回収物№5141――返ってくるぬいぐるみ【前編】
依頼現場は、夜の住宅街の奥にある二階建てのアパートだった。
街灯が少なく、家々は等間隔に並んでいるのに、人の気配がどこか希薄で、空気だけが妙に冷えている。車を降りた瞬間、その温度の違いに気づいた――季節の寒さではなく、記憶が沈殿しているような冷え方だった。
所長から無線が入る。
『対象は小型。だが厄介だ。戻る』
上司の声はいつも通り淡々としている。
「戻る?」
『処分しても、廃棄しても、距離を取っても、依頼者の元に戻る。三回確認済みだ』
厄介、という言葉が珍しく感じた。所長はいつも、回収物の余計な情報を口にしないから。それをあえて口にすると言うことは……。
俺は頭の中で、この仕事のルールを思い出し、反芻していた。
指定の部屋番号は、二〇一号室。タブレットで確認してから、玄関のインターホンを押す。
少し間があって、扉が開いた。
そこに立っていたのは、俺と同年代の女性だった。
第一印象は、静かな人だと思った。
怯えているわけでも、取り乱しているわけでもない。ただ、瞳の奥に、ずっと何かを測り続けているような静かな緊張があった。
「……夜間回収の方、ですよね」
声は小さいが、揺れずにはっきりと聞き取れる。
「はい」
いつも通り、首から提げた社員証を掲げる。
彼女はわずかに頷き、身体を引いて俺を中に通した。
室内は綺麗に整理整頓がされ、生活感もある。
けれど、違和感が一つ。
強い視線を感じる。
リビングのソファの上に、小さなぬいぐるみが座っていた。
片耳が折れた、古びたウサギだ。
ボタンの目は黒く、光を反射しない。
これに見られている、と思った。
いつもなら、気のせいだと思うのに、そう思えない程度に強い。
「捨てても、戻るんです」
彼女はぬいぐるみを見ないまま言った。
回収に来ると、依頼者は必ず回収物から視線を逸らす。彼女も、そうなのかと思っていたのに。
俺はタブレットに表示された依頼データを確認した。
「焼却場に持ち込んでも駄目……とありますね」
「はい。次の日には、玄関の前に」
「処分証明書は?」
「あります。でも……」
彼女はそこで言葉を止めた。
視線が、ゆっくりとソファへ向く。
俺もつられて視線を追うと、ウサギのぬいぐるみが、さっきより、こちらを向いている気がした。
――気のせいだ。
距離も、角度も、変わっていないはずだ。はずだ……そう思っても、どの回収でも、そんな感覚は普通の事。
「触らないでください」
彼女の小さな声に、俺は少し驚いた。
「まだ触ってませんよ」
「触ると、喜ぶから」
彼女の言葉に違和感が湧く。触ると喜ぶ?
彼女自身が触れてみて、そう感じたのだろうか。やけに確証をもった言い方だと思う。そんなにはっきりわかるものなんだろうか?
俺は無線に触れる。
「対象確認。視線追従の可能性あり」
『わかっている。依頼者には近づけるな』
上司の声に、僅かな緊張を感じ取った。『依頼者には近づけるな』その言い方が、妙に引っかかる。ぬいぐるみに近づけることで、彼女に危険があるというのか。
俺は手袋をはめ、ぬいぐるみに近づく。
ただの回収員でしかない俺が、そんなことを考えるべきではないのかもしれない。それでも、危険があるなら彼女を守らなければ、という思いが胸の奥から湧き上がってくる。
近づくほど、空気が重くなる。手を伸ばし、指先がぬいぐるみに触れそうになった瞬間、彼女が小さく息を呑んだ。
ドキリとして振り返る。
彼女の視線は、ぬいぐるみに向いている。間近で見たら、瞳にウサギが映っているんじゃないかと思うくらい。こんなにしっかりと、回収物に視線を向ける依頼者を初めて見た。
「……寒い」
彼女が呟く。
エアコンは切れていて、室温は変わらないはずなのに。
「確かに……空気が冷えている感じですね……」
窓を閉じた部屋の中、風も通らないはずなのに、足下の空気が動いて感じる。空気の流れてくる先に、ぬいぐるみがある……と気づく。
俺はそれを掴んだ。
想像より重い。軽い綿布のはずなのに、密度が違う感じだ。湿っているわけでもないのに、ずっしりとしている。手袋越しに鼓動のような振動が伝わってきた。
嫌な感じに襲われる。以前、段ボールを回収した時を思い出す。
袋を開き、素早く中へ滑り込ませると、ジッパーを閉じた。
――ポスン。
背後で音がした。
デジャヴを感じながら、俺は振り向いた。
ソファの上に、ぬいぐるみが、座っている。
袋の中は空だった。
喉が張り付いたように乾き、唾液も出ない。この現象にも覚えがある。
「……戻るって、これか」
