回収物№973――声をしまう瓶【前編】
夜は、声が残る。
昼に出したはずの音が、どこかに引っかかって、遅れて戻ってくる。
この仕事を始めてから、そう思うことが増えた。
『今回の対象は瓶だ』
現場へ向かっている途中で、無線が入る。
『発声あり。接触注意』
「了解」
いつものように、短く返す。
――瓶。
それだけで嫌な予感がする。
これはもう、職業病だな、と思う。
「中はなんですか?」
一応、聞いてみると、答えはすぐに返ってきた。
『考えるな』
いつも通りの反応。
『開けるな。それだけだ』
それで十分だった。
依頼現場は、小綺麗なアパートだった。
同じデザインの建物が三棟並ぶうちの一棟。その三階。
階段の途中で、上から声が聞こえた。
誰かが話している小さな声に、俺は足を止めた。
「……誰かいます」
声をひそめて無線に報告を入れる。
『依頼は単独だ』
そうなると、アパートの他の住人だろうか?
こんな夜中に、よりにもよって依頼人と同じ棟で、立ち話か?
『確認しろ』
所長の指示に、ため息をつく。仕方なく、そのまま上に上がった。
おかしなことに、途中、誰に会うこともなく、依頼人の部屋に辿り着いた。
「三〇三……」
その部屋の玄関は開いていた。声は部屋の中から聞こえてきた。
念のため、コツコツとドアをノックしてから、中を覗く。
単身者用のワンルーム。広くないけれど、キッチンと奥の部屋は、お洒落なドアで仕切られていた。
声はするのに、呼びかけても返事はなく、俺はそのまま中へ入ると、部屋に続くドアを開けた。
家具は少ない。三段式のカラーボックスと、小さなパイプハンガー。
部屋の中央に、小さなテーブルがあり、瓶が置いてあった。
透明なガラス。蓋は開けられていて、中には何も入っていない。
「開けるな……って、もう開いてるじゃないか」
瓶の中から声がする。
それは、聞き取れないほど小さな声で、何かを言っている。
「……さっき聞こえたのは、これか?」
手袋をはめて近づく。
その時、部屋の隅に人の気配を感じ、心臓が止まるかと思うほど驚いた。視線を向けると、カラーボックスの横で、壁にもたれて女性が座り込んでいた。
――依頼人か。
「あの、勝手にすみません。回収に来ました――」
社員証を掲げて近づくと、女性が顔を上げた。
さっきよりも大きく心臓が跳ね上がり、息を飲んだ。
「……何で、ここにいるんです?」
意味が分からない気持ちが、そのまま口に出た。
目の前にいるのは、舞日だった。
『確認したな』
無線の向こう側、所長の低い声。
『対象はそいつにも影響が出ている』
そいつって、舞日のことか?
影響――?
一体、どんな影響が出ているというのか。
「……こんなの、聞いてません」
『言っていないから当然だ』
今は、この短い言葉に、異常なほど苛立つ。
「彼女を……連れて帰ります」
どうなっているのか全く分からないけれど、急いで病院へ連れて行くべきだ。
舞日に手を差し伸べ、問いかけた。
「立てますか」
頷くのを見てほっとした。
俺の手に触れた舞日の指先が、氷水にでも浸かっていたのかと思うほど冷たい。手を引いてやると、ゆっくりと立ち上がるけれど、足元が少し揺れている。
「病院まで送るから、車で待ってて――」
舞日は俺を見上げ、黙ったまま首を振った。ここに残るつもりなのか。
「これは、俺の仕事なんです。青葉さんのじゃありません」
舞日は何も言わず、視線を瓶に移した。
「……あれ、だめ」
消え入りそうな小さな声。いつもより聞き取りにくいのは、あの瓶の声のせいか。
「分かってます。だから車に行って……」
「……もう、遅いの」
その言い方に、ぞわっと鳥肌が立った。
「それって……どういう意味」
舞日は瓶から目を離さない。長く見続けるのは良くないのに。
「もう、聞いちゃってるから。だから車に行っても同じ」
「……聞いてるって、何を」
「いろんな声を」
瓶の方から、微かに笑い声が響いた。俺の戸惑う感情を嘲笑うかのように聞こえた。
「いろんな声が、混ざっているんです」
俺は瓶を見た。
中は何も入っていないのに、確かに、漏れてくる声が、さっきよりも増えている。
複数の声が、重なって聞こえてくる。
「……最悪だ」
どうすればいいのか、迷っていると、無線が入った。
『回収を優先しろ』
淡々とした所長の言葉は、きっと正しい。回収は優先のルールだ。
だけど――。
異常があれば、撤退。そのルールが俺の頭をかすめた。
『そいつは後だ』
「無理だ」
無情な言葉に、俺は即答した。
「彼女、一人で動ける状態じゃないんです」
『……手短に回収しろ』
「最短で回収します」
所長なりの譲歩だと、理解した。
俺は舞日をドアの近くまで移動させると、その場に座らせた。
「少し、ここで待っていてください」
握った手を耳に当て、舞日がこれ以上、声を聞かないように耳を塞がせた。
手袋をぎゅっとはめ直し、瓶に近づく。
途端に、声が強くなる。
耳元に直接注ぎ込まれるような感覚に、目眩を起こしそうになった。
