回収物№023――動く写真
ドアは半開きだった。
依頼者は中にいるはずなのに、呼び鈴を押しても返事がない。
依頼メモには「立ち会い回収希望」と書かれている。
本来、こちらから発送した梱包材に、依頼者自身が回収物を封入する。
けれど、「薄気味悪いから」「気分が悪くなるから」「呪われそうだから」などと言って、封入を任せてくる人も割と多い。
……嫌な感じがした。
俺は無線に触れる。
「現場到着。反応、ありません」
少し間があって、所長の声。
『入れ。回収物は部屋の中央にある。素手で触るなよ』
言われる前から、そのつもりだった。
呼び鈴を押した時点で、俺は既に手袋をはめていたのだから。
ドアを押す。
軋む音がやけに大きく聞こえた。
部屋は整っていた。
生活感はある。
ダイニングテーブルにはマグカップが残され、半分乾いたコーヒーの跡が縁に張り付いていた。
ただ――。
音が吸われているかのように、沈黙だけが部屋を満たしていた。
中央のローテーブルに、写真立てが置かれている。
依頼物はそれだとすぐにわかった。
見た瞬間にわかるものがある。言葉にできない、あの種の違和感が。
写真には三人が写っていた。
若い夫婦と、子ども。
どこにでもありそうな家族写真なのに、視線が合った気がした。
つと視線をそらし、見なかったことにする。
俺はタブレットで依頼メモを確認する。
――写真の人物が動く気がする――
――置き場所が変わる――
――見てない間に位置が変わる――
よくある訴えだ。
この仕事をしていると、『よくある』の基準が狂う。
寝室のドアが開いている。
覗き込むと、依頼者は床に座ってベッドにもたれていた。
目の下が黒く落ちくぼんでいる。
「……来てくれましたか」
依頼者の声はかすれて疲れがにじみ出ていた。俺は頷いてから社員証を見せる。
「回収物は、写真ですね」
俺の問いかけに彼は頷き返したが、写真を見なかった。
見ないようにしているのが、はっきりとわかる。
「見てると、動くんです」
「どう動くんですか」
「……笑うと言うか、目が合うと言うか……ポーズが違っていたり、立ち位置が違っていたり……そんなはず、無いんですけど……」
違和感を説明しにくいのは、よくわかる。
俺はそれ以上聞かなかった。聞けば聞くほど、現実がそちらに引き寄せられる気がしたから。
写真の前に戻る。
さっきとは構図が違う気がした。
気のせいだと何度も自分に言い聞かせる。
写真は最初からずっと同じ構図だ。
三人家族。
普通の笑顔。
……普通すぎる。
俺はぎゅっと手袋をはめ直した。
写真立てに触れる前に無線が入る。
『確認するな。持て』
「確認はしてません」
『見てる時点で同じだ』
そう言われてしまうと、身も蓋もない。俺は返事をせずに写真立てに手を伸ばす。
軽い。
思ったよりずっと軽い。
なのに、手の中で位置が定まらず、滑るような感覚に陥る。
持っているのに、持っていない感じ。
奇妙な感覚から、早く抜け出したくてたまらない。
リュックから出した封印用の袋に入れて、ジッパーを閉じる。
その瞬間。
……コト。
背後で音がして、俺は振り返った。
写真立てがローテーブルに戻っている。
「……え」
袋の中は空っぽ。
理解が追いつかず、俺は固まった。
見なかったことにする、という選択肢はもうない。
写真立てに視線を奪われたまま、無線機に報告した。
「あの……戻ったんですけど」
所長の返事は即答だった。
『見てただろ』
「はい、見てました」
『だから戻る。視線を切れ』
俺は息を止め、写真から視線を逸らす。
袋のジッパーを開けると、テーブルの位置を記憶に刻んでから、目を閉じた。
手を伸ばすと、指先が硬いものに触れた。これは、ローテーブルの天板。指先を滑らせて探ると、何かがコツンと爪に当たった。
これだ。写真立てだ。
手探りのまま掴み取り、袋に滑り込ませると、ジッパーを閉じた。
開けない。
見ない。
確認しない。
数秒待っても、何も起きない。
俺はゆっくり目を開けた。
袋は膨らんでいるし、中身もある。
ローテーブルの上には何もない。
