げ置いて、黙って帰り支度をした。
「……お疲れさまでした」
「明日、出社前に健診の予約を入れてある。立ち寄ってから出社するように」
管理人と上司、両方から同じことを言われる。前回の健診から、一週間も経っていないのは上司も知っているのに。
「わかりました」
保管施設の管理人から何か言われたのか、余りにも早い対処に少し驚く。
この仕事は、思っているよりずっと多くのことが、俺の知らないところで動いているのかもしれない。
一週間で体調に変化があるとは思えないけれど、この仕事をしていると、メンタル面に起因して体調を崩すことが多々あるらしい。
だから会社から、定期的に診断を受けるように促される。
こんな風に、怪しくて危ないものを回収していれば、メンタルに支障があるのもわかる。俺がもっと神経質だったら、とっくに辞めているだろう。
どんなに給料が高額だったとしても。
雑居ビルを出てバイクに跨ると、社宅に向かった。
走り出してしばらく、頭の中に浮かんでくるのは今夜の回収のことではなかった。上司の言葉でも、管理人の笑顔でも、暗闇の中で暴れていたあれでもなく……。
掴んだ細くて冷たい手首と、玄関先に立つ、あの静かな横顔だった。
彼女は怖がっていなかった。怖がるべきものの前に立って、それでも怖がっていなかった。それが気になって仕方ない。寒さに慣れているような目。あんなものに慣れさせていいわけがない。
この仕事は、回収だけすればいいはずだ。
それなのに――。
守りたい、と思ってしまった。
――それが、この仕事において最も危険な感情だと、どこかでちゃんと分かっていた。