思わず独りごちた言葉に、返事はなかった。彼女は何も言わず、ただ俺を見ている。その視線は恐怖ではない――俺への、警告だ。
『視線を切れ』
上司からの無線は、いつも通り。俺はすぐさま理解する。
大丈夫。あの時と、同じようにやるだけだ。
まず、袋を床に置く。
そして、ぬいぐるみから目を逸らす。
どこでもいいから……何でもいいから、視線を何かに……。
部屋の時計、壁、何でもいいから視線を切る。ぐるりと巡る視線はローボードに置かれた花瓶で止まった。
数秒、そうしていると、そばの気配が動き、布が擦れる音が耳に届いた。
彼女が俺の方へ近寄ってきたのだ。予想もしなかった動きに、心臓が跳ねた。
すぐ隣に佇む彼女の体温が、やけに低く感じる。
集中していないと回収に失敗してしまう。それだけは避けたいと思うのに、彼女の存在感が俺の意識から離れてくれない。
「今です」
小さな声にハッとした。
俺は目を閉じ、前に手を伸ばす。
指先に、柔らかい感触。さっきまでの重い感触とは違い、ぬいぐるみらしいフワッとした柔らかさと軽さだ。
すぐ袋へ入れて、ジッパーを閉じる。
後は、いつも通り。
開けない、確認しない。
大きく深呼吸をしてから、目を開けた。
ソファには何もない。
手にした袋は掴んだ時とは違って、やけに重い。
中で、微かにぬいぐるみが蠢いている。
「大丈夫ですか」
そう問いかけてくる彼女の声が近い。振り返ると、肩越しに彼女の顔が見えた。
「あなたは?」
答えずに聞き返すと、彼女は少しだけ笑った。
「私は、慣れてます」
慣れている、と彼女が口にするのが嫌だと感じた。
普通はこんなものに慣れる機会なんてないはずで、普通に生きているだろう彼女が、慣れる必要などない。
袋を回収ボックスに入れようとした時、彼女の手が伸び、袋に触れかけた。
反射的に、俺は彼女の手首を掴んでいた。
「触るな!」
自分でも驚くほど強い声が出た。彼女も驚いた顔をしている。
掴んだ手首は折れてしまいそうに細く、冷たい。
俺は慌てて手を離した。
「……すみません。でも、これは駄目です」
彼女は一瞬だけ俺を見つめ、それから小さく頷いた。
怒っている様子も、怖がっている様子もなく、ただ、理解している顔だった。
それが余計に、守らなければならない、という思いを強くする。
「……回収します」
回収ボックスへ袋を入れて、しっかりとロックする。
無事に回収できた事と、彼女を危険な目に遭わせずに済んだ事。その安堵感に包まれながら、玄関を出る。
夜気が少しだけ温かい。袋の中で、ぬいぐるみが爪を立てているのか、回収ボックスの内側から、引っ掻くような鈍い音がした。
――ざりっ――
ゾッとしながらも、回収ボックスを脇にしっかりと抱えて階段を降りた。
彼女は玄関先に立って、こちらを見ている。
ぬいぐるみを見ているのではない。
俺を見ている。
「もしも……また戻ったら?」
彼女が問う。
「戻らせない」
俺は即答していた。
根拠はないけれど、そう言わなければならない気がした。
階段を降りて車の前に立つと、無線が鳴った。
『依頼者から距離を取れ』
上司の声が、いつもより低い。
『連れてくるなよ』
通信が切れた。
意味を考えようとして、考える事をやめた。
俺は思わず振り返り、アパートの二階、玄関先に立つ彼女を見上げた。
彼女はドアを開いたまま、俺を見つめて静かに言う。
「私、あれの温度が分かるんです」
夜風が止まった気がした。声も、空気も、時間も。
「だから、あなたが触ったときも……少し、寒くなりました」
回収ボックスの中の蠢きが、ふいに止まった。
まるで彼女の言葉を聞いているみたいに。
「私、青葉舞日です」
玄関から少し身を乗り出した彼女は、唐突に自分の名前を口にした。
「え……? あ、俺は空木六郎」
俺の答えに、彼女はとても温かな笑みを浮かべた。
「知ってます」
「え? 何で?」
「社員証、見せていただいたので」
穴があったら入りたい恥ずかしさを味わった。確かに、依頼者には一番最初に社員証を提示している。
「ウツギさん……今日はありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げ、そっと玄関のドアを閉めた。
数秒、閉じた玄関を見上げて立ち尽くしていた俺は、また蠢き始めた様子の回収物を車に積み、急いでその場を離れた。
説明できない違和感……それは、いつもの事だ。そう言い聞かせながら、車を走らせた。
保管庫までの道のりの間中、舞日のこれからをずっと考えていた。これから、彼女――青葉舞日は安心して毎日を過ごせるだろうか。頭の片隅をよぎり続ける違和感を、そうやって拭い去ろうとするように。




