回収物№289 ― 増える食器【前編】
生活の痕跡は、音より先に気づく。
使われたものの位置。触れられた形。減ったはずのものが、減っていない違和感。
そういうものは、説明がつかないまま残る。
そして、その違和感は、だいたい当たる。
『今回は食器だ』
無線越しに、上司が言った。
「食器?」
『増える』
いつもながら、短い説明で不安になる。
『毎晩、数が増える。使用痕もある』
「……誰かが使ってるってことですか」
『記録上は、住人は一人だ』
それだけ言って、通信は切れた。なんの音も発しなくなった無線機を見つめながら、俺はふと、家主が留守の隙を狙って部屋に入り込み、そこで生活をする人間のドラマを思い出していた。
「回収に行って、依頼人以外と鉢合わせる……なんてないよな……?」
依頼現場は、住宅街を抜けた先にある、古い団地の一室だった。灯りはついているのに、生活音がない。
呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いた。
依頼人は、三十代くらいのガタイのいい強面の男だった。
目の下に、濃い影が落ちている。強そうに見えても、訳の分からない回収物が相手だと、眠れなくなるのだろうか。
「……来てくれたんですね」
声が、少し震えていた。
社員証を掲げると、男は安心した様子で部屋の中に招き入れてくれた。
違和感は、すぐに分かった。
――台所だ。
シンクの中に、皿が積まれている。
食器の数が多すぎる。一人暮らしの量じゃないのは一目瞭然。
「昨日は、三枚だったんです」
男が言う。
「でも、朝起きたら……増えていて……」
出勤前の忙しさで、そのままにして仕事から戻ったら、さらに増えていたそうだ。
平皿だけでなく、茶碗、湯飲み、グラスや小鉢もある。一体、何枚あるんだろうか。
いや——。
数えないルールを思い出し、視線を外す。
「全部、使った跡があるんです」
皿には、汚れと水滴が残っている。
乾ききっていない。
まるで、ついさっきまで使われていたみたいに。
「夜中に音がするんです」
男は続けた。
「皿を重ねる音とか……水の音とか……」
話ながら気味の悪さを思い出したのか、身震いして黙り込んだ。
「見たことは?」
聞いてから、少し後悔した。男は泣きそうな顔を見せ、当然のように首を振った。
「怖くて、台所に近づけないんです」
その時だった。
後ろで、小さな音がした。
――コトン。
二人揃って振り向くと、テーブルの上に、コップが一つ、置かれていた。
さっきは、なかったはずだ。
「……今、見ました?」
男の声が、ひどく小さい。
俺はそれに答えなかった。答えない方がいい気がした。
不意に玄関の方で、人の気配がした。
誰かが立っているような気がするけれど、俺は振り返らない。
振り返る理由がない。
ここには、三人目はいない。
「……空木さん?」
小さな声が俺を呼ぶ。
驚いて振り返ると、開けっ放しになっていた玄関ドアから、青葉舞日が顔を覗かせていた。
「青葉さん……どうして、ここに」
「逆井乃さんに呼ばれたんです」
逆井乃……保管施設の管理人である人が、何故、現場に舞日を寄越すのか、意味が分からない。
しかも、こんな夜中に。ここまで、どうやって来たというんだ。
「いや、でも……うちの所長は、関わるなって言っていましたよね」
そうだ。
所長は管理人に対しても、舞日を関わらせるなと言っていた。
それになにより、俺自身が彼女に関わって欲しくない。
「ここは、俺一人で大丈夫なんで」
俺の言葉には答えず、舞日の視線は台所に向いている。
「これ、回収するんですか?」
舞日が言った。
いつもより、少しだけ強い口調に戸惑う。
「え……と、依頼はそうなってます」
「でも——」
舞日は言いかけた言葉を止め、皿を見ていた。
じっと。
観察するようにじゃなく、感じているかのように、少し、首を傾けている。
見ているというより、耳を澄ませているような仕草だった。
「この人、まだいます」
小さく、そう言った。
部屋の空気が重くなったように感じ、依頼人が、息を呑む音が聞こえた。
「いるって……誰が、ですか」
依頼人の問いかけには答えず、ゆっくりとシンクに近づいた舞日は、皿に手を伸ばしかけて、止めた。
触らない、というルールを知っている動きだった。
「ここで、食べてるんです」
テーブルに手を置き、舞日が続けた。
「家族や友人、恋人との食事……温かかった時の記憶……」
置かれたコップ、積み重なった皿。舞日はただ、それを見つめていた。
「今は冷え切ってしまって、また、温めようと――」
――カチャ
舞日の言葉に被せるように、シンクから音が響く。
俺は、何も言えなかった。
たった今、増えた皿を見ていた。
使われた跡。
残った水。
増え続ける皿の数。
それは、怪異というより、誰かの生活のようだった。
