糸
ある日のこと。
房江が一人で三味線の稽古をしていた。
稽古部屋で三味線を強く弾いていた拍子に、糸が切れた。
切れた糸は廊下へとはじけ飛び、鋭い音を立てた。
哲夫は房江のことが気になり、稽古部屋へと来ていた。
二人は視線が合った。
房江は恥ずかしかった。
思わず哲夫に声をかけた。
「申し訳ありません。私の不注意で、稽古中に三味線の糸が切れてしまいました。そちらに飛んでいったようです。お怪我はございませんか」
「いえ、大丈夫です。それより、あなたの弾く三味線の音色に惹かれて、ここまでやってきました」
「恥ずかしゅうございます」
「いえ、恥ずかしいのは私の方です」
「どうしてでございますか?」
「それは言えません」
「申し訳ありません。失礼なことを申し上げてしまいまして」
「いえ、私の方こそ、申し訳ありません。さあ、稽古をお続けください」
「はい……」
それを一人の芸者が障子の隙間から見ていた。
キリという芸者で、一番の年長であり、経験も豊富であった。
哲夫に対して淡い恋心を抱いていた。
嫉妬心ゆえ、それ以来、キリは房江に辛く当たるようになった。
キリを姉のように慕っている芸者もいたため、房江に対する様々な虐めが少しずつ始まった。
さらに房江は接客も上達し、芸者の中でもひときわ客の心を引くようになっていった。
それが、なおさら他の芸者からの嫉妬をあおった。
些細な揉め事であっても、房江は一番年少であったため、結局は房江が叱責されていた。
そんな房江の姿を見るたびに、哲夫は愛おしさがこみあげた。
しかし、哲夫には家同士の理由による婚姻が待ち受けており、なすすべもなかった。
押し寄せてくる時の流れが、哲夫には歯がゆくてたまらなかった。
逃れられぬ定めは、まるで三味線の切れた糸のようであった。




