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13話 神

 蝋燭に照らされた看護婦塔の一階では、数人の団員が夜の見回りに出るべく身支度をし始めていた。


そこへトルコランプを掲げて降りて来たフローレンスが、彼女たちへと絹のように柔らかい言葉をかける。


「今日は、私が見回ります。

あなた達は早くお休みなさい。

明日もまた忙しくなるでしょうから」


 その言葉に戸惑った一団は口々に「お連れ下さい」と願い出るが、フローレンスはそれをにこやかな笑顔で断り彼女たちを部屋へと帰らせた。


そして団員たちが部屋の扉を閉めたと確認した彼女は、分厚い扉の鍵を開け、悲鳴のような軋み音を響かせて回廊へと歩み出る。


毎夜フローレンスが施錠後一番に向かう先は、病状の切迫する重病患者のもとであった。


そこへ向かう間も急変を起こした者がいないかと観察する彼女の視線が注意深く動き、道すがらの患者たちへと注がれる。


幸い今夜はその音を止めることなく、彼女の歩みは病室へと入っていった。


 室内の放つ違和感に視線を走らせた彼女は、扉を閉めるよりも先にその患者が亡くなっている事実に気付かされた。


足を止めていたフローレンスは強く瞼を閉じ、臨終を看取れなかったことを詫びようと絶命した患者にゆっくりと歩み寄っていく。


淡いトルコランプの明かりが滑るようにベッドを這い上がり、その患者を照らし出した時、彼女の毛布の上には全てを物語る茶褐色の染みが瑞々しく存在していた。


茶色く変色したみぞれ状の果肉が、給士者の悲泣を象るように飛散している。


フローレンスは母のような表情で干からびた彼女の頬をなで、悲しげな微笑をそっと浮かべた。


「……一番そうするべき者が、看取ってくれたのね。

疲れたでしょう? 

静かに眠りなさい、リタ・ヒン。

後の事は私に任せて……」


 リタの唇は艶やかに濡れ、爽やかなリンゴの香りが彼女を包んでいた。


 静かな足取りで病室を出たフローレンスの耳に、遠くで泣くハンクの声が聞こえて来る。


その声を辿って物品搬入用の裏口に立った彼女は、扉越しに聞こえるハンクのくぐもった声に耳を済ませた。


 弱い月明かりの下、アンリの胸に顔を押し付けたハンクが、しゃくり上げながら悔やみ声を漏らす。


「私はあなたみたいに言えなかった! 

きっと助かるって、

きっとユーリアと会えるって言えなかった……!」


 アンリはハンクのひっつめ髪をなでながら、彼の握りしめた両拳に強い後悔を感じ取っていた。


激しく上下する小さな背中を、子をあやすような優しさで小さく叩く。


「それでもいいんだよ。

君の優しさは、充分リタに届いていたんだから」


 泣き顔を上げたハンクが、下がった口角を震わせながら怯えた様子で問責した。


「ねぇリタはどうなるの……!? 

リタは罰を受ける? 

だってリタは、リタは売春婦だったんだ……!!」


 溢れ出る不安に咽び泣くハンクを、アンリは強く抱きしめた。


そして慈しむ声でハンクに告げる。


「大丈夫だよ、誰もがみんな神様のもとに還る……。

神様は全てを赦される。

今リタはもう、苦しみの試練から放たれたんだ。

天使が彼女を天国へとお導き下さるからね。

だからもうそんなに泣くんじゃないよ。

いつものようにかわいい顔をしておいで」


 枯れ草を揺らす冷たい海風に、二人の白い息が千切れていく。


漏れ聞こえる会話を聞いていたフローレンスは掲げていたランプを下げ、壁にもたれながら疲れきった表情で額に手を当て呟いた。


「リタ・ヒン……」


 彼女は静かに思案していた瞳を力強く上げると、鋼鉄の鎧をまとった戦士のような足取りで真っ直ぐ廊下を進み始めた。


彼女の決意はその足を、第二陣がくつろいでいるであろう看護婦塔へと向かわせていった。


  ◇


 香水臭い看護婦塔に迎えられたフローレンスは、絹のシフトにドレッシング・ガウンをまとったスタンレーと対峙していた。


いつもの如く感情的過ぎるスタンレーは、フローレンスの言葉に甲高い声を返している。


「いくら規則と言われようとも、私たちはできませんわ! 