……成功だ、と思った。
ふっと息を漏らしたその時――。
袋の内側で、何かが動いた。
紙の擦れる音と、写真立てが回転しているような感覚。
開けない。
絶対に見ない。
「回収します」
依頼者は消え入りそうな声で「ありがとう」と呟き、疲弊した様子のまま深く頭を下げた。
俺もペコリと頭を下げ、部屋を後にする。
閉まり切らないうちに、ガシャンとドアが閉じられ、施錠される音が響いた。
気持ちはわかる。
今、自分の部屋が、ようやく安心できる空間に戻ったと、感じているだろう。
階段へと向かう途中、エレベーターホールの鏡に、俺と手にした袋が映り込んだ。
瞬間、視線がそちらへ移る。
――そして。
袋の中に、顔が三つ見えた気がしたけれど、すぐに見なかったことにする。
「俺は鏡を見てない」
呟いて気を紛らわそうと呼吸を数える。
いち……に……。
数え始めてはっとした。
この仕事には、数を数えるなというルールがある。それを今さら思い出した。
頭を振って数えるのをやめ、階段を駆け下りた。
車に戻ると、後部席を開けて回収ボックスに袋を入れ、しっかりと固定する。
運転席に乗り込み、一度、大きく息をついて全身の力を抜いてから、背筋を伸ばして無線機を握った。俺よりも先に所長の声が響く。
『異常は』
「視線で位置が戻っただけでした」
『標準だ。問題ない』
標準。
この仕事の標準は信用ならない。
いつも通り、ゆっくりと発進する。
バックミラーを見ない。
回収ボックスの方向を見ない。
なのに、気配がある。
誰かが後部席に座っているような感覚だ。
説明できない違和感を抱えたまま、保管施設へ到着する。
保管庫はいつも通りの冷たい雰囲気に包まれている。
シャッターが開くのは遅いし、照明は薄暗く、通路はやたらと長い。
係員はそれなりの人数がいるのに、音も気配も薄く、自分一人しかいないような錯覚を起こす。
回収物を早く棚に保管したくて、係員の姿を探して振り返ると、保管庫の管理人が立っていた。
肩がびくっと震えて、回収ボックスを落とすところだった。
いつの間に後ろにいたのか。
振り返るまで、背後に人がいると気づかなかった。
それが一番嫌だ。
管理人は興味深そうに回収ボックスへ視線を据えたまま、すぐ横の棚を指差した。
指定の位置にボックスを置き、タブレットを出す。
「回収ナンバー、〇二三。回収日時、十月五日。保管庫ナンバー、十三のD四〇五二番」
管理人が記録端末に入力しながら読み上げる。
俺も管理表へと打ち込んでいく。
「……動いていますねぇ」
何が気になったのか、管理人は棚に置かれたボックスに顔を近づけて、舐めるように見つめている。
「見ている間だけですよ」
俺が言うと、管理人は少しだけ首を傾けた。
「見ていなくても、動いていますよ」
見ていなくても……?
所長に言われて、見るのをやめたから回収できたのに。
管理人の言っている意味がわからない。
俺は曖昧に頷いて、敢えて聞き返さないでいた。
もう袋は棚に置かれる。
この仕事は終わったんだから。
その瞬間。
ボックスの中から、三人分の笑い声がした気がした。
管理人も、通路を行き交う係員も、誰も反応しない。
当然のことながら、俺も反応しない。
そういう場所だ。
車に戻ってエンジンをかける。
ハンドルに置いた手は、指が震えていた。
自分の身体なのに、震える指だけが別の生きもののように動いている。
まだ、写真の感触が残っている。
軽かったはずなのに、指先がやけに重い。
車を出せずに、ただ震える指先を見つめていると、無線から上司の声が聞こえてきた。
『どうだった』
「写真……動いていました」
『見るなと言っただろう』
「見ていません」
俺の答えに続く言葉が流れてこない。沈黙の合間に、上司がため息をついた気がした。
『慣れるなよ』
最後の言葉は、それだけだった。
帰り道、信号待ちでフロントガラスに俺の顔が映る。
その背後に、もう二つ顔がある気がして、心臓が跳ね上がる。
ぎゅっと目を閉じてから、ゆっくり開けると、フロントガラスに映るのは自分の姿だけ。
気のせいだ。
俺はそう決めた。




