回収物№8347――ノックする箱【後編】
箱を抱えたまま玄関を出ると、ドアが閉まる音がやけに重く響いた。
廊下の空気は、部屋の中より冷えていて、さっきまでまとわりついていた湿気が嘘のように消えている。
それでも安心はできない。
腕の中の箱は静かで、その静けさがかえって神経を逆なでする。
エレベーターの前を通り過ぎる。
使うな、と言われている。
疑問には思うが、理由を知るつもりもない。そういうルールだと割り切るしかない。
階段へ向かった。
一段降りるごとに、足音が妙に遅れて返ってくる。
コツ、と鳴って、少し間を置いてから……コツ、と続く。
まるで誰かが後ろからついてきているような、そんな感覚だ。
俺の足音じゃない気がして、立ち止まると音も止まった。
箱に耳を近づけるが、何も聞こえない。ただの段ボールで、さっきのようなノック音も聞こえてこない。
「静かすぎるのが逆に怖いな……」
振り返りたい衝動を抑えながら、俺は足を進めた。
「全部、気のせい……気のせい……」
自分に言い聞かせて、また階段を降りる。
今度は足音はしなかった。冷たい手すりを握る手に力が入る。
一階に着くころに、ようやく肩の力が抜けた。
エントランスの蛍光灯は相変わらず白く光っている。
自動ドアを抜けた瞬間、外の空気が肺に流れ込んできた。
俺の耳に、ようやく音が戻った気がする。
遠くの車、風が木々を揺らす音、夜の生活音。
現実に引き戻された感覚だった。
回収車の後部を開け、箱を専用ケースに収めると、固定ベルトを締め、ドアを閉じた。
それで終わり。
そう思った。
運転席に座ってエンジンをかけ、シートベルトを閉めながら、ルームミラー越しに後部を見る。
勿論、ケースは動いていない。
「ん……問題ない……な」
車を発進させて住宅街を抜け、大通りに出た。
深夜で少ないとはいえ、対向車のヘッドライトが近づいて来るとホッとため息が漏れる。
コン。
小さな音が響き、反射的にブレーキに足がかかる。
ミラーを覗くが、ケースはそのままだ。
「気のせいだって。気のせい。もうホント……深夜じゃなかったら事故ってたよ……」
そう呟いた瞬間――。
コン。
今度ははっきり聞こえた。
やっぱり後部からだ。
一瞬で喉が乾く。
無線に手を伸ばすより先に、声が飛び込んできた。
『聞こえてるな』
上司である所長の声に、俺は短く答える。
「……はい」
『気にするな。輸送中の残響だ』
残響。
便利な言葉だ。
三度目の音は来なかった。代わりに、車内の空気が重くなる感覚だけが残る。
その後、保管施設に到着するまで、箱は一度も鳴らなかった。
施設のゲートがゆっくり開いていく。しんと静まり返った中を、保管庫の手前まで進んだ。車を所定の位置に停め、ケースを抱えて通路を歩いた。
照明は最低限で、長い影が足元に伸びる。
保管庫の中は、ずらりと棚が並んでいる。
同じような箱、袋、容器が整然と収められていて、どれも静かだ。息をひそめているみたいに。
指定された棚に箱を置き、手を離す。
その瞬間――コン、と確かに鳴った。
ぞわっと肌が粟立つ。
周囲の誰も反応しないのは、聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか。
俺には、判断できない。
箱は動かず、ただそこにある。
一番近くにいた係員が棚番号を確認し、記録端末に入力する。
「回収ナンバー、八三四七。回収日時、二月十九日。保管庫ナンバー、十三のC三三〇六番」
俺も同じようにタブレットから管理表へと入力をしていく。
回収物番号、日時、保管庫ナンバー、俺自身のID、回収物の状態や接触時のこと……。
それで処理は終わりだった。
施設を出ると、所長が車にもたれて待っていた。暗がりで表情はよく見えない。まだ慣れないこともあってか、時々、保管を見届けに来てくれる。
