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12話 コレラ

 その日、非効率でうわべだけのままごと看護を進めるマーサ隊の中に、ハンクの姿は戻らなかった。


なぜなら彼が飛び出した後、ひとしきり泣き終えて平静を取り戻したレディたちがハンクの謝罪を強く要請したからである。


再び衝突の臭いが立ち込めた特別室で、フローレンスは丁寧かつ冷静な口調を用いハンクはまだ十二歳であり未熟な部分が残る事と、その未熟な部分が現れた原因は親友の病にあると説明した。


今までに規律を乱した事もなく非常に良く仕事をしているのでどうか寛大な心で許して欲しいとも付け加えながら、巧みに彼女たちの怒りを操った。


フローレンスの話術に導かれているとも気付かないスタンレーは、ハンクを許さねば大人気ないような思いに苛まれながら、且つ彼の親友を病に陥らせた発端が第二陣のレディにあることを穏便に隠さなければとも考えていた。


この呆れにも子供じみた心理戦によりスタンレーはしぶる表情でハンクを許してみせ、己の寛大さをフローレンスに示せたと満足そうにほくそ笑んでいた。


それは、これら全てがフローレンスの計画通りであるなど微塵も想像していない、馬鹿げた優越感で満ちていた。


 数時間後、一人港で海を見ていたハンクのもとには、マーサ隊の看護婦づてに


「備品庫の在庫表に今日分の出納を書き入れなさい」


というフローレンスの指示と書類が手渡されていた。


それを受け取ったハンクは、彼女の平手が咎ではなく行動の停止のみを令した行動であったのだと安心し、夕食の声がかかるまでずっと備品庫の中で静かな作業を続けていた。


  ◇


 夕食を終え、闇夜を照らす蝋燭の炎に包まれた看護婦塔では、制服を脱いだ団員たちが銘々に自由時間を楽しんでいた。


本を読む者やお喋りをする者たちに混じって書き物をしていたハンクが、ふとペンを置いて耳を済ませる。


彼は少しの間宙を彷徨わせていた視線を止め、素早く室内に走らせた。


やおら頭の覆い布とエプロンを外した彼は誰の気にも止まらぬようさりげなく部屋を滑り出ると、忍び足で階段を下りていく。


一階の水場で辺りを警戒しながらペチコートを手早く脱ぎ、近くの空き棚にそれを押し込んでいると、風のような口笛がハンクの耳へと届いて来た。


闇夜から聞こえる口笛に顔を上げ、急ぐ表情で小さな窓辺へと歩み寄ったハンクが、その窓をそっと押し開けて外を覗き下ろす。


視線の先では闇に身を潜めていたアンリがこちらを見上げ、一つの小振りな青リンゴを掲げている姿があった。


「やあごめん、遅くなって」


 その小さな声に手を振って応えたハンクは、アンリの掌中目がけて細々と何かが包まれている布袋を放って落とす。


そして辺りを見回してから、最近めっきり鍋の乗ることが少なくなった石釜に首尾良く上がり、今度は自分がその小さな窓からするりと身を落とした。


まるで猫のような身のこなしで躊躇なく下りて来たハンクに慌てながらも、アンリはその見事な着地に舌を巻く。


「驚いたな。

君、こんなにおてんばだったのかい」


「……いいから早く!」


 ハンクはアンリを連れ、薄い月光の射す中を病院の裏口へと回った。


看護婦塔の鍵はフローレンスが肌身離さず管理しているので絶対にかけ忘れることなどないが、病院の裏口ともなると開けた者が閉めなければそのままになっていることがしばしばある。


ハンクが物品搬入用の古びた木戸を慎重に押すと、そこは思った通り鍵がかかっていなかった。


滑るように侵入した二人は扉を閉め、そこから備品庫までの患者が寝かされていない数メートルの廊下を、ランプもなく進んでいく。


暗い廊下にぽつんとある人のいない見張り机を通り過ぎ、時折ある小窓から差し込む細い月光を避けるようにして患者の足先を通り抜けた二人は、やっと現れた特別室の扉をゆっくりと開けて中に入り込んだ。


記憶のまま駆け寄ったハンクが目を凝らし、ベッドに横たわったリタの耳元に囁きかける。


「リタ、リタ……。私だよ、判る?」

 

 その囁きを受け、リタはうっすら瞼を開けた。


乾いてひび割れた唇を僅かに動かす彼女の肌は、水分を失って浅黒く皺だらけになっている。


痩せ細った体から伸びた彼女の腕は、枯れ枝としか言いようのないものになっていた。


乾ききったリタ顔面が軋み、弾力のなくなった唇が力なく開いていく。


その口内から絞り出された声は、かすれ息に近いほど不明瞭な音だった。


「……ァ……ム……?」


 無残すぎるリタの様子に強く眉を寄せたハンクが、後ろで立ち尽くしているアンリのポケットから青リンゴを取り出し、リタの目の前に示して言った。


「ほら、見える? 

