回収物№9081――呼ばれない名前【前編】
夜の仕事にも、もうすっかり慣れていた。
変わらないルール。変わらない手順。
見ない。開けない。考えない。
……それでも。
慣れたからこそ、油断はしない。馴染んではいけない。
もう、逃がしたくないから。
段々と減っていく街灯。寂しげな夜。
ただ、通話の向こうに誰かがいる夜は、少しだけ違っていた。
『今日は遠いの?』
イヤホン越しの声が、軽く笑う。
「そうでもないよ」
短く返す。それで会話は続く。
名前を呼ばなくても、通じる距離。
――あれから三カ月。それが、当たり前になっていた。
「今夜の回収物は……」
ナビに表示された依頼現場を、もう一度確認する。
現場名が空欄だった。
「あれ? 入力ミスか?」
『え? どうかしたの?』
「現場の名前。何も出てない」
車を路肩に停めて、画面を見直した。
いつも所長がピンに現場名を入れている。今夜はそれがない。
タブレットで依頼内容を確認してみた。
「……こっちも空欄だ」
回収物の説明欄が崩れて表示されていた。文字があるはずの場所に、何も残っていない。事務所を出るときに、一度、確認しているのに。
不審に思いながら、車を出した。まずは現場に向かってみなければ。
『依頼の内容がわからないなんて、そんなこと、あるの?』
少しだけ舞日の声の調子が変わった。
俺は所長に連絡を入れようと、無線に手を伸ばした。
「いや、依頼内容は――」
言いかけて、止まった。
何を言おうとしたのか、一瞬だけわからなくなる。
『六郎くん?』
舞日の声が、やけに遠く聞こえた。
『ねえ、今どこ?』
「現場。もうすぐ着くんだけど……」
『待って』
舞日にしては、珍しく口調が強い。
『そこ、やめた方がいいと思う』
不安そうな声で言う。
「なんで」
『わからないけど……嫌な感じがするの。入らないで』
言葉を選んでいるのがわかる。
説明できないものを、無理に言葉にしている声だった。
「大丈夫だよ。心配しないで。もう着くから……終わったら連絡する」
『待って――』
舞日が何かを言いかけたけれど、俺はちょうど通話終了のボタンをタップしたところだった。
「あっ……」
失敗したな、と思った。
でも、今から回収がある。
かけ直すのは、それからでも遅くない。
現場は、使われていない倉庫だった。
照明は落ちている。
月明かりだけが、地面に薄く伸びていた。
人の気配はない。
今回も、依頼者立ち合いのはずだったのに。
俺は無線を手に取った。
『何だ』
すぐに所長に繋がる。
「現場到着。依頼人はいないようです」
『いない?』
「はい。人の気配はありません。明かりも消えています」
『確認する。少し待て』
ぷつりと無線が切れた。
手持ち無沙汰で、俺は周囲を確認した。
倉庫の裏は鬱蒼とした雑木林で、道路を挟んだ倉庫の反対側は、畑が広がっている。ビニールハウスが並んでいるのも見えた。
遠くに点々と、民家が見えた。どことなく実家の風景に似ている。
蒸し暑い夜。静寂に少しだけ、息が詰まる。
近くを通る車もなく、虫の鳴き声が耳鳴りのように聞こえた。
『――空木』
無線から所長の声が俺を呼ぶ。
「はい」
『情報が確定しない』
所長の背後で誰かの声と、ガザガサと紙や物を移動する音も聞こえる。
「どういうことですか」
『確認中だ』
珍しい言い方だ。
大抵、依頼人とはすぐに連絡が取れて、不在のまま回収が行われる。
それが、確認中……というのはどういうことだろうか。
俺はもう一度、タブレットで依頼内容を確認した。
やっぱり、さっきと同じで空欄になっている。
「依頼内容のデータですが、空欄で確認できません」
『空欄?』
無線の向こうで所長が動いている気配を感じた。マウスのクリック音も微かに聞こえる。
『そのまま待機だ』
「え?」
『確認している。指示するまで建物の前で待て。中には入るな』
「わかりました」
そう答えたものの、何もない真っ暗なこの場所で、じっと待つのは不気味だ。できるなら、早く回収を終えて帰りたい。
しばらく待つも、無線は黙ったまま。
虫の鳴き声だけが、やけに耳についた。
いつものような夜のはずだけれど、どこかいつもと違う。
不安そうな舞日の声。所長の対応。違和感というより嫌な予感だろうか。
――それでも、本気で危険だとは、まだ思っていなかった。
俺は倉庫に近づくと、そのままドアを開け、中に入った。
「回収物の確認くらいは……どうせ俺が回収するんだし……」
小さなものであれば、回収しても問題ないように思う。以前のような大型家具であれば、応援を待つしかないが……。
使われていない倉庫だからか、中は空っぽで、しんと静まり返っている。暗くて何も見えない。俺はライトを出して、周辺を照らした。
