第11話 第三章 千代姫
障子を開けると、ひんやりとした朝の空気が頬をなでた。
庭には朝露が光り、草花が静かに揺れている。昨日より早い朝だからだろう、村はまだ静かで、名も知らぬ鳥のさえずりだけが高く響いていた。
囲炉裏の間では、佐吉が手際よく鉄鍋を火にかけている。
「起きたか」
「はい」
「顔を洗ってこい。飯にする」
庭へ出ると、釣瓶で井戸から桶を引き上げた。
身を切るように冷たい水で顔を洗う。眠気と過去への未練が、一気に吹き飛んだ。
ふと、桶の水面に映る自分の顔を見る。間違いなく『辻本隼人』の顔だ。それなのに、この世界では皆が自分を『新九郎』と呼ぶ。
「……まだ、信じられないな」
小さくつぶやき、桶を元へ戻した。
家へ戻ると、佐吉がすでに朝飯を並べていた。湯気の立つ味噌汁、麦の混ざった炊きたての飯、焼き魚に香の物。豪華ではないが、不思議と心が落ち着く温かい朝食だった。
「座れ」
「はい。……いただきます」
静かに箸を取る。しばらくは食器の触れ合う音だけが、囲炉裏の間に響いていた。やがて、佐吉が口を開く。
「今日は天気もいい。城仕事にはちょうどいい日だ」
「城までは、ここから遠いんですか」
「歩いて一刻(約二時間)ほどだ。昔はお前も毎日のようについて来ておったがな。……もっとも、ここしばらくは、なぜか城へ行きたがらなくなっておったが」
「城へ?」
「ああ。理由を聞いても、何も言わんかった」
返す言葉が見つからず、ただ頷いた。佐吉もそれ以上、昔の話をすることはなかった。
食事を終えると、佐吉は大きな木製の道具箱を肩に担いだ。中には、手入れの行き届いた鑿や鉋が整然と収められている。
「行くぞ」
「はい」
草履を履き、広く分厚い背中に続いて家を出た。
朝日に照らされた村は、少しずつ活気を帯び始めていた。畑へ向かう男たち、薪を背負う老人、井戸端で話す女たち。村人たちは姿を見るなり、安堵したような、しかし少し不思議そうな笑顔を向けた。
「新九郎、具合はもういいのか」
「無理はするなよ。親父さんに迷惑かけんなよ」
そのたびに、作り笑いを浮かべて頭を下げる。誰の名前も分からない。皆が自分を『かつての新九郎』だと思って温かい言葉を掛けてくれる。その温もりが、偽物である胸を少しずつ締め付けた。
佐吉は振り返ることなく、黙々と歩き続ける。その先には、この世界で初めて訪れる『城』が待っていた。
村を抜けると、道はなだらかな坂を上り始めた。朝日を浴びた木々が風に揺れ、鳥たちが枝から枝へ飛び移っていく。
佐吉は熟練の職人らしく、一定の歩幅を全く崩さない。背中に背負った道具箱が歩調に合わせて心地よい音を立てる。
長い坂を上り切ったところで、思わず足を止めた。
朝日を受けた巨大な石垣が山肌に連なり、その上に白い城壁が浮かび上がっている。幾重もの瓦屋根。さらに奥には、天を突くような天守がそびえていた。
「……すごい」
しばらく、その場から動けなかった。
「驚いたか」
佐吉が振り返り、少しだけ誇らしげに笑う。
「……はい。こんなに巨大だとは思いませんでした」
「わしも、親父に連れられて初めて見た時は口を開けたままじゃった。……だが、お前は子どもの頃から見慣れておる景色のはずだがな」
「そう……なんですね」
苦笑いするしかなかった。
城へ近づくにつれ、道を行く人の姿が増えていった。荷を運ぶ農民や商人、槍を担いで巡回する足軽たちが、せわしなく通り過ぎていく。
「佐吉さん!」
前から威勢のいい声が飛んだ。太い材木を肩に担いだ男が、満面の笑みで大きく手を振っている。
「今日は新九郎も一緒か!」
「ああ」
「新九郎、久しぶりだな。元気にしてたか?
「はい」
隼人は軽く頭を下げた。
男は隼人の肩をぽんと叩いた。
「早く一人前の大工になって、親父さんを楽させてやれよ! 佐吉さんも、いつまでも若くねぇんだからな!」
曖昧に笑いながら、軽く頭を下げる。
「……頑張ります」
「余計なお世話だ」
佐吉はぶっきらぼうに返したが、男は気にした様子もなく仲間たちと歩き去っていった。
「みんな、父さんを慕ってるんですね」
「長く同じ仕事をしておれば、嫌でも顔見知りが増える。それだけの話だ」
照れくさそうに鼻を鳴らす佐吉の背を追い、やがて巨大な木戸へたどり着いた。
鋭い眼光の門番の武士が、行き交う人々を厳しく見つめている。周囲に張り詰めた空気が漂い、思わず背筋が伸びた。ここから先が、この国の中心なのだ。
門番は佐吉の顔を見るなり、表情を緩めて頷いた。
「朝早くからご苦労。今日も頼むぞ」
「承知しております」
堂々と門をくぐる背中に続き、緊張しながら城下町へ足を踏み入れた。 その瞬間、空気が一変した。村とは比べものにならない人の波。
店先には野菜や魚が並び、焼きたての団子の香ばしい匂いが風に乗る。反物を広げて声を張り上げる商人に、鎧姿の武士たち。あちこちから威勢のいい声が飛び交い、町全体が生き物のように動いていた。
「……すごい」
時代劇のテーマパークではない。本当に、この時代の人々がここで泣き、笑い、生活している。目に映る何もかもが、むせ返るほど新鮮で生々しかった。落ち着きなく辺りを見回す様子を見て、佐吉が小さく笑う。
「何も思い出せんでも、不思議なもんじゃろ」
「はい。見たことがない景色ばかりです」
思わず本音が漏れた。記憶を失っているせいで新鮮に見えるのだと思ったのか、佐吉はそれ以上深く聞かなかった。
やがて威儀を正した武士の姿が目立ち始め、巨大な石垣が目の前に迫った。石一つ一つが人の背丈ほどもあり、隙間なく積み上げられている。
現代の重機もない時代に、どうやってこれほどの物を造り上げたのか想像もつかない。
佐吉は石垣の脇のなだらかな坂道へ足を向けた。
「わしらは裏手から入る。表は殿様や家臣方が通る道じゃ」
坂を上ると、裏の木戸が見えてきた。数人の大工たちが集まって談笑している。
「あっ、佐吉さん! 今日は久しぶりに新九郎も一緒ですか」
「ああ。少し様子を見させる」
「元気そうでよかった。無理はするなよ」
「ありがとうございます」
小さく頭を下げた、その時だった。
城の奥の渡り廊下から、慌ただしい衣擦れの音が近づいてきた。
廊下の向こうで、足早に歩いていた侍女たちが一斉に立ち止まり、深く頭を下げる。大工たちもピタリと作業の手を止め、自然と姿勢を正して道を開けた。
何が起きたのか分からず視線を向けると、一人の若い女性が静かに姿を現そうとしていた。
白を基調とした、目を見張るほど上品な絹の着物。風に揺れる艶やかな黒髪。凛とした美しい立ち姿の中に、春の日差しのような柔らかな優しさを感じさせる。
息を呑んだ。
(……美香?)




