回収物№8347――ノックする箱【前編】
ナビを確認して路肩に車を止めた。
フロントガラスから、改めて行き先であるマンションを見上げた。
外壁は色褪せ、いかにも築年数を経た建物なのに、オートロックの表示が光っている。
「古そうだけれど、オートロックか」
呟いた声が車内に響く。
住宅街のはずなのに、妙に音が少ない。遠くの車やバイクの音も、虫の声も、葉擦れもない。
「いやいやいや、深夜なんだから、静かなのは当然」
わざと自分を納得させる言葉を発してみる。
普段はこんな時間でも、どこかの家からテレビの音が漏れていたり、エアコンの室外機が唸っていたりするものだ。
それが無いだけで、こんなにも不安を感じるなんて。
マンションは五階建て。
ごく普通の建物だ。
なのに、視線を向けると、どこを見ればいいのか、わからなくなる。
窓の配置が、微妙に気持ち悪い。
左右対称のはずなのに、なぜか歪んでいる気がする。
四階の右端の窓だけ、サイズが違う?
いや、違わない。でも、どういう訳か目が滑る。
見続けるほど、どこを見ていたのかが、わからなくなった。
俺は意識して息を整えた。
こういう違和感は、現場では珍しくない。
車の後部座席からリュックを取り出す。
いつも通りの重さ。いつも通りの手順。
中を確認してみる。封をするための予備のテープ、手袋、懐中電灯。
手順を踏むことで、少し安心する。
マンションの入り口に設置してあるインターホンを前に、スマホを取り出すと、メッセージを開いた。
「……四〇五……っと」
プッシュボタンを押して聞こえてくる電子音のチャイムが、やたら大きく聞こえるのは、周囲の音がないからだ。
ザザッと雑音がしたのち、『どうぞ』という声と共に入り口が開錠音を鳴らす。
中に入ると、蛍光灯が一本だけ点いていた。
ちらつきもせず、ただ白く光っている。
「今どき、まだ蛍光灯か」
LEDが普及して、確かもう蛍光灯も製造が終了するはず。ここもそのうち、LEDに変わるんだろう。
エレベーターホールは足音がやけに響いた。
コツ、コツ、と乾いた音が、廊下の奥まで伸びていく。
掲示板のチラシは全部日焼けしているのに、今日の日付の回覧だけが新しい。
エレベーターは使うな、と上司に言われている。
理由は聞いていない。なんでだろう、と、いつも思う。
もしも回収先がタワマンの高層階だったらと思うと、ゾッとする。
非常口の重い扉を押して外階段に出ると、冷たい手すりが手のひらに触れた。
響く足音を聞きながら階段を上がっていくと、四階に着いたところで、空気が変わったのを感じた。
湿っているような、籠っているような……肺に絡みつく空気と、言葉にしづらい違和感。それは誰かの生活の匂いじゃなく、長い間、閉じ込められた空気が纏う、独特の重さだった。
目的の部屋は一番奥。
廊下を歩きながら、他の部屋のドアを横目で見る。
どの部屋も生活感がないけれど、ファミリー層の多いマンションじゃなければ、大体はこんな感じだ。
ドアの前に立つと、部屋番号のプレートと指示メッセージにある部屋番号を照らし合わせる。
「……ここだ」
指をインターホンに伸ばす。ほんの一瞬、ためらった。
小さく息を吐いて、肩の力を抜く。
思い切って、ぐっとボタンを押した。
――ピンポン――
反応がない。
もう一度押そうとしたとき、内側で何かが動く音がした。
ゆっくりと、鍵が回り、ドアが数センチだけ開く。
隙間の向こうから、目が覗いていた。
「……回収、ですよね」
問いかけてくる依頼人の声がかすれている。白目が薄っすらと充血した、疲れ切った目だった。
俺は頷き、社員証を見せる。
依頼人の表情が緩んだように見え、ドアが押し開けられた。
「……どうぞ」
ドアが完全に開いたその瞬間、部屋の奥から、かすかな音がした。
――コン。
小さな、乾いた音。
俺は反射的にそちらを見た。
正面の部屋、その中央に、段ボール箱が置かれている。
何の変哲もない、普通の箱。
なのに、視線が離れない。
――コン。
今度ははっきりと聞こえた。
段ボール箱の内側から、何かが叩いている。
規則的な音じゃない。
何かを伝えようとしているような、そんなリズム。
俺は息を止めて、その音に耳を澄ませた。
