楽園
農園に来て、一週間が過ぎた。
朝は早い。
日が昇る前に起きて、一日の準備をし、土や植物に触れる。
決まった作業を繰り返すだけだ。
外栽培の仕事もあれば、ハウス栽培の仕事もある。ときには家畜の手伝いに駆り出されることも。
でも、どれも難しくはない。
考えることも、ほとんどない。
それが、心地よかった。
余計なことを考えなくていい。毎日、穏やかな時間が流れている。
ここでは、それが当たり前だった。
「六郎」
呼ばれて振り返ると、父がいた。
軍手をはめたまま、軽く顎で合図する。
「新人が来るそうだ」
「……新人?」
「ああ。今日からだ」
それだけ言って、先に歩いていく。深く考えることもなく、後を追った。
農園の入口に、一人立っていた。作業着姿の見慣れない顔。
――初めて見るはずなのに、足が、一瞬だけ止まる。
「……あ」
向こうも、こちらを見る。
目が合った瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
理由はわからない。
ただ、視線を外せなかった。
「今日から入る、青葉舞日です」
透き通るような声だった。
どこかで聞いた気がするのに、思い出せない。
「……空木六郎です」
軽く頭を下げて返す。それで十分なはずなのに、言葉のあとに、わずかな違和感が残る。
互いに名乗り合っただけの挨拶……なぜか、言葉が足りない気がした。
「六郎。今、お前がやっている作業を、青葉さんに教えてあげなさい」
「……わかった」
まだ覚えたての仕事内容だけれど、教えられないほど難しい作業はない。彼女は頭を下げてから、俺を見た。
「よろしくお願いします」
「じゃあ……こっちに来て」
それだけ言って歩き出すと、彼女は一歩遅れてついてくる。
距離は、少しだけ空いている。近すぎず、遠すぎず。不思議と、その距離がしっくりきた。
「今日は、この区画の収穫をするんだ」
はさみと籠を渡し、まずは、やってみせる。
言葉で説明するより、わかりやすいと思った。
「こうやって……ここを切ったら、この籠に並べて入れる」
「はい」
素直な返事だ。
慣れない手つきで、ぎこちない動きが危なっかしい。
それを見ていると、なぜか落ち着かない気持ちになる。
「……急がずに、ゆっくりでいいから」
口から出ていた。
言うつもりはなかったのに。
彼女がこちらを見る。
一瞬だけ目が合うが、すぐに逸らされる。
「……ありがとうございます」
小さく返ってくる。
その声に、また胸の奥に引っ掛かりを感じる。
――思い出せない。
でも、知っている気がする。
それが、少しだけ気持ち悪かった。
言葉を発しないまま、作業は続く。
土の匂い。
水の音。
風の気配。
全部、ここへ来たときから変わらない。
それでも――。
隣に誰かがいるだけで、少しだけ違う。
その理由は、わからないまま、時間だけが過ぎていく。
昼休み。
畑から少し離れた木陰で腰を下ろし、一息ついた。彼女は少し離れた場所に座っていた。距離は、やっぱり同じくらいだ。
近すぎない。でも、遠くもない。
「……慣れた?」
思わず声をかけた。
「まだ、少し」
小さく笑うその表情に、胸がわずかにざわつく。
「……そっか」
それ以上は会話が続かない。何を話したらいいのか……それとも特に話す必要などないのか……。
ただ、この感覚を不自然とは思わなかった。彼女といると、沈黙が苦にならない。少し離れて隣に座る――それだけで十分な気がした。
風が吹く。
葉が揺れる音がする。
その中で、ふと思う。
俺は……この時間が嫌じゃない。
ただ――なんとなく、心地良い。
そう思った。
***
農園の片隅に建つ管理棟の脇、大きな駐車場に俺は車を停めた。
「……変わらないな」
車を降りて周囲を見渡すと、そう呟いた。
「ここは、そういう場所だからね」
同乗者も車を降り、そう答える。
そのまま、農園の中に入り、柵越しに作業を眺めた。
遠くに見える、働く人影……その中の二人に、自然と視線が留まった。
少しだけ距離を取りながら、並んで動いている。
「……問題はなさそうだ」
「そうだね」
一番近くで作業をしていた一人がこちらに気づき、手を上げて呼びかけてきた。
「玖瀬、逆井乃!」
同じように手を上げて応じる。彼は他の作業員たちに何かを指示を出すと、こちらへ歩み寄って来た。
「久しぶりだな、二人とも」
「ああ。元気そうだな」
「そっちも。今日はどうしたんだ?」
泥だらけの軍手を外しながら、にこやかに笑う顔は、昔と変わらない。浅黒く日焼けした元同僚は、いかにも健康的に見えた。
「近くまで来たから、立ち寄ったんだよ」
「そうか。玖瀬も逆井乃も、相変わらず忙しそうだな」
「まあな。人手不足なのも変わらない。空木の方はどうなんだ?」
そう問うと、彼は農園の方を振り返った。
「うん……こっちも高齢化で人手が足りなかったけど、最近、若いのが二人、入ったんだよ」
「それはいいね」
逆井乃が答えると、彼は少し照れ臭そうに微笑んだ。
「一人は全くの新人さんでね。もう一人は、末の息子だ」