――おい――
誰かが呼ぶのを無視して、リュックから梱包資材を取り出す。
――聞けよ――
何が聞こえようと無視する。とにかく急いで回収しなければと、瓶に手を伸ばした時、舞日が動いた。
「だめ」
俺の手首を力強く掴む。
「それ、触ると混ざるんです」
「……分かってます」
掴まれた手をほどき、もう一度、舞日の耳に当ててやる。
「短時間でやります」
段ボールを開いてクッション材を広げる。
瓶を持ち上げると、ずっしりと重みがあった。
嫌な重さだ。
中身がないのに、重さだけがある。
声の層が、また一枚重なった。男の声、女の声。老若男女問わず、怒鳴るような声、すすり泣く声、楽しそうな笑い声も聞こえる。
――六郎――
名前を呼ばれ、蓋を閉めようとした手が止まる。
思わず返事をしそうになった。
「聞くな」
自分に言い聞かせるように呟き、しっかりと蓋を閉じた。
『外にある声だけを信じろ』
無線から聞こえる低い声が、声に引き寄せられそうな意識を戻してくれた。こういう時の所長の言葉に、いつも本当に助けられている。今は腹立たしくて仕方ないが。
瓶を箱に入れようとしたその瞬間、蓋が弾けて音が爆発した。しっかりと閉じたはずなのに。
複数の声が一斉に流れ込む。
――助けて――
――違う――
――お前だ――
――ここだ――
頭の中が揺れているかと思うほどの勢いに、体が硬直した。すぐに蓋を拾って閉めなければいけないのに。
「空木さん」
大勢の声が混沌と渦巻く中、一つの声だけがはっきりと耳に届いた。
はっとして振り返ると、舞日が後ろに立っていた。
「これ……」
握りしめた瓶の蓋を、俺の手に握らせてくれると、力尽きたようにその場にしゃがみ込んだ。
「……ありがとう」
もう一度、蓋をぎゅっと閉め直し、今度は外れないように封印用のテープで補強する。断末魔めいた叫び声が一瞬だけ響き、声はぱたりとやんだ。
だからといって、まだ油断は出来ない。
段ボールに入れて、隙間なくテープで止めた。
「……終わった」
舞日を見ると、血の気の引いた真っ白な顔をしている。薄く開いた目で俺を見上げた。意識があるようでほっとする。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はないです。それより、早く病院へ――」
『――その必要はない』
急いでこの部屋を出ようとした俺に、所長からの無線はあり得ない言葉を紡いだ。
「必要ないって……なんですか、それ……このまま放っておけとでも言うんですか!」
『人を向かわせている。そろそろ着くころだ』
「……え」
『待機していろ』
ぷつりと無線が切れた。
人を向かわせていると――待機していろと言うけれど、明らかに具合の悪そうな舞日を前に、このままここに残っていいのかと不安になる。
「さっきの……声……」
舞日が話を始めた。囁くような小さな声で。
「声が、形になってた」
「……形って?」
「人の形」
全身が粟立つような感覚に、俺は思わず自分の腕を揉むようにして撫でた。
「でも、中身はバラバラ」
バラバラになった人の形――。
嫌な想像が浮かぶ。
「それが、入ってる」
舞日が封をされた段ボールを見る。その視線に釣られて、俺も箱を見た。もう、あの声は聞こえてこないけれど、箱の中では大勢が蠢いているような気配を感じる。
「友だちが……意識を失って……それで私……」
依頼人は舞日の友だちだったのか。
管理人や所長に呼ばれたからじゃなく、友だちを助けるために、ここに……。
「助けられなかった……私は助けてもらったのに……助けられてるのに……」
顔を伏せ、静かに涙を流す姿に、俺はどうしていいのか分からないまま佇んでいた。
「私は誰も助けられない……」
「それは違う。今日のことは、青葉さんのせいじゃない。それに……」
座り込んだままの舞日の横に、俺も腰を下ろした。
「俺は今日も、助けられたよ。青葉さんに」
さっき、舞日が蓋を拾ってくれなかったら、回収にもっと時間が掛かって、俺自身も何かしらの影響を受けたかもしれない。「手短に」と言われて、「最短で」なんて豪語していたくせに。俺の方こそ、助けられているのに、助けてあげられていない。
ふと、横を見る。隣に舞日がいる。
顔色の悪さも、具合の悪そうなのも変わらない。それが不安に思えて仕方ないのに、彼女が隣にいること……それだけのことで、何故か安心できた。
理由は……分からない。
黙ったまま、数分が経ったころ、玄関から看護師が三人、入ってきた。
どの顔も見覚えがある。
いつも健康診断に行っている病院の看護師たちだ。彼らは手早く舞日を担架に乗せると、俺に視線を向けた。
「搬送します。空木さんは、そのまま保管庫へ向かってください」
慌ただしく出て行った彼らを見送り、俺は回収物を手にすると、誰もいない部屋に向かって「回収します」と呟く。
その言葉が、看護師の「搬送します」と被って、胸の奥に冷たいものが落ちた。
——物も、人も、同じように「運ばれていく」。




