回収物№7266――重なるオルゴール【後編】
このアパートに来るのは何度目だろう。
舞日を送り届けながら、そんなことを思った。
彼女は……。
呼ばれたと言って現場に来るけれど、それは俺の時だけなんだろうか。
他の誰か……例えば邑本の現場に行くことも……?
その時は邑本が、こうやって舞日を送るんだろうか。
行って欲しくないし、俺以外の誰かが送るのも気に入らない。
相手が影咲や篠凪であっても、だ。
「余計な時間を取らせて、ごめんなさい」
舞日はそういって頭を下げ、車を降りた。
「送ってくれて、ありがとうございました」
余計なんかじゃない。
送らない選択肢もあったのに、送りたかったのは俺だ。
理由は……分かっている。
俺は車を降りると駆け出して、アパートの階段を上ろうとしている、舞日の手を取った。
――温かい。
当たり前のことなのに、今夜はそれが妙に沁みた。生きている人の体温だった。こんなに当たり前のことを、どうして改めて確かめたくなるんだろう。答えは出ないまま、俺は手を握ったままでいた。
「……どうしたんですか」
舞日は驚いた顔で振り返った。
「いや……」
理由が、出てこない。ただ、離したくないと思った。
それだけだった。
「……俺は……あお……舞日さんが好きだから……危ない現場に来て欲しくないと思ってる。それは分かっていて欲しい」
舞日は息を飲んで俺の目を見た。
気恥ずかしいのに、視線を離せない。
「今日は、ゆっくり休んで」
名残惜しいのを堪えて手を離すと、俺は車に戻った。
「――六郎くん、運転には気をつけて」
階段の手すりから身を乗り出す舞日に手を振り、エンジンをかけて車を出した。
名前を呼ばれただけなのに、特別なことのように感じてしまう。こんなに単純なことで浮き立つ自分が、少し恥ずかしかった。
落ち着かない気持ちのせいか、気づけば足は膝を揺らし、指は小刻みにハンドルを叩いていた。
信号が赤に変わる。ブレーキを踏みながら、ふと、窓の外に目をやった。夜の道路は静かで、俺の浮ついた気分とはまるで釣り合わなかった。
不意に後部から音が聞こえた気がして、バックミラーを見た。特に何も映っていない。回収ボックスも、動かない。
今夜も静かだった。
完全に。
なのに――。
耳の奥で、かすかに音がした気がした。
重なっていた、あの旋律。
その一部だけが、まだ残っているような……。
一瞬、車を止めようかと思った。ただ、確信が持てない。
音を深追いしてはいけない――。
そう考え、俺はアクセルを踏み込んだ。
保管庫内に入ると、今夜も管理人が待ち構えるようにして立っていた。案内されてボックスを棚に置く。
管理人のいつもの張り付いたような笑顔が、俺と目が合った瞬間、怪訝そうな表情に変わった。
「キミ、何か浮かれてる?」
「え……? 別に浮かれてなんかいませんけど」
「そう? 何だかウキウキしてない?」
舞日の顔が浮かび、また手汗が滲む。
「……してません。それより、また青葉さんが現場に来ましたけど、今日のは誰です?」
「回収ナンバー、七二六六。回収日時、四月二十五日。保管庫ナンバー、十三のV八八番」
答える代わりに処理番号を伝えてくる。
仕方なくタブレットに入力をした。
その間、管理人は何が気になるのか、回収物に何度も視線を向けている。
「今日のはね、ボクじゃなく玖瀬くんね」
管理人じゃなく、所長だったのか。
関わらせるなと何度も言ってきたのは、所長の方じゃないか。
それを今更、どうして舞日を現場に……。
「ねえ、キミ」
「なんですか」
「これ、たぶん中身、抜けてるね」
「え?」
たった今、棚に置いたばかりの回収ボックスを、軽く叩いてそう言った。
回収は確かにした。
袋から出ることもなかった。
それなのに、中身が抜けている――?
「そんなはず……」
そんなはずはない、と言いかけて、「浮かれてる」と言われたことが、頭の隅に引っかかった。あの時、俺は何を考えながらオルゴールを手にしていたんだろう。
管理人はボックスに耳を寄せ、もう一度コツコツと叩く。
「んー……規定のルールがあるから開けられないけど、やっぱり抜けてるかな」
全身から血の気が引く思いがした。
どこで何を間違えたんだ。
「まあ、時々あるんだよ。こうやって逃げられちゃうこと」
軽い口調でそう言うけれど、こんな事は初めてだった。
回収した時の手順を思い出そうとしても、細かな部分が思い出せない。ただ、あの時、確かにオルゴールを手にした。ジッパーもしっかり閉じた。それだけは間違いない。
「戻ったら報告書の備考欄に、抜け落ちの可能性があるって記載しておいてよ」
「……わかりました」
「ボクの方でもデータの処理と、玖瀬くんに連絡入れておくから」
事務所へ戻る道すがら、何が悪かったのかを考えていた。
管理人が言ったように、俺は浮かれていたんだろうか。
いや。
あれは、回収が済んだ後の話だ。
また、思い出す。
誰かが自分に好意を向けてくれることが、こんなに気持ちを動かすんだと、久しぶりに感じた。
ただ――。
今は喜んでばかりいられない。
今夜の回収は失敗になるんだろうか……。
「今回のは失敗にならない」
事務所に戻った俺に、所長はそう言った。
「でも、管理人さんは中身が抜けているって――」
「良く、とは言えないが、逆井乃が言ったように、そういう事もある」
回収直前に怪異が逃げ、それに気づかないまま、抜け殻となった回収物だけを梱包してしまう。
抜け殻だと分かるのは、保管庫に搬入してからだそうだ。
「……逃げた怪異はどうなるんですか」
「心配しなくても、すぐに依頼が来ることになる」
それは、また誰かが被害に遭う……ということだ。
逃がすことなく回収できていれば、誰も被害に遭うことはなかったんじゃ……。
「自分が逃がさなければ、と思うだろう?」
言い当てられて、俺は黙ったまま頷いた。
「こればかりは、怪異次第だ」
「それでも――」
「回収に行ったのが誰であっても、起こり得ること。それだけだ」
所長の言っていることは正しいのだろう。
それでも納得はできなかった。正しいことと、受け入れられることは、違う。俺が今夜あそこにいた。それだけは変わらない事実だから。
処理データを打ち直し、全てが終わった。
――回収完了。
本来であれば、そう記録されるはずの夜だった。
画面を閉じると、事務所の室内が妙に広く感じた。舞日の手の温度が、まだ指先に残っているような気がする。それが錯覚だと分かっていても、今夜だけはそのままにしておきたかった。