――コン、コン。
二回。
そして、静寂。
箱は、微動だにしない。
中に何かがいる――。
それだけは、確かだ。
「あの箱……覚えがないんです。いつの間にか……気づいたらあって……」
部屋の中に入り、箱に近づいた瞬間、空気の質が変わった。
さっきまで感じていた部屋の湿った匂いが、そこだけ抜け落ちている。箱の周囲だけ、別の空間が重なっているような奇妙な感覚だった。
「依頼してから送られてきた箱に入れたんですけど……」
段ボール自体は何の変哲もない、うちから梱包のために発送している資材だ。丁寧に梱包され、角も潰れていないし、テープもしっかりと貼られている。
普段の……いつもの回収物と同じだ。
視線を落とすと、テープの端がわずかにめくれ、震えているのが見えた。
風はない。
いや、風があったとしても、よほど強風でもなければ、小さなめくれが風で揺れるはずがない。
息を止めた瞬間だった。
コン。
小さな音が、足元から響いた。
耳で聞いたというより、頭の内側を叩かれたような感覚だった。
箱の中からだと理解するのに、時間はかからなかった。
背後に気配を感じて振り向くと、依頼者が壁際に立っている。箱からできるだけ距離を取るように。
「……ずっと、ああなんです」
まだ声がかすれていた。
「最初は気のせいかと思ったんです。でも、昼も夜もなく……叩くんですよ」
言葉を追いかけるように、
コン。
また鳴った。
依頼者の肩が跳ねる。
「聞こえましたよね……?」
俺は答えずに箱を見つめた。視線が外せない。段ボールのただの継ぎ目が、今にも開きそうに見える。
「……開けて、確認してくれませんか」
依頼者のその言葉が、やけに自然に耳に入った。
業務上、ありえない依頼だ。断るべきだと分かっているのに、なぜか反論が浮かばない。
ほんの少しテープをめくるだけでいい――そう思えてしまう。
それだけで、この異様な空気は終わる。
唾を飲む音さえも、全身に響くほど大きく聞こえ、喉の奥がじわりと熱くなる。
背負ったリュックから手袋を出して、しっかりとはめた。
コン。
さっきより近い音だった。
依頼者が後ずさる。
俺は膝をつき、ゆっくりと箱の側面に手を伸ばした。
指先が段ボールに触れた瞬間、全身が強張った。
温かい。
いや、温かいという生易しいものではない。これは段ボールが持つはずのない熱だ。まるで生き物の体温。
それも、今まさに生きている何かの温もりが、手袋を通して指先に伝わってくる。
さらに気味悪いことに、かすかな脈動まで感じた。
心臓が一拍、大きく跳ねた次の瞬間――。
コン、コン。
連続して叩く音が響いた。
やっぱり内側から。
反射的に手を引きそうになるのをこらえながら、箱を見つめる。
動いてはいない。ただ音だけが存在している。
頭の奥で声がした。
――開けろ。
自分の声だった。
耳で聞こえたのではない。思考の内側で直接響く声。
中を見れば終わる。
見なければ、この異様な雰囲気のままだ。
その確信が、衝動に変わり、指先がテープに伸びる。
端をつまみ、わずかに浮かせた瞬間、IP無線が弾けた。
心臓が止まりそうなほど驚き、思わず声を上げるところだった。嫌な汗が全身から噴き出した気がする。
『触るな』
低い声が、思考を現実に引き戻した。
『聞こえている音はお前に対してだが、相手にするな』
箱の内側で叩く音が激しくなる。
コンコンコンコン。
急かすように、責めるように。
手の中の段ボールが押し返してくる。内側に何かがいる。
けど、開けない。
絶対に。
テープを強く押さえつける。
叩く音が最高潮に達し、頭の奥で反響する。
息が詰まって呼吸がしづらい。
そして――。
音は唐突に止んだ。
完全な沈黙。
箱はただの箱に戻っていた。
温度も脈動も消えている。
依頼者の荒い呼吸だけが部屋に残る。
俺はゆっくりと箱を持ち上げた。
軽い。
拍子抜けするほど軽い。
さっきまでの抵抗が嘘のようだった。
依頼者は壁に背を預けたまま、箱を見ている。
「……終わったんですか」
問いかけには答えず、業務通りに答える。
「回収します」
それだけだ。
箱は静かだった。
静かすぎて、耳が痛くなるほどに。
俺は振り返らず、玄関へ向かった。