そのような事は、洗濯婦や小間使いが行うべき事ですもの。

ミス・フローレンスは私たちを侮辱したいのですね!? 

もうあなたの監視は結構! 

私たちはあなたに指示されなくても、患者の要求くらい解りますから!」


 つんけんした態度でそう言い切ったスタンレーが、フローレンスの言葉などはもう聞きたくないとばかりに顔を背ける。


「いいえ、スタンレー女子修道院長。

貴女達はまだ看護婦としては未熟です。

そしてこの病院で働く為には、一丸となって秩序ある看護を行う事も必要なのです。

看護婦として、看護項目にできない事柄があってはならないのです」


 スタンレーの後ろで群れを成していたレディの一人が、フローレンスの言葉に声を上げた。


「ならばせいぜい、あばずれでも集めればいいわ!」


 彼女の言葉に、周囲の空気が凍った。


 しかしその一瞬の緊張は、レディたちの嘲笑に打ち破られた。


そして彼女たちは、この嘲笑の中でグレーの瞳を重く伏せたフローレンスの変化に誰一人として気が付いていないようだった。


それを裏付けるようにレディたちからは、先の発言に続けとばかりに意見が噴出する。


「私はこんな僻地の病院より、

もっと戦地に近い病院に移動させて頂きますわ。

あなたの規則なんてもううんざり!」


「私も! ここよりきっと、前線の病院のほうが役に立てるはずですもの!」


「汚物の処理なんて、まっぴらよ。

人を馬鹿にしないで貰いたいわ!」


 第二陣の看護婦たちは、それぞれが自分勝手に意見を述べていた。


喧騒の中ただ一つ共通していたのは、もう誰一人フローレンスの管理下では働きたくないという意思である。


第二陣は嵐のような騒ぎぶりでフローレンスを非難し、果ては病院での境遇の悪さにまで文句を言い始めていた。


それまで何を言われようと穏便な説得を続けていたフローレンスが突然、振り上げた拳を傍らの机に激しく叩きつけ、割れんばかりの物音を響かせた。


それに飛び上がった第二陣たちが、フローレンスの冷血な表情を見るなり青くなって口をつぐむ。


彼女は凍てつくような視線でレディたちを一瞥し、今まで堪えていた言葉を低く冷静な口調で厳かに解き放った。


「いいでしょう……

私の管理外で働くと言うのならば、このスクタリから出てお行きなさい。

そしてこれからは全て、

御自分の責任で何もかもをなさればよろしいわ。

その代わり私は貴女達を始め監督する責任者とも今後一切、絶対に手を切ります。

……今から病院を出る為の何もかもを手配して差し上げますから、

明日の朝には全員この病院から出てお行きなさい……!」


 フローレンスは彼女達が感じ取れた恐怖の何十倍もの怒りを、青白い炎として瞳に燃やしていた。


きっぱりと決別の言葉を示した彼女はスタンレーたちに背を向けると、伸ばした背筋を誇示するかのように看護婦部屋を出ていった。


 塔の扉を閉めたフローレンスは、怒りに狂い出しそうな胸に手を置き、深く呼吸を整える。


フローレンスは震える唇を噛み、押し殺した声で呟いた。


「どうして障害ばかりを、私に与えるのです……!」


 彼女の苦しそうな呟きは白く立ちのぼり、冷えた病院に溶け消えていく。


ずいぶん改善されたとはいえ、病院は未だに物資不足の状態に陥ることがあり、そのたび傷病兵の命は徒にも翻弄されていた。






【イギリスのリンゴ】

 イギリスでよく食べられているリンゴは日本のものと随分違います。大きさは小振りで、紅玉よりも一回り小さいくらい。そして何より皮が赤ではなく緑色なのです。この小さなリンゴは子供でも丸まる一つ食べきれるため、お弁当にお供する定番のフルーツだそうです。


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