嫉妬
ある夜のことだった。
女将の威勢のよい声が置屋に響いた。
「キリ、松平様がお見えよ。早く着替えていらっしゃい」
「はい、すぐに着替えて参ります」
松平という客はキリにとって一番の上客であり、どこか父親のように慕う相手でもあった。
哲夫とはまた違う形で、心を寄せていたのである。
久しぶりの来訪に、キリの胸は浮き立った。
「女将、そういえば、房江という器量のいい芸者がいると聞いたが、今日は相手してもらえないだろうか」
「松平様、それは少しどうでしょうか。キリも楽しみにしておりますし……」
「まあ、そこを何とか頼むよ」
そのやり取りがキリには聞こえていた。
キリは涙に溢れた。そして、置屋を飛び出して行こうとした。
「おお、キリじゃないか」
「松平様なんてお嫌いです」
「キリ、そう言うな。たまにはいいじゃないか」
「もう知りません……」
「わかった。わかった。じゃあ。キリ、今日も相手をしてくれ」
「本当でございますか?」
「ああ」
「でも、私より、あの、房江という芸者に気があるのではありませんか?」
その後、キリは接客が終わり、松平を見送りすると、房江を呼び出した。
「あなた、松平様に気をひくために、何かしたでしょ」
「いえ、私は何もしておりません」
「嘘をつきなさい。どうせ、あんたが、色気で何かしたのでしょう。恥ずかしくないの? そういうことをして」
キリの手が上がった。
房江の頬を叩く音が廊下に鋭く響いた。
「あなたみたいな色女はこの置屋から出て行って」
「いえ、そのようなことは一切しておりません」
そこにたまたま、哲夫が現れた。
「どうしたのですか? そのような大きな声で」
「あ、哲夫様、聞いてください。この色女が私の大切な客を取ったのです」
「いえ、決してその様なことはありません」
「嘘をつかないで、あんた、恥ずかしくないの」
「本当に何もしておりません。信じてください」
「あら、あなた、哲夫様にまで色目を使うのね」
「まあ、まあ、キリも房江もやめなさい。見苦しいですよ」
「わかりました。哲夫様」
哲夫はそれだけ言うと、部屋へ戻っていった。
「あんた、調子に乗らないでね、今日は哲夫様が、ああ言うから許してあげるけどね。いつか、痛い目にあうわよ」
房江は、キリに何も言い返すことが出来ず、じっとうつむいたままだった。
翌日、哲夫は房江を呼び出した。
「房江さん、昨日は申し訳ありませんでした」
「いえ、哲夫様に恥ずかしいところをお見せして申し訳ありません」
「いえ、悪いのは何もできなかった、私の方であります。私は房江さんの素直で優しいところを好いております」
「何を恥ずかしいことをおっしゃいますか」
「本当です」
「それでは、失礼いたします……」
房江は恥ずかしさのあまり、哲夫の部屋を後にした。
そのことを、キリは部屋の外から聞いていた。
そして、嫌がらせがさらに増えていった。
美代という芸者を除いて、房江は孤立してしまったのである。
美代は同じく青森から奉公に来ていた。
嫌がらせに傷つく房江を、折にふれて慰め、励ましてくれた。
二人は少しずつ深く信頼し合うようになっていった。
置屋の外では、提灯の灯りがぼんやりと房江を照らしていた。




