↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
千の蕾  作者: 峯岸 昴
PR
10/25

第10話

 見上げると、こぼれ落ちそうなほどの満天の星が広がっていた。


「……明日は、城か」


 不安の方がずっと大きい。それでも、一歩ずつ前へ進むしかない。

 部屋へ戻り、布団へ横になる。秋虫の音が響く中、昨日別れたばかりの美香の無理に作った笑顔が浮かんだ。


「……元気にしてるかな」


 誰に届くわけでもない言葉をつぶやき、深い眠りに落ちた。


*


 その夜、夢を見た。


 むせ返るような緑の匂いと蝉時雨。大学時代の友人たちと訪れた、夏の川辺のキャンプ場。


「隼人も来いよ!」


 遠くから手を振る声に、片手を上げて答える。


 木陰の岩場に腰を下ろし、小さな木片に小刀で細かな細工を施していた。


「またやってる」


 背後から声がして振り返ると、美香が呆れたような、けれど嬉しそうな笑顔で立っていた。


「みんな川で遊んでるよ。せっかくキャンプに来たのに」

「これがキリのいいところまで終わったら行く」

「さっきも同じこと言ってた」


 美香は隣に身を寄せるようにして腰を下ろした。

 ほのかに甘いシャンプーの香りがした。


「何を作ってるの?」


 ハッとして、手の中の木彫りを隠すようにギュッと握り込んだ。


「まだ秘密だ」

「えー、なんで?」

「不格好で、失敗するかもしれないから」

「失敗しても笑わないよ」

「美香は絶対笑うだろ」


 戯れ合う声に、涼やかな川の音が重なる。


 夢の中の自分は、それが何になるのかを知っていたはずなのに、今の自分には形がぼやけて見えなかった。


 夜。キャンプ場の中央に大きな火が焚かれた。


 友人たちは肉を頬張り、酒を飲み、くだらない話で盛り上がった。やがて火の勢いが落ち着いた頃、一人、また一人と宿泊棟へ戻っていく。


「隼人たちも早く来いよ」


 最後の一人が暗い道の向こうへ消え、残ったのは二人だけになった。


 さっきまでの喧騒が嘘のように静かな時間が訪れる。足元の薪を拾い、炎の中へ投げ入れた。


「急に静かになったな」

「うん」


 美香は揺らめく炎を見つめていた。いつもの明るい表情ではなく、何かを迷うように両手を膝の上で固く組んでいる。


「どうした?」

「隼人ってさ……好きな人、いる?」


 突然の質問に戸惑う。


「どうしたんだよ、急に」

「いるの?」

「……いないけど」


 本当はいる。目の前にいるお前だ。だが、素直に言えるはずがなかった。


「本当に?」

「ああ」


 美香は少しだけ笑った。

 けれど、組まれた手は白くなるほど強く握りしめられていた。


「じゃあ……私じゃ、だめ?」


 息を呑んだ。


 炎の照り返しのせいだけではなく、林檎のように赤く染まった頬。


「私、隼人のことが好き。ずっと前から、好きだった」

 

 風が吹き、炎が大きく揺れる。

 真っ直ぐに、逃げずに目を見つめていた。


「だから……私と付き合ってほしい」


 しばらく何も言えなかった。


 胸の奥が炎よりも熱く燃え上がっていく。

 やがて、抑えきれない喜びを誤魔化すように頭を掻いて笑った。


「……さっきの、嘘ついてごめん。実は俺も、本当はずっと美香のことが好きだったんだ」


 驚いたように大きく開かれた目。


「本当?」

「ああ」

「……それ、他の子にも言ってるんじゃないの?」


 いたずらっぽく笑う。


「言ってないよ。今度は本当だよ」


 じんわりと、花が咲くように笑顔が広がっていった。


 炎の向こうで微笑む、世界で一番美しい笑顔。あの夜から二人の時間は始まったのだ。


 だが、炎の向こうの美香は、いつの間にか笑っていなかった。


「隼人」

「……どうした?」

「死ぬまで、一緒にいたかった」


 手を伸ばした瞬間、炎が大きく燃え上がった。

 美香の姿が見えなくなる。


「美香!」


 ハッと息を呑んで目を覚ました。


 古びた木の天井。暗い和室。秋虫の鳴き声。胸が激しく上下している。


 しばらく動けなかった。


 夢ではない。本当にあった記憶だ。美香が自分を選んでくれた夜。

 それなのに、勝手な理由をつけて彼女を手放そうとした。


「……俺は、何をしてるんだ」


 布団の中で拳をきつく握る。

 帰りたい。もう一度、自分の口から本当の気持ちを伝えたい。

 そう思った途端、あの夜の決断が胸に引っかかった。

 別れを撤回すれば、美香を幸せにできると約束できるのか。


「あの日から、全部始まったんだよな……」


 付き合い始めてから、美香はいつも隣で笑ってくれた。自分にはもったいないほど、優しくて強い人だった。


 だからこそ、ゆっくりと目を閉じる。


『俺じゃ、お前を幸せにできない』


 安定した仕事。将来への不安がない生活。美香の父親が望んだ当然の未来。

 しがない営業マンの自分には、そのどれも確約してやれない。好きだからこそ身を引くしかなかった。あれは逃げではなく、美香の幸せを願った自分なりの最後の誠意だったはずだ。


「だから……あれでよかったんだ」


 そう強がりをつぶやくと、胸の痛みが少しだけ和らいだような気がした。それでも、夢の中で見た笑顔は決して消えなかった。


「幸せに、なれよ……」


 その時、障子の向こうから低い声が聞こえてきた。


「新九郎、起きておるか」


 過去の感傷から一気に現実へ引き戻される。


「はい」

「支度をしろ。今日は城へ向かう」

「……分かりました」


 布団から立ち上がる。


 美香との思い出を胸の奥の木箱にしまい込むように、深く息を吸い込んだ。

 今の自分は『新九郎』として生きている。理不尽な世界を知らなければ、帰る方法すら見つけられない。


 昨日手際よく着付けた着物に再び袖を通し、帯を締めると、静かに障子へ手を伸ばした。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。