アンリさんが美味しいリンゴを買って来てくれたよ。

今すってあげるから待ってて、

きっとこれを食べればすぐ元気になるからね」


 アンリに持たせていた布袋の口を開け、布で巻かれたグレーターと小さな皿を取り出したハンクは、まるで何かを振り払うような表情で冷たい床に跪いた。


皿の上に傾けたグレーターで青リンゴをすりはじめたハンクに、布袋を探ったアンリがティースプーンと空の布袋を皿の横へと置く。


そして顔を上げた彼は変わり果てたリタのもとへ歩み寄ると、彼女の焦げ色の髪をゆっくりとなで、優しい声で囁いた。


「……大丈夫かい? 

今日の昼、サムから君が倒れたと聞いていたんだが、

もっと早く来てあげればよかった。

何か欲しいものがあれば、何でも言いなさい」


 リタはゆっくり動かした視線でアンリを捕らえると、首を小さく横に振った。


 硬くしまったリンゴをする音が静寂に響くなか、その甘酸っぱい香りは院内の悪臭に混じっても尚、一筋の救いのように瑞々しく輝いていた。


手早くリンゴをすり終えたハンクがグレーターを振り、芯となったリンゴと共に布袋の中に放り込む。


皿とティースプーンを手に立ち上がったハンクはベッドの反対側に駆け、アンリと向かい合うようにしてリタの傍らに立った。


リンゴを乗せたスプーンが、リタの口元へと差し出される。


「いい……かォり……」


 そう細い声で呟いたリタの口中に、すりたての白い果肉が丁寧な所作で納められた。


時間をかけて飲み込まれたそれに、ハンクは安堵してもう一さじを掬う。


「さぁリタ、もう一口……」


 リタは差し出されたリンゴを美味しそうに受け入れ、また何度か喉を鳴らした。


穏やかに落ち着いている彼女の様子に、ハンクが嬉々としてスプーンを往復させる。


数回リンゴを食べてから満足そうに息を吐いたリタが、希望をはらんだ眼球を遠くに向け、聞き取りづらいかすれ声を絞った。


「ねぇ……ァ……ム。

あたし……ユー……リア……と、あェる……しら……? 

……あのィと……、むヵえ……ィてくれ……るァ……しら……」


 その言葉の示す結末に、ハンクが戦慄して手を止めた。


 何百人と見て来た患者たち。


彼らと同じ道を辿るリタはもう、絡み付いて振りほどけない暗闇の前に立っていた。


ハンクがずっと否定して来たそれは、おぞましい粘着音を立てて彼女を静かに引きずり込んでいく。


今まで無視し続けて来たリタの顕著な病状が一瞬にして脳内を駆け巡り、看護婦としての経験がこの現状を冷酷なほど理解させた。


ハンクは大きな支えを失い、やるせない怯えに震えながらも懸命になってリタの思いに応えようとしていた。


 だがその言葉は喉で詰まり、決して先には出てこようとしなかった。


 絶望に包まれたハンクの耳に、リタへと向けられた温かい声が響く。


「会えるよ。ユーリアは今、君のそばにいる」


 はっとして顔を上げると、アンリはベッドサイドに跪いて枯れ枝のようになったリタの手を握っていた。


リタの冷え切った体に、アンリの温もりが慈愛と共に流れ込んでいく。


「ユーリアは天使を従えて君を癒そうとしているよ、僕には見えるんだ。

だから弱気にならず、治る事だけ考えなさい。

信じればきっと、治るからね」


 青白い月明かりの下で、アンリの微笑みは春の日差しのように暖かかった。


リタは細く開いた瞳で彼を見つめ、病に打ちのめされた無残な自分を忘却したかのようにうっとりと微笑んでいた。


 それは、あまりにも満ち足りた、最期の表情であった。






【コレラ】

 コレラ菌が人の口から入り、腸内で増殖することで感染・発症する病気。発症しても軽症であれば比較的助かるが、重症化した場合は約60%程の死亡率となる。症状としては突然の嘔吐と下痢を繰り返し、その量は1日で数10?に及ぶ。高度の脱水症状に陥った体は乾燥し、茶色くなって弾力を失う。


 日が進むと脱水症状からくるショック状態で意識を失ったり、 低カリウム血症による痙攣などを起こす。腹痛・発熱は伴わないことが多い。

(※現在は治療法が確立されているので、死亡率は2%まで低くなっているそうです)

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