「増える前に、箱詰めしないと……私も手伝います」
「駄目です。これは俺が一人で――」
「――間に合わせないと、消えなくなります」
舞日にぴしゃりと言われ、依頼人はさらに震えあがった。
本当は触れさせたくない。とはいえ押し問答している時間もない。俺は仕方なく予備の手袋を舞日に渡し、二人で手分けをして箱詰めを始めた。
重い空気に満ちた部屋の中。ただ、音だけが残っていた。
水の滴る音。皿の触れ合う音。
それを聞きながら、段ボール箱に食器を閉じ込めていく。
箱詰めしている間にも、増えていく食器。次の食器が現れる前に最後の皿を箱詰めして、手早く封をした。
数は――数えていない。
数えない方がいい。
回収は、少し時間が掛かったものの、無事に終わった。結局、段ボールは三個にまで増えた。
「封入、完了しました」
無線機に報告を入れた。聞いているのかいないのか、所長からの返答がない。
依頼人も相変わらず不安そうな表情を浮かべている。こうしている間にも、また皿が現れたらと思うと、気が気じゃないんだろう。
『まだ増えるか?』
十分ほどして、ようやく聞こえた所長の声に、俺も依頼人も辺りを見回し、思わず視線を交わした。
「増えていません」
『……よくやった』
ぷつりと無線が切れた。
この仕事を始めてから、もうすぐ一年。
こんな風に労いの言葉をかけられたのは、初めてのことだった。
段ボール箱を抱え、玄関を出る時、依頼人は、何度も頭を下げていた。
「これで……やっと眠れそうです」
箱は食器が入っているとは思えないくらい、軽かった。一人では持てないかもしれない、と思っていたのに。
団地の狭い階段を降りるたび、箱の中でカチャカチャと音を立てている。
夜の空気は、やけに静かだった。さっきまで、あの部屋に異常があったとは思えない。見上げると、窓の明かりは消えていた。
軽バンの後部を開け、全ての段ボールを回収ボックスに入れると、しっかりとロックした。
「……あの」
声を掛けると、前を歩いていた舞日は立ち止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
「どうして、こんな時間にわざわざ来たんです?」
そんなつもりはないのに、責めるような口調になってしまった。
舞日は、考えるように目を伏せた。
「わかりません。でも……」
舞日は視線を落としたまま、少しだけ間を置いた。街灯の明かりが、俯いた舞日の横顔を薄く照らしている。
「一人では、終わらなかったと思うので……」
確かに、一人でもたついていたら、回収は失敗したかもしれない。段ボールに収まりきらないほど、食器が増えたかもしれない。
それでも、納得はできなかった。
ただ、反論もできなかった。
「……青葉さんは、平気なんですか? こういうの」
気づけば、そんなことを聞いていた。
舞日は視線を落とし、首を振った。
「平気じゃないです」
即答だった。
当然の答えだ、と思う。以前、慣れていると言っていたけれど、慣れていることと、平気だと言うことは別だ。俺はもう少し踏み込んで聞こうとして、しなかった。平気じゃないと分かっていて、それでもここに来る理由を聞くのは、少し残酷な気がしたから。
「でも……たぶん、空木さんがいるから、大丈夫なんです」
その言葉は、俺にとって、思ったよりも重かった。
軽く受け流せるような調子じゃなかった。
「……それ、逆じゃないですか」
なんとなく、そう返した。
「俺の方が助けられてますよね。さっきも……手伝ってもらって」
舞日は顔を上げ、少しだけ驚いた顔をした。
ほんの一瞬、視線が絡む。
目を細めて俺を見る表情は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
それから、ぱっと視線を逸らして、また下を向いてしまった。
「私、ずっと――」
小さく、そう言った。
風の音に紛れて、聞き取れないくらいの声だった。
「……え?」
聞き返すと、舞日は思い直したように顔を上げ、それから首を振った。
「なんでもないです。それじゃあ、私はここで」
街灯の下で、俺からは表情がよく見えないけれど、寂しそうな声だった。その寂しさに、少しだけ迷った。
「……あの」
歩きはじめた舞日を呼び止めた時、やけに距離が近いように感じた。物理的な距離じゃなく、気持ちの距離が。
理由は、分からない。
前からこうだった気もするし、今日、初めて気づいた気もする。ただの気のせい、なのかもしれない。
「……家まで送ります」
「大丈夫ですよ。家まで歩いて十分ほどですから」
「いや、夜中なんで。何があるか分からないじゃないですか」
食い下がると、舞日は振り返り、かすかに微笑んで頭を下げた。
「じゃあ……すみません。お願いします」
その笑顔が、街灯の薄明かりの中でも分かった。
俺はそれに何も言えないまま、助手席のドアを開けた。




