14話 優しい人
次の日。
まだ明けきらぬ空が赤く燃え始めた頃、病院の裏手にある墓地の一角には黒衣の集団が揃っていた。
二人のトルコ人人夫が、掘り上げた土をシャベルで穴に返していく。
毛布に包まれたリタの遺体は、ものの数分で土の中に消えていった。
あまりの呆気なさと虚無感にただ唖然とするハンクは、すすり泣く看護婦団員の声がやけに遠く感じられていた。
フローレンスに促され、白い水仙の花を墓前に供えたハンクの隣では、従軍牧師が悔やみ言葉を唱え始めていく。
朝焼けに照らされながら、ハンクはひりひりとした喪失感に沈鬱としていた。
その後リタの私物を午後までに整理なさいと命じられた彼は、たった一人で看護婦部屋にこもり、主を失ったリタのベッドを直しチェストの中身も綺麗にたたみ直していた。
あらかたの作業を終えて解ったのは、リタの持ち込んだ私物らしい物は何もなく、あるのは食べ残された数種のお菓子くらいということだった。
これは彼女の墓前に供えようとそれらの入った紙袋を手にしたハンクの指先に、菓子とは違う質感の物体が触れた。
何気なく中を確認した彼の目が、小さな紙切れに書かれた拙い文字を見た瞬間、大きく見開かれた。
その小さくちぎられた便箋には
『サムに返す金』
とだけ書かれていた。
ハンクの脳裏に、リタが転がり込んで来た蒸気船での情景が蘇える。
『――ここの船賃半分くらい、スクタリで出る給料から払って欲しいわ』
リタは、その言葉を守ろうとしてくれていたのだった。
ハンクが震える手で紙袋の中にある幾つかの菓子袋を取り出すと、二ヶ月分はあろうかという紙幣が袋の底に貯められていた。
皺だらけの紙袋から束となった紙幣を取り出し、その甘い香りをまとうリタの思いを静かに見つめる。
あまりに報われなかったリタの人生と、またそうであってもなお快活で優しくあり続けた彼女の人柄を偲ぶうちに、彼の両目からはいつしか大粒の涙がこぼれていた。
リタとの短過ぎる思い出を嘆いたハンクの泣き声は、誰もいない看護婦塔の中に悲痛なこだまを響かせていった。
◇
それから数日間、ハンクは感情を分離し、うわべの平静だけで看護に臨んでいた。
不思議なことにその数日間の記憶は妙に鮮明で、冷静な整然さを保ちながらもどうしてかまったく思考することができなかった。
例えそれがやや疑問の残る出来事であったとしてもである。
この数日間は、とにかくたくさんの人間が死んでいった。
スクタリに居据わる死神、彼はまるで切れ味鋭い大鎌を見せつけるかのように毎日百人近い命をかき切り、それだけでは不満とばかりに赤痢やチフス、コレラや敗血症を流行させた。
その犠牲者の中には医師や看護婦の他に、除隊したばかりだという数名の若いイギリス兵や、山高帽を被った年配のイギリス鉄道員が含まれていた。
すこぶる健康体であった彼らは戦地での任務を終え、帰国船を待つ間の仮宿としてこの病院を使用しただけであった。
それにも関わらずこの全員は、たった数泊スクタリに留まっただけで病気に侵され命を落としたのである。
変わり果てた彼らが運び出され、大量の患者だった人間たちと共に土中へと並べられていくのを、ハンクは冷えた無表情で見つめていた。
看護婦たちは毎日疲れ果てるほど仕事をしているのに、その奉仕は小さなコップに入った水一杯で広大な砂漠全土を草原にしようと挑むかのように不毛であった。
数日間に渡った雪崩のような死者数には、さすがの看護婦たちも自信を失い悲痛な面持ちで首を振るようになっていた。
看護婦塔に戻った修道女たちの口からは、今日も決まってうわ言めいた言葉が吐き出されていく。
「前線で切断手術を受けた患者が成功して帰還しているのに、
何でここの人たちは成功しないのかしら?」
「前線の患者はまだ気力体力があるから、
