回収物№9081――呼ばれない名前【後編】
翌日、健康診断を受けたあと、事務所に出勤すると別室へと呼ばれた。
「どうだった?」
「はい……やっぱり面接に来たことは覚えているんですけど……」
――夜行物品管理株式会社――
怪しい。
そう思いながら、この事務所へ面接に来た。
そのあと、採用されて仕事をしていたようだ。驚いたのは、あれから一年以上も経っているということだった。
「そうか……」
記憶の一部が抜け落ちているんだと、診断の時に告げられた。どうやら仕事中に、何らかの事故に遭ったらしい。
この職場は勤務時間が夜間のみ。
このまま今の仕事を続けるのは、危険性が高いと言われた。
給与や福利厚生面に惹かれて選んだのに……失業したら……先の生活が不安だ。
所長は、書類に目を落としたまま口を開いた。
「一つ、提案がある」
淡々とした声だった。
「お前の実家の近くに、農園があるだろ」
「……ありますね」
「お前の父親は、今もあそこで働いている」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
知っている、というより――見てきたみたいな言い方だった。
「今、人手が足りてないらしい。日勤だ。夜はない」
それだけ聞けば、十分だった。クビ、ということなんだろう。
退職して、実家へ帰れ――そう言われているのだと、頭のどこかで理解していた。
「……わかりました」
迷いはなかった。
勤務を続けられる状態ではないのなら、仕方がない。
「手続きはこっちで回す。形式上は異動だ」
「クビ……じゃなくて、異動、ですか?」
「あの農園は、うちの関連会社だ」
それは知らなかった。父親が働く農園が、自分が勤めている職場の関連会社だったなんて。そして、あそこで自分が働くことになるなんて。
戸惑いを隠せず、俺はう俯いたまま黙っていた。
室内に沈黙が満ちる。
「向こうでは実家で暮らすか? 必要であれば寮もあるが」
この年になって実家暮らしというのも……兄たちや姉は、それぞれ家を出て家庭を持っているのに。戻るのが、少しだけ後ろめたかった。
「寮……がいいです」
「では、その手配もしよう」
「……すみません」
たった一年程度、働いただけなのに……手間を掛けさせて申し訳なく思う。つい、俯いた俺の前に書類が何通か差し出された。
「福利厚生や条件面は、うちと変わらない。給与面は、うちより割高だ」
「……え?」
この仕事も給与が高かったのに、それ以上だとは思いもしなかった。
「大変な仕事なんだ。当然だろう」
所長はそういう。
ただ……。
これまでは、何をしていたのかが気になる。
「あの、俺はこの会社で……どんな仕事を……」
「不用品の回収と運搬、データ入力だ」
「そうですか……」
新たな契約書を前に、指定された場所に次々と名前を書き込んだ。
色々なことに違和感があるけれど、一年もの記憶がなければ、それも当然なのだろう。
「……あそこは、静かだ」
全ての書類を書き終えると、所長はそれをまとめながら、そう言った。
「悪くない」
俺は自然に頷いていた。
所長の言う通りだ、と思う。
それで、決まった。
――数日後。
会社が手配してくれた車は、街を離れ、山の奥へ入っていく。気づけば、周囲には何もなかった。
畑と、空だけが広がっている。風の音が、やわらかく、虫の声が、途切れない。
車のラジオから流れる曲に懐かしさを感じ、自然と鼻歌を歌っていた。
何の曲だっただろう。男性の声で英語の曲だけれど……子どもの頃によく聞いた気がする。
「ここが、新しい職場です」
車が止まり、運転手が俺に向かって言う。
寮にはもう、荷物も届いているらしい。
また、ここに戻って来るとは思わなかったけれど、これでいいと思った。
これ以上、考える必要はない。
車を降りると、かつて嗅ぎ慣れた土の匂いがする。
遠くの畑で、人が動いていた。こちらに気づいたのか、手を振っている。父親だ。
それに、軽く手を上げて応える。どこか安心する光景。
「……静かだな」
思わず呟く。
「ここは、何も起きないから」
運転手が答えた。
それを、疑う理由はなかった。
胸の奥に、何かが引っかかる。
けれど、それが何なのかはわからない。
深く考えようとも思わなかった。
ここでの仕事は、難しくなさそうだ。
土に触れて、植物を育てる。
それだけ。
夜のことは、もう関係ない。
そう思えた。
――誰かの名前を呼ぶ必要も、ない。そんな場所だった。




