第10話
見上げると、こぼれ落ちそうなほどの満天の星が広がっていた。
「……明日は、城か」
不安の方がずっと大きい。それでも、一歩ずつ前へ進むしかない。
部屋へ戻り、布団へ横になる。秋虫の音が響く中、昨日別れたばかりの美香の無理に作った笑顔が浮かんだ。
「……元気にしてるかな」
誰に届くわけでもない言葉をつぶやき、深い眠りに落ちた。
*
その夜、夢を見た。
むせ返るような緑の匂いと蝉時雨。大学時代の友人たちと訪れた、夏の川辺のキャンプ場。
「隼人も来いよ!」
遠くから手を振る声に、片手を上げて答える。
木陰の岩場に腰を下ろし、小さな木片に小刀で細かな細工を施していた。
「またやってる」
背後から声がして振り返ると、美香が呆れたような、けれど嬉しそうな笑顔で立っていた。
「みんな川で遊んでるよ。せっかくキャンプに来たのに」
「これがキリのいいところまで終わったら行く」
「さっきも同じこと言ってた」
美香は隣に身を寄せるようにして腰を下ろした。
ほのかに甘いシャンプーの香りがした。
「何を作ってるの?」
ハッとして、手の中の木彫りを隠すようにギュッと握り込んだ。
「まだ秘密だ」
「えー、なんで?」
「不格好で、失敗するかもしれないから」
「失敗しても笑わないよ」
「美香は絶対笑うだろ」
戯れ合う声に、涼やかな川の音が重なる。
夢の中の自分は、それが何になるのかを知っていたはずなのに、今の自分には形がぼやけて見えなかった。
夜。キャンプ場の中央に大きな火が焚かれた。
友人たちは肉を頬張り、酒を飲み、くだらない話で盛り上がった。やがて火の勢いが落ち着いた頃、一人、また一人と宿泊棟へ戻っていく。
「隼人たちも早く来いよ」
最後の一人が暗い道の向こうへ消え、残ったのは二人だけになった。
さっきまでの喧騒が嘘のように静かな時間が訪れる。足元の薪を拾い、炎の中へ投げ入れた。
「急に静かになったな」
「うん」
美香は揺らめく炎を見つめていた。いつもの明るい表情ではなく、何かを迷うように両手を膝の上で固く組んでいる。
「どうした?」
「隼人ってさ……好きな人、いる?」
突然の質問に戸惑う。
「どうしたんだよ、急に」
「いるの?」
「……いないけど」
本当はいる。目の前にいるお前だ。だが、素直に言えるはずがなかった。
「本当に?」
「ああ」
美香は少しだけ笑った。
けれど、組まれた手は白くなるほど強く握りしめられていた。
「じゃあ……私じゃ、だめ?」
息を呑んだ。
炎の照り返しのせいだけではなく、林檎のように赤く染まった頬。
「私、隼人のことが好き。ずっと前から、好きだった」
風が吹き、炎が大きく揺れる。
真っ直ぐに、逃げずに目を見つめていた。
「だから……私と付き合ってほしい」
しばらく何も言えなかった。
胸の奥が炎よりも熱く燃え上がっていく。
やがて、抑えきれない喜びを誤魔化すように頭を掻いて笑った。
「……さっきの、嘘ついてごめん。実は俺も、本当はずっと美香のことが好きだったんだ」
驚いたように大きく開かれた目。
「本当?」
「ああ」
「……それ、他の子にも言ってるんじゃないの?」
いたずらっぽく笑う。
「言ってないよ。今度は本当だよ」
じんわりと、花が咲くように笑顔が広がっていった。
炎の向こうで微笑む、世界で一番美しい笑顔。あの夜から二人の時間は始まったのだ。
だが、炎の向こうの美香は、いつの間にか笑っていなかった。
「隼人」
「……どうした?」
「死ぬまで、一緒にいたかった」
手を伸ばした瞬間、炎が大きく燃え上がった。
美香の姿が見えなくなる。
「美香!」
ハッと息を呑んで目を覚ました。
古びた木の天井。暗い和室。秋虫の鳴き声。胸が激しく上下している。
しばらく動けなかった。
夢ではない。本当にあった記憶だ。美香が自分を選んでくれた夜。
それなのに、勝手な理由をつけて彼女を手放そうとした。
「……俺は、何をしてるんだ」
布団の中で拳をきつく握る。
帰りたい。もう一度、自分の口から本当の気持ちを伝えたい。
そう思った途端、あの夜の決断が胸に引っかかった。
別れを撤回すれば、美香を幸せにできると約束できるのか。
「あの日から、全部始まったんだよな……」
付き合い始めてから、美香はいつも隣で笑ってくれた。自分にはもったいないほど、優しくて強い人だった。
だからこそ、ゆっくりと目を閉じる。
『俺じゃ、お前を幸せにできない』
安定した仕事。将来への不安がない生活。美香の父親が望んだ当然の未来。
しがない営業マンの自分には、そのどれも確約してやれない。好きだからこそ身を引くしかなかった。あれは逃げではなく、美香の幸せを願った自分なりの最後の誠意だったはずだ。
「だから……あれでよかったんだ」
そう強がりをつぶやくと、胸の痛みが少しだけ和らいだような気がした。それでも、夢の中で見た笑顔は決して消えなかった。
「幸せに、なれよ……」
その時、障子の向こうから低い声が聞こえてきた。
「新九郎、起きておるか」
過去の感傷から一気に現実へ引き戻される。
「はい」
「支度をしろ。今日は城へ向かう」
「……分かりました」
布団から立ち上がる。
美香との思い出を胸の奥の木箱にしまい込むように、深く息を吸い込んだ。
今の自分は『新九郎』として生きている。理不尽な世界を知らなければ、帰る方法すら見つけられない。
昨日手際よく着付けた着物に再び袖を通し、帯を締めると、静かに障子へ手を伸ばした。