倉庫の中央に、箱が置かれていた。
小さな段ボールだ。見慣れた、いつもの梱包資材。ただ、封はされておらず、蓋が開いたままになっていた。
「梱包途中なのか……」
四十センチ四方くらいだろうか。一人でも十分、持てる大きさだ。
近づきながら、リュックから封印用のテープを出した。膝をつき、梱包しようと箱を引き寄せた。
「……軽い?」
引き寄せたとき、重さを感じなかった。
回収物が、そこにある実感が持てない。それでも、段ボールの中身があるのはわかった。
俺は手袋をはめると、箱に右手を入れ、中を覗き込んだ。
――空だった。
何も入っていない。
なのに……指先が、何かに触れていた。
つまもうとしても、握ろうとしても、小さいものなのか、上手く掴めない。
――でも、ここにある。
見えないのに触れる感触だけが、残る。
「……なんだこれ」
無線機の向こうで、所長の声がしていた。何か言っているのはわかるのに、言葉の意味が入ってこない。
『六郎くん、離れて!』
急に声が耳に届いた。
それなのに理解が遅れる。
段ボールの中に、何かがある。それだけはわかった。
――それ以上が、わからない。
頭の中から、言葉が抜け落ちていく。さっきまで見ていた外の景色が、所長の指示が、舞日との会話が――浮かんでは、消えた。
俺はただ、膝をついて段ボールを覗き込んだまま、動けずにいた。
どのくらい、時間が過ぎただろう……。
背後で複数の足音がして、俺は振り返った。
入口に、影が二つ立っていた。
所長と――。
「六郎くん!」
俺の名前が呼ばれた。
はっきりと耳に届く声だった。
その瞬間だけ、世界が戻ったように思えた。
暗がりの中を、駆け寄ってくる彼女の姿が、ほんのりと明るく浮かんで見える。
俺の横に膝をつき、すがりつくように首に手を回してきた。
「入らないでって言ったのに」
息が少し上がっている。
ここまで走ってきたのがわかる。
「これ……何?」
彼女の視線が、俺の指先に向いている。
さっきは見えなかったはずなのに、四角い小さなプラスチックのケースを指でつまんでいた。
「これは……ゆ……」
これと同じものを、よく目にしているはずなのに――。
説明ができない。
自分が手にしているものの名前が分からない。
「六郎くん」
彼女は荒い呼吸を鎮めるように、大きく肩で呼吸をしている。
「呼んで」
静かな声だった。
「私の名前」
彼女が誰かを、俺は理解している。何度もその名前を呼んだ。
なのに――。
口が、動かない。
「……ま」
音が途切れ、先の言葉が続かない。
名前が出てこない。知っているはずなのに。何度も呼んだはずなのに。
それが――見つからない。
頭の中で、何かが剥がれる音がする。
ベリ、と。
記憶が、剥がれていく。
「ねえ」
彼女は俺の肩を揺すった。声が震えて聞こえるのは、俺が揺れているせいだろうか。
「どうして」
こんなに近くにいるのに、彼女の存在がやけに遠い。輪郭が、薄れていく。
掴めない。
「お願い。呼んで」
もう一度、懇願するように俺の目を見つめている。
「……ま……」
俺はそれに答えようと、何度も繰り返すのに、どうしても名前が思い出せない。
ま、と声に出すたびに、舌が止まる。喉の奥が詰まっているような感覚。あるはずの音が、出てこない。
彼女の存在が、視界から零れ落ちそうに感じた。
思わず、その頬に左手を伸ばした。
指が空を切る。
「離れろ」
頭の上で低い声が響いた。
ぐいと肩を引かれ、段ボールとの間に所長が割って入った。
「それは通常のものじゃない」
手袋をはめると、俺の手から黒いものをもぎり取り、段ボール箱に投げ入れた。
「回収から逃れたものだ」
理解が追いつかない。目の前の景色が揺れていた。
――いや。
揺れているのは、俺の方だった。
「これ以上は、持っていかれる」
『持っていかれる』という言葉の意味が掴めない。
目の前に広がる世界が薄くなる。音が段々と遠ざかり、景色の輪郭が……崩れた。
頭の中で次々と消えていくのに、それが何なのか、気づけない。
手早く箱が閉じられ、所長はそれを小脇に抱えて立ち上がった。
倉庫の中は、静寂だけが残っている。最初から、何もなかったみたいに。
「……回収完了」
所長が呟く。
その言葉を聞きながら、俺の意識は暗転した。
――それからのことは、よく覚えていない。
気がついたら、会社に戻っていた。
記録端末が目の前にある。
回収番号が表示されている。
――№9081――
回収物の内容は、空欄。
それが正しい気がした。
俺は、端末に今日の日付を入力する。
回収完了。
それで終わりだ。