手術にも耐えられるのですって。
だけどここへ運ばれて来る患者たちは、
その間に体力を消耗しきってしまうから手術に耐えられないのだと婦長は言っていたわ」
「なぜ患者さんたちが死んでいくのか解らないわ。
こんなにきちんと看護しているのに……」
フローレンスが患者の受け入れ拒否を決して承諾しないため、スクタリ兵舎病院に運ばれて来る傷病兵はどの病院のそれよりも多かった。
だがしかし、死体となって出ていく兵士の数も、どこの病院よりも多くなっていた。
医療従事者までもがバタバタと倒れていくという圧倒的な惨状に、かろうじて健康を保っている者たちは皆竦むような恐怖に怯えた。
ハンクは時折そんな彼女たちから取り残されたように呆然とし、日に何度かはふらりと病院を抜け出すようになっていた。
誘われるようにしてやって来るのは、決まってリタの墓前であった。
低い木の柵で囲われた中にはおざなりな墓標が一つ置かれ、そこが墓であることを頼りなく示している。
ハンクはその墓の前に立ち、今にも降り出しそうな天を仰いだ。
「リタ……ユーリアとは会えた? 今は幸せ……?」
親類との連絡が取れなかった者がまとめて埋葬される大きな共同墓の中で、たくさんの患者たちと折り重なるように横たわっているであろうリタを不憫に思うハンクは、なすすべもなく黒く湿った地表をじっと眺めていた。
ぬかるみを踏みしめる足音が背後から隣に並び、歩みを止めた人物がハンクの横顔に声をかけて来る。
静かに響く優しい声、それは間違いなくアンリのものだった。
「……どうしたんだいサマンサ?
日に何度も来ているようだけど」
ハンクは両手の拳を握りしめ、リタの眠る地面を見つめたまま呟いた。
「……毎日もっと、たくさん祈ってあげたいんだ。
リタとユーリアが神様と一緒にいられますように、って……。
誰かがそう祈ってあげないと、
リタの魂はここに引き戻されてしまいそうで……」
そうだったのかと頷いたアンリが「君は優しい子だね」とハンクの肩を抱き寄せる。
寒風で冷えていた腕をさすってくれるアンリの手は、その人柄と同じく暖かかった。
アンリがハンクを抱き寄せたまま、墓を見つめて提案する。
「サマンサ、二人への祈りは、僕にしばらく『預けて』おいて貰えないだろうか?」
「預けて……?」
そう言って見上げて来るハンクに、アンリは豊かなあごひげを揺らして微笑んだ。
「ああそうだ。
いいかいサマンサ、
戦争が終わるまでの間、僕は君から預かった祈りを彼らのために毎日捧げる事を約束するよ。
だって君は今、ここでやらなければならない大事な事があるはずだからね」
愛情深い鳶色の目がハンクを諭すように見つめている。
それはハンクに淀んでいた空しさを安堵という暖かさで包み込み、心の虚無を力強さで満たしてくれていた。
彼がリタの最後をこの充足感で包んでくれたのだと安心したハンクは
「アンリに祈ってもらえれば、きっと二人は再び出会えると思う」
と言って祈りを預けると、間違いなく自分より神に近しいであろう男の目を真っ直ぐ見つめ、感謝と信頼を示すような表情を見せた。
アンリがそっとハンクの髪をなで、腕をほどいて促すように言う。
「さぁ、リタの事は僕に任せて君は病院へお戻り。
皆が君の帰りを待っているよ」
彼の言葉はまるで不思議な魔法のようにハンクの心を奮い立たせ、その小さな足を病魔渦巻く院内へと向かわせていった。
【水仙】
水仙は英名ナルキッソスと言い、イギリスでは16世紀頃から品種の改良が行われてきました。そのおかげか園芸品種は一万を超え、その姿かたちもそれぞれです。
作中では真っ白な水仙を書きましたが、一般的な水仙は花弁が白で中心がサーモン色。しかもイギリスだとラッパ水仙形状なのです。「たけくらべ」的な日本水仙よりも、かなり大きい花なのでした。




