第9話
「あれ? 新九郎が鑿なんて持ってる。前は、鑿を持つとすぐ木を割っちゃって、『もう大工なんて嫌だ』って逃げ回ってたじゃない」
思わず佐吉を見る。佐吉は苦笑しながら腕を組んだ。
「その通りだ。木より畑の方が向いてるんじゃないかと、何度思ったことか」
笑うしかなかった。新九郎のことを何も知らないのだから。
不意に、佐吉が試すような低い声で口を開いた。
「……新九郎。その鑿を持ったまま、そこの木を少し削ってみろ」
一瞬だけ息をのんだ。視線は父親のものではない。技術の底を見極めようとする『職人の目』だった。
手の中の鑿を見つめる。
「……俺が、ですか」
「思い出せんでも構わん。気の向くままに削ってみろ」
作業台へ近づき、端材を手に取る。軽く木目を眺め、鑿を添えた。
トン――。
金槌は使わず、手首の押し出しだけで刃を進める。
スッ。なめらかに、薄く削れた木がくるりと丸まって落ちた。
もう一度。スッ。スッ。鑿は木目に逆らうことなく、吸い込まれるように滑っていく。
夢中になっていた。休日、自宅で木彫りをしていた頃と全く同じ感覚だった。どこを削れば木が生きるのか。考えるより先に身体が動いていた。
数分後。そっと鑿を置く。
「……こんな感じでしょうか」
佐吉は黙って木片を受け取った。無骨な指先で削り跡をなぞる。一度。二度。三度。何も言わない。
「どうしたの?」
お春が覗き込むが、佐吉は木片から目を離さなかった。
「……おかしい。こんな削り方、新九郎にはできん」
「そんなの当たり前じゃない。新九郎は木を削るの下手なんだから」
「いや……そういう話じゃない」
ゆっくりと顔を上げ、射抜くような目で見つめてきた。
「力任せじゃない。木目を見て刃を入れておる。しかも無駄がない」
(まずい……) 無意識に、いつもの癖で鑿を扱っていた。
佐吉は削り跡を確かめている。
「新九郎。これをどこで覚えた」
「……分かりません。手が勝手に」
「記憶を失っても、手には残るということか。……だが、わしの知るお前の手ではない」
静かに木片を作業台へ戻し、鑿を受け取って丁寧に並べる。
「今日はもう、それでいい」
「ありがとうございます」
佐吉の横顔には深い戸惑いが残っていた。
お春は不安そうにのぞき込む。
「本当に、何も覚えてないの? 私と遊んだことも? 清太兄ちゃんと、三人で遊んだことも?」
「ごめんなさい」
「そうなんだ……」
しばらく沈黙が流れ、やがて、お春は無理に明るい笑顔を作った。
「また明日来るね。あんまり無理しちゃ駄目だからね!」
そう言い残して帰っていく後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐く。佐吉も黙って立っていた。
「優しい娘だ。昔から弟みたいに気に掛けておる」
知らない人たちなのに、みんな新九郎を心配してくれている。
その温かさが、偽物の胸を締めつけた。
「新九郎」
「はい」
「明日は城へ行く。仕事が途中のままだ。わし一人でも構わんが、一度お前も来い」
この世界へ来て初めて耳にする、大きな未知の場所だった。
「見慣れた景色を見れば、何か心が動くかもしれん。職人の技を見るだけでもいい」
外へ出れば自分が偽物だとバレる危険も高まる。
だが、生き抜く術を探すには、外へ出るしかない。
「……分かりました」
「日の出とともに出る。遅れるなよ」
その時、ぐぅぅ、と佐吉の腹が鳴った。
顔を見合わせる。佐吉は照れくさそうに無骨な頭を掻いて笑った。
「飯にするか」
囲炉裏には温め直された鉄鍋が掛けられ、素朴な味噌の香りが立ちのぼる。
向かい合って箸を取る。薪がはぜる音だけが静かに響いていく。
多くを語ることはなかったが、不思議と気まずさはなかった。
五臓六腑に染み渡るような、ひどく温かい夕飯だった。
「井戸の水は冷たいが、顔でも洗えば少しはさっぱりする。そのあとは休め。明日は朝が早い」
食後、外へ出て井戸水で顔を洗うと、身を切るような冷たさが一日の疲労を少しだけ洗い流してくれた。