「どうだった」
「……問題ありません」
短い沈黙が落ちる。
「開けなかったな」
「はい」
「それでいい」
それだけ言って、所長は煙草に火をつけた。
赤い火が一瞬だけ顔を照らす。
「見たやつはな、戻らない」
淡々とした声だった。
冗談には聞こえない。
黙ったままの俺と所長の間で、煙が夜に溶けていく。
俺は自分の手を見た。
段ボールの感触が、まだ指先に残っている気がする。
あの温もり、あの脈動。
もちろん、今は何もない。ただの手のひらだ。
それでも――。
耳の奥で、幻聴のような音がした気がした。
コン。
反射的に振り返る。
そこには何もなかった。
施設の壁、駐車場の白線、遠くに見える街灯の明かり。
ただの夜景だ――。
いつもと変わらない、何の変哲もない夜がそこにあった。
それなのに……どうしてだろう。
この静けさが、やけに重く感じられる。
車に乗り込み、ドアを閉めると、外の音が遠ざかって車内の静けさだけが残った。
仕事は終わったはずだった。
記録も処理も済んでいて、箱はもう俺の手元にはない。保管庫の棚の一つに収まって、番号で管理されている。
それで終わり。
そういう仕事だ。
なのに、指先が落ち着かない。
ハンドルを握ると、段ボールの感触を思い出してしまう。
あの、生々しい温度。
内側から押し返してくる、確かな気配。
何かがいた。
あの内側には、絶対に何かがいた。
「――見なくてよかった」
そう思う反面、頭のどこかで別の声が響く。
もし開けていたら、何が見えたんだろう、と。
考えた瞬間、背筋が冷えた。
この仕事で一番危険なのは、たぶん怪異そのものじゃない。
知りたくなることだ。
確かめたくなることだ。
所長の言葉が浮かぶ。
――見たやつは戻らない――
あれは脅しじゃない。
事実なんだろう。
だから俺は見ない。
これから先も、たぶん同じような箱を何度も運ぶ。
同じように叩かれて、呼ばれて、試される。
それでも見ない。
見ないで運ぶ。
それが、この仕事の全部だ。
エンジンをかける。
車がゆっくりと夜の道路に滑り出した。
街は何も知らない顔をしている。
誰も、あの箱のことを知らない。
知らなくていい。
知らないままでいい。
……俺だけが、覚えていればいい。
耳の奥で、何かが鳴った気がした。
気のせいだ。
そう決めて、アクセルを踏む。
夜は何事もなかったように広がっている。
次の回収先へ向かう道も、きっと同じ景色だろう。
同じ静けさの中で、
また何かが待っている。
この仕事は、夜にしかやらない。
理由は知らない。
教えられたこともない。
ただ最初の日に、所長はこう言った。
「昼間は、余計なものが多すぎる」
何が余計なのかは聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
俺たちの仕事は回収だ。
依頼者のもとへ行き、指定された物を受け取り、決められた場所へ運ぶ。
それだけ。
中身は見ない。
開けない。
理由を考えない。
それが唯一のルールだ。
破ったやつがどうなったのかは、誰も話さない。
ただ、記録だけが残っている。
――回収失敗――
その四文字が並んでいるだけだ。
この仕事を始めてから、俺は箱を『箱』として見られなくなった。
袋は袋じゃないし、瓶は瓶じゃない。
全部、何かを閉じ込めている。
そして時々、閉じ込められている側が――出たがる。
ノックする音を、初めて聞いたのは三日前だ。
気のせいだと思った。
二日前も聞いた。
昨日も。
そして今日、俺はまた回収に向かっている。
依頼内容は一行だけ。
『梱包済み。絶対に開封しないこと』
……書かれると、余計に気になる。
まるで好奇心を試されているようだ。ルールを犯すのか否か。
破れば戻れないのならば――。
俺は見ない。
絶対に見ない。
それが、ここで生き残る唯一の方法だからだ。