「息子さんが。それは心強いな」
「今のところ、真面目にやってくれてな……」
最初は同じ職場に息子がいるのが気恥ずかしかったが、今は身内が一緒に働いてくれるのが、有難いんだと語る。楽しそうに話すのを、逆井乃も嬉しそうに聞いていた。
「六郎が、まさか玖瀬の所で働いていたなんて、思いもしなかったよ」
「だろうな。俺も驚いた」
「ここの人手不足を知っていたから、玖瀬くんは息子さんを泣く泣く手放したんだよ」
「えぇ? 六郎はそんなに優秀だったのか?」
「……まあな」
話が弾んでいるのを尻目に、俺は畑に目を向ける。
さっきまで並んで動いていた二人――空木六郎と、青葉舞日の姿。
六郎は黙々と作業をしているが、舞日は顔を上げ、こちらを見つめていた。
「……気づいていたのか」
逆井乃と空木が話している中で、どんな流れがあったのか、空木が六郎たちを呼ぶ。
六郎が顔を上げ、わずかに驚いた表情を見せた。
「所長。その節は色々とありがとうございました」
「いや。元気にやっているなら、それでいい」
穏やかな六郎とは対照的に、舞日は警戒した顔つきをしていた。
「……来たんですね」
俺にしか聞こえないよう、小声で話す。
「経過観察だ」
それに短く答えた。
「……六郎くん、どう見えますか」
「安定しているな」
舞日は小さく頷いた。安堵がそのまま表情に浮かぶ。
「ここなら、安全だ」
俺がそう言いきると、舞日が続ける。
「怪異は入れない。ここでなら、私も、呼ばない」
その言葉には重みがあった。
「……分かっている」
「それでも……」
舞日は言葉を継ぐ。視線は六郎へと向けられていた。
「もし……六郎くんに何かあったら……」
一瞬だけ間を置いて、舞日は俺を見上げた。
「私が、盾になります」
迷いのない、静かな決意が垣間見えた。
俺は何も言えなかった。
舞日を否定はしない――いや、できない。
「……そうか」
そう返すだけだった。
しばらくして、俺たちは農園を後にした。
振り返ることはない。もう、その必要はないのだから。
***
東京へと向かう車中、逆井乃が口を開く。
「みんな元気そうでよかったよね」
「そうだな」
「でも……本音を言えば、青葉さんには楽園入りして欲しくなかったなぁ」
逆井乃は助手席のシートに身を沈め、残念そうな声を上げた。
「協力員として、回収物の観測を手伝って欲しかったよ」
「……お前の所は、他にも協力員がいるだろ。お前自身だって」
「そうなんだけどさぁ……ボクはね、もっと多角的な視点で観測データが欲しいんだよ」
駄々をこねる子どものように、逆井乃は身を捩って頭を抱えた。
怪異の感じ方は人それぞれで、自分とは違う感覚を持つ協力者を求めているのだと言う。
青葉舞日のタイプは、今の協力者にはいないらしい。
「……それにしてもさ、ホント、人の心や記憶って不思議で厄介なものだよね」
「……ああ」
「形のない、思念でしかないものなのに。こんなにも生きている人間に影響を与えるなんて」
まったくだ。 思いや感情は、本来、形を持たない。ところが、それが何かに宿り、やがて薄れると、今を生きる人間の心や記憶を削って補完しようとする。
「俺は……空木には申し訳ないことをした」
逆井乃は頭の後ろで腕を組み、視線だけこちらに向けた。
「それ、どっちに?」
「両方――いや、恒一に、だな」
父親である空木恒一が回収に失敗したとき。
かつての同僚として、自分がもっと早くに動きだしていたら。
六郎と舞日が、怪異に巻き込まれることはなかっただろう。
「でもまあ、彼らは命まで削られなかったから、結果としては上等なんじゃない?」
強い怪異に巻き込まれた場合、人は命を削られることもある。
それを思えば、記憶で済んだのは軽いほうだ。
「彼らは今、楽園で平穏に暮らしていられるんだからさ」
「……そうだな」
「それに……空木くんは、また青葉さんを忘れてしまったけど……あそこで一からやり直せるじゃない」
「……ああ」
わかっていても、納得のできないことなど、生きていればいくらでも起こる。
俺も逆井乃も、それ以上の言葉を継げず、黙ったまま車は高速を降りた。
「ところで、東京第一支部は、また回収員がいなくなったね」
いつもの軽い調子に戻った逆井乃が、ぽつりと言った。
「回収、どうするの?」
「心配ない」
俺は、それに短く返す。
「このあと、面接が入っている」
「へえ、思ったより早いね」
「ああ」
「次は長く続くといいよね」
逆井乃を保管施設で下ろし、俺はそのまま事務所へと向かう。
新しい雑居ビル。
六郎が農園に異動した日、東京第一支部は事務所を移転した。
真新しい事務所。
机。
椅子。
書類はまだ、段ボールに入ったまま。
しばらくして、控えめなノックの音がした。
「どうぞ」
ドアが開き、若い男性が入ってくる。
緊張した面持ちだ。
席に座らせ、差し出された履歴書に目を通す。 形式どおりの面接。 履歴、経歴、職歴、志望理由――すべて確認する。
そうして俺は、一つだけ聞く。
「時間は守るタイプか?」
- 完 